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【読書記録】武田百合子「犬が星見た」

「ひかりごけ」で知られる武田泰淳の妻、武田百合子が書いたロシア紀行文。

タイトルの「犬」とは、地球を見たライカ犬のことかと思いきや、泰淳から見た百合子のことだそうだ。天衣無縫の文章家として知られる武田百合子の目を通じて、共産ロシアの風物が贅肉のない文章で切り取られている。

作中で描かれるのは「とうちゃん」こと夫・泰淳と友人・竹内好、同行の資産家・銭高老人のコミカルな言動や、現地で見たもの食べたもの、子どもたちとのふれあいの様子などだ。そこには余計な装飾や、外国人への媚びへつらいの感情は一切ない。ロシアのバレーなどは「簡単明瞭なよくない踊り」と切って捨てている。道中入れ替わり立ち代わり現れるガイドのロシア娘への手厳しい評価などには、思わず吹き出しそうになる。何がそんなに癪に触るのか。容姿や態度だろうか。ガイド娘「ナターシャ」との別れ際には、ニコニコしながら「あなたはしんからブスね」と言い切っている。かといって、何もかもけなしているわけでもなく、アクシデントに近いような出来事さえ飄々と受け流す。宿泊先のホテルが「便所の水を出したら茶色、浴室の水も茶色」であっても、「茶色だって、かえって栄養があるミネラル水かもしれない」とうそぶくなど、むしろ楽しんでいるようにさえ思える。

また、作中で描かれる各地の風物や出会った人々の言動には時代柄を感じる内容も多い。ロシア国内では行く先々でベトナム人に間違われ、東西冷戦を背景としたものか、勝手な連帯感に満ちた眼差しを向けられる。

でも「ベトナム?」と寄ってくる人たちの顔つきは特別なのだ。尊敬しているというか、いたわるというか、そういう眼差しなのだ。うん、そうだよ。などと言っては、まるでサギではないか。青年は踊る間「ベトナムだろう」「ベトナム人は大へん小さい。あなたも大へん小さい」と言い続けていたが、だんだん判ってきたのだろう。踊り終ると、つまらなそうに戻っていった。

長旅でロシアの風物に飽きた泰淳と竹内は、ポルノ雑誌を扱う店に嬉々として向かう。そんな二人の様子を、「上半身だけ前にのめった及び腰」で、「下半身だけ窓から遠ざける」と百合子は笑う。だが帰国に際して、買い集めたポルノ雑誌を置いていこうと弱気になるふたりに対して、「十五ドル」で買ったと聞いて、即座に持ち帰ると言い張り出す。とにかくユーモラスな描写が印象的な一冊だ。旅先で昼行灯ぶりを発揮する泰淳は、百合子よりもよほど飼い犬めいた挙動を示していると思うのだが、そんな夫に対して百合子は意外なほど優しい。あとがきで語られる通り、これが泰淳にとっては最後の海外旅行となった。ポルノ雑誌で騒ぎ立てるふたりをよそに、百合子はこんなことを綴っている。

そんなことを聞いても、私は白人と暮らしてみたいとは思わない。アジア人と暮らしていてよかった。力学変化より化学変化が好きだ。体温が同じのとき──そのときの微妙な変化がいいと思う。体温といっても、体温計で計った三十五度とか三十六度とかいうあの熱ではなくて、体熱というか、内臓や粘膜の持っている熱。体という字ではなく軀という字の熱。


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