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伊川津貝塚 有髯土偶 18:弁財天と水路

前回と同じ2023年10月中旬、愛知県刈谷市小垣江町(おがきえちょう)の秋葉神社貝塚から北東4.7mあまりにある愛知県大府市(おおぶし)大東町(だいとうちょう)の神明社に向かいました。この2ヶ所の間には今辿っているレイラインの北側の起点になっている刈谷市(かりやし)の本刈谷(もとかりや)貝塚があります。初めて三河と尾張の境になっている境川(さかいがわ)を西側に超えました。

愛知県大府市大東町 神明社
刈谷市天王町 本刈谷貝塚/大府市大東町 神明社
愛知県大府市大東町 神明社杜

大東町 神明社は周囲を畑地に囲まれた住宅街の1画にあった。
西側を南北に流れる延命寺川と東側を南北に流れる砂川に挟まれ、中洲の状態になった住宅街の1画だった。
延命寺川、砂川ともに、ここから360mあまり南の下流で境川に流れ込んでいる支流だった。
大東町 神明社の社地は広くはないが、社叢に覆われ、社地の北東側は砂川の高い堤防に囲われ、平地になっている西側は80%くらいが空色の金網フェンスに囲われている。

愛知県大府市大東町 神明社 杜

社頭は南々西を向いており、短い表参道は6段の傾斜の緩い石段で始まり、石段上に石造伊勢鳥居。
鳥居の先には、この神社唯一の社殿が設置されていた。

石段を上がってコンクリートでたたかれた参道に入り、鳥居をくぐると、すぐ先の左右に1対の常夜灯。

愛知県大府市大東町 神明社 常夜灯/覆屋

突き当たりの建物は瓦葺入母屋造棟入で、前面の全面に木部を紫鳶色に染められたガラス格子戸が閉め立てられていた。
社殿前で参拝したが、境内にもネット上にも情報の見当たらない神社だった。

殿内を見ると、殿内の床には石垣で囲われた中をコンクリートでたたいた壇が設けられ、中央に銅板葺素の社。

愛知県大府市大東町 神明社覆屋(境内社弁財天/神明社/境内社秋葉神社)

向かって左に弁財天、右に秋葉神社が祀られていた。
3社を収めた覆屋になっている。
両側の小祠は銅板葺の屋根も素木の木部もよく焼けている。
神明社の脇には意味不明の時計が奉納されていた。

弁財天社の両側には陶器製の対になった狛犬が置かれているが、片側の狛犬の頭が欠けている。

愛知県大府市大東町 神明社 境内社弁財天

弁財天がここに祀られているのは、ここが中洲状の地形になってることと関係があるはずだ。

弁財天絡みで神明社周囲の河川の状況を観ることにした。
神明社の西脇を流れているのは延命寺川だが、地図を見たら、なぜ「延命寺川」という名称なのか判った。
ここから1kmあまり上流に「新池」とう池があり、その新池の南東100m以内に天台宗の古刹、宝龍山 延命寺が現存していたのだ。

大東町 神明社/延命寺川/弁天橋/宝龍山 延命寺

『知多四国霊場会『知多四国巡礼』』には以下の情報が見られる。

本尊は延命地蔵菩薩。

鎌倉時代に盛祐によって創建された。かつては七堂伽藍を備えた大規模な寺院であったとされるが、応仁の乱により焼失し、比叡山延暦寺の慶済法印が再興した。その後、緒川城主である水野家の出身である真慶が水野家より寄進を受けて基盤を整える。江戸時代には、尾張藩より20石余の黒印の安堵を受けた

『知多四国巡礼』』(歴遊舎、2010年)

神明社の北側には橋が掛っているが、橋名が「弁天橋」となっている。

愛知県大府市大東町 延命寺川 弁天橋

神明社内の弁財天と、この弁天橋は関係があるのだろう。
天台宗寺院も弁財天を奉るが、現在の池の名称「新池」の名称からすると、新池はこの周辺が水田池となって以降に設けられたものである可能性が高く、現在の延命寺には弁天堂は存在しない。
しかし、延命寺には大師堂が現存することが判った。
愛知県は弘法大師のお膝元であり、知多四国八十八ヶ所霊場第4番礼所である延命寺の前身は真言宗寺院だった可能性がある。

この辺りで、延命寺川の川幅は10m以内。
弁天橋上から延命寺川の上流側を見てみると、40m以内に無名橋があり、橋上は実質、駐車場になっていた。

愛知県大府市大東町4丁目 延命寺川 弁天橋上流側

無名橋すぐ上流から延命寺川は左にカーブして西に向かっている。

この辺りの延命寺川河床はコンクリートでたたかれているのだが、弁天橋上流側のすぐ下の河床には方形に河床がカットされた部分があって、砂利が露出している場所があったが、水の透明度は高いことが判った。
旧い橋脚跡だろうか。

大府市大東町4丁目 延命寺川 無名橋(上記地図内B)上流側

一方、弁天橋上から下流側を見ると、東側(下記写真左手)の住宅街の方が高くなっているのだが、潅木に覆われて見えない。

大府市大東町4丁目 延命寺川 弁天橋下流側

反対側の東側(上記写真右手)に広がっているのは餅米の水田のようだ。

神明社東側を流れる砂川の堤防上に上がってみた。
ちょうど神明社の社殿の裏面に無名橋(上記地図内A)が掛っていたので、上流側を眺望。

愛知県大府市横根町砂原 砂川 無名橋上流側

上記写真左側が神明社(大東町4丁目)で、河床を含めた右側が横根町砂原。
左岸(東岸)側(上記写真右手)の横根町砂原は畑地になっている。
この部分で川幅は7mほど。

砂川は名前のように河床の35%ほどに土砂が堆積した天井川になっている。
大東町4丁目側より砂川河床の方が高く、堤防の高さは両岸とも3mほどある。
砂川は上流2.7kmあまりの大府市横根町名高山に設けられた増田池から流れ出ている川だ。

新池(延命寺川)/増田池(砂川)

増田池は新池の数倍の大きい池で大府市の公式ウェブサイトの「公園の概要」には以下のようにある。

今からおよそ350年前の江戸時代初期に「ため池」として整備され、上池である「平戸池」と下池である「増田池」を併せて『二ツ池』と呼んでいます。

増田池は愛知用水からの水の供給を受け豊かな水量による利水の機能と、大雨などの災害時には池上流からの水を貯える治水の機能を持っています。
                           (※=山乃辺 注)

『大府市 「公園の概要」』https://www.city.obu.aichi.jp/shisetsu/bunka_sports/park_yokoneyama/1005246/index.html

一方、無名橋Aから下流340mあまりで砂川は境川に合流している。

大府市横根町砂原 砂川 無名橋下流側

上記写真のように、下流側は砂川の両岸とも住宅街になっている。
砂川の行手を左右に横切っている明るいエメラルルドグリーンの高架は国道366号線だ。

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大東町 神明社のある大府市はトヨタ自動車の発祥地である刈谷市の北側に面していることから、自動車産業が盛んな工業都市です。一方で東北部の丘陵部では愛知用水を利用した近郊農業が行われている都市でもあるようです。

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