『彼と彼女の約束』4 聞かせないとわからない

第三章 聞かせないとわからない

第三章  あなたがわたしで、わたしがあなた

 意識がはっきりとしてくる。段々と体の感覚がはっきりとしてきて、手足に暖かさを感じながらも、顔にひんやりとした冷たさを感じる。まだ、目を開けることには抵抗がある。ぬくもりをもって体を包む布団の、抗いがたい誘惑は俺を決して離さない。
 ううん、と唸って、俺はひんやりとする空気に触れる顔を、布団の中に潜り込ませた。体を抱くようにして丸くなる。そのまま、再度、眠りに落ちようとした時、俺はあることに気づいた。
(腕、俺ってこんなに細かったっけ?)
 一旦疑問を感じると、妙に気になってしまって、俺は渋々と顔だけを布団から出して、うっすらと目を開いた。
「んー」
 寝ぼけ眼に飛び込んできたのは、なんというか、殺風景な部屋だった。
「んー?」
 目をぱちぱちとさせながら、しっかりと部屋の中を見る。
「んあっ!?」
 思わず、俺は驚きの声をあげた。そして、その声にまた、驚く。
(俺……誰!?)
 脳裏に浮かんだのは、まず、それだった。声が違っていた。明らかに女の声だった。慌てて、布団を跳ね除けて起き上がり、俺は部屋の中を見回した。ベッド以外、何もない部屋。殺風景としか言いようのない部屋だった。自分の体を見下ろすと、明らかに――
「お、んな――?」
 細い腕、細い体。胸こそ無いが、どう見ても女性の体だった。緑色のパジャマを着た、女の体。
「なんでだっ!?」
 慌てて、確認するように俺は顔を抑えた。何がわかるというわけでもないが、頬、鼻、口を触る。
 ベッドから降りて、とにかく、部屋を出る。どこかに鏡が無いか。考えたのはそれだけだ。
 部屋を出ると、俺はここがどこだが、なんとなくわかったような気がした。
 見覚えがある。
 その記憶に従って、洗面所があるであろう場所に行くと――思ったとおり、洗面所であった。
 まさか、と思い、洗面所の鏡に映った人物を見て、俺は愕然とした。
「……」
 言葉を失い、ただただ鏡を見つめる。
 わりと整った顔立ち、雪のように白い肌、ボブカットより少し短い髪型。細くて、抱きしめるだけで壊れそうな華奢な体。体を構成するパーツは、明らかに俺のよく知る少女のそれである。もっとも、今は俺のよく知る少女が今までに見せたことのない――実際、このような表情は見たことがないわけではないが、あれはほぼ別人なのでカウントしないでおく――驚きの表情を浮かべている。
 長門有希。
 鏡に映った今の俺の姿は――どこからどう見ても、長門有希そのものだった。
「……」
 頬をぎゅうっとつねってみる。
 痛い。
 認めがたいが――こうなったら認めてしまう他は無い。夢ではなく、現実に俺は、長門有希になっている。
 途端に、膝から力が抜ける。俺は呆然としてその場に崩れ落ちた。
「……な」
 なんでこんなことに……
 がくりとうな垂れる俺。多分、今、限りなく珍しい絵だよなー、がくりとしてる長門って、などと思いながらも、俺は何故こんなことになってしまったのか、ということを考えていた。
 原因は……二つほど考えられる。
 一つは、ハルヒの力を狙う連中の仕業。ハルヒの周囲で一番の問題は長門の存在だ。無敵の存在の長門。それを無力化するために、俺と長門になんかした。
 もう一つは、ハルヒ自身の能力だ。あいつがなんらかの理由で俺と長門になんかした。
 「くそ、どうなってんだ」
 毒づく。原因としてはそのどちらかで間違いないはずだが、どちらかは現段階ではわからない。長門が居てくれれば、とは思うのだが、そもそも今は俺が長門なのでどうにもならない。
「どうすりゃいいんだよ、おい」
 頭を抱えるが、本当にどうしようもない。
 と――
「ん?」
 遠くで、携帯電話の鳴る音が聞こえた。
 立ち上がり、耳をすます。音はどうやら、リビングルームの方から聞こえてくる。
 洗面所を出、リビングルームにやってくると、こたつの上で携帯電話はけたたましい音を奏でていた。
「……長門の奴、こういう趣味だったのか?」
 携帯電話から流れる着信メロディは、少し前に流行った恋愛ソングだった。とりあえず、かなり長く鳴っているから確実に誰かからの着信なのであろうが、出ていいのだろうか。
「俺が今は長門だが、やっぱまずいよなぁ、こういうの」
 溜息をついて、未だにやかましく鳴り続ける携帯電話を見やる。
「とりあえず、誰からかを確認しといて、後で教えてやるか」
 仕方なく携帯電話を手に取る。開いて、ディスプレイを見ると――
「なんだ、俺からか」
 はは。朝っぱらから長門に何の用なんだよ、俺。苦笑しながら携帯電話を閉じる。閉じて、五秒くらいして、はたと気づく。
「俺ぇ!?」
 慌てて、携帯電話を開き、通話ボタンを押す。
「も、もしもしっ!?」
「…………もしもし」
 たっぷりの間を置いて、電話口から聞こえてきたのは、聞き覚えのない男の声だった。
「だ、誰だ?」
「わたし」
 わたし、って誰だよお前……
「長門有希」
「な……」
 長門ぉ!?
「そう。わたしは今、貴方になっている」
 っつーことはこれ、俺の声か? うへぇ、そーいや、昔遊びで録音した俺の声ってこんなんだったっけな。
 ――って、今はそっちじゃなくって……
「入れ替わってるってことか、これは」
「そう」
「原因はやっぱり……あいつか?」
「そう」
 即答だった。
「涼宮ハルヒが原因」
「……」
 言葉が出なかった。絶句したと言えば絶句したのだが、呆れてものが言えない、と言う方が良いかもしれない。が、ここはあえて言うべきだろう――
「やっぱり」
 深々と溜息をつく。そんなことだろうなあと思っていたとはいえ、いざその通りであるとわかると、溜息をつく以外にない。全く、本当に、あいつは。胸中でうめいてから、俺は長門に尋ねた。
「元に戻れるよな?」
「可能」
「そうか」
 長門の答えに、ほっとして安堵の吐息が漏れた。こういう時に頼れるのはやはり長門だ。今は俺の声であるから、こう思うのもどうかと思うが、実に頼りがいがある、安心感がある声だった。
「しかし――」
 続く言葉に、俺は息を呑んで、思わずおうむ返しに問い返した。
「しかし?」
「時間がかかる」
「……なんだ」
 拍子抜けして、俺は再び安堵の吐息を漏らした。
「どれくらいかかるんだ?」
「八時間ほど」
「はちっ……」
 絶句する。長門のことだから、ぱぱっと戻せるものだと思っていたのだが。八時間もこのままで居るのは流石によろしくない。
 言葉が出ない俺に、長門はその理由を説明してくれた。
 曰く、精神が入れ替わったと言っても、お互いに本来の肉体から完全に分離されたわけではないとか、長門の身体に含まれる情報だかなんだかは、本来人間の精神に耐えられないものだから、俺の精神を保護する必要があるだとか。なんともよくわからん言葉を乱発されてもう何が何やら。とりあえず無事に元に戻るためには、様々な作業を同時進行しないといけないらしく、それでかなり時間がかかるとのことだった。
「じゃあ今日は夕方くらいまではこのままでいるしかないのか」
「そう」
「……ってちょっと待て。今日は――」
「不思議探索パトロール」
「……」
 そう、うっかりしていたが、今日はいつものあの珍妙な集まりの日だった。
「……欠席するしかないな」
「それはできない」
「なんでだ?」
「二人揃っての欠席は、涼宮ハルヒの精神に何らかの影響を与える可能性がある」
「…………」
 なんで? と思うのだが、俺が疑問を挟む前に、長門は続けた。
「また、欠席となった場合、彼女自身がどちらかの家にやってくる可能性もある。わたしの方であれば問題は無い。しかし――」
「俺の方に来られたら困るな、確かに」
 正直な話、長門が俺のフリをできるのかというところには疑問があるが、俺だって長門のフリなんてのはできる気がしない。無口で居るのはともかく、無表情でずっと居られる自信なんてものはまったくない。ハルヒの奴とそれで相対するなんてのは無理の一言以外にない。
「だけどハルヒと会うのがまずいなら、参加するのもまずくないか? 結局会っちまうわけだし」
「この場合はむしろこちらから会う方が好都合。涼宮ハルヒの行動を確実に誘導することができる」
「誘導ねえ……」
 あまり出来る気はしないけども。
「詳しくは後で話をする。今からそちらへ行く」
「わかった」
 待ってるからな、と俺が言うと、長門は最後に、ほんの少しだけ力がこもった声で言った。
「わたしが着くまで変なことはしないで」
「お、おう……。って、するかンなことっ」
「……」
 それで電話は切れた。
「……」
 携帯電話をテーブルの上に戻してから、俺は深々と嘆息した。
「めんどくせえことになったなあ……」
 ぼやいてから、視線を下へとやる。緑色のパジャマ。胸の微妙な膨らみ。
「…………」
 いやいやいやいや。
「殺されるな……多分」

「なんでお前まで居るんだ?」
 半眼になって問うと、そいつはいつも通りの胡散臭い爽やかスマイルを浮かべて答えた。
「それは当然、呼ばれたからですよ」
 俺は半眼のまま、そいつ――古泉の横に居る長門(姿は俺)を見た。
 電話の後、本当に何もせずに待っていると、長門がやってきたのだが、玄関の扉を開けるとそこには俺(の姿をした長門)と一緒に古泉が居たのである。こっちの姿を見るなり、ぽかんと間抜けな顔をするものだから、むかっとしてつい扉を閉めようとしたのは言うまでもない。仕方なく古泉もリビングに上げたのだが――
「わたしが呼んだ」
「なんで」
「協力者が必要」
「そういうことです」
 ニヤケ面を無視して、俺は再度長門に問いかけた。
「なんでこいつなんだ」
 朝比奈さんの方が良かった――とは言わないまでも、そういう心持ちで問う。
 しかし答えたのは古泉だった。
「事情は長門さんから聞きました。僕は念のための保険です。何しろ事が事ですからね。閉鎖空間が発生した時の対策、涼宮さんのストッパー、長門さんのフォロー……僕でないと出来ないことは多い。こう言うとなんですが、朝比奈さんの力では今回の対処には不向きなわけです。もしもの時に、朝比奈さんに涼宮さんを止められると思います?」
「……無理だろうなあ」
 申し訳ないが朝比奈さんにハルヒを抑えることはできないだろう。あのか弱い可愛らしい方に、暴走特急みたいな奴の相手をさせるなんて、とてもじゃないが出来るわけがない。
「だけど何も言わないって言うのも」
「そうですね。少々心苦しいのは認めますが、敵を騙すにはまず味方から、とも言いますからね。朝比奈さんにはそう言った意味で協力をしてもらいましょう。朝比奈さんの場合、何も知らない方がかえっていいかもしれませんしね。無論、このことは僕たち三人だけの秘密になりますが」
「……そうだな」
「そもそもですが、この入れ替わりの原因はおわかりになりますか?」
「いいや」
「おそらくですが、先日の喧嘩でしょうね」
「喧嘩? 一昨日のか?」
「ええ。確か、長門さんを見習え、とか言われてましたよね」
「……あー」
 ぼやいて、俺は天井を見上げた。そういえば一昨日、ハルヒの奴がまたとんでもないことを言いだしたものだから、俺が必死に止めたんだった。文句ばっかり言うな、有希を見習って何事にも動じないようにしろ、とかなんとか、人格に傷を残しかねないことを散々言われた気がする。翌日にはけろっと忘れてお互い普通にしてたが。
「いやでも、一昨日のことだぞ? なんで今なんだ? なんでそれで入れ替わるなんてことになるんだ?」
 疑問をぶつける。が、古泉は苦笑してそれを受け流した。
「さあ?」
「お前なあ……」
 じろり、と睨みつける。それすらも受け流して、古泉は続けた。
「なんにせよ、大切なのは涼宮さんに気づかれないことです。元に戻るまでの間。人間の精神が入れ替わるなんて通常はありえないことが実際に起きている、なんて知られたら、何が起こるか分かりませんからね。そういうことが当たり前に起こる世の中になってしまうかもしれません。危険な状況なんですよ、これは。ねえ、長門さん?」
 古泉が長門に問いかけると、長門は、こくん、と頷いた。無表情な俺が、こくん、と小さく頷いた。
「……」
 なんとも、気持ちの悪い感じがする。俺が目の前に居るのだ。それも、無表情な俺が。今の俺は長門の目線で見ているからか、目の前に居る古泉も、俺(の姿をした長門)も、大きく見える。長門からはこう見えてるのか、と思いもするのだが。それでもなんとも、変な感じだ。
「どうしました?」
 怪訝そうな顔で、古泉が問いかけてくる。俺は半眼になって、うめくように答えた。
「いやあ、なんとも、変な感じでなあ……。無表情な俺が目の前に居るってのはさ」
「あなたが言います? 僕からしたら表情がころころ変わる長門さんというのも変な感じなんですけども」
 苦笑する古泉。当事者としてはたまったもんじゃないのだが、その気持ちは非常にわかる。出来れば俺もそっち側に行きたかったよ。
「話を戻しますが」
「おう」
 俺が頷くと、古泉はそのまま顔を横に向けた。
「長門さん」
「何?」
「入れ替わりが戻るまでの間、長門さんの力で周囲の人間の認識をずらすことなどは、可能ですか? 特に、彼の仕草などはそのままではまずいと思うのですが」
「俺?」
 人差し指で己自身を指すと、古泉はこちらを向いて苦笑した。
「ええ。玄関からここに来るまでの間や、まさに今ですが、明らかに男性ですよ、仕草が」
「……」
 言われて、とりあえず自分の身体を見下ろす。
 何も考えずにあぐらをかいて座っているが、言われてみると確かに、長門はこんなことしないだろう。
「……いや、無理だろ。女らしくするのは」
「でしょうねえ」
古泉と二人、長門の方を見る。俺の顔をした長門は、俺の顔を見、言った。
「わたしの身体で恥ずかしいことをしないで欲しい」
「……すまん」
「古泉一樹の質問に対しては、可能。現在のわたしの身体の上に、通常時のわたしの姿を投影して処理する」
「そうですか」
 ほっとしたように、古泉は胸をなでおろした。
「ではそれを、お互いの身体で行うことは? お互いの姿を投影しあうことは」
 古泉の質問はもっともなことだと思った。お互いに見える姿を変えることができるなら、なんのことはない、戻るまでの間、お互いにそのままで居れば何の問題もなくなるからだ。
 だが、それは淡い希望でしかなかった。
「不可能。現在の、彼の肉体に居る状態では同時に二人以上の投影ができない」
「ですか。最悪の場合はそれで過ごすことも考えたのですが」
 古泉は溜息をついた。よくよく考えてみれば、それができるんだったらわざわざこんなに困らないわけだから、仕方のないことだろう。
「しかし彼の普段の言動ならば、わたし自身が再現することはできる」
「おや」
「ん?」
「やってみる」
 長門は、目を瞑った。そして右手を、額へとやった。そのまま溜息をついて、一言――
「やれやれ」
「……おー」
 感嘆の声を上げ、古泉はパチパチと、なんとも間の抜けた微妙な拍手をした。
「……」
「どう?」
 長門の顔は、心なしか得意そうに見える。傍目にはいつも通りの無表情だが。
「……」
 俺はなんと言えばいいのだろう。俺はとりあえず古泉の方を見た。
「案外、大丈夫なんじゃないですか?」
「そうかあ? 俺あんなんじゃないだろ」
「そうですか? まさに、って感じでしたけど」
「いやいやいや。俺はあんなんじゃねえ。もうちょっとこう、なんと言うかな……」
 人差し指をぴんと立てて、続けて言おうとするのだが、いい言葉が出てこなかった。言葉に詰まっていると、長門が再び溜息をついた。
「やれやれ」
「いやお前が言うなよ」
「しかしあなたならばそう言う」
「……」
「やれやれ」
「いやそんなにやれやればっかり言ってないだろ俺」
 半眼になってうめく。と、古泉は再度苦笑した。
「結構言っているイメージですけどね」
「……いやいや」
「溜息もよくつく」
「肩もすくめてますよね」
「朝比奈みくるをよく見ている」
「こっそり胸の辺り結構見てますよね」
「やめろぉぉぉぉぉぉぉ!」
 耳を塞ぎながら大声で叫ぶ。叫んだら、一応それで二人とも俺の恥ずかしい行動を語るのは止めてくれたようだった。ぜえはあと息を――大声を出して呼吸が乱れたのだ――しながら、床に手をついて崩れ落ちそうになっている身体をなんとか支えていると、ふいに、頭にぽん、と手を置かれた。
「大丈夫か長門。俺がついてるぞ」
 顔を上げると、微笑む俺の顔がそこにあった。
「……っ」
 ぎょっとする。間近で見る俺の顔。ドッペルゲンガーが居たらこんな感じなのだろうか。おぞましい。男に迫られるだけでも気色悪いのに、それが俺の顔だとなおのこと、ホラーでしかない。
「待て。俺はそんなこと言わないだろ」
 少し後ずさる。すると長門は、不思議そうに小首を傾げた。
「そう? あなたはいつもわたしにはこうする」
 長門の発言に、古泉は愉快そうに眼を細めた。あごに手をやり、つぶやく。
「おやおや」
 ニヤニヤとした顔。何か変なことを考えていそうだった。
「違うからな! してないからな! ていうか真面目にやれお前ら!」

 なんとなくぐだぐだになりながらも、とりあえず俺たちは今日の計画を立てた。くじを操作して、午前中は俺と長門で、午後はハルヒと朝比奈さんとで回るようにして、姿は見せるがなるべくハルヒと一緒に居る時間は極力減らす方向で、ということになった。どうしても一緒に居ることになる待ち合わせや昼食については古泉が長門のフォローをすることになっている。終わってみると簡単なことであるのに、なんであんなに疲れたのだろう。なんとなく二人におちょくられてたような気がする。
駅の中を歩きながら、俺は古泉と長門への文句を胸中で何度も繰り返していた。
 身長が低くなったせいで、見える景色はなんとも新鮮だった。服装も、女物というのは新鮮でしかなかった。最近買ったという長門の私服――スカートには流石に抵抗があったので、ズボンにしてもらった。宇宙人パワーで一瞬で着替えさせられたので、女物の服を着る、というドキドキもクソもなかった。しかし、目隠しをした上で長門の手で着替えさせられるなどとなったら、それはそれで絵面が犯罪としか言えないものになっていただろうから、仕方のないことである。
 俺は普段通りに歩いている。歩いているが、周囲の人間の目からは、俺の歩き方ではなく、長門の歩き方で見えているらしい。本当かよ、と思うのだがそこは長門の宇宙人パワーでばっちりらしい。古泉に対して実験したところ、俺がどんなに表情を変えても、いつもの長門にしか見えなかったらしいからだ。古泉が嘘をついている可能性もあるかと思って、変顔をしようとしたら長門に怒られたので、本当にそうなのか、今でもまだ若干疑問は残ってはいるのだが。それにしてもまったく長門の宇宙人パワーというのはすごいもので、漫画なんかでよくある男女が入れ替わりでの定番のトイレも、心配しなくていいというのだから感心する他ない。俺の身体の方も長門の身体の方も、宇宙人パワーで処理するんだと。女子トイレに行かないとならないのか? 俺のを長門に見られるのか? 等々、心配だったのだが全て杞憂で終わって本当に何よりだった。
 だがまだこれからが本番なのだ。これからのことを考えると気が重い。長門の力で見た目こそ誤魔化せるとはいえ、それでも俺自身、長門として過ごさないといけない。余計なことを言わずに居られるだろうか。ついつい口を出してしまう俺の悪い癖が出てしまわないだろうか。大丈夫ですよ、と古泉は言ったが、本当に大丈夫だろうか。
 今は古泉と長門も居ない。三人一緒に行くのはまずいだろうということで、それぞれバラバラに駅前に集合することになっている。なんとも心細い気がする。文句はたくさんあるが、それでも今日はあの二人に頼るしかないのだ。
 溜息をつく。
 と――
「長門さん、おはようございます」
 おっかなびっくり、という調子で、背後から声をかけられた。
 足を止め振り返ると――聞こえてきた声が声だったので、思わず漏れそうになった笑みを必死で我慢しながら――そこに居たのは、朝比奈さんだった。どことなくぎこちない笑み。明らかに緊張している表情だった。
「おはよう」
 で、いいんだよな、と思いつつ、朝比奈さんの顔を見つめる。
「この時間に会うなんて珍しいですね。いつもはあたしよりも早く来てるのに」
「……」
 そうなのか、と思ったが、口には出さない。
「あ、その服、この間買ったのですよね」
 朝比奈さんの言葉に、無言でこくりとうなずく。
「あたしが選んだの、着てくれてるんですね。うれしい」
「…………」
(いつのまに長門とそういう仲になってんですか朝比奈さん!)
 ついこの間まで苦手だ、とか言ってたのに、いつのまにそんな一緒に買い物に行くような仲になっていたのだろう。どことなく朝比奈さんの言動にぎこちなさが見えるから、まだ苦手意識はあるのかもしれないが、それでも少しずつ俺の知らないところで仲良くなっているというのは確かなのだろう。
「よく似合ってますよ、長門さん」
 そう言って、朝比奈さんは微笑んだ。かわいい。
 見ているこちらが照れくさくなってきたのだが、朝比奈さんは俺がそうなっているのには全く気づいていないようだった。やはり長門の力は正常に働いているようだ。明らかに表情が出てしまっていたはずだが、朝比奈さんの目にはいつもの長門のように見えているのだろう。
 ほっとしつつ、俺は長門本人の代わりに礼を述べた。
「ありがとう」
 すると朝比奈さんは、嬉しかったのか先ほどよりもよりニコニコと微笑まれた。まさに天使。女神。慈愛に溢れた極上の微笑み。長門と入れ替わったこと自体は凶事と言う以外にはないが、こうして思いがけず朝比奈さんの笑顔を見ることができたという点では、ハルヒに感謝しないといけないかもしれない。
 朝比奈さんと話をしながら――朝比奈さんが話すことに俺はただ頷くだけであったので会話をしていたかというと微妙だが――駅を出る。駅前のいつもの集合場所には、もう既にハルヒと古泉が居た。ハルヒは俺たちの姿に気づくと、右手を高々と上げて、大声で叫んだ
「おはよー!」
 朝っぱらから元気だなお前ほんと――と胸中でうめきながら、俺と朝比奈さんはハルヒたちの傍まで行った。
「おはようございますー」
 朝比奈さんがかわいらしく言うと、古泉がうさんくさい笑みを浮かべてそれに答えた。
「おはようございます」
 にこやかにあいさつを交わすのが、なんとなく面白くない。普段だったら、こう言う時には割り込んでいくものだが、今はそれができないのがなんとも悔しい。何も言えず、また、表情を変えることもできないので(古泉から見える顔は俺では変えられない)、俺は仕方なく目線だけを古泉にぶつけた。古泉にはどう見えているのかはわからないが、とにかく睨みつける。すると、その視線に気づいてか、古泉はこちらに向かって微笑んで、言った。
「おはようございます。長門さん」
 なんとなくわざとらしい物言いに聞こえるのは気のせいだろうか。朝のことがあるからか、またおちょくられてるような気がする。厭らしい笑いをしやがる。胸中で毒づいてから、俺はハルヒの方に視線を向けて、口を開いた。
「おはよう」
「珍しいじゃない。有希とみくるちゃんが一緒に来るなんて」
「はい。たまたまそこで会ったんです」
「ふーん。これで来てないのはやっぱりあいつね」
(いやここに居るけどな)
 腰に手をやり、鼻息を荒くするハルヒに対して、胸中で言うしかないのが悲しい。
(ん? ちょっと待てよ。これじゃ今日もまた俺がおごるのか? 俺ここに居るのに?)
 いくらなんでも理不尽すぎないか。俺の金が……。思わず頭を抱えたくなったが、ハルヒたちの手前、できない。うめくこともできない。胸中でひたすら奇声を上げていると、ようやく、長門がやってきた。
「悪い、遅れた」
 言いながらも、長門は少し口を尖らせている。時刻はまだ集合時間の十五分前。厳密には遅刻ではない。ただ単に他の四人よりも来るのが遅かった、というだけだ。遅刻しているわけではない。だが遅刻と言い張る奴が居る。それを不満に思っている顔だ。多分、外から見ると、俺はいつもああいう顔をしているのだろう。
「遅い! たまには一番早く来なさいよまったくもう」
「いつも言ってるが時間には遅れてねえだろ」
「団長より遅く来るのが問題なの!」
「じゃあお前が最後になるように家を出ろ」
「あたしは率先して動くのをモットーにしてるの。それを汲んで行動しなさい!」
「はいはい。あ、朝比奈さん、おはようございます」
「おはようございます、キョンくん」
「あ、コラ! 無視するな!」
 長門の視線だと、こういう風に見えてるのか……。
 変な気分だった。恥ずかしいとも違う、妙な気分。本来自分が居るべきところに自分が居ないというのが、妙に寂しいものを感じさせる。そして、自分自身の行動を他人の目で見せられると(長門の演技とはいえ)、普段の俺の姿について色々と考えないといけないような気分になってくる。俺(の演技をしている長門)とハルヒがギャーギャーとわめいているのを見ると、真面目にそうすべきだと思えてきた。傍から見ていると、もう少し俺も愛想よくした方がいい気がする。間に挟まった朝比奈さんを見やると、心底申し訳なくなってくる。
(すみません朝比奈さん。元に戻ったら謝りますから。本当にすみません。長門、頼むからおとなしくしてくれ。そこだけは俺のフリをしないでくれ……!)
 必死で願う。が、声に出せない以上長門には届かない。俺は、藁にもすがる思いで古泉の方を見た。古泉は俺の視線に気づくと、苦笑いをこぼして、やれやれ、とばかりに肩をすくめた。
「まあまあ、お二人とも。ここでこうしていても始まりませんし、そろそろ行きませんか?」
 古泉が割って入ると、ハルヒも長門も肩で息をしながら、そろって頷いた。
「そうね」
「そうだな」
 ほっと胸をなでおろすと、朝比奈さんも同じように胸をなでおろすのが見えた。
「…………」
 半眼になって、長門を睨むように見つめる。すると長門は、そしらぬ顔で俺から視線をそらした。
 文句の一つも言ってやりたかったが、今の状態では何も言えない。俺はただ長門の奴を見つめることしか出来なかった。
 喫茶店に移る。
 いつもだったらコーヒーを頼むところなのだが、今日の俺は長門有希なのである。あいつはいつも何を頼んでたっけ? メニューを見ながら悩んでいれば長門の方で助け船を出してくれるかと思ったが、そんなことはなかった。それが俺、ということなのだろうか。俺はいつものコーヒーでいいや、などと言って、朝比奈さんの方をちらちら見ている。あ、やっぱり俺だあれ。朝比奈さんをちらちら見ているのが、いつもの俺だ。くそう、今日の朝比奈さんもかわいいからなあ。だけど頼むからそこまで再現せんでくれ頼む――などと思いつつ、結局、ココアを頼んだ。
 と――
「あー、なんかお腹すいちゃったわ。サンドイッチでも頼もうかしら。せっかくのキョンの奢りだし」
 なにい? ハルヒの言葉に、ぎょっとして俺は思わずそちらを向いた。だが、今の俺は長門有希なのである。俺は慌てているが、ハルヒの目には、いつも通りの無表情長門が映っているのである。ハルヒの奴には、今の行動は違う意味に解されてしまったようだった。
「あ、有希も食べたいの? どれにするー?」
 げえっ。メニューをテーブルの上に広げて、ハルヒはうーんうーんと唸り始めた。
 ぶんぶん――と、俺は慌てて首を横に振った。言葉に出して否定できないのがもどかしい。
「おい、勝手に話を進めるなよ」
 そこでようやく、長門が割り込んできた。よし良く言った長門。そのままサンドイッチは止めさせろ。頼むから。長門をまっすぐに見つめる。願いを込めて。
 だが、その願いは空しく消え去るのみだった。
「でもまあ、たまにはいいか」
 ……はい?
 長門の言葉に、俺はぴしりと固まるのみだった。言葉が出せない。物理的にも、心理的にも。
「長門、遠慮するなよ。別にいいぞ、サンドイッチくらい。俺も頼んでもいいかなって思うしさ」
(はい?)
 何を言っているのかしらこの子。表情が固まってしまったかのように、動かせない。何も言えない。いやまあそもそも初めから何も言えないのだが。溜息もつけない。肩もすくめられない。暴れられない。長門は、誰の金で支払うのかわかっているのだろうか。お前が持っているのは俺の財布なんだぞ――と口から出かかった言葉を飲み込んで、俺は必死に口をつぐんだ。
 俺に出来るのは、ぶんぶん、と首を横に振ることだけだった。
「遠慮しなくてもいいんだがなあ」
 心底残念そうな顔で、長門はぼやいた。
(遠慮するのはお前だってーの!)
 頭をつかんで直接耳に向かって叫びたかったが、それは我慢した。人はこうして大人になっていくのかと、無性に悲しくなってしまった。大人になった俺は、ココアを止めて紅茶にした。そっちの方が値段が安かったからだ。
 全員の飲み物と、ハルヒのサンドイッチがそろい、ある程度したところで、今日の午前中のくじ引きをすることになった。予定では、俺と長門で組むように操作することになっている。ハルヒがつまようじに印をつけている時、俺は、長門の方をちらっと見た。長門はそれに気づいてか、俺の方をちらりと見た。
「さ、くじ引いて。みくるちゃんから、時計回りにね」
 五本のつまようじを握りしめ、ハルヒはそれをテーブルの上に差し出した。
 言われた通り、まずは朝比奈さんがおそるおそるといった体で手を伸ばした。一本を選んでハルヒの手の中から引き抜く。
「あ、印無しです」
 次は俺だった。長門を信頼して、悩むことなく適当に一本選ぶ。見れば、つまようじにはハルヒの書いた赤い印がある。
「印付き」
 それだけ短く答える。長門っぽく。
 それから古泉、長門と続いた。予定通りに長門が印付きを引いて、その段階で俺と長門が組むことが確定した。
 喫茶店を出、集合時間の確認をしてから、それぞれ街へと繰り出した。朝比奈さんの手をとって朗らかな調子で歩いていくハルヒの背中を見ながら――いつも遊びじゃないとか云々言ってるくせに、とは言わないでおく――俺はとりあえず隣に立っている長門の方を見た。さっきまでハルヒの小言にむすっとした顔をしていた俺は、もうそこには居ない。演技をやめ、素の長門の顔になっている。無表情になった俺の顔。よくもまあ、と思う。落差が激しすぎて気持ち悪いくらいだ。
「何?」
 目だけを動かして、無機質な声で問いかけてくる。
「あ、ああ。お前、すごいなと思ってさ」
「……何が?」
「いや、演技がさ」
「そう」
 短く答えて、長門はそのまま俺から視線を逸らした。
 会話が続かない。仕方なく、俺は提案した。
「……とりあえず、行くか」
 長門がこくりと頷くのを見てから、俺は歩き出した。長門もその後からついてきた。すぐに横に並んできて、そのまま並んで歩く。お互いに何も言わないが、向かっているのは図書館だ。長門と二人の時はそうするようにしている。確認するまでもない。俺たちのお決まりのコース。
 歩きだして少ししてから、珍しく長門が口を開いた。
「さっきのお金」
「あん?」
「さっきの喫茶店で支払った分、後であなたに返す」
「あー。別にいいさ。俺が払うのはいつものことだからな」
「いつもより多く払った」
「それもいいよ。ハルヒの奴はともかく、お前には色々助けてもらってるから。飯くらいいつでも奢ってやるよ」
「そう」
 長門は短く答えた。それから、少し間をおいて、小さい声で、言った。
「ありがとう」
「……」
 思わず、笑みが漏れた。長門の身体でなければ、頭を撫でてやるところだった。今は手が届きそうにないのが残念だ。

 図書館で、いつものように本を読んで過ごした。一心不乱に本を読む俺(の姿をした長門)と、時折うつらうつらしている長門(の姿をしている俺)。知り合いが見たら確実に違和感を覚えるだろう光景。そろそろ出るか、となった時には、本棚の前から地蔵のごとく動かなくなった男を引っ張る小柄な少女の図が出来上がっていた。知り合いが居なくて本当に良かった。見られていたら絶対変な誤解をされるところだった。
 なんとか長門を本棚から引き剝がして駅前に戻ると、ちょうどハルヒたちも戻ってきたところだった。
「あら、あんたたちも今来たの?」
 ハルヒが俺に対して問いかけてきたので、俺は無言でこくん、と頷いた。
「流石は有希ね。ちゃんと時間通りにキョンを連れてくるなんて」
(連れてきたのは長門じゃなくて俺だけどな!)
「さ、それじゃお昼にしましょ。みくるちゃん何が食べたい?」
「え? えーっとぉ……」
突然話を振られて慌てふためく朝比奈さんを微笑ましい気分で――朝比奈さんには申し訳ないが――見ていると、古泉が何気ない感じで俺の隣にやってきた。そのまま、小声で話しかけてくる。
「今のところは何も問題はないようです。いやはや、長門さんは凄いですね」
 答えようとすると、古泉は人差し指を唇に当てた。喋らなくていい、ということなので、俺はそのまま何も言わずに頷いた。
「午後も、引き続きがんばりましょう。」
 こくりとうなずくと、古泉は、ふふ、と笑みを見せた。
朝比奈さんの希望は洋食だった。時間帯が時間帯だったために、どこも混んでいたがたまたま入れた小さな洋食屋で、食事と午後のくじ引きをすることになった。
「さ、くじ引きをするわよ」
 朝と同じく、つまようじを、順番にハルヒの手の中からとっていく。やはりまず最初は朝比奈さん。
「あ、印付きです」
 予定通り。午後は朝比奈さんとハルヒがペアになる。そうなるように長門がやってくれるので、俺は朝と同じく、何も考えずにハルヒの手の中からつまようじを選びとった。
「……?」
 声を出すのを我慢できたのは、我ながらえらいと思う。俺の選びとったつまようじには、ハルヒの描いた赤い印が付いていた。
「印付き」
 長門と古泉につまようじを見せるようにしながら言うと、ハルヒは、あらら、と拍子抜けしたように手をひっこめた。
「午後はみくるちゃんと有希が二人組ね」
「……」
 まじでか。どういうことだ長門――目で尋ねる。だが、長門は俺の視線を無視した。ちらとこちらを一瞥しただけで、何の反応も示さない。それどころか、古泉に対して、お守りがんばろうな、などと言っている。古泉の方も、どういうことなのかと驚いているようで、長門の言葉に対して、曖昧な笑いでしか答えられていなかった。
 洋食屋を出、俺は朝比奈さんと、長門は古泉、ハルヒと一緒にそれぞれ街へ繰り出すことになった。長門を問いつめたくても、そのタイミングはなく、古泉と話をしたくてもやはりそのタイミングがなかった。ハルヒたちの居る前でこちらから何か行動するわけにもいかない。古泉も、おそらく同じなのだろう。長門が何を考えているのかは、俺のフリをしているところからは全くわからなかった。どうやら、腹をくくって長門のフリをしなくてはならないようだ。そして折を見て、どちらかと連絡を取るしかない。
「それじゃ、いつも通り四時にここに集合ね」
 ハルヒの言葉に、全員がうなずく。
「さ、それじゃ行くわよ。キョン、古泉くん!」
「おう」
「はっ」
 なんかどっかの国民的時代劇の最後みたいな感じで、ハルヒはずんずんと歩きだしていって、長門と古泉がその後についていった。てか、古泉の奴、完全にそういうノリだっただろ今。そういえばそういう奴だったな、などと勝手に納得して、俺は朝比奈さんの方を見た。
「えっと、あたしたちは図書館に行きますか?」
 朝比奈さんの提案は、長門のことを考えてのものだろう。もしかしたら、長門と二人になった時は朝比奈さんもいつも図書館に行ってるのかもしれない。俺と同じように。
 しかし生憎と、姿は長門でも、俺は長門有希ではない。図書館でずっとじっとしているなど、勘弁してほしい。せっかく朝比奈さんと二人きりになったのだから――つくづく長門になってしまっていることが腹立たしい――ここは朝比奈さんのしたいこと、行きたいところに、こっちが合わせるべきだ。
 俺は、否定のつもりで、首を横に振った。そして、なるべく長門っぽく努めて、言った。
「いい。あなたの行きたいところについていく」
「そ、そうですか? 遠慮なさらなくても」
「遠慮ではない。あなたの行きたいところに行きたい」
「……」
 俺の言葉に、朝比奈さんは目を丸くしていたが、やがて、少し照れくさそうにしながら、わかりました、と頷いた。
「それにしても、なんだか、キョンくんみたいな言い方ですね」
「そう?」
 長門っぽく小さく首を傾げつつ、俺は胸中でぼやいた。
(すみません、本人です……)
「ええ。なんだか」
「……」
「それじゃあ、あたしたちも行きましょうか」
 朝比奈さんの言葉に、俺は、小さく頷いた。
 朝比奈さんに連れられて、まず向かったのは朝比奈さん御用達のお茶屋さんだった。以前にも来たことがある店だ。真剣な眼差しでお茶を吟味する朝比奈さんの横顔というのは、それだけで絵になってしまうから不思議だ。思わず見惚れてしまうくらいだった。感嘆の声が漏れそうになるのを我慢するのが大変だった。
 次に行ったのは服屋だった。朝比奈さんの行きたいところに行く、と答えてしまった以上、拒否するわけにもいかなかった。男の俺にとって、女性服の売り場は縁が無いものでしかない。いくら今は見た目が長門になっているとはいえ、心は男のままだ。恥ずかしくてたまらない。朝比奈さんに促されるまま引っ張られ、服を勧められ、朝比奈さんの服を選び……。非常に疲れたが、いつか朝比奈さんとデートをする時にこの経験は役に立つかもしれない――と自分に言い聞かせなければやってられない。
 服屋をいくつか見て回った後は、休憩も兼ねて公園へとやってきた。
「あの服似合ってたと思うんですけどねー。着てくれればよかったのに」
 残念、とつぶやいて、朝比奈さんは嘆息した。
「……また今度」
「本当ですか? 今度行ったら着てくださいよー」
 すまん長門、勝手に約束して。心の中で長門に謝りながら、俺は小さく頷いた。
「約束ですよ」
 再度、こくんとうなずく俺。にこりと笑う朝比奈さん。その顔は本当に嬉しそうで。中身が俺で本当に申し訳ない。
「……それで、あのぉ」
「?」 
「えっと、こういうこと聞くのはどうかと自分でも思うんですけど」
「?」
 急に朝比奈さんはもじもじとし始めた。どうしたのだろうと思って見ていると、朝比奈さんはやがて、意を決したように、まっすぐにこちらを見て、訊いてきた。
「キョンくんと、何かあったんですか?」
「……っ」
 思わず漏れかけた声をこらえて、俺は朝比奈さんの顔をまっすぐに見つめた。
「何故?」
 努めて平静を装って尋ねる。
「だって今日の長門さん、ずっとキョンくんのこと見てますし、キョンくんも、長門さんのことずっと」
(そんなに、見てたかな……)
 確かに、言われてみるとその通りかもしれない。確かに俺は長門のことをずっと見ていた気がする。長門が俺のフリを上手くできるかどうか、いざという時に助けてくれるかという不安から、俺はずっと長門を見ていた。あいつの方が俺を見ていたのかはわからないが、そう言われるとそうだったのかもしれない。
「……」
 できれば、事情を説明したかった。仕方のないことだったと言いたかった。
 だが、今の俺には何も言えない。言えば、朝比奈さんに何も言わなかったことも説明しないといけない。そうなったら、朝比奈さんは怒るだろう。悲しむだろう。自分を除け者にしたと、泣いてしまうに違いない。どう言い繕っても、朝比奈さんだけ除け者にしていたのには変わりはないのだから。
「何も無い」
 俺には、それを言うしかなかった。平静に、冷静に、長門のように。
「……」
 朝比奈さんの視線が、刺さってくる。身体に、心に。
疑っている。朝比奈さんは、疑っている。目がそれを物語っていた。
だが俺には何も言えない。何も無い、としか言えないのだ。
 どうしよう――そう思っていると。
『何も無い。本当に』
 口が勝手に動いた。
(……!?)
 俺の意志と無関係に、口が動いた。そして、言葉を発した。まるで何かに操られるかのように。
『わたしと彼の間には、何も無い』
「そう、なんですか?」
『そう。残念なことに』
(残念? 何が残念?)
 口を勝手について出てくる言葉に、俺は困惑するしかなかった。自分の意志では止められず、とにかく勝手に喋ってしまう。長門の仕業だということは、すぐにわかった。助けてくれている、のだろうか。
口だけが動く。身体は動かせない。まるで芝居を見せられているような感覚だった。一人称視点の、芝居。俺に許されているのは、視覚と聴覚のみ。
『彼がわたしを見ていたのはおそらく、わたしが朝にサンドイッチを食べなかったから。午前中の図書館でも聞かれた』
「……」
 きょとんと。本当に文字通り、朝比奈さんはきょとんとした顔を見せた。拍子抜けした顔。長門の言っていることに、呆れた、というよりは納得してしまった、という顔に見えた。そういう理由で納得できるんですか朝比奈さん。俺の存在ってなんなんです?
「まあ確かに、朝に食べなかったのはちょっとびっくりしましたけど……うーん……」
 額に手をやって、朝比奈さんは唸った。
『気にしていた?』
「えっ?」
(えっ?)
 問いかけに、俺と朝比奈さんはほぼ同時に驚きの声を――俺は胸中でだが――上げた。
「……」
 朝比奈さんの顔が、みるみる赤くなっていく。追い打ちをかけるように、俺の口が動く。
『わたしと彼の仲を、勘違いしていた?』
「……」
 朝比奈さんは答えなかった。答えなかったが、その表情が答えになっていた。顔を真っ赤にして、口をパクパクさせている。
『安心して。本当に何もない』
「あ、安心って、その、あたし……」
(……安心てなんだよ……)
 長門の奴は何を言ってるんだ。俺の口を勝手に動かして、勝手に朝比奈さんと会話をして。朝比奈さんに勘違いしないでとか、安心してとか、なんだかまるで――まるで――
(この二人、できてるんじゃないだろうな)
 一瞬、長門と朝比奈さんがそういう関係ではないかと想像をしてしまった。が、それは流石にないだろうとすぐに思いなおす。流石にいくら俺だってそんな馬鹿な勘違いはしない。
『隠さないでいい』
「……」
 長門の言葉に、朝比奈さんは、うつむき、こちらから視線を逸らした。
『わたしは知っている。だから、隠す必要はない。それに、ここには、わたししか居ない』
(俺が居ますけどー。てか何聞かされてんの俺)
 本当に、何を聞かされているのだろう。自由にならない身体で。
「……」
 朝比奈さんは押し黙っている。うつむいたままで、何も言わない。考え込んでいるような横顔。
 やがて、決心したのか、朝比奈さんはゆっくりと話し始めた。
「……気になって……ました……どうしたんだろうって……ひょっとしてって……」
(……)
「知らない間に、何かあったのかなって。二人とも、お互いを意識してるみたいだったから」
『……嫌だった?』
 再び、俺の口が勝手に言葉を紡いだ。朝比奈さんは、その言葉にびくりと身じろぎした。
「……」
 沈黙。だが、その沈黙はかえって答えになっていた。
 肯定。朝比奈さんは、嫌だったと、認めたようなものだった。
 何か、というのは言うまでもなく、男女の仲ということだろう。いくら俺でもそれくらいはわかる。俺と長門がそういう仲になったと思って、朝比奈さんはそれが嫌だったというのだ。
(……朝比奈さん、俺のことを……?)
 自惚れかもしれない考えが浮かぶ。可能性の話。
 だがすぐに、その可能性は、可能性ではなくなった。朝比奈さんの言葉によって。
「……わたしも、キョンくんのこと、好きですから」
(………………え?)
 もし今、俺の身体が自由だったならば、そんな間抜けな声とともに、間抜けな顔を晒していただろう。
 朝比奈さんが俺のことを――好きだって、言った。
「……正直、自分でも驚いてます。やきもちを妬くなんて。あたし、な――」
 と――
 不意に、視界が暗転する。朝比奈さんの言葉が聞き取れない。何を言おうとしてたのか。
 時間としてはほんの数秒(おそらくだが)。
 そして、視界が――開けた。
いや、目を開けた――と言うべきか。俺は目を瞑っていたらしい。そして目を開いた。
目を開いた。自分の意思で。まばたきする。動く。
「……」
 目に見える景色は、見覚えのあるものだった。駅前の繁華街だ。どうやら、カフェのオープンテラス席に居るらしい。周囲を見回すが、先ほどまで一緒に居たはずの朝比奈さんが居ない。
「キョン!」
 不意に、名を呼ばれる。俺は驚き、声のした方を向いた。
 ハルヒだ。
 ティーカップの乗ったトレイを持って、俺の傍に立っている。後ろには古泉の姿もあった。同じようにトレイを持っている。古泉の方のトレイには、カップが二つ乗っていた。
「何ぼーっとしてんのよ。まさか寝てたの? この短時間で? アンタ昼寝の天才か何か?」
「……」
 早口にまくし立てられ、その勢いに圧倒されて俺はすぐに言葉を発せなかった。
「……あ、ああ。いや、悪い」
 急なことに多少混乱しているが、どうやら、元の身体に戻ったらしい。状況から考えるに、カフェで休憩中、というところだろうか。
「キョン?」
 俺の返答が気になったのか、先ほどの剣幕とは打って変わって、ハルヒは怪訝そうな表情を浮かべた。
「いや、なんでもない。疲れたのかな。ぼーっとしちまった」
 苦笑すると、ハルヒと古泉は顔を見合わせ、トレイをテーブルに置いて、席に着いた。
「大丈夫ですか?」
 古泉が心配そうな顔で尋ねてくる。俺は、大丈夫だ、と答えた。
「本当に? 知らない間になんか拾って食べたんじゃない?」
「ンなことするかよ、お前じゃあるまいし」
「あたしだってしないわよ!」
 鼻息を荒くするハルヒをあしらいながら、俺は古泉が差し出してきたコーヒーを受け取った。
「サンキュー」
「いえ。それより、本当に大丈夫ですか? 身体の方は」
「ああ大丈夫だ。自分の身体は自分が一番よくわかってるさ」
 肩をすくめてそう答えると、古泉はそれで察したようだった。聞き方が聞き方だ。そもそも、わかっていたのだろうが。
「ですか」
 ほっとしたように、古泉は胸をなでおろした。古泉のそんな様子を見て、ハルヒはテーブルに両肘をつき、頬杖をついて、言った。半眼になって、呆れた、と言わんばかりの顔で。
「古泉くんたら、そんな心配することないわよ。どうせ昨日夜更かしでもしたんでしょ」
「してねえよ」
 うめくように答えて。
 もうちょっと後のタイミングで元に戻してくれよ、と俺は胸中で長門に対してぼやいた。
 溜息をつく。
 昼に別れてから、ハルヒたちがここに至るまでのことを俺は何も知らない。この後どうしようか、とハルヒが言いだしても、俺は何も言わなかった。下手なことを言うと、怪しまれそうだったからだ。
 古泉とハルヒが会話しているのを、コーヒーを飲みながら眺めている。
 急に元の身体に戻り、戻ってすぐハルヒの相手をしなければならなかったことで若干混乱していたままだった頭も落ち着いてきた。
 ――あたしも、キョンくんのこと好きですから。
 落ち着いたところで、朝比奈さんの言葉が思い出された。
 急なことで考えられなかったが、落ち着いてしまうと、そのことしか考えられない。
 朝比奈さんが俺のことを好きだということ。朝比奈さん本人の口から出た言葉。疑いようのない事実。
 あの朝比奈さんが、俺のことを――
「……」
 朝比奈さんの笑顔が、脳裏に浮かぶ。俺の意識は、朝比奈さんことしか考えられなかった。朝比奈さんの表情、言葉、態度――その全てに、俺への好意が隠れていたと思うと、恥ずかしくてならない。気づかなかったことに気づいてしまうと、なんでもないと思っていた全てが、意味あるものに思えてしまう。
「キョン?」
 不意に呼びかけられ、我に帰る。はっとして、俺はハルヒを見た。
「あ、悪い。なんだ?」
「……」
 ハルヒは眉根を寄せて、じっと俺をにらんだ。
「顔赤いわよ? やっぱり身体の調子悪いんじゃない?」
 どきりとする。ハルヒの言葉に。
 顔、赤くなっていたのか。
 自覚すると、余計に、恥ずかしくなった。心臓の鼓動が早まる。知らない間に歯を噛みしめていたのに気づく。
「……いや、なんでもない」
 頬が熱くなっているのを自覚しながら、俺はそう答えた。
「そう?」
 首を傾げて、ハルヒは古泉と顔を見合わせた。

 やがて待ち合わせの時間になり、集合場所に着くと、長門と朝比奈さんがもう既にやってきていた。朝比奈さんの顔を見た途端に俺の心臓が跳ね上がったが、努めて平静を保った。顔は赤くはなってなかったと思う。自分ではわからないが。
 そして、そのまま解散となる。それじゃあまた学校で、と言ってハルヒが駆け出し、ぺこりと頭を下げて朝比奈さんもその場を離れる。古泉と長門も歩きだした。去り際に、お疲れさまでした、と言ってきた古泉に対して応えながら、俺は長門へと視線を向けた。
長門に、尋ねなければいけないことがある。
俺は、こっそりと長門の後を追いかけた。長門の歩みは遅かった。俺が話しかけてくると、わかっていたのかもしれない。古泉の姿が見えなくなってから、俺は長門に声をかけた。
「長門、これからちょっと話せるか」
「……」
 首肯して、長門を俺のことをじっと見つめてきた。
 長門を連れ、近くの公園へと向かう。公園に着くと、夕方であるからか、人は居なかった。
 ベンチに腰かけて、俺は尋ねた。
「なんで俺と朝比奈さんを一緒にしたんだ? くじ引きは朝比奈さんとハルヒにすることになってただろ?」
「……」
 長門は答えない。無言。
 その態度に、思わずむっとしながら、さらに問いかける。
「それに、朝比奈さんと話しただろう、お前が。なんであんな話をしたんだ」
 質問には答えず、長門はおうむ返しに聞き返してきた。
「……あんな話とは?」
「っ……。とぼけるなよ」
 長門の態度。わかっていてわざとやっているかのように態度に、俺はさらに機嫌が悪くなるのを自覚しながら続けた。
「俺の話だよ。いくらなんでも、あれは俺に聞かせちゃまずい話だってわかるだろ?」
「……」
「なんで俺に聞かせたんだ」
「やむを得ない処置だった。あなたではわたしとして朝比奈みくると会話することは不可能だと判断した。あの時点での限られたリソースでは、あれが限界だった」
「それでも、なんとかできただろう。なんとか」
「……」
「あれじゃまるで、俺に聞かせてるみたいだったじゃないか!」
「……」
 長門は答えない。肯定もしなければ、否定もしない。だが俺にはそれが、肯定のように思えてならなかった。
「それが狙いだったのか? 朝比奈さんが俺を好きだってこと、俺に知らせたかったのか?」
 思わず語気が荒くなってしまった。だが相手は長門だ。顔色一つ変えやしない。ただまっすぐに俺を見つめているだけだった。感情をぶつけても、相手が反応をしなければ、引き下がる他はない。怒鳴るだけ無駄か――そう思うと、馬鹿らしくなってしまって、かえって興奮が鎮まってきた。多少冷静さは取り戻したものの、それで怒りが消えたわけではない。
 深々と息を吸い、肺の中身を空にするようにゆっくりと吐きだしてから、俺は再度長門に尋ねた。
「……本当に、どうにもできなかったのか?」
 長門は、目を閉じた。珍しい仕草だった。普段から、瞬きをしないわけではない。だが、そうした人間の無意識の動作と違い、今、意識的に、長門は目を閉じた。閉じたのは、数秒だったと思う。目を開いて、そしてすぐ、長門は言った。
「あなたに、知って欲しかった」
 無機質な声。いつもどおりの声。淡々とした声。
 だが――いつもと違う、声だった。
「朝比奈みくるの想いを、あなたに知ってもらいたかった。だから代わりに話をした。だからくじを操作した」
 まっすぐに言われると、返しようがなかった。怒りはどこかに行ってしまっていた。半ば呆然としつつ、俺は訊いた。絞るような声で。
「どうしてだ?」
「そうしなければ、あなたは知ることがない」
「……」
「朝比奈みくるは何も言わない。あなたには言わない」
「…………」
「だから、あなたに知って欲しかった」
「どうして」
 うめく。
「どうしてお前が、そんなことをするんだ」
「……わたしは、朝比奈みくるのことが好き」
「……へっ?」
 思わず、変な声が出た。長門が、朝比奈さんのことを好き?
 まさかの告白に俺は愕然としたが、長門はそんなことは気づかずに続けた。
「わたしは朝比奈みくるのようになりたいと思っている。彼女はわたしの理想。わたしは、彼女に幸せになってもらいたいと思っている。幸せに、笑っていて欲しい」
「……」
 息を呑む。思っていたこととは違っていたが、長門が朝比奈さんのことをどう思っているかは伝わってきた。恋愛的な意味での好きかと思ってしまったことを反省したい気分だった。
「だから強引な手法をつかった」
 ごめんなさい――そう言って、長門はうつむいた。
「……」
 俺は言葉に詰まった。どう言っていいかわからない。長門のやったことはよくないことだ。正直なところ、困ってしまう。だが、朝比奈さんのためにと思ってやったことでもある。
「お前は、知ってたんだな? こういうことするってことは。朝比奈さんが俺のことをどう思ってるかってこと」
「知っていた。このままでは、彼女はいつか泣いてしまう。そうしたくなかった」
「……」
「あなたの見ているところであなたについて話すつもりだった。朝比奈みくるの方から話をしてきたのは計算外だった」
「…………」
「あなたは、朝比奈みくるのことをどう思っている?」
 長門の問いかけ。
 俺は――


不器用さゆえの直球。
どうすれば伝わるか、どうすれば良い結果になるか。長門が「考えた」というお話なのです。

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