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麻生田町大橋遺跡 土偶A 178:両岸の龍神社

岡崎市丸山町の水火倭(みかわ)竜宮之宮のある円形の場所から脇の森の中に降りる通路がありましたので、やって来た道を戻らずに、1本陸側の道を辿って愛車の場所に戻ろうと、その通路に降りました。

岡崎市 竜宮渓谷
岡崎市 竜宮渓谷 乙川龍神めんぽうづ社/用水取水口/丸岡堰堤

40m近く、森の中の荒れた道を辿ると、森が帯状に切れている場所に出た。
目視はできなかったのだが地図を見ると、ここは下記航空写真の「用水取水口」であることが判った。

岡崎市丸山町 用水取水口

現在の用水取水口は乙川(おとがわ)との合流部分に土を盛られ、半分ほどが塞がれていた。

岡崎市丸山町 用水取水口

なぜ用水路の合流部分を半分、塞いでいるのか、理由が思いつけない状況になっている。
用水路の河口の半分を塞いでいるので河口部分は小さな湾のようになっているのだが、その湾に面した場所に2基の水門を持つ樋門が設けられていた。

岡崎市丸山町 用水路河口部樋門

上記樋門は用水路河口部を半分塞いでいる土の上から撮影したものだ。
樋門の上は通路になっているので、用水は短い暗渠になっているが、その通路脇は土手が設けてあり、土手の上には草色のワイヤーネット塀が巡らせてあるので、その塀の先は開渠になっているのだと思われた。

岡崎市丸山町 乙川 丸岡堰堤

この用水脇から内陸側に向かって森の中の広い道を歩いて、愛車を駐めてある神明宮に向かって歩いているつもりだった。
すると、広い道の途中に脇に向かって延びるびる通路が分岐して森の中を通っていた。
その通路の先から水の流れる音がしていたので、その水路を観るためにその通路に入って行った。
その通路の先に急な下り傾斜になっている場所があり、その土手の下にはコンクリートの堰堤(えんてい)が設けられていた。
堰堤に続いているコンクリートの傾斜部分は斜角が45度くらいあり、つかまる樹木のある場所までしか降りられなかった。
その傾斜の左手の水面下には、やはりコンクリート製の暗渠の出口が堰堤に沿って少し突き出していた。
この暗渠はさっきの樋門の用水から分岐したものだろう。
暗渠の出口の上には暗渠になる前の開渠の時代の樋門を通す溝を切ったコンクリートの柱も残っている。
ところで現場では、この目の前の川を見て乙川からの用水路にしては大きいなと思っていた。
森で視界が閉ざされているので、乙川がU字カーブを描いて目の前に曲がって来ているとはまったく思っていなかったのだ。
堰堤に下る傾斜の入り口部分に『丸岡堰堤』というタイトルの石板がコンクリートに埋め込まれていた。

岡崎市丸山町 乙川 丸岡堰堤 定礎

丸岡堰堤の定礎のようだ。
定礎には着手年度や各部の寸法が刻まれていたが、肝心の河川名が記されていなかったので、この記事を書くまでは乙川であるとは思っていなかった。
この記事を書くために航空写真で丸岡堰堤が確認できたことから、ようやく乙川であることが確認できたのだ。
徒歩では乙川から離れる方向に向かって歩いているつもりだったのだが、何のことはない、乙川に沿って歩いていたのだった。

結局、かなり大回りしたものの、特に目を惹くものに遭遇することもなく、神明宮内の愛車の元に戻った。
偶然、乙川の右岸に沿って、現在の能頭(のうづ)、かつての雄能頭(おのうづ)を歩いたことになったのだが、雄能頭は昔から「野々宮」と呼ばれ、伊勢神宮で奉仕した斎宮を育成する場所であったことが、記録に残っているという。
丸山町 神明宮は野々宮の一部であった可能性があるし、丸山町 神明宮の南側には森を共有する圓妙山 宗徳寺(そうとくじ)が存在する。
現在は日蓮宗の寺院になっているが、野々宮の一部であった時代には神明宮と神仏習合した寺院だった可能性がある。

2度目になる乙川龍神めのうづ社に向かった。
砂利が敷き詰められた広い駐車場に愛車を入れて、社務所の奥(北)に向かうと、下記写真の西向きの一ノ鳥居は朱が塗り直されていた。

岡崎市岡町 乙川龍神めのうづ社 一ノ鳥居

上記写真右手の建物が社務所で、一ノ鳥居の奥に並ぶ2基の朱の鳥居は社務所の裏面に向かって並んでいる。
その2基の朱の鳥居のうち、手前の鳥居がニノ鳥居で、奥の鳥居が乙川の淵を神体としているとみられる鳥居だ。

一ノ鳥居をくぐってニノ鳥居に90度向き直ると、正面にあるのが乙川龍神めのうづ社だ。

岡崎市岡町 乙川龍神めのうづ社 二ノ鳥居/社号標/社

ニノ鳥居のすぐ先、右手の笠を持つ社号標には、ただ「めのうづ」と刻まれている。
乙川龍神めのうづ社の裏面は対岸の水火倭竜宮之宮を向いているとみることもでき、水火倭竜宮之宮も乙川龍神めのうづ社の方を向いているのではないかと思われる。
その両社の距離は180mほどだ。

宗方三女神の祀られた乙川龍神めのうづ社の前で参拝したが、その基壇の足元には乳白色の石英が置かれている。

岡崎市岡町 乙川龍神めのうづ社

この石英は水火倭竜宮之宮とレイラインで結ばれている鏡山神社の観音堂に置かれていた石英と同じものだ。

左:乙川龍神めのうづ社石英 右:鏡山神社観音堂石英

石英は以下のように乙川の淵(竜宮渓谷)に露出している場所が存在する。

岡崎市岡町 乙川龍神めのうづ社 乙川 淵の石英

鏡山神社の石英は鏡山神社の麓の乙川で採れたものなのか、あるいはこの一帯、竜宮渓谷で取れたものなのか、元宮のあったこの竜宮渓谷の淵から採取されたものなのか、情報が無い。

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石英の中でも六角柱状で無色透明なものは「水晶」と呼ばれる。石英の産出地として、愛知県春日井市などが知られているといいますが、ここから春日井市までは38kmあまりです。その春日井市六軒屋町には乙姫につながる機具池(はたごいけ)の伝承が残っているといいます。乙姫伝承は様々な形態があって、岡崎市の乙姫伝承は機具とは結び付けられていないようです。ただ、機具の関わる伝承の中で、「淵」と結び付けられたものは静岡、長野ほか3県に見られるといい、「淵」と結び付けられている点ではここ竜宮渓谷と共通しています。

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