『彼と彼女の約束』6 彼と彼女の約束

第五章 彼と彼女の約束

「なんだよ、話って」
 俺は、眼前の相手に問いかけた。俺に背中を向けて立っている相手――長門有希は、ゆっくりと振り向いた。
 放課後の校舎裏である。文芸部室に行くべく教室を出たところで、話があるから来て欲しいと言われて連れてこられた。
「……」
 長門は無言のまま、持っていた鞄のチャックを開け、中に手を突っ込んだ。長門はそのまま、普段の姿からは想像できないような可愛らしい包装がなされた袋を取り出した。
「チョコレート」
「…………え?」
「チョコレート。貴方にあげる」
「あ、ああ。ありがとよ」
 差し出された袋を受け取って、俺は長門の顔と袋とを交互に見つめた。
 そういえば、とは言わないが、今日はバレンタインだ。朝から谷口がうるさかった。
 バレンタインということ自体はわかっていたが、まさかこうして長門から渡されるとは思っていなかった。
「朝比奈みくるに教えてもらって、一緒に作った」
「ふーん……」
 朝比奈さんと、ね。本当に仲良くなったもんだ。
「友チョコ」
「あん?」
「これは友チョコ」
 念を押すかのように、長門は繰り返した。
「お、おう。わかってるよ、それくらい」
 長門がこういう態度に出るのは珍しい。驚くと同時に、微笑ましくも思う。
「それで――」
 長門はこちらをまっすぐに見つめてきた。こちらの心を射抜くかのような視線で、問いかけてくる。
「答えは出た?」
「……」
 俺は、答えられなかった。長門から視線をそらし、明後日の方を向いて、すっとぼける。
「何の?」
 だが当然と言うべきか、長門にはそんなもの通用しない。
「貴方が朝比奈みくるのことをどう思っているのか。この間貴方が答えなかったこと」
 直球で言われると、もうとぼけることはできない。
 俺は溜息をついて、再び長門へと視線を戻した。
 この間――俺と長門が入れ換わってしまった時のこと。
 長門は、わざと俺に朝比奈さんの想いを聞かせた。本人の口から。入れ換わっていることをいいことに、彼女の口から、俺のことが好きだ、ということを言わせた。朝比奈さんは、話をした相手が――その時の長門の中身が俺だということを知らない。俺に知らせるために、長門がわざとそうしたのだ。俺はそのことを長門に問い詰め、そして逆に長門に問われた。
 朝比奈みくるのことを、どう思っているのか。
 その問いかけに、俺は答えられなかった。
 好きかと問われれば、好きだと答える。だが、長門が問うているのは、ライクではなく、ラブであるかということだ。非常に光栄なことだが、朝比奈さんは、俺にラブらしい。自分で言うのもなんだが。
 俺自身は、どうなのか。ラブなのかどうなのか。
 ライクであることは間違いない。だが、ラブなのか。女性として、どう見ているのか。朝比奈みくるという魅力的な女性に、どういう感情を抱いているのか。
 その時には、わからない、と答えた。考えたことがなかったことを問われれば、誰だってそう答えるだろう。
 あれから、考える時間は、いくらでもあった。俺は考えた。
 だが――
「わからん」
 いくら考えても結局、答えはそれ以外に無かった。
「……」
 俺の答えを聞いた長門の表情は、いつもと変わらぬ無表情だった。しかしよく見ると、若干違う。呆れと言うか何と言うか、そういう類の感情があるように感じられた。
「……貴方が朝比奈みくるをこっそり見ている回数は、一日平均十五回」
「……ん?」
「わたしがあなたに問いかけをする前の、二倍にあたる」
「……ん?」
「これでもわからない、と?」
「…………」
 今度はこちらが呆れてしまう番だった。何を数えているんだこいつは。
 だが、よくよく考えてみると、恐ろしいことでもあった。
「……俺、そんなに朝比奈さんのこと見てるか?」
「見てる」
 即答だった。
 うめいて、俺は眉根を寄せた。
「いやいやいや、そんな見てねえだろ。確かにふと気付くと目で追いかけてる時とかあるが」
 長門は目を細めた。何も言わないが、目が言っていた。何を言っているの、と。
「意識している」
 指摘され、俺は小さくうめいた。
 言われると、確かにそうだ。俺は朝比奈さんを意識している。
「仮にだ、百歩譲って意識してるとしてもだ、好きだ、なんて言われたら誰だってそうなるだろうよ」
 だから別に俺がやってることはおかしくもなんともない。ただ、意識してるだけだ。
「……」
 長門の視線は冷たい。
 だが、そんな目で見られても、そうでしかない。
 俺が朝比奈さんのことをどう思っているかなんて、わからねえんだ、本当にさ。
 長門の視線は変わらず痛いままだったが、それ以上話すこともなかったので、俺は、ハルヒがうるさいだろうから部室行こうぜ、と言った。長門は何か言いたげだったが、ハルヒが、というのが効いたらしかった。結局は何も言わないままに一緒に文芸部室へ向かった。
 部室の前に着くと、一応いつもの礼儀として、扉をノックした。朝比奈さんはもうとっくに着替えなんて終わってるだろうが、まあ、習慣のようなものだ。
 途端に、はーい、というかわいらしいお声が聞こえてくる。うんうん、これこれ、などと思いながら、俺は扉を開けた。
「おーっす」
「……」
 長門と一緒に扉をくぐる。
「や、どうも」
 右手を上げ、ニヤケ面が爽やかに応えてきた。無視した。
「遅いわよ。二人でどっか行ってたんじゃないでしょうねえ」
 むっとした顔をぶつけてくる奴も、無視した。
「……こんにちは」
 朝比奈さんの顔が一瞬曇ったのを、俺は見逃さなかった。恐らく、俺と長門が一緒に来たからだろう。友チョコだってことはわかってるだろうに。
「ちわっす」
 気づかないフリをして、俺は朝比奈さんにだけ返事を返した。
 その間に、つかつかと長門は自分の席へと一直線だった。無言のまま椅子に座り、無言のまま本を読みだした。
 その様に思うところがないわけじゃないが、言ってもしょうがないだろうからと思って何も言わず、俺も自分の席へと着いた。座るなり、古泉がにこにこ笑いながら机の上に将棋盤を置いた。
「どうでしょう、久々に一局」
「いいぜ」
 ニヤリと笑う。古泉が盤上に駒をぶちまけたのを、自分のところに必要なものを並べていく。並べながら、俺はこっそりと視線を動かした。朝比奈さんの方へと。
 さっきのこともあって、気になっていた。長門に言わせると、俺が朝比奈さんを見る回数というのは増えているらしいから、さっきのことがなくても、俺は朝比奈さんを見ていたかもしれない。
朝比奈さんは、お茶を配るところだった。俺と長門がやってきた時にちょうど、急須を持っていたから、タイミングが良かったのだろう。ハルヒに対して、お茶です、と微笑みながら湯呑を渡していた。ハルヒが、ありがと、と受け取ると、朝比奈さんは微笑んだ。そのまま、朝比奈さんは長門の方へと行った。
「長門さん、ここに置いておきますね」
 近くのミニテーブルの上に湯呑を置くと、長門は顔を上げ、頷いた。
「ありがとう」
「いえ」
 朝比奈さんは、次に、こちらへとやってくる。俺は何事もなかったかのように、駒を並べることに戻った。
「はい、古泉くん」
「どうも」
 軽く会釈をする古泉。朝比奈さんは、最後に、俺へと。
「はい、キョンくん」
「ありがとうございます」
 湯呑を受け取り、礼を述べる。朝比奈さんは他の連中へと同じように、微笑んでくれた。だが、どこかその微笑みはぎこちないものに感じられた。思わずまじまじと朝比奈さんの顔を見ると、
彼女は慌てた様子で俺から視線を逸らした。そのままそこを離れようとしたところで――
「朝比奈みくる」
 長門が、朝比奈さんを呼んだ。朝比奈さんは、はい? と振り返った。
「昨日作ったチョコレート、みんなで食べて欲しい」
 長門はそう言って、鞄の中からついさっき俺がもらったものと同じ包装の袋を取り出した。ただし、サイズは俺のよりも大きい。それを見た朝比奈さんは、ぎょっとしたようだった。
「えっ……あ、はい」
疑問符を浮かべながら長門の顔をじっと見つめ、長門の手から袋を受け取った。
「あら、有希が作ったの?」
 ハルヒが尋ねると、長門は、そう、と頷いた。
「昨日朝比奈みくると一緒に作った。友チョコ、みんなで食べて欲しい」
「へえ……。嬉しいことしてくれるじゃないの!」
 ハルヒは満足そうに笑い、うんうん、と何度も頷いた。そして、俺と古泉の方を見た。半眼になって。
「それに比べて男どもときたら……」
 ハルヒの言葉に、古泉は苦笑した。俺は反論しようと口を開きかけ――てやっぱり止めた。何を言っても勝てそうにない。今回は黙っておくに限る。
「世の中には逆チョコってのもあるらしいじゃない。やってみようとか思わない?」
 思いません。思ってもそう言うこと言うお前にはあげません。
 胸中で、んべ、と舌を出してやりながら、俺は逆にハルヒに問いかけた。
「そうは言うが、お前、俺がそういうの作れると思うか?」
 ハルヒは顎に手をやって、少し考えた後に、あっ、と声を上げた。
「……うん、そうね、ごめんね。家庭科の時思ったけど、あんたそういうの無理そうだもんね。古泉くんなら出来そうだけど」
「……」
 自分で振っといてなんだが、この野郎、と思ってしまったが、いったいどこの誰が責められようか。視界の隅で古泉が苦笑を張りつけたまま気まずそうに視線を逸らしたのが見えたが、まあ気にしないでおこう。
「ま、いいわ。とりあえずみくるちゃん、それ中身見せて」
 あ、はい、と朝比奈さんがハルヒに袋を渡した。ハルヒは丁寧に巻かれていたリボンを取り、袋の口を開けて、中を覗き込んだ。ハルヒは袋に手を突っ込み、中から紙箱を取り出した。大きかったのは、そのためだったのか。ハルヒが蓋を開ける。途端に、ハルヒの目が輝いた。
「うわーでっかいハート。あたしこれもーらいっ」
 そう言って、ハルヒは箱の中に入っていたハート型のチョコレートを手に取った。そしてそのまますぐに、ぱくり、と噛みつくように食べた。子どもかお前は。
「……ふんふん。美味しい美味しい。有希とみくるちゃんの愛を感じるわ」
 もぐもぐと口を動かしながら、ハルヒは頬を押さえつつ、そう言った。
幸せそうな顔をしていたハルヒだが、急にきょとんとした表情になった。ハルヒは朝比奈さんの方を見て、
「んー、どうしたのみくるちゃん。……ひょっとしてこれ、食べたかった?」
「あ、いえ。そういうわけではないんですけど」
「じゃどうしたのよ。急に変な顔したりして」
「そうですか? んー、勉強疲れですかね?」
苦笑しながら、朝比奈さんは頬をぽりぽりと指で掻いた。
「やーね。試験前にあんまり根を詰めすぎないようにね」
「はーい」
「あ、みくるちゃん、お茶のおかわりね」
「あ、はい。ただいまー」
 ぱたぱたと足音を立て、再びお茶汲みに戻る朝比奈さん。
 どうしたのだろう。少し様子が変だ。長門がチョコレートを取り出した時もそうだったが、今もどうも様子がおかしい。俺と長門が来た時からそうだ。チョコレートに関することは、そもそも長門と一緒に作ったのだから、全部わかっているはずで、驚くところは何もないと思うのだが。
「……」
 嬉しそうにやかんの湯を急須に注ぐ姿は、普段通りの姿に見える。それだけに、おかしなところはどうしても気になってしまう。
 後で聞いてみるか。
 俺はそう決めて、とりあえず、にこにこと対局を待っている古泉の方に意識を戻した。
 
 
聞こうと思うと、下校の時まで待たなければならなかった。坂を下りながら、俺は隣を歩く朝比奈さんに声をかけた。
「朝比奈さん」
「何ですか?」
 前を行くハルヒたちを見ながら微笑んでいた朝比奈さんは、そのままの顔で俺の方を向いた。
 かわいい――とつい思ってしまったが、気を取り直して、俺は尋ねた。
「朝比奈さん、なんか、ありました?」
「え? 何がです?」
 きょとんとして、朝比奈さんは首を傾げた。
「……部室で、なんか様子が変だったので。俺が顔を出した時とか、長門がチョコレートを出した時とか」
 告げると、朝比奈さんはわかりやすいくらいに反応してくれた。
「っ……」
朝比奈さんは言葉に詰まり、視線を泳がせ――うつむいてしまった。歩みも、今にも止まりそうなくらいに、少し遅くなった。俺も歩調を合わせ、前を行くハルヒたちとの間に距離が開いていく。
ある程度離れてから、朝比奈さんはぽつりと、つぶやくように言った。
「長門さんから、チョコレートもらいましたか?」
 少し顔を上げ、朝比奈さんは上目遣いになりつつもこちらをまっすぐと見つめてきた。
「ええ」
 頷く。
「友チョコ、もらいましたけど」
「……やっぱり」
 やっぱり?
「あ、いえ。なんでもないです」
 手をひらひらとさせ、朝比奈さんは苦笑した。
「別に、なんでもないんです。ただ、長門さんが、キョンくんにチョコレートをあげたいって言っていたので……」
 朝比奈さんはそう言ってうつむき、また俺から視線を逸らした。
「……長門が俺に、告白でもするのかと?」
「……」
 朝比奈さんは無言だった。無言だったが、恐らくはそうなのだろう。それを知っていたからこそ、俺が長門に告白された、と思ってあんな反応をした、と。ということは、ハルヒが食ったあのチョコレート――ハート型のあれは、そのために作ったものだったのかもしれない。
(しかし長門の奴、朝比奈さんにンなこと言ってたのか。何考えてんだあいつ……)
 俺は、前を歩くハルヒたち――ハルヒに腕を引っ張られながら歩いている長門の背中を思いきり睨みつけた。
「長門にはただ、友チョコだって渡されただけですよ。それ以外は何も」
 言いながら、俺は朝比奈さんの横顔を見つめた。
 朝比奈さんは、俺のことを好きだという。しかし長門に言わせれば、朝比奈さんはそのことを俺に言うつもりはないらしい。それは、俺もわかる。彼女自身の口から、そういうことは聞かされたことがあるからだ。朝比奈さんはずっと、俺のことが好きだということを秘めたままでいるつもりなのだ。そして、長門が居なければ俺は、そのことにずっと気づかなかった。
「……」
 しかし――朝比奈さんは気づいているのだろうか。
 長門が俺に告白するかもってことを気にしてたってことを言ったら、どうして気にするんですかってことになってしまうだろうということに。
 うつむいている朝比奈さんにそのことを聞くのは、酷なように思えた。
 それに、知っているから、尚更だ。
 自分の想いを努めて表に出さないようにしている朝比奈さん。
 俺はそのことを知っても、何も知らないフリをしている。
 何も知らない体で、朝比奈さんとこうして話をしている。
 もしかしたら、それも酷なことなのかもしれない。
 好意を受けて、好意を知っていて、何もしないというのは。
 朝比奈さんのことを思うのならば、きちんと応えないといけないのではないか。
 辛そうな顔をしている朝比奈さんの顔を見て、俺は、そう思った。
「……どうして、気にするんですか」
 酷だとわかっているが、問いかける。
 案の定、朝比奈さんは、俺の言葉に少なからずショックを受けたようだった。自分の言動の失敗を悟ったのだろう。朝比奈さんは、足を止めた。少し進んだところで、俺も足を止め、振り向く。
「……」
 朝比奈さんは答えない。答えられるわけがない。わかっている。それでも俺は、朝比奈さんが答えるのを待った。
 沈黙は、ある意味で答えだった。俺は朝比奈さんの想いを知っている。思いを知っている。ゆえに答えられないこの沈黙も、俺にとっては答えだった。
 つまりはそれほどに、朝比奈さんは、俺のことを想ってくれている、ということだった。隠していた想いを、表に出してしまうくらいに、俺のことを――
 朝比奈さんの顔は、今にも、泣きだしそうだった。
 その顔を見たら、胸が、とてつもなく、痛んだ。
 朝比奈さんの想いの嬉しさよりも、彼女を傷つけてしまった後悔の方が強かった。
 こうなることは、火を見るよりも明らかだったというのに。こうなるから、何も知らないフリをしていたはずなのに。どうやっても、彼女が傷つくとわかっていたのに。
 わかっていた。わかってて、それでも、俺は尋ねた。彼女の想いに応えたかった。
 彼女が好きだと言ってくれたなら、俺はきっと――きっと、その想いに、応えていた。
(俺は、朝比奈さんが好きだ)
 静かに、認める。後悔を経て、出た答え。
かぶりを振って、俺は朝比奈さんへと歩み寄った。
「すみません、変なこと聞きました」
 耐えられなかった。彼女の悲痛な顔を見続けることに。
「…………いえ」
 絞り出したような声だった。その声に、また、ずきん、と胸が痛んだ。
「……」
 かけるべき言葉が見つからず、俺は朝比奈さんから顔を背けた。背けた先で――前方で、ハルヒたちが立ち止まっているのが見えた。ハルヒが腰に手をやって仁王立ちしている。
「やべ、ハルヒの奴多分キレてる。行きましょう、朝比奈さん」
「……はい」
 力なく頷く朝比奈さんの姿に、俺は自分のやったことの重大さをこれでもかというくらいに味わった。俺と朝比奈さんは何も言わず、早足でハルヒたちのもとへ向かった。
卒業式を終えたら、未来に帰る。
朝比奈さんの口からそう告げられたのは、それからしばらく経ってからのことだった。
 
 
 卒業式を終えたら未来へ帰る。
 それを告げられたのは、三月に入って最初の不思議探索パトロールの時であった。
 その日、朝比奈さんは朝からどこか元気のない様子だった。俺はまた何か起きたのかと心配になり、長門に頼んで朝比奈さんと二人きりになれるようにしてもらった。二人で公園に行き、並んでベンチに腰かけて問いただした。
 すると――
 卒業したら、未来に帰ることになりました。
 彼女は悲痛な面持ちでそう切り出してきた。
 俺は耳を疑った。いつかはと覚悟していたが、いざそうなると、冷静ではいられなかった。
 冗談でしょう?
 尋ねてから、俺は自分の発した言葉が間違いであったことを悟った。彼女の表情。沈痛な表情はとてもじゃないが冗談という雰囲気はなく、俺がそう言ってしまったことを悲しんでいるようにも見えた。すみません、と小さく言って、俺はうつむいた。
 そのまましばらく、お互いに無言。押しつぶされてしまいそうな心持ちで、俺は朝比奈さんに問いかけた。
「……ハルヒには、なんて言うんです?」
 訊くと、朝比奈さんは小さな声で答えた。
「……海外に行くことになった、って言うつもりです」
「連絡先教えろってなったら、どうするつもりなんですか?」
「……落ち着いたらこちらから連絡するって言います」
「メールとか電話するってなったら?」
 訊きながら横目で彼女の方を見やると、彼女はさらに表情を暗くし、うつむいた。
「……時差があるからなるべくしないでくださいって言うかと思います」
 辛そうな声。実際のところ、辛いのだろう。ハルヒの性格を考えると、それで納得しそうにない上に、長期休みになったら会いに行くなどと言い出しかねない。かといって本当のことは言えない。嘘をついてそのまま消えていかざるを得ない。ハルヒは怒るだろう、確実に。
(残酷だよな、本当に)
 ハルヒが朝比奈さんを見つけなければ。いや、朝比奈さんが未来人でなければ。神様って奴が本当に居るのであれば、全力でぶん殴ってやりたい。朝比奈さんをこんな辛い目に合わせた奴を、全力でぶん殴りたい。朝比奈さんに嘘をつかせねばならなくした奴を、俺は一生恨むだろう。
「……」
 かける言葉が見つからず、俺は再び黙り込んだ。
 出来ることなら、引きとめたい。止めさせたい。だが、それは出来ない。俺に止める権利は無い。個人的な感情で言えば――気づいて、それからずっと秘めていた感情に従うならば――待ってくれ、行かないでくれ、と言うだろう。しかし、言えない。言えば、彼女はきっと苦しむ。そして、もしかしたら卒業式を待たずに未来に帰ってしまうかもしれない。これまで以上に、想いを口にしたら、その瞬間に全てが壊れてしまうような気がして、俺は何も言えなかった。
 朝比奈さんも、何も言わなかった。ただ黙りこんで、うつむいていた。傍から見たら、別れ話をしているカップルのように見えたかもしれない。まあ実際、別れ話と言えば別れ話ではあるんだが。ああ、これがただの別れ話であったならば良かったのだ。いや良くは無いんだが、まだそっちの方がマシだ。さよならだけが人生だ、なんて言葉もあった気がするが、別れってのは、本当に残酷で、どうしようもない。
(俺はどうすればいいんだろうか)
 考える。今回は、前に長門が暴走して、処分されかけている時とは違う。あいつは、今この時間に生きていて、朝比奈さんは、帰るべき、生きるべき未来の世界がある。どこで生きるかは、朝比奈さんが決めることであって、俺がどうにかできることではない。ハルヒをけしかける、なんて脅しが効くようなことではない。もっとも、今のあいつをけしかけようとしても意味はないのであるが。理不尽神様力の無くなった今のハルヒでは脅しの材料には到底なりそうもない。
(無力だな、俺)
 結局、俺はただの無力な一般人でしかない。誰かに頼らなければ何もできない無力でちっぽけな人間。現実は物語のように甘くはない。これが映画とかだったならば、告白してハッピーエンド、ってとこなんだろうが、悲しいかな現実はそんなに都合はよくない。
 だから、何も言えない。止める言葉は思いつかない。
「……寂しくなります」
 ようやく絞り出せたのは、それだけだった。当たり障りのない言葉。ありがちな言葉。それ以上は、今は言えそうになかった。
「……ごめんなさい」
 うつむいたまま、彼女は小さな声でそう答えた。何が、ごめんなさい、なのだろうか。これではやはり、別れ話じゃないか、と思った。彼女の方を見、苦笑しながら告げる。
「謝ることじゃないですよ」
 仕方のないことだから。わかっていたことなのだから。謝ることじゃない。だけど、謝ることじゃないと言えても、仕方がない、とは言えなかった。仕方なかったと言ってしまったら、本当にどうしようもないのだ、というように思ってしまう。それだけは認めたくなかった。
「……」
 彼女は何も言わなかった。ただじっとうつむいている。涙こそ流していないが、静かに泣いているようにしか見えた。
 実際は、泣きたいのだと思う。声に出して。泣かないのは、外であることと、俺が、いや、俺たちが居るからだろう。それだけ彼女が俺たちと別れがたく思っているのだと思うと、俺の方が泣いてしまいそうだ。
(泣いて止められるんなら、いくらでも泣いてやるさ)
 空を仰ぐ。やけに天気がいい。こんな話をするような天気ではない。今にも吸い込まれそうなくらいに、どこまでも青い空。白い雲が風に流されている。
 目を瞑る。光がまぶしい。
「……キョンくん」
 名前を呼ばれ、俺は目を空けて、彼女の方を見た。
 うるんだ目で、彼女は俺を見つめている。何か言いたげな彼女の顔。少し震えている。
「あたし……あたしね……」
 涙声。
 俺は続く彼女の言葉を待った。だが――
「……ごめんなさい、なんでもないです」
 彼女はそこで口を閉ざしてしまった。再びうつむいて、彼女は黙り込んでしまう。
 抱きしめるべきだろうか。一瞬迷う。これが映画や漫画であったならば、抱きしめたのだろうが。現実にそんなことはできはしない。抱きしめたからといって、何が変わるのか。彼女がそれで何か話すというのか。
 彼女の言いたいことは、なんとなくわかった。彼女だって、帰りたくないのだ。きっと。本当は俺たちともっと居たいのだ。
 でも、彼女は言わなかった。言ってしまって、決意を鈍らせたくなかったのだろう。彼女はもう、受け入れている。未来へ帰るのだという現実を。過去と未来、彼女が居るべきは未来であり、帰るべき場所は、彼女を待っているのだ。
「……いつ、帰るんですか。具体的には」
「卒業式が終わったら、です」
「その日のうちに?」
「……うん」
「そう、ですか」
 ずん、と体が重くなった気がした。卒業式まで、あと十日しかない。つまり彼女と共に居られるのはもう十日しかないということだ。目の前がくらくらとする。せめてもう一週間、いや、もう一ケ月あれば。
(あと十日で割り切れって? 無茶言うよ、未来人は)
 朝比奈さんの帰還を決めた未来人に対して、胸中で思いつく限りの罵詈雑言を浴びせる。
「卒業式までは、これまで通り毎日学校に行きます。多分ずっと、部室に居ると思います」
「……」
 朝比奈さんの言葉が、胸に刺さる。伝わってくる。彼女の気持ちが。
「授業が終わったら、すぐ行きますよ」
「……待ってます」
 顔を上げて、朝比奈さんはにこりと笑った。悲しげに。寂しげに。儚げに。今までに見たことの無い、笑顔だった。
「もう行きましょう」
 朝比奈さんはそう言って、ゆっくりと立ち上がった。
「はい」
 うなずいて、立ち上がる。
 俺たちはそのまま、公園を出た。何か話さないと、と思ったが、何も話せなかった。
 その日はそのまま、何事もなく、終わった。
 
 
 卒業式までの日々はやはり何事もなく過ぎていった。
 朝比奈さんは、大学入学までの勉強のため、という名目で学校に来ているらしい。ハルヒにそのように言っていた。朝比奈さんは、努めて明るく振る舞っていた。よく喋って、よく笑って。ハルヒも多少は違和感を覚えていると思うのだが、何も言わず、朝比奈さんと楽しそうに過ごしていた。正直言って、辛かった。無理していることがわかる笑顔を見るのが。それでも、彼女が頑張っているのだからと自分に言い聞かせて、努めて平静を装って過ごした。
 そしていよいよ、卒業式の日が来た。
 式典はつつがなく進行した。朝比奈さんの姿は、入場の時と卒業証書授与の時に見えた。目を引くので、すぐにわかる。どこか誇らしげな鶴屋さんと対照的に、朝比奈さんは元気が無かった。流石に今日この時まで空元気は無理だったらしい。彼女の事情を知っている身としては、胸が痛い。卒業生が退場となった時、拍手で送り出すことになっていたが、俺はとてもそんな気分にはなれなかった。おざなりな拍手で、朝比奈さんが退場していく姿をただ呆然と見送った。
 教室に戻ってHRをした後はそのまま解散である。俺とハルヒは連れだって文芸部室へと向かった。
 朝比奈さんと鶴屋さんが、文芸部室に来ることになっていたからだ。
 文芸部室に着くと、ハルヒはノックもせずに扉を勢いよく開けた。
「ヤッホー! 卒業おめでとう!」
 扉を開けるなりハルヒはそう叫んだ。やれやれと思いつつ、ハルヒの後ろから部屋の中を覗く。
 既に部屋の中には朝比奈さんと鶴屋さんが居た。三年生の方が終わるのは早かったらしい。二人はにこやかに笑いながら俺たちを出迎えてくれた。
「おめでとーう!」
 バッグをその場に落として、叫びながらハルヒは二人に向かって突進し、二人まとめて抱きしめた。
「あっはっは。ありがとー!」
「ありがとうございます……!」
 ハルヒの背中をぽんぽんと叩きながら、嬉しそうに二人は笑った。
 小さく溜息をついてから、ハルヒの落としたバッグを拾い、中に入ってから手近な机の上に俺のと一緒に置く。そして三人に近づいて、声をかける。
「卒業、おめでとうございます」
「おっ。キョンくんもありがと」
 ハルヒに抱きつかれたまま、鶴屋さんはばちっとウインクをしてきた。
「ありがとう、キョンくん」
 ハルヒにしがみつかれているせいか、朝比奈さんはちょっと困ったような笑顔を浮かべていた。卒業式の時に見た時は元気がないようだったが、今の彼女は普段とあまり変わりがないように見えた。ハルヒの手前、ということもあるのかもしれないが。
「うおー、ハルにゃん、あたしゃ卒業しちゃうよー」
 と鶴屋さんがハルヒを抱き寄せると、ハルヒの方も朝比奈さんに回していた手を離して、鶴屋さんをがっしりと抱きしめた。
「寂しくなるわー」
 なにやってんだ、この二人は。思わず苦笑して、朝比奈さんの方を見やる。朝比奈さんも、苦笑しながら抱き合う二人を見ていた。と、俺の視線に気づいてか、朝比奈さんがこちらを向く。目が合うと、彼女はそっと微笑んだ。俺の目には、それはどこか寂しそうな微笑みに見えた。
 何か、言わないと――そう思っても、言葉は出なかった。
 と――、
「おや、始まってましたか?」
 背後から声が上がったので、渡りに船とばかりにそちらを向く。開けっ放しだった扉の所に、古泉と長門が立っていた。
「すみません、HRが長引きまして」
 苦笑しつつ中に入ってくる古泉。長門は何も言わずとことこと古泉の後ろから入ってくる。二人とも俺たちの荷物の傍に自分の荷物を置いてから、朝比奈さん、鶴屋さん(まだハルヒと抱き合っている)の傍に立った。
「ご卒業、おめでとうございます」
 と、相変わらずのうさんくさい爽やかさで古泉。
「おめでとう」
 とは、長門。こちらも相変わらずの淡々とした調子の無表情。
「ありがとー二人ともー」
「ありがとうございます」
 鶴屋さんと朝比奈さんがにっこりと笑うと、ハルヒはそこでようやく鶴屋さんから離れた。そのまま団長席の前に仁王立ちして、ハルヒは高らかに宣言した。
「それじゃあ! 二人の卒業パーティーを始めます!」
 パーティーとハルヒは言ったが、内容は簡素なものだった。古泉の用意したジュースで乾杯し、スナック菓子などを食うだけ。携帯電話のカメラで写真を撮り合い、二人の卒業アルバムにメッセージを書いてから、鶴屋さんは部活の方に顔を出すからと途中で退席した。残ったいつものメンバーで、古泉が今日のためにと用意したボードゲームに興じていると、あっという間に時間が過ぎていく。
「えっと、あたし、そろそろ」
 五時近くなり、朝比奈さんがそう言うと、ハルヒは、ふむ、とうなった。
「そうね。確か、クラス会あるんだっけか」
「はい。七時に、駅前に集合することになってて。一旦帰って準備しないと」
「ふーん。それじゃあ、お開きにしましょうか」
 ハルヒのその一声で、俺たちは全員で後片付けを始めた。使った紙コップと紙皿、菓子の空き袋をビニール袋に詰め込んで、きつく口を縛る。そのゴミ袋と空になったペットボトルは、用意した者が捨てるということで古泉が責任を持って預かることになった。テーブルの上を雑巾で拭いて、それで後片付けは完了。
 後片付けが終わったところで、ハルヒは団長席の前に朝比奈さんと並んで立った。
 こほん、と咳払いをしてから、ハルヒは高らかに声を張り上げた。
「みんな、今日でみくるちゃんがSOS団を卒業します」
 パチパチ、と拍手をする俺と古泉、長門。
「これまでの功績をたたえて、みくるちゃんに名誉副々団長の称号を授与したいと思います!」
 パチパチパチ。三人分の拍手が響く。
「それから、みくるちゃんにはこれまで使ったコスプレ衣装を贈呈します!」
「え?」
 流石に予想外だったのか、朝比奈さんは疑問の声を上げた。が、ハルヒは無視した。
「みくるちゃん、今までお疲れ様!」
 がばっ、とハルヒが朝比奈さんに抱きつく。
「……あはは。今まで、ありがとうございました」
 苦笑いを浮かべて、朝比奈さんはハルヒを優しく抱きしめた。
 パチパチパチと俺たちがまた拍手をして、それでようやく、本当にお開きになった。
 
 
 鶴屋さんと待ち合わせをするという朝比奈さんを文芸部室に残して、俺たちは先に帰ることになった。廊下に出て、四人で文芸部室の中を覗き込む。
「それじゃみくるちゃん、またね」
 ハルヒがそう言って朝比奈さんに向かって手を振る。
「はい。また」
 微笑み、朝比奈さんもひらひらと手を振った。
 また、と言ってはいるが、それは叶わないことを俺は知っていた。
 これが、朝比奈さんを見る最後なのだ。もう一度、メイド姿を見たかった。頼めば、着てくれただろうか。
「さよなら」
 これが朝比奈さんと交わす、最後の言葉だ。
「うん。さよなら」
 朝比奈さんは、小さく手を振ってくれた。その姿を、仕草を、しっかりと目に焼き付ける。
「それでは」
 古泉が会釈すると、長門も黙って頭を少しだけ動かした。
 朝比奈さんは、やはり小さく手を振った。
「さ、行きましょ」
 ハルヒに促され、俺たちはその場をあとにした。
 四人で話しながら、階段を下り、部室棟を出たところで。
「あ」
 立ち止まり、長門が、無表情のままで妙な声を上げた。
「どうしたの?」
 立ち止まり、ハルヒが尋ねると、長門は簡素に答えた。
「忘れ物」
「何?」
「部室の本をまた読もうと思っている。今日から少しずつ家に運ぶつもりだった」
「なんだあ。別にいいじゃない、明日でも」
 ハルヒが嘆息すると、長門は珍しく反論した。
「駄目。家にある本は読みつくした」
「部室にあるのも読みつくしてるでしょ」
「回数が違う」
「……もう」
 呆れた様子でハルヒは肩をすくめた。
「んじゃあ、あたしたち先に行くわね」
「構わない」
「それじゃ、また明日」
 こくり、と長門が頷いたので、俺たちはまた歩き出した。歩き出したところで、俺はバッグを急にぐい、と引っ張られた。
「待って」
「ん?」
 振り向く。長門の行動に気づいて、ハルヒと古泉も足を止めて振り向いた。
「手伝って」
「あん?」
「自転車で運んで欲しい」
「……」
 長門がじーっと俺を見つめてくる。俺は困って、ハルヒと古泉を見た。古泉は顎に手をやり、ふむ、とうなった。
「そういえば今思い出したんですが、僕実は駅前のドーナツ屋の半額券持ってるんですよ。期限が今日までなので、涼宮さん、一緒にどうですか? 奢りますよ?」
 あん? お前はいきなり何を言い出すんだ?
「えー? ドーナツ? 持ち帰りでいいなら付き合うけど」
「はは。勿論、持ち帰りですよ。夕食前ですしね」
「OK。じゃあ行きましょ」
 おーい。お前ら何言ってんのー。
「というわけだからキョン、あたしたち先に帰るから。有希の手伝いがんばってー」
「頑張ってくださいね。それでは」
 あ、おい――と手を伸ばすが、古泉もハルヒも無視して、さっさと行ってしまった。
 後に残されたのは、俺と、俺のバッグをつかんでいる長門。
「……わかったよ。手伝う」
 長門の方を見やって、俺は溜息をつき、肩をすくめた。
 長門と一緒に来た道を戻りながら、俺は朝比奈さんのことを考えていた。
 朝比奈さんは、まだ居るのだろうか。
 鶴屋さんと待ち合わせると言っていたから、まだ文芸部室に居るだろう。一回さよならと言った手前、また顔を合わせるのはなんとなくばつが悪いが、今日で最後なのだから、むしろ喜ぶべきかもしれない。クラス会に参加したらすぐに未来に帰るそうなので、本当に最後の最後なのだ。
「朝比奈みくるは、クラス会には行かない」
 階段の踊り場に差し掛かったところで、長門は不意に妙なことを言い出した。思わず立ち止り、聞き返す。
「なんだって?」
「朝比奈みくるは、クラス会には行かない」
 先ほどとまったく同じ調子で、長門は繰り返した。
「鶴屋さんと待ち合わせするってのは?」
「嘘。彼女はもうクラス会に行っている」
「……どういうことだ?」
 訳がわからず、訊く。すると長門は、こくりと頷いてから、ゆっくりと口を開いた。
「朝比奈みくるは、もうすぐ未来へと戻る」
「……!」
 驚愕に、目を見開いて長門を見つめる。こちらを見つめ返す長門の目は、いつも通り感情が無い。これで長門が笑ってくれれば、性質の悪い冗談で済んだのだが。生憎と長門は笑わない。つまりは真実だった。
「お前、それを知ってたから?」
 嘘をついたっていうのか、長門よ。
 こくり、と長門は小さく頷いた。
「朝比奈みくるが未来に帰る前に、もう一度貴方と会わせたかった」
「……なんで、だ?」
 問いかける。だが、長門は答えなかった。
 答えが無くても、俺には分かった。こいつは、またお節介を焼こうとしている。
答えない代わりに、逆に、長門が俺に問いかけてきた。
「貴方は、わたしに言ったことを覚えている?」
「言ったこと?」
 長門は、小さく頷いた。
「わたしが処分を検討されていると言った時のこと」
「ああ……」
 忘れもしない。情報統合思念体に喧嘩を売った時のことだ。
「貴方は、わたしが居なくなったら、わたしを取り戻しに行く、と言った」
「……」
「朝比奈みくるには、言わないの?」
 長門はそう言って、どこまでもまっすぐな瞳で、俺を見つめてくる。その目は、どこか俺を責めているように見えた。
「……仕方ないだろう」
 吐き捨てるように答える。長門はやはりまっすぐに俺を見つめている。
「状況が違うんだ。お前の時とは」
 長門の視線に耐えられず、俺は長門から目を逸らした。
「どこが?」
 無機質な声が、酷く癪に障る。
「……」
 俺は答えなかった。だが、長門は引き下がらない。
「答えて」
「全部がだよ!」
 長門の言葉に、こらえきれず、怒鳴る。
「朝比奈さんは未来に帰るんだ! 俺にはどうしようもない! 止められるんだったら止めてるさ! 何だってする! でも、できないんだよ! どうしようもないんだ! 俺に出来るのは、朝比奈さんの決意を尊重することだけなんだよ。今となってはもう、ハルヒをけしかけることだって出来ないんだ……」
 最後の方はもう、力が続かなかった。
「……すまん」
「いい」
 溜息をついて、俺は言った。
「俺は、ちっぽけな人間だ。何も出来ない。だから、朝比奈さんが未来へ帰るって決めたなら、仕方ないって思ってる」
「……本当に?」
 今日の長門は、やけに突っかかって来る。感情を感じさせない喋り方のせいだろうか、どうしても苛立ちを覚える。内心の苛立ちを表に出さないように、俺は短く答えた。
「本当だ」
 答えながら、長門を睨みつける。それで終わりだ。もう話すことは無い。目線で告げる。
 だが長門は、止まらなかった。
「貴方は嘘をついている」
(お前に、わかるってのかよ……宇宙人のお前に)
 そのまっすぐな目は――ずっと俺をまっすぐ見つめている目は俺の心の中を見通しているとでも言うのであろうか。長門の声は、無機質で、淡々としていて、それが事実だ、と言わんばかりだった。
「嘘?」
 思わず、苦笑が漏れる。何を言ってるんだこいつは。
「そう。貴方はただ怖がっているだけ。朝比奈みくるに拒絶されることを恐れているだけ」
「違う」
「違わない。そうでなければ、何故わたしを使わない? わたしが協力すれば朝比奈みくるを再びこの時代に呼ぶことも、朝比奈みくるをこの時代の人間にもできる。世界を書きかえることは造作もないこと」
「……それは」
 考えなかったわけではない。だが、それを言ったところで――
「わたしが協力しないと?」
 まるで俺の心を読んだかのような長門の物言いに、思わずぎくりとする。苛立ちは消えていた。今はむしろ、どんどんと冷めていくような心地だった。
「あなたがわたしのことを言わないのは、言った上でなおも拒絶されたら、と考えているから」
「……」
 何も言えない。何も言えず、俺はうつむいた。
 その通りだった。長門の言う通り、俺は怖かった。朝比奈さんに拒絶されるのが。
 迷惑だ、と言われたら? やめてください、と言われたら? 俺にはとてもじゃないがそれを乗り越えることなんて出来ない。
「恐れないで」
 長門の言葉に、ゆっくりと顔を上げる。
「いつだって貴方の行動が事態を動かした。貴方の行動には、その力がある」
 温かみのある声だった。淡々とした口調だったが、長門の言葉には、確かに温かみがあった。長門は続けた。
「貴方は情報統合思念体を脅したと思っているかもしれないが、その認識は間違っている。いくら貴方が情報統合思念体に涼宮ハルヒをけしかけようとも、そんなものはどうとでも出来る。貴方がしようとした瞬間に貴方を消せばそれで終わること。わたしの処分が無くなったのは涼宮ハルヒを恐れたからではない。人間でありながら情報統合思念体に直接敵意を向けてきた貴方に興味を持ったから」
「……」
 なんだかさらりと怖いことを言われているような気がしたが、あえて無視して俺はさらに続く長門の言葉を聞いた。
「貴方の行動が、わたしを救った。それは誰の力でもない。貴方の力。貴方のおかげで、わたしは今ここに居る」
「……」
「このまま朝比奈みくるを帰してはいけない。貴方はきっと後悔することになる」
「後悔、すると思うか?」
「する」
 あっさりと、長門は断言してきた。あまりにあっさりしすぎていて、逆にこちらが拍子抜けするくらいだった。
「そ、そうか」
「そう。だから、後悔しないようにして欲しい」
「……言っても、いいのか」
「良い。本当に朝比奈みくるのことを想っているのなら。もし貴方が望むなら、失敗した時には記憶の操作を――」
「いや、それはやらんでいい」
 苦笑しながら手で制す。長門なりの冗談だとはわかっていたが、一応止めておかないとそうじゃなかった時が怖い。
 ――と、はたと気づく。
「お前、気づいてたのか? 俺が朝比奈さんのことを――」
「当然。貴方はわかりやすい」
(……いやいやいや。えー。嘘だろ?)
 長門にもわかるような態度を取っていただろうか。そんな記憶は全然ないのだが。
「……」
 ぴくり、と長門の眉が動く。若干、怒っているように見える。
(……こいつ、俺の心読んでるだろ絶対)
「読んでない」
「読んでんじゃねーか」
 半眼になって指摘する。
「…………」
 長門は少しの間沈黙したが、すぐに何事も無かったかのように口を開いた。
「友人の幸福を願うのは当たり前のこと。現在の状況はわたしにとって不本意」
「……」
 誤魔化されているのではないか、と一瞬疑念が生じる。だがそれはすぐに消えた。
「だから、行って。朝比奈みくるのところに。そして伝えて。あなたの心を」
 ほんの少しだけ、本当にごくわずかだけ、ほんの数ミリほど口の端を上げた長門の、初めて聴く柔らかな声音に、疑念など挟む余地はなかった。
 長門にこうまで言われた以上、返事は、一つしかなかった。
 
 
 俺は一人、再び文芸部室の前に立っていた。
 朝比奈さんはまだしばらくこっちに居るらしい。長門がそう教えてくれた。俺の背中を押してくれた長門とは、踊り場のところで別れた。俺一人で行け、ということらしい。考えてみれば、ハルヒを連れていった古泉も、そういうつもりだったのかもしれない。
(本当に、良い奴らだよ。まったく)
 特に長門の奴は、俺の痛いところをばしばしと指摘しやがって。
 でもそれだけ、あいつが俺たちのことを考えてくれたということで、その辺は、凄く嬉しい。あの長門が、と思うと感無量だ。この先、場合によってはあいつにかなり負担をかけることになるかもしれない。長門大明神には、しっかり礼をしないといけない。
(……行くか)
 背筋を伸ばし、深呼吸する。そして、コンコンと扉をノックする。
 返事は無い。が、着替えてるということもなかろうと構わずに扉を開ける。
「キョンくん?」
 朝比奈さんは、長門の言う通りまだ部室の中に居た。窓に手をやりながら振り返り、きょとんとした表情でこちらを見ている。
「良かった。まだ居たんですね」
 にこりと笑いかけて、俺は部屋の中に入った。荷物を机の上において、朝比奈さんの傍に寄る。
「もう少し、話したくて。いいですか?」
 窓に背中を預けながらながら訊くと、彼女は、はい、と頷いた。
「…………」
 まずは雑談から、と思ったが、いざ切り出そうとすると言葉が出なかった。いくら決意をしようとも、いざそうなるとどうしたって緊張してしまう。横目で見ると、彼女の方も、俺の言葉を待っているようだった。もう少し話したいと言ったのは俺なのだから、それもそうだろう。その気になれば、永遠に黙っていられそうだった。黙っていれば、朝比奈さんはずっと待っていてくれるのではないかとも思えてくる。
 だが、そういうわけにはいかない。時が来る前に、伝えなければならない。
「朝比奈さん」
「はい」
 彼女の方を見ないまま名を呼ぶと、彼女はすぐに返事をした。やはり、俺が話しだすのを待っていてくれたらしい。
「どうしても、帰らなきゃいけないんですか?」
「………………」
 たっぷりの沈黙。それから、朝比奈さんは小さい声で、つぶやくように答えた。
「……はい」
 予想通りの答えだった。わかってはいた。それならば。
「じゃあ、会いに行きます」
「……え?」
「長門に言えば、連れて行ってくれるでしょう。きっと二つ返事でね。ハルヒや古泉も連れて行きます。ハルヒの奴連れて行ったらどうなるかな。未来に連れて行ったりしたらまた妙な力を出すかもしれませんね」
 そこまで言ってから、朝比奈さんの方を見やる。朝比奈さんは両手を胸の前で組んで、うつむいていた。
「……それは、脅し、ですか?」
「いえ。俺には、それくらいしかできないってことです」
 否定すると、朝比奈さんはちらりとこちらに視線を向けてきた。
「それは、駄目です」
「何故?」
「禁則事項です」
 それが朝比奈さん自身の言葉なのか、未来人の言う自動ブロックなのか、俺には判断がつかない。
 予想できていた答え。だがそれは――
「関係ありませんね。俺はそんなの知ったこっちゃない」
「……」
 朝比奈さんは何も言わない。もうここまで来たら、止まれない。
「俺はただ、朝比奈さんに傍に居て欲しいんです」
「……困ります」
 朝比奈さんはそう言って、こつんと額を窓ガラスにつけた。肩が震えている。
「朝比奈さん、俺は――」
「言わないで」
 言いかけたところを、ぴしゃりと遮られる。
「言わないで、ください」
 涙声。額を窓にくっつけたまま、彼女は泣いていた。
 窓に寄りかかるのを止めて、彼女の方に向き直る。ぼろぼろと涙を流す彼女の傍で、俺はただ立ち尽くすしかなかった。彼女の傍で、泣きやむのを待つ。ハンカチでも渡せればよかったのだが、生憎と持っていなかった。
 どれくらい泣いていただろうか。朝比奈さんはうつむいたまま窓から離れた。
「朝比奈さん……」
 声をかけると、朝比奈さんは目元を指でぬぐい、赤く腫らした目をこちらに向けた。
「ごめんなさい」
「いや、謝るのは俺の方で――」
 言いかけた俺の口に――唇に、朝比奈さんは人さし指をそっと触れさせた。言わないで、と。それに従って、彼女が指を離すと同時に口を閉じる。彼女は一歩前に進み――つまり、俺に一歩近づいて――、言った。
「あたしね、ずっと考えてたんです」
「何を?」
「未来に帰ったあとに、あたしは何をすればいいんだろう、って」
「……」
 無言で、彼女の言葉に、耳を傾ける。一言一句、聞き逃さないように。
「未来に帰ったらきっとあたし、今よりもっと色々できるようになると思うんです。次の任務がどんなのかわからないけれど、きっと色々できるようになる。もっと自由に動けるように。もしかしたら、時間移動も自由に」
「……」
 朝比奈さん(大)はひょっとして、その結果なのかもしれない。朝比奈さんの言葉を聞きながら、ふとそう思った。
「そうしてあたし、出来ることなら、またこの時代に戻ってきたい」
 朝比奈さんは、また一歩俺に近づいてきた。ぽすっ、と俺の胸に額をつけてくる。
「また、キョンくんに会いたい」
「……」
「キョンくんに会いに、絶対に、来ます」
 そう言って朝比奈さんは、顔を上げた。
「だから、だからね」
 朝比奈さんの目から、再び涙がこぼれ落ちた。
「それまで、待っていてくれますか?」
 返事の代わりに、俺は彼女を強く抱きしめた。腕の中で身を震わせる彼女。俺は彼女の耳元で、ささやくように言った。
「待ってます。ずっと」
 これは別れの言葉だ。必要な別れだから、愛してるとは言わない。彼女には彼女の時間があり、俺はそこには行けない。行けないから俺は、待つ以外にできない。彼女が、いつか俺の知ってる姿の彼女となるころに――ひょっとしたら俺が知ってるよりもさらに成長した姿の彼女になるころに、その時にまた会うための、言葉。また会う日がいつになるのかはわからない。その時まで、俺はきっと忘れないだろう。今感じている朝比奈みくるのぬくもりを。このぬくもりだけが、今の俺に手に入れられる彼女なのだ。
 いつか来る未来。いつかの明日まで、俺はずっと待ちつづけるだろう。
「明日で、待ってる」
 腕の中の彼女と見つめ合う。
「…………うん、待ってて」
 たっぷりの時間をかけてそう答えた彼女は、もう泣いていなかった。
 
 
 そして彼女は、未来へと帰って行った。たった一つの約束を――いつかの明日に、また会う約束を残して。
 俺は待ちつづけるだろう。
 彼女とまた会う日を。
 それがいつになるかはわからない。
 でも、その時には、今度こそ伝えようと思う。
 俺の心を。伝えられなかった言葉を。
 愛していると、伝えよう。

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