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御用地遺跡 土偶 51:「和志」の起源

岡崎市西本郷町にある和志取神社(わしとりじんじゃ)の主祭神、五十狭城入彦皇子(いさきいりひこのみこ)の陵墓が和志取神社の北西490m以内にあることが判明したので、この梅雨の合間を縫って、向かいました。

●後頭部結髪土偶

1MAP和志山古墳.

矢作川(やはぎがわ)右岸の段丘上に築かれた和志山古墳は岡崎市内では唯一の宮内庁治定陵墓で、つまり五十狭城入彦皇子の墓であると公式に認定されている前方後円墳だった。

1B五十狭城入彦皇子墓板書

この古墳は前方部を西南西に向けている。
墳丘に登ってみるなど不可の古墳であり、墳丘を確認するのは航空写真でも樹木が繁殖していて無理な状況にある。
宮内庁治定陵墓と言っても、宮内庁治定被葬者が実際の被葬者とは限らないのが宮内庁治定被葬者なのだ。
和志山古墳の被葬者はこの地を治めていた首長もしくはその親族の墳墓である可能性が高いという説がある。
そもそも、五十狭城入彦皇子の時代は古墳時代の前の弥生時代とみられているのだから。
下記写真は南西側の一般道から撮影した和志山古墳。

1和志山古墳

同じ一般道から前方後円墳のある段丘を見上げた景観。

2B和志山古墳陵

周囲は住宅に囲まれている。

同じ南西側に墳墓の麓まで上がって行ける石段が設けられていて、麓に上記の板書きが設置されている。

2五十狭城入彦皇子墓

石段を登って行ってみると、登り切ったすぐ先にロープが張られて立ち入り禁止となっており、そこから石垣上に玉垣が巡らされた方形のプレーンな空間を望むことができた。

3五十狭城入彦皇子墓

方形の空間は3段の石段を持った土壇となっており、その中央にすべて円柱で構成された、これもプレーンな石鳥居が建てられていた。
他の宮内庁治定陵墓に準じた形式と言えます。
しかし、そこからも生垣などに遮られ、墳陵は視認できなかった。
自分の立っている場所は以下の『和志山古墳実測図』によれば、★印の部分だ。

4B和志山古墳実測図

この一帯には古墳数基からなる和志山古墳群が分布しており、和志山古墳はその主墳となっている。
和志山古墳の規模は以下の通り。

●丘長:約60〜80m(現存約58m)
●後円部 直径:約38〜40m
     高さ:約5m
●前方部 長さ:20m以上
     幅:20m以上
     高さ:2.5n以上

現在、和志山古墳周囲は宮内庁の管理下にあるが、現在も曹洞宗の芙蓉山(ふようざん) 蓮華寺(れんげじ)の敷地内に存在するようだ。
築造年代は出土埴輪から4世紀末~5世紀初頭と推定され、墳丘表面は葺石で覆われ、円筒埴輪列の存在が認められているという。

段丘を降りて、蓮華寺に向かった。
この寺院は以下の記事で紹介したように、

『和志取神社社記』の中に以下のようにあり、

明治二十一年四月九日蓮華寺内で和志取神像が発見された 延喜年間の作と伝えられる木製の座像で本神社に鎮め祀ってある

蓮華寺は和志取神社の社名に関わる神像が発見された寺院だった。
曲がりくねった路地に入って行き、門柱を通り抜けると、右手の石垣の上に堂々たる二層式の山門が立ち上がっていた。

4芙蓉山 蓮華寺山門

門の奥には本堂が覗いており、山門の向かって左手の回廊には涎掛けをもらった通常より大きな石仏がズラリと並んでいた。

愛車を門前に駐めて、山門をくぐると、広い石畳の表参道が本堂に向かって延びていた。

5芙蓉山 蓮華寺本堂

その本堂の向拝屋根は銅葺き屋根に瓦葺屋根を重ねた、観たことの無いものなので、本堂前まで観に行くと、案の定、蟇股と唐破風飾りに手の込んだ浮き彫りが装飾されていた。

6芙蓉山 蓮華寺本堂蛙股

蓮華寺は寺伝によれば、神亀5年(728:奈良時代)、行基(下記写真)が諸国を巡る途中この地に和志王山薬王寺を建て、自ら薬師像を彫り施薬したのが始まりとされている。

『続日本紀』によれば、行基がこの地に和志王山薬王寺を建てた2年後の天平2年(730)、行基は平城京の東の丘陵で数千人から多い時には1万人の観衆を集めて説教し、妖言を吐いたことで、朝廷から民衆を惑わしているとされた。

現在の最も人気のある政治家でも辻説法で1万人は集まらない。
行基は当初、その活動が朝廷から弾圧を受けたものの、この頃から行基を中心とした集団の活動が大きくなっていき、朝廷は民衆を惑わしているとする裁定を撤回せざるを得ない状況になっていった。

それから10年後の天平12年(741)、行基を大衆が支持する波は広がって行き、逆に朝廷は東大寺大仏(盧舎那仏)建立に行基のパワー(勧進)を利用するため、聖武天皇自らが行基と会見を行うまでになっていった。
その前夜、行基は岡崎にやって来ていたことになる。

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行基と言えば、役行者(小角:飛鳥時代の修験者)の追っかけとして知られ、役行者の開いた山に次々と入山して修行し、寺院を開基していったことで、知られる名僧です。
その寺院が廃れた時代に同じ山を巡って、行基の開基した寺院を再興して歩いたのが空海
(主に平安時代の僧侶)でした。
空海の関わった寺院は真言宗寺院となりますが、薬王寺に密教の不条理な遺物は全く見られませんでした。これには建武2年(1335:鎌倉時代)に蓮華寺が兵火に遭って焼失し、再興された時点で禅宗である曹洞宗に改宗したことが原因だと思われます。

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