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伊川津貝塚 有髯土偶 28:空海の来訪に始まる

愛知県名古屋市南区呼続(よびつぎ)の稲荷山(いなりさん) 長楽寺内の南側に位置する清水稲荷殿前から中央部に位置する本殿に向かって北上すると、谷を渡った左側に石仏を集めた一画が設けられていました。

愛知県名古屋市南区呼続 稲荷山 長楽寺
名古屋市南区呼続 稲荷山 長楽寺 石仏群/本堂/立木観音堂/石門

50体以上あると思われる石仏の間には潅木、笹、シダ類が生え、自然に埋もれようとしている

愛知県名古屋市南区呼続 稲荷山 長楽寺 石仏群

人類は石をさまざまなものに使用してきたが、こうした石仏群に遭遇すると、日本列島では、いったいどれほどの量の石材が、こうした仏像を刻むことに使用されたのか、思いを馳せずにはいられない。
インドの仏像に影響を与えたギリシャ彫刻は古代には石ではなくテラコッタ(素焼きの焼き物)が主な使用材だった。
その後、紀元前5世紀・4世紀には大理石が使用されるようになったが、そのオリジナルはブロンズ像だったとさている。
仏像がギリシャ彫刻の影響を受けたのはギリシャ彫刻のモチーフのほとんどが人像か神像というもっとも高度な技能を必要とするものだったからだ。
どんなに美術に疎い人間でも、人の顔の美醜を見分けることができる。
しかし、素人が龍や唐獅子などの美醜を見分けるのは難しい。
それは日常で見慣れていないものだからだ。
ギリシャ人が人像か神像をモチーフとしたのは美しい彫像を製作するのにもっとも難しいモチーフだったからだ。
だから、人型をしている仏像がギリシャ彫刻の影響を受けたのは自然の流れだった。

長楽寺の石仏の中でその他の石仏を率いるように配置されている石仏があって、その石仏の前には拝所が設けられていた。
その石仏が以下の不動明王像だった。

名古屋市南区呼続 稲荷山 長楽寺 不動明王石仏

こうした石仏を見ると、ギリシャ彫刻ではありえない表現に満ちている。
例えば、剣を本当にこうしたポーズで持つことができるのかやってみるといい。
しかし、こうした表現は浮世絵ではよくみられる表現なのだ。
つまり、日本の仏像はギリシャ彫刻の持つリアルさよりも「実際とは異なるけれど、らしく見える」リアリティーを追求したものだからだ。
頭が実際の人間より大きいのも人体の中で顔がもっとも重要だからだ。
男性が美しい女性の顔(中でも瞳)を見つめずに彼女の腕や脚に向かって愛を語るのをフェチズムと言う。

ところで、ここで奉られている不動明王と向かい合う形で土まんじゅうが設けられており、その頂上に十一面観世音菩薩石仏が奉られていた。

呼続 稲荷山 長楽寺 十一面観世音菩薩石仏

●松の木から十一面観世音菩薩が彫り出された経緯
この土まんじゅうと十一面観世音菩薩石仏に関する記述ではないかと思われる以下のような記述が『長楽寺動物霊園』ウェブサイト「長楽寺の歴史」にある。

かつて境内にあった樹齢600年余りの松の木、1798年(寛政10)にその木の下に観音石像を安置して霊木としていた。
その後、霊木が枯れかかった時、一人の老人に弘法大師のお告げがあり、立木のまま十一面観世音菩薩の尊像を彫刻したもの。

『長楽寺動物霊園』ウェブサイト「長楽寺の歴史」
https://chourakuji.or.jp/history/

文中の「観音石像」が土まんじゅうの上の十一面観世音菩薩石仏ではないかと推測したのだが、未確認。
上記情報に、ネット上の情報を補足すると、松の木の下に観音石像を安置したのは十七世智海和尚の霊夢によるものだったという。
大正十年(1921)に松の木が枯れかかったので伐採を計画すると、清水尊天が現れ、この松には観世音菩薩様が降臨されているので、立木のまま十一面観音像を彫刻して供養するよう告げたという。
文中の「一人の老人」とは長楽寺に来山した遍路のことらしい。
その遍路は松の木に祈祷して去ったというのだが、このことを清水尊天に伺うと、その老人こそが弘法大師の化身であるとお告げがあったという。
日本の旧い文章は主語がはっきりしないものがあるが、おそらく、複数のお告げを受けたのは当時の住職なのだろう。
長楽寺寺伝によれば、弘仁十二年(821)に空海が呼続(よびつぎ)に巡礼に訪れた際に見た夢のお告げで、呼続の浜に七堂伽藍を創建。
真言宗戸部道場寛蔵寺と命名して「鎮守清水叱枳眞天(だきにてん)」を安置したという。
つまり、長楽寺の前身である真言宗寺院を創建したのが空海だったのだ。
現在の長楽寺は曹洞宗寺院に改宗している。

石仏群の奉られた一画の北側に長楽寺の本堂は位置していた。

稲荷山 長楽寺 本堂

瓦葺切妻造平入で、むくり屋根の向拝屋根を持つ公家屋敷のような建物で、白壁にガラス窓が付いている。
この本堂の本尊は前身の寛蔵寺時代の本尊と思われる大日如来となっている。
大日如来は密教の仏だからだ。
曹洞宗の主尊は釈迦如来とされている。

本堂前から脇参道を北東に20mあまりで、上記に紹介したお告げによって立木のまま彫刻された十一面観音像の奉られた立木観音堂が存在した。

稲荷山 長楽寺 立木観音堂

立木観音堂は尾張三十三観音 第四番札所となっている。
本瓦葺入母屋造で白壁の2層の建造物だが、堂前に巨木が幹を伸ばしていた。
観音堂横には白地に「立木観世音菩薩」と墨書きされた幟が林立している。

立木観音堂の巴瓦には立葵紋が入っていた。

稲荷山 長楽寺 立木観音堂 巴瓦 立葵紋

葵紋は徳川家の許可がなければ使用できない紋だが、これは長楽寺前身の寛蔵寺と習合していた富部神社(とべじんじゃ)の記事でも紹介したのだが、

徳川家康の四男松平忠吉が病気平癒の祈願をしたところ回復したことから、その報恩のために許可されたものだ。

立木観音堂内には中央に松の木から立木のまま彫り出された立木観音(十一面観世音菩薩)が奉られていた。

稲荷山 長楽寺 立木観音堂 立木観世音菩薩像

像高は3mほどか。

脇侍として向かって右には三頭八臂(はっぴ)の馬頭観音像。

稲荷山 長楽寺 立木観音堂 馬頭観世音菩薩像

この周辺に塩付街道(しおつけかいどう)の起点があることから、重い塩の運搬中に寿命を迎えた馬は多く、それに対応したものだろう。

同じく脇侍として向かって右には熱湯観音が奉られていた。

稲荷山 長楽寺 立木観音堂 熱湯観世音菩薩像

「熱湯観音」とは初めて聞く名称で、この観音像固有の名称ではないようなのだが、ネット上にも説明している情報が見当たらない。
伊豆には観音温泉があるように、温泉に関わる観音なのか茶の湯に関わる観世音菩薩なのか。

立木観音堂の前にはテントの下に目守弘法大師が奉られていた(ヘッダー写真)。
等身の石仏像だ。

本堂と立木観音堂の間に長楽寺の山門に当たる石門が存在した。

稲荷山 長楽寺 石門

本来ならこの門が長楽寺の入り口なのだが、東海道から入ってくると、ここが出口になってしまう。

(この項終り)

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稲荷山 長楽寺周辺の地域は松巨嶋(まつこじま)と呼ばれる海に浮かんだ島だった時代があります。つまり、濃尾平野でもっとも標高の高い場所でした。島だった時代には舟と徒歩を交えて移動することで京と行き来する人たちの交通の要所になっていたことから、さまざまな要人の来訪の記録が残っています。その中には飛鳥時代の持統天皇も三河行幸の帰途の大宝二年(702)11月13日に尾張国に行ったとあります。その「尾張国」とは松巨嶋のことだと思われます。もちろん弘法大師来訪の前の時代です。持統天皇は京に戻ると12月13日に病を発し、22日に崩御しています。松巨嶋に来訪した、わずか39日後のことでした。

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