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希望は良いものか

「希望は良いものだ。多分最高のものだ。素晴らしいものは決して滅びない。」


ショーシャンクの空にの一節。


希望、と一言で言っても色々なタイプの希望があると思う。


実体がなく、イメージの中だけで完結できる、自分の想像次第で希望を希望のまま捉えられている場合はきっと良いものだと思う。

希望を抱いてるその像が崩れない限り、ずっとそれは希望であり続ける、活力であり救いであり続けてくれる。希望は良いものだ、最高なものだ。


希望と期待は似ていて非なるものだ。


希望は自分ゴトで、期待は自分以外ゴトのことが多い。

人にもモノにも環境にも期待をせず、私は希望を持っていたい。


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先日こんな話をインターネットさんで見かけた。

とあるシングルマザーの方が発言していて多くの賛同を得ていた。

「旦那がいる時は、旦那が何もしてくれないことに腹を立てていた。1人で子育てを負担することにストレスを感じていた。でも別れて会わずに暮らしてみるとあら不思議、1人で出来るじゃん。大変なこともあるけど、旦那といた時のようなストレスは感じない」

きっと実体が見えてるからこそ「期待」してしまうのだろう、自分の思うように人が動くわけないのに、きっと「期待」してしまったからそれがフラストレーション、ストレスとなっていたんだろう。

実体もなく、そもそも期待すら抱かなければそれに付随して発生するストレスもなくなる。


去年1年間はオンライン上で人と「会話」をしていることが圧倒的に多かった。

オンライン上で人と話せば話すほどオフラインでの会話、繋がりが恋しくなる。

きっと画面越しに伝わってくる「人らしきものから発される温もりみたいな何か」だけ伝わってくるからなのだろう。

現実は一人暮らしの部屋に一人でいるだけなので、下手すりゃ1週間まともにリアルなコミュニケーションが発生しないこともあった(買い物でのやり取りは除いて)

私の場合そういう意味でいうと格闘技ジムがかなり救いになっていた。


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「期待」しないことの反対は「諦め」なんじゃないかと思う。

人へ、モノへ、環境へ、「諦め」を持てばきっと「期待」は発生しない。

寂しく聞こえるが、付随して発生するストレスに悩まされるくらいなら初めから諦めてしまえばいい。

「期待」と「希望」を持っているくせに何も諦められなかった22歳の俺に、「諦めた」人達といるのはとても辛かった。

次第に諦め何にも「期待」しなくなったが「希望」だけは持っていた。それは自分ゴトだから。

「希望」は良いもんだ、俺は生かされた。


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「希望」は良いものだ、しかし種類によっては時に焦燥感や渇望感を生む。

希望から生じる焦燥感を焦りだと私の脳は判断していたが、最近どうもそうではなさそうな気もしてきた。

本当よく言うように焦っても仕方ない、焦っても良い結果に繋がることは殆どないように思う。

焦燥感を感じながら、それを自分の中で飼って目の前の出来ることをコツコツやっていく。目の前の自分だけが納得する自分ゴトをコツコツやっていく。

きっと焦燥感や渇望感は無下に否定するものでもなく、それに自分が支配されるものでもなく、活力として使えるものなのではないのか?

最近ふとそんなことを思った。


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焦らず、焦燥感を持ってやっていきましょう。

どんな時間も無限じゃない。雑な言い方になるが年齢だって色んなことに色々関係ある。

年齢なんてただの数字、関係ないなんて極一部の事象にしか当てはまらず、そう思いたいだけの人が発しているだけに思う。逃げの肯定。年齢は色んなことに関係あるよ。現実見よう。現実見るから希望が生まれる。

だから焦る、んじゃなくて焦燥感を飼って、希望を持ってやっていきましょう。

そんなことを思いました。

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