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麻生田町大橋遺跡 土偶A 86:牟呂松原幹線水路 水源

麻生田町大橋遺跡のある豊川市を主に流れる2つの水路を辿ることにしました。
豊川市金沢町のおゆき弁財天に参拝した時、すぐ脇を牟呂松原
(むろまつばら)幹線水路が流れていました。その後、豊川市牟呂市場町の市杵嶋神社(いちきしまじんじゃ)に参拝しようと考えた時、市杵嶋神社脇にも牟呂松原幹線水路が流れていることに気づきました。しかも、牟呂市場町 市杵嶋神社のある場所は、牟呂松原幹線水路が柳生川に合流する終点部だったのです。
そこで、ただ、牟呂市場町 市杵嶋神社に参拝に向かうのではなく、牟呂松原幹線水路の水源から市杵嶋神社を経由して、さらに柳生川を下り、三河湾まで出てみようと考えたのです。この用水路の周辺に私見では土偶と関係があると考えている龍神、水神、弁財天など、水と関わりのある神が祀られている可能性を感じたからです。

●麻生田大橋遺跡土偶A

この記事で辿る水路は便宜的に「牟呂松原幹線水路」で統一しているが、この水路は途中まで牟呂幹線水路と松原幹線水路が一緒に束ねられた形で流れているものの、途中から2つの幹線水路に分かれ、柳生川に合流しているのは牟呂幹線水路の方なので、水源から終点まで辿るのは実質、牟呂幹線水路ということになる。

まず、水源を地図で探してみると、湧き水ではなく豊川の取水源から始まっていることが判った。

1MAP牟呂松原幹線水路

2MAP牟呂松原幹線水路水源

上流部では並行して同じ堤防内を流れている二つの用水は下記のようにさほど旧いものではない。

松原幹線水路(松原用水)起源=永禄10年(1567)
牟呂幹線水路(加茂用水→牟呂用水)起源=明治17年(1884)

しかし、松原幹線水路の上部の水路は2,000〜500万年以前には湖だった場所の湖岸線に当たるようだ。
下記のように海進地図で海進20mほどの状況を作ってみると、ちょうど松原幹線水路の取水源あたりまで海進し、松原幹線水路を当てはめてみると、松原幹線水路の上部75%ほどは、ほぼ海岸線に沿って延びていることが判る。

3MAP海進20mMAP

また堤防などが築かれていなかった古代には暴れ川である豊川が氾濫すれば、ちょうど、海進20mに近い海面下の範囲が洪水被害に遭ってきたのだと思われる。
南海トラフ地震で20mの津波が起きれば、浸水する可能性のある地域でもある。
そして、豊川は牟呂松原幹線水路水源あたりまで逆流することになるのだろう。

まずは地図上で牟呂松原幹線水路の水面が露出している左岸から対岸に架かっている海倉橋(かいくらばし)に向かった。

1海倉橋左岸入口

ここはすでに豊川市の北東部に隣接する新城市(しんしろし)に位置している。
海倉橋は全長180m×幅6mほどの橋で、上流側(写真右側)には6棟の上屋が並んでいる。
つまり、橋の下には5枚の水門が存在することが判る。
橋の左右の親柱には左手に羽衣を身につけた女性。

2乙姫海倉橋豊玉ヒ売

右手には波に乗ったお椀が装飾されている。

3海倉橋お椀

これに関しては以下の案内板が設置されていた。

一鍬田(※ひとくわだ)の海倉淵(※かいくらぶち)は竜宮につづいているといわれます。
昔から村に人の集まることがあって、お膳やお椀が欲しい時、必要なだけ紙にかいてこの淵に流すと、やがてお膳とお椀が紙に書いた数だけ浮いてきたということです。                            (※=山乃辺 注)

海倉淵は海倉橋のすぐ上流に位置しているようだ(上記2番目の地図参照)。
底が確認できないほど深い淵だということから、海とつながっているという伝承が生まれたのかもしれない。
海倉橋下に水を堰き止める牟呂松原頭首工(とうしゅこう:幹線水路に水を引き込むために水を貯める堰)が設けられたことで、海倉淵はさらに深くなっているはずだ。
この竜宮椀貸伝承から海倉橋の親柱のモチーフの女性と波に乗るお椀が装飾されたのだろうが、伝承には具体的な竜宮の主は登場しないので、この女性に名称は付いていないようだ。
ただ、話の内容からするとお椀をくれるのは竜神ということになるが、親柱の像が竜宮の女性だとすると、一般的には乙姫、日本神話などからすると豊玉毘売(トヨタマヒメ)が該当するものと思われる。
この地域で「お椀」というと、ここの村と川筋に沿って移動した木地集団との交流が伝承に反映されているのかもしれない。

愛車を海倉橋に乗り入れて、上流側を見下ろしたのが以下の写真だが、写真右手あたりが海倉淵のある場所のようだ。

4豊川上流側海倉淵

一方、牟呂松原頭首工が設けられたことで、下流側は川床が露出し、以下のような状況になっている。

5豊川下流側

海倉橋の下流側から撮影した牟呂松原頭首工が以下だ。

6牟呂松原頭首工

具体的に牟呂松原幹線水路への取水源を探すと、海倉橋上流側の左岸にやや小型の樋門上屋が1棟存在していた。

7牟呂松原幹線水路 樋門上屋

おそらくこの樋門から取水しているのだと思われるが、ここには立ち入ることはできなくなっていた。
水面下で取水した水は暗渠を通って牟呂松原幹線水路へ流れ出ているようで、取水の様子は視認できなかった。

海倉橋上から開渠になっている牟呂松原幹線水路の始まり側を見下ろすと、牟呂松原幹線水路の最初の開渠の北側に石碑などが設置されている場所があったので、愛車でそこに降りて行った。
そこはちょっとした公園になっていて、「松原用水 牟呂用水」と刻まれた「世界かんがい施設遺産」に登録したという、訳の判らない記念碑が西向きに設置されていた。

8松原用水牟呂用水石碑

脇のプレートには以下のようにある。

ICID・CIID
《国際かんがい排水委員会》
 
日本愛知県豊橋市、豊川市、新城市(しんしろし)にまたがる豊川水系に位置する松原用水・牟呂用水は、400年以上前に、人造石を使用した建設への先進的な利用や、自動転倒ゲートの設置、舟の航行とともに河道に対して直角に堰(せき)を設置する一文字石(いちもんじせき)などの優れた技術が設計されている。
よってICID世界かんがい施設遺産に登録する。

北向きに設置された牟呂松原頭首工之碑もあった。

9牟呂松原頭首工之碑

上記写真、左手のサーモンピンクの施設が海倉橋。
右手石碑裏面に伸びる白いガードレールと、その向こう側の石垣の間の谷底に牟呂松原幹線水路の開渠があり、その水面が見下ろせる。

一方、豊川沿いには東向きに設置された石祠を祀る小さな神社があったが、社名などに関する情報は見当たらなかった。

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オーム真理教事件の時にも、教団が水道施設に猛毒を混入させる可能性があるという風聞が流れましたが、こういう施設は日本が戦争を始めれば、敵工作員にとってはテロ対象になるので、主要な施設は立ち入れないようになっている場合が多い。しかし、プロのテロリストなら簡単に侵入できるようになっている、この矛盾。ここにも平和日本現象は表面化している。

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