『彼と彼女の約束』5 きっと悪いことをしている

第四章 きっと悪いことをしている

 
二月。
受験まで、あと少し。
三年生は卒業式までは自由登校ということになっていて授業は無いけれど、あたしの場合は放課後には居ないといけないから、どうしたって学校には来ないといけない。キョンくんたちが来るのを、あたしは文芸部室で待っている。教室に居てもいいのだけれど、あまり人も来ないし、人が居てもみんな受験直前で落ち着かない雰囲気になってしまう。文芸部室に逃げている、とも言えるかもしれない。ちなみに、自由登校である以上、朝もゆっくりできるので、学校に行く時間自体はまちまちだ。誰も居ない時間に坂を上っていくのはなかなか新鮮な感じがして面白い。
 文芸部室では、ずっと問題集を解いている。わからない問題があった時に、職員室まで質問に行くのがちょっと遠くて不便であるけれど、一人で居られる気楽さ、マイペースにやっていける気楽さが、なんとなく嬉しかった。
 そんな、ゆったりとしつつも受験に向けての日々を過ごしているわけだけれども、あたしの頭は、もうすぐやってくるあの日のことでいっぱいだった。
 バレンタイン。
間近に迫ったバレンタインのことばかり、あたしは考えていた。
「……」
 シャープペンを机の上に置いて、んーっ、と伸びをする。
志望校の過去問を、時間を計って解いているのだが、どうにも集中しきれなかった。
 壁に掛けられたカレンダーを見やる。今日は二月十日。バレンタインはもうすぐ。今年も、三人で作って渡すことになっている。涼宮さんは去年みたいに、なんとかキョンくんと古泉くんに苦労をさせたいみたいだけど、今年のバレンタインは学校が休みじゃないのと、あたしが受験だからってことで大掛かりなことができないようだった。簡単にあげたらつまんないじゃないの、なんて言っていたけれど、もしかしたら今年は、普通に渡すことになるかもしれない。まだ何も決まっていない。今日辺り、決めるのかもしれない。
「バレンタイン」
 声に出してつぶやく。
 受験生でなければ、もうちょっと明るい気分で迎えられたかもしれない。
 チョコレートを作って、かわいくラッピングして。去年、キョンくんたちへのとは別に作ってクラスの女子で交換会をやったけれども、今年はそういうことは出来なさそうだ。一応、買ったのを持ってくるつもりではあるけれど。
「……」
 チョコレート、か……。
 今度は声に出さずに、胸中でつぶやく。バレンタインのチョコレート。女の子が想いを伝えるためのもの。
 本当は、キョンくんにあげたかった。個人的に。
 卒業してしまうと、もう今のように会うことはできなくなってしまう。大学生と高校生、離れてしまうと、どうしても、会える時間が減ってしまう。そうなった時に、あたしはどうなるんだろうか。このままこの時間に居られるのだろうか。キョンくんと――ううん、涼宮さんと離れることにもなってしまうから、もしかしたらこの時間から離れなくてはならなくなるかもしれない。もちろん、そうはならないからもしれない。わからない。結局は、上の人が決めることだから。
 もし――ということを何度も考えた。
もしもお別れしなくちゃいけなくなったら。
 そうなった時に、悔いが残るのは嫌だ、なんてことも思う。
「チョコレート、あげようか、やめようか……」
 つぶやいてから、あたしは溜息をついて、机の上に突っ伏した。
 
 放課後になった。
 六時間目の授業が終わって、もうすぐ、みんながやってくる。これまで制服だったあたしも、いつも通りのメイド服に着替えを始める。もうすっかりと慣れてしまって、もうすぐ着納めかと思うと、少しさびしい気もする。あたしが卒業したら、この服はどうするんだろう。まさか他の人が着るってことはないと思うけれど。
 エプロンを整え、カチューシャを着け。部室でのいつものスタイルのなると、あたしは、むん、とガッツポーズをした。今日も美味しいお茶を淹れよう、という気合を込めて。
 そんなことをしているうちに、コンコンとドアがノックされる。
「はーい」
 返事をすると、静かにドアが開かれた。
「……」
 長門さんだった。以前はノックをせずにそのままドアを開けて入ってきていたのだが、最近はノックをしてくれるようになった。おかげで急にドアが開いて驚かずに済むようになってほっとしている。
「こんにちは」
 とりあえず、挨拶をする。こくん、と長門さんは小さく頷いた。言葉は無いけれど、長門さんなりの挨拶。あたしはにこっと笑って、言った。
「すぐにお茶淹れますね」
 こくん、とまた小さく長門さんは頷いた。そしてそのまま、いつもの席へと座る。
 その姿を目で追ってから、あたしはお茶を淹れるべく、用意を始めた。
 卒業までは出来るだけたくさん淹れようと思って、以前から置いていた茶葉以外にも色々と持ってきている。今日はどれを淹れようか――と思いつつすっかり自分専用の棚にしているところに置いてある茶葉の缶を見ていると。
 バタァン! と勢いよく部室のドアが開いた。
「やっほー!」
 元気よくやってきたのは当然のことながら涼宮さん、その後ろにはキョンくんと古泉くんが居る。
「みくるちゃん、お待たせ―」
「こんにちは、涼宮さん」
 にこりと笑いかけると、涼宮さんは満足そうに頷いた。そのままつかつかと団長席に向かうのを見、続けて入ってきた男性陣の方を見やる。
「こんにちは」
「どうも」
「……ちわっす」
 微笑む古泉くんと、明後日の方を見ながらのキョンくん。
「……」
 古泉くんはいつも通りだけど、最近のキョンくんはどこか変だった。
 今みたいに、目を合わせてくれないことが多い。無視をしてくるわけではないけれど、どこか距離があるように感じる。何かしたのだろうか、と思うのだが、心当たりはない。
 疑問に思いつつも、あたしは二人に言った。
「すぐにお茶淹れますね」
「あ、はい」
 頷いて、古泉くんは自分の席についた。キョンくんも続いて、自分の席に座る。
 あたしは再び、お茶選びに戻る。
(今日は鉄観音にしようかな。キョンくん好きだし……)
 鉄観音の入った缶を手に取りつつ、キョン君の方をちら、と見る。
 と――
 目が合った。キョンくんはあたしの方を、見ていた。途端に、キョンくんは慌てた様子で視線を逸らした。古泉くんの方へと。
「なあ古泉、今日はあれだ。ガイストやろうぜ、ガイスト」
 誤魔化すように、まくし立てるようにキョンくんは古泉くんに話しかけた。古泉くんは少し驚いたようだったが、何も言わずに、わかりました、と答えた。
 これも、最近多いことだった。気づくとキョンくんはこっちを見ている。今みたいに視線が合うことも多い。そしてその度にキョンくんはあたしから視線を逸らすのだ。
 だけど視線をそらさずに話をすることもあるし、今まで通り何かと気にかけてくれるので、嫌われたわけでもないようだった。
 それだけに、どういうことなのかさっぱりとわからない。
(……今度みんなに相談してみようかな)
 キョンくんの方をもう一度見、あたしは小さく溜息をついた。
 思考を切り替え、お茶を淹れて、みんなに配る。
 キョンくんの好きな鉄観音。湯呑を渡すと、キョンくんは嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます」
 笑ってくれるのが嬉しい。
 キョンくんの笑顔が、あたしにとっては何よりも嬉しい。
 笑顔に対して笑顔で応えてから、あたしは他のみんなにお茶を配った。
「美味いです」
 とまた笑ってくれたキョンくんに、思わず、胸が高鳴った。
 
 
翌日も、あたしは朝から文芸部室で勉強をしていた。
「朝比奈みくる」
 声をかけられて、あたしはゆっくりと振り向いた。昼休み、お弁当を食べて、ちょっと飲み物でも買ってこようと、文芸部室を出た、ちょうどその時である。
「あ、長門さん」
 声をかけてきた相手は、長門さんだった。
「どうしたんですか?」
 尋ねると、長門さんはじっとあたしを見つめて、いつも通りの無表情で、言った。
「あなたに頼みたいことがある」
「えっ。それはかまいませんけど……あたしでいいんですか?」
「あなたにしか頼めない」
「……」
 なんだろう、と思った。長門さんがあたしに頼みごとをしてくるのは珍しい。お互いの立場が立場であるから、まず最初に頭に浮かんだのは涼宮さん絡みのことだった。しかしここ最近の彼女はとても落ち着いていたし、未来からも特に連絡はなかった。彼女のことなのだろうか、それとも他の? 聞こうとしたら、先に長門さんが口を開いた。
「チョコレートの作り方を教えて欲しい」
「…………」
 長門さんの言ったことを理解するのには、少しだけ時間が必要だった。目が点になった、というわけではないけれど、目を丸くして、長門さんを見つめる。
 長門さんの表情は、まったく変わっていない。普段通り無表情。先ほどから何も変わっていない。
「チョコレート、ですか?」
 聞き返すと、長門さんは肯定だとばかりにこくりと頷いた。
「え? 作れますよね、チョコレート」
 確認すると、再び、長門さんは首肯した。
「どうしてですか?」
「あなたの作るチョコレートを作りたい」
「……はい?」
 長門さんが何を言っているのか理解できず、あたしは首を傾げる他なかった。
 どう質問していいか困りながらも問答を繰り返して。
 どうやら長門さんは、自分の作るチョコレートに満足をしていないということらしかった。去年一緒に作った時に、長門さんが作ったチョコレートはあたしのよりも美味しかったというのに。長門さん曰く、あたしの作るチョコレートを目指したい、ということだった。
「チョコレート作りはいいんですけど、今度涼宮さんと一緒に作りますよね。それとは別にってことですか?」
 尋ねる。昨日、下校した後に女子三人で集まってバレンタインについて話し合いをしたのだ。どうしてもキョンくんたちに苦労をさせたいらしい涼宮さんの発案で、バレンタイン当日でなく、週末の土曜日に二人に肉体労働をしてもらってから渡そう、ということになっていた。チョコレート作りも当然、その前日の金曜日にやることになっている。
「そう」
 別口で作りたい、ということ――胸中でつぶやいて、その意味を考える。のだが、考えるまでもないだろう。バレンタイン時期に長門さんがチョコレートを、個人で、となれば、その理由ははっきりしている。おそらくはそれしかない。
「キョンくんにあげたいってこと……ですか?」
 おそるおそる確認のつもりで尋ねると、長門さんは頷いた。照れているのだろうか、先ほどよりも動きは小さかった。
「……」
 そういうことなら、あたしに声をかけてきたことにも理解ができる。涼宮さんには頼れないし、長門さんの交友関係からすれば、頼れるのはあたししか居ない。
「わかりました。教えるのはともかくとして、一緒に作りましょう」
 答えると、長門さんはほんの少しだけ目を見開いた――ような気がした。
「ありがとう」
 察するに、先ほどのは喜びとか嬉しい、という感情の表れだったのだろうか。キョンくんならばわかるのかもしれないが、あたしにはまだそこまではわからない。
「いえいえ。それで、いつ作りますか? やっぱり当日にあげたいですよね。そうするとやっぱり前の日ですか?」
「前日、学校が終わったら。涼宮ハルヒには秘密で」
「わかってますよ」
 苦笑する。涼宮さんには知られてはいけない。今の涼宮さんなら、昔のようなことはしないと思うけれども、それでも、注意しておくべきだろう。
「わたしの家でやりたい」
「わかりました」
 頷くと、彼女もまた頷いた。
「それで、どんなのを作りたいんですか?」
 聞くと、長門さんは無表情のまま、首を斜めに傾けた。
「どんなのがいい?」
「……」
 その仕草がかわいい、と一瞬思ったけれど。
 どんなチョコレートを作りたいのか、ということが決まっていないのは、作る時に困る。
「……放課後、決めましょうか」
「わかった」
 そこまで話したところで長門さんが教室に戻ると言うので、そのまま途中まであたしもついて行くことにした。階段を下り、二年生の教室へと続く廊下の所で長門さんと別れて、あたしはさらに階段を下りる。
 階段を下りながら、あたしは微笑んでいた。
 長門さんが、チョコレートを。キョンくんに。
 それを考えると、微笑まずには居られない。
(女の子してるなあ、長門さん)
 胸中でつぶやいて、あたしは長門さんにどんなチョコを勧めようか、考え始めた。
 
 
 何を作るかを考える上で、当然のことながら、涼宮さんと一緒に作る時のものと被らないようにしないといけなかった。そちらはそちらで楽しみにしてもらわないといけない。同じものを渡して、キョンくんにがっかりされると――するような人ではないと知っているけれど――いけないからだ。その上でなおかつ手作りできるもの。
 目的を考えた時――目的はもちろん長門さんがキョンくんに想いを伝えることだ――、チョコレートにメッセージを描けた方がいいのかとも思い、そのことを下校する時にこっそりと長門さんに確認すると、彼女はただ一言、そうする、と答えた。そうなると、ベタではあるが、湯煎して溶かした物をハート型に固めるのがベストだろうと思った。それを伝えると、長門さんはこくんと頷いた。
 頷いてから、長門さんは小さな声で言った。
「他にも」
「?」
「他にも作れるものがあれば、作り方を知りたい」
「……」
 どうしてだろう、と思ったが、その理由は続く長門さんの言葉でわかった。
「できれば、たくさん作って、あげたい」
「……そうですね」
 ふふ、と笑みをこぼして、あたしは長門さんの顔を見つめた。少しうつむき加減になっている長門さんの横顔。
きっと今頃、キョンくんに渡す時のことを考えているんだろうなあ。
 そう思うと、長門さんのことがよりかわいらしく感じられる。
「がんばりましょうね」
 あたしがそう言うと、長門さんは、大きく頷いた。
 
 
 バレンタインの前日、あたしは買い物袋を持って、長門さんのマンションを尋ねた。学校が終わった後に一度解散し、あたしが材料を買って尋ねることになっていたのである。
「いらっしゃい」
 出迎えてくれた長門さんは、先ほどまで着ていた制服姿ではなく、白いタートルネックのセーターに、デニムパンツといった格好だった。
「お邪魔します」
 ぺこり、と頭を下げると、長門さんは、上がって、と言った。言われるまま、靴を脱いで上がる。リビングに材料以外の荷物を置かせてもらって、とりあえず持ってきたエプロンを着け、髪をゴムで後ろでまとめてから、長門さんと一緒にキッチンへ。
「それじゃあ、作りましょうか」
「……お願いする」
 エプロンと三角巾――あたしは三角巾までは用意してなかったのだが、用意したらしい――を着けた長門さんが、小さく頭を下げた。
「……」
 こういう時に涼宮さんだったら、盛り上がるような、何か威勢の良い言葉を言うのだろうけど、あたしにはそういうノリはできないので、おとなしく普通に作り始めることにした。
「ええとですね、まずはチョコレートを細かく刻みましょう」
「わかった」
 頷き、長門さんは包丁を取り出した。あたしは買い物袋の中から、市販されている板チョコを取り出して、包装を解いた。板チョコを長門さんに渡すと、長門さんはまな板の上にそれを載せて、無表情のまま、包丁を小刻みに動かし始めた。
 板チョコを細かく刻んでいくのは大分難しいのだけど、流石は長門さんと言うべきか、顔色一つ変えず――元々変わらないのだけど――淡々と刻んでいく。あたしがやる時には、斜めに大まかに切ってから、包丁の先端を片手で押さえながらやっているのだけど、長門さんはなんというか、まるで千切りにするかのように刻んでいく。これが長門さんの力、などと変に感心してしまった。
 みるみるうちにチョコレートは小さくなっていった。あたしがやったら、きっと手が痛くなっていただろう。それくらいの速度と細かさだった。
「早いですね……流石長門さん」
「そう?」
 答えながら、長門さんはついに端まで細かく刻んだ。やっぱり早い。
「終わった」
「あ、はい。えっと、いっぱい使うので、もっとお願いしてもいいですか?」
「わかった」
「あ、疲れたら言ってください。変わりますから」
「大丈夫」
 そう答えた長門さんは、そのまま板チョコをさらに十枚、細かく刻んでくれた。多いかな、とも思うけれど、いっぱい作ろうと思うとたくさんあった方が良い。
 その間にあたしは、湯煎に使うお湯を用意しておく。湯煎に使うお湯は、五十度から五十五度。温度計で注意深く温度を測りながら、気をつけて用意する。
「できた」
 細かく削られたチョコレートの山を前にして、長門さんは微妙に誇らしげな顔をしている。
「ありがとうございます。それじゃあ、湯煎をしましょう」
 ボウルにお湯を入れ、それよりも小さなボウルを用意して刻んだチョコレートを入れる。流石に全部は入りきらないので、半分ほど。
「まずは半分でシンプルなのを作りましょう」
 こくん、と頷く長門さんにチョコレートの入ったボウルを渡す。
「お湯が入らないように注意しながら、ボウルをお湯につけて溶かしましょう」
 ゴムべらを渡し、長門さんに混ぜてもらう。ゆっくりゆっくりと。
 やがて、チョコレートが溶けて、なめらかになっていく。鼻腔をくすぐるチョコレートの香りに、思わず笑みがこぼれてしまう。
「このままテンパリングしましょう」
「わかった」
 温度調節して、チョコレートの口当たりを良くしたり、つややかさを出したりするのがテンパリングだ。チョコレートの温度調節が大事だから、と気合を入れて温度計を用意する。
 するのだが、温度計を使おうとしたところで、長門さんに止められた。
「大丈夫。温度はわかる」
「あ、はい」
 長門さんの力って便利だなあ、と思った。何でもできるのは、本当にうらやましい。
 手順を口頭で指示しながら、長門さんに作業をやってもらう。長門さんは正確に、冷静にやってくれるので、自分一人でやる時と比べて、スムーズに出来た。自分がやった時には、温度が上がりすぎた下がりすぎたでてんてこまいだったのだけれども。
 ピュアココアの粉を混ぜて、ボウルのチョコを、底からよくかき混ぜる。長門さんの動作は、本当に無駄がない。
 ココアの粉が完全に混ざったところで、長門さんは手を止めてこちらを見た。
「これでいい?」
「はい。完璧です。ありがとうございます」
 ここまで来たら、後は型に入れて固めるだけ。
 今日はせっかくだからと、大きなハート型を用意したのだ。長門さんに、それを使ってもらおう。
 ハート型の型を見せると、長門さんは一瞬、ぴくりと反応した。予想外、とでも言いたげな反応に見えたが、表情はいつも通りだった。
「これを使いましょう。これならいくらキョンくんでも伝わると思います」
「……」
 チョコレートを型に流す。なみなみと注いで、そのまま冷蔵庫へ。ボウルの中のチョコレートはまだ残っていた。
「貴女のは?」
 冷蔵庫の扉を閉めながら、長門さんが尋ねてくる。
「あたしの?」
 聞き返すと、長門さんは、型、と短く答えた。
「ハートの形のは、もう無い?」
「……ありませんけど」
 きょとんとしながらそう答えると、長門さんは目を細めた。
「残ったこれは?」
「他の型も用意してるので、そちらも使いましょう」
 答えて、あたしは近くに置いていた袋の中から、小さい星型の物や、動物の型の物を取り出した。
「……貴女は、彼には作らない?」
 長門さんの言葉に、型を選ぶ手が止まる。
 すぅ、と息を吸ってから、あたしは答えた。長門さんの方を見ずに。
「……ええ」
「……」
 長門さんは何も言わなかった。
 長門さんが言いたいことはわかる。あたしにも、がんばれ、と言いたいのだ。
 この間の不思議探索パトロールの時、あたしは、勘違いから、長門さんにやきもちを妬いた。二人の仲が深まったんじゃないかと思って、嫌な気持ちになっていた。長門さんのことを応援しよう、なんて思っていた自分が、まさか嫉妬するなんて。二人だけになった時に、思い切って尋ねてみて、違うとわかった時に、あたしはほっとした。心の底から。何も無くてよかった、と、ほっとした。
 あたしは、やっぱりキョンくんのことが好き。
 それは認める。
 だけど、未来人のあたしが、この時代の人に恋をしてはいけない。あたしには、戻るべき時間が、帰るべき場所があるのだから。お互いに辛くなるだけ。それならば、あたしは今の気持ちをずっと胸に秘めて、彼の幸せを願うだけ。今を生きる人の隣には、今を生きる人こそ、ふさわしい。
 だからこうして、あたしは長門さんに協力している。
 自分に言い聞かせるように、あたしは答えた。
「あたしはいいんです」
 にこりと笑う。長門さんに向かって。
「さ、色々作りましょう。いっぱい、キョンくんにあげるんでしょう?」
 あたしの言葉に対して、長門さんは何も言わず、ただ、目を細めるだけだった。
 
 
 
「なに、してるんだろ……」
 ゴムべらを持つ手を止めて、あたしはうつむき、つぶやいた。
 生地を混ぜている。溶かしたチョコレートに卵黄と牛乳を混ぜ、メレンゲと薄力粉を加えたものを。ゴムべらでさっくりと、混ぜている。
 つまりは、チョコレートを作っている。バレンタインのチョコを、作っている。
 長門さんのところから帰ってきて、受験勉強もせずに、チョコレートを作っている。
 材料が余ったから。勿体なかったから。そんな理由をつけようと思えば、つけることはできる。けれども、本当の理由は、自分でもわかっていた。
 手を、再び動かす。ゴムべらで、生地を混ぜていく。
(羨ましいんだ、あたし……)
 彼のためにチョコレートを作れる長門さんが、羨ましかった。何の制限もない長門さんが、羨ましかった。行動ができる長門さんが、羨ましかった。
 あたしにできないことができる長門さんが、羨ましかった。
 恋をしている長門さんが、羨ましかった。
 だから――
(だから、作ってる。……あげないのに)
 胸中で自嘲する。手は止めないままに。
 こうして作っているが、これはキョンくんにあげるわけではない。あげられない。あげられるわけがない。
 それなのになぜ作っているのか、自分でもわからない。
 何もしなくても、見ているだけでいい。傍に居られるだけでいい。
 そう割り切っていたはずであるのに。
 長門さんのことを応援しよう、という気持ちは、嘘ではない。嘘ではないはず、なのに。
 ずきり、と胸が痛む。
「ほんと、何やってるんだろうなあ、あたし……」
 そうひとりごちて、あたしは大きく溜息をついた。
 
 
 バレンタイン当日。空は澄み渡って、冷たい風が吹いているものの、日差しは優しく暖かい日だった。
 今日も、あたしは文芸部室で一人お勉強。今日は教室に行っても良かったのだろうけれど、仲の良いお友達はみんな今日は欠席で。時期が時期のせいだから仕方がない。鶴屋さんもお休み。彼女の場合は、滑り止めの学校が今日入試なのだ。
 昨日作ったガトーショコラ、流石に夜に食べるのはよくない、と思い直して――作ってる最中はキョンくんにあげられないから後で自分で食べよう、と思っていたのだ――今日持ってきている。それこそ友チョコのつもりで、友達に配ろうと思っていたのだけれど。相手が居ないのではどうしようもない。
 溜息をつく。
「放課後、みんなに食べてもらえばいいかな」
 つぶやいて、あたしは机に両肘をついて、頬杖をついた。
 勉強に手がつかない。
 チョコレートのこともあるが、長門さんのことも気になる。長門さんのことを考えると、やはりどうしても、集中できない。
 昨日の夜ほどではないが、どうしても心の奥の方で引っかかるものがある。
「……」
 胸の奥、心の中のものを吐き出すように、溜息をつく。溜息は重い。何度も何度も吐きだして、この部屋の中はもう、それだけでいっぱいになっているようだった。
 溜息をつくと、どうしても下を向いてしまう。努めて、上を見上げるようにした。天井を見上げて、せめてもう重い気を溜めないようにと思うのだが。
「放課後、だったっけ」
 長門さんがチョコレートを渡すのは、放課後。六時間目が終わって、文芸部室に来る前に渡すと言っていた。学校で、そのタイミングで渡すなんて大胆だと思うのだが、長門さんなりの思うところがあるのだろう。上手くいってくれるのであれば、友達として、嬉しく思う。
「……」
 と、また溜息が出そうになっていることに気づいて、あたしは吸っていた空気を静かに吐き出した。ゆっくりと。
 頬杖を突くのを止め、机に突っ伏す。
「あたし、こんなに心狭かったんだ……」
 自己嫌悪。口では応援したいというようなことを言っておきながら、いざ土壇場になると気にしてしまう、嫌だと思ってしまう。
 こんなにモヤモヤするくらいなら、いっそのこと、長門さんのお願いなんて、聞かなければ良かった。あたしの知らないところで長門さんが何かをするというのなら、こんな気持ちにならなかっただろうに。
 そんな後悔を覚えてしまう自分の心の狭さを感じて、それでますます自己嫌悪が募っていく。
 今日はもう、勉強なんて出来そうもない。
 自己嫌悪に苛まれるまま、時間はどんどんと過ぎて行った。
ついさっき、六時間目の終わりのチャイムが鳴った。今頃はHRをやっているだろう。それが終われば、いよいよだ。
 全然進まなかった赤本とノートを鞄にしまう。すぐにはみんな来ないだろうけれど、もうやる気もないから、出していても仕方がない。
 代わりに、昨日作ったガトーショコラを取り出す。カップケーキとして作ってある。タッパーに入れて持ってきた。
 今日のお茶菓子にしよう、と朝は思っていたのだが。
「……」
 タッパーを開け、中の物を一個取り出す。紙のカップを破いて、そのまま、ぱくり。
「……美味しく、できてるんだけどな……」
 甘さを抑えて作ったガトーショコラ。キョンくんにはそういうのがいいだろうと思って、作った。
 キョンくんのことを考えて、キョンくんのために。あたしだって、好きなんだから、と、嫉妬して、作った。
 それを、みんなに、という形でとはいえ。
 長門さんの後に、キョンくんに渡して、食べてもらうのは、なんだか酷く、惨めになる気がした。
「出すの、やめよう」
 つぶやいて、食べかけのものをタッパーに戻して、再び、鞄の中にしまう。
 今頃、長門さんはキョンくんに渡しているのだろうか。
 キョンくんはどんな顔をしているのだろうか。
 その意味をわかって、応えているのだろうか。
 机に伏せ――あたしは、キョンくんの顔を思い浮かべていた。
 


朝比奈さん視点で。長門が何をしているかを知らず、悩むお話。
わかっていてもそれでも、心は。ということで、落ち込んでしまうわけですが、この切なさが、葛藤が、朝比奈みくるの恋を描く上で必要なことだと、私は思うのです。

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