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麻生田町大橋遺跡 土偶A 147:水路のボトルネック

豊橋市牟呂町の三ツ山古墳から牟呂外神町(むろとがみちょう)の牟呂用水に架かる無名橋に戻りました。

牟呂外神町の無名橋上から下流側を眺めると、右岸(下記写真右手)が土手に変わり、土手だった左岸が少し段差が下がって、高水敷風の土手に変わった。

そして、左岸に沿って設置されていたガードレールが右岸と同じ鉄製の縦格子柵に変わっている。
逆に右岸に延びている縦格子柵が途中からガードレールに変化した。

牟呂外神町の無名橋から下流200m以内に架かっている神宮寺橋に移動。
その橋上から上流側を眺めると、左岸(下記写真右手)の護岸壁が途中から正方形のコンクリート・ブロックを斜めに組んだ石垣に変わり、高水敷は幅20cmほどに変わった。

右岸(上記写真左手)の護岸上のがードレールは再び左岸と同じ縦格子柵に戻っている。

神宮寺橋から下流160m以内に架かっている真裏口橋に移動。
橋上から上流側を眺めると、途中から護岸の土手が両岸ともコンクリートで覆われ、右岸(下記写真左手)の20mあまり上流の高水敷に分岐のためと思われるコンクリートボックスが設置されている。

そのコンクリートボックス脇の水路には段差があるのか、波が起きて真裏口橋まで続いている
護岸上の左右の縦格子柵は白いガードレールに変わり、その白いガードレールも真裏口橋のすぐ上流で左右とも水色にペイントされた三本の鉄パイプを横に並べたガードレールに切り替わっている。
左岸(上記写真右手)の牟呂用水沿いにあった歩道は姿を消している。

一方、下流側を見ると、10mあまり下流にガードレールを欄干に流用した牟呂水神町の無名橋が架かっている。

右岸(上記写真右手)の高水敷は7mほど横幅が倍に広げられており、2段の石段が設けられ、広げた高水敷に降りられるようになっている。
こうした幅の広い高水敷が設けられているのは牟呂松原幹線水路で初めてのことだが、高水敷が広げられた理由が不明だ。
真裏口橋上流側で起きた波は下流の無名橋下まで続いている。
両岸の水色のパイプのガードレールは無名橋の手前から白い波板のガードレールに切り替わっている。

真裏口橋から下流の無名橋に移動。
橋上からすぐ上流の真裏口方向を撮影したのが下記写真だ。

牟呂水神町の無名橋のすぐ上流に、久しぶりに浮子を繋ぐための紐が両岸に渡されていた。
無名橋の下の水路が片側だけ迫り出してボトルネックになっているので水流が速くなっていることに対応する救難用(もしくは作業用)の紐ではないかと思われる。

無名橋上から下流側を眺めると10mあまり下流の右岸高水敷に分岐のためと思われるが、目立たないコンクリートボックスが設けられていた。

牟呂水神町 無名橋から200m以内に架かった大海津橋(おおかいづばし)に移動。
大海津橋から上流側を眺めると、水路は17mあまり上流で右にカーブしており、両岸に渡した紐に浮子が付けられている。

ここでも、紐のすぐ上流の高水敷が広げられており、やはりの救助(もしくは作業用)の紐だろうか。
ここの広げられた高水敷では降りていくための石段も入り口も設けられていない。
大海津橋のすぐ上流脇の高水敷にはステンレスの小さなハンドルを持つ水門が設けられていた。
かなり新しいものだが、この水門は牟呂用水の水を高水敷内の用水に給水するためのものなのだろうか。
高水敷内の水を止める水門は存在してなく、牟呂用水と高水敷内の用水が直接結ばれる初めての場所だ。
両岸のガードレールは白いガードレールと水色のガードレールが交互に使用されている。

大海津橋上から下流側を眺めると、橋のすぐ下流に調整弁を持つグレーにペイントされた水管が通っているが、それ以外の牟呂用水に変化は無い。

大海津橋の下流140mあまりに架かっている水色の太いパイプを欄干に持つ牟呂大西町の不明の橋も見えている。

牟呂大西町 不明橋のすぐ上流で牟呂用水の水路幅がボトルネックになっており、不明橋のすぐ向こう側(下流)で水路は右に折れている。
右に折れていることから、このコーナーには土砂が堆積しやすいため、意図的に水路にボトルネックを設置することで水路の流れを速くして、土砂が堆積しないようにしているようだ。
それにしても用水路には様々なテクニックが注ぎ込まれているものだ。
もっとも設計が難しいと言われる下水道を設計するテクニックが流用されているようだ。
この無名橋のすぐ上流側脇にも黒い水管が通っている。

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陽がかなり傾いてきていました。ここから牟呂用水の終着点までは1.4kmあまりとなりました。陽が落ちるまでに終着点に到達できるのでしょうか。

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