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中条遺跡 土偶A 20:磐座のペトログラフ

このページでは刈谷市築地町(ついじちょう) 熊野神社の拝殿脇の磐座にペトログラフらしきものを見つけたので、それを紹介します。

●中条遺跡 土偶A

熊野神社拝殿の西脇には地表から太い幹を伸ばしている3本のスダジイが枝葉を広げていた。

1築地町 熊野神社スダジイ

上記写真の真ん中の幹には幹割れが起きているのか、テープが巻かれている。
スダジイの根元を見にいくと、根は繋がっており、1本の樹木らしかった。
スダジイは高木の常緑樹で、そのドングリは食用に適していることで知られ、縄文時代には重要な食料であったとみられている。
そして、海岸近くに出現することの多い、このスダジイは縄文期に海岸線がこの北西200m以内に迫っていたことを裏書きしている。

ところで、スダジイの根元脇には巨石があって、巨石の周囲を縁石のように自然石で囲われていた。

2築地町 熊野神社磐座

おそらく磐座なのだろうと思われた。

1MAP築地町 熊野神社磐座

周囲を囲った石も巨石と同質の石なのだが、並べ方に関しては古代のものとは思えず、近年のものと思われた。
ただ、奇妙なことに周囲を囲った石は巨石の周囲だけを取り囲んでいるだけではなく、少し輪が南に延びていた。
この巨石の、思いつく角度を数カット撮影して帰宅した。

3築地町 熊野神社磐座南西面

3日後、この時撮影した熊野神社の写真を見ていると、磐座の一面に人為的なものと思われる記号が記されていることに気づいた。

4築地町 熊野神社磐座北東面

5築地町 熊野神社磐座ペトログリフA

最初に気づいたのは「縦棒の無いR」だった。
上記の写真に記入した白線のように明快なものではなく、黒っぽい太い線が途切れ途切れに続いているものなのだが、全体を見ると、一連の帯線であるように見えるものだ。
しかし、否定的な目線で見ると、この石を運ぶ時、引きづられてできた傷にも見える。
写真からはそれ以上のことが確認ができないので、翌日、再びこの石を見に行った。
そして、この「縦棒の無いR」は傷でできた窪みではなく、平面に水に溶いた墨で記入されたものの痕跡であるように見えた。
なぜそう思うのかというと、この部分を拡大してみると、以下のように黒ずんだ部分の方が周囲の岩肌より風化が少なく、むしろ微かに盛り上がり、ツブツブのエッジは尖っているからだ。
以下の写真の「A」部分は上記写真の「A」部分を拡大したものだ。

6築地町 熊野神社磐座ペトログラフUP

微かに盛り上がっているのは、「縦棒の無いR」も同様だった。
風化が少なく、盛り上がっているのは墨を書き入れたことで、周囲より風化から保護されたものと推測できる。
Wikipediaは筆と墨が宝墩文化(ほうとうぶんか)や商(シナ地域の古代国家)の時代に使用されたという説を紹介しているが、宝墩文化と商は日本で言えば縄文時代後期に相当する文化と国家だ。
燃え残った木の枝で白いものにマーキングできることは世界中の古代人が気づいていただろうが、縄文人は朱を装飾に使用していたので、朱丹が物を保護したり防腐することに気づいていた。墨も同様だと思われる。
それはともかく、実は薄い楕円形の点は他にも存在するのだが、比較的明快なものだけ10コ、取り上げてみたのが上図だ。
この図は敷地内に存在するものと敷地外に存在するものを表記した地図のようにも見える。
日本列島には、例えば宮島(厳島神社のある弁財天の祀られた島)のケーブルカー発着場にある巨石のペトログラフのように、シュメールやバビロニアで使用されていた記号と同じ記号が刻まれている石が各地に存在する。
しかし、この「縦棒のないRと楕円形の点群」はそれらとは別種のものだと思われる。
「縦棒のないRと楕円形の点群」の他にオレンジ色で表記した「米」のような記号も見えるが、これも表面が微かに盛り上がっているのは同様で、彩陶記号もしくは甲骨文字の「六」を表すものではないかと思われる。
この角度から見たこの石は左側面、右側面、下面が割り取られているように見える。
この石は時間帯によって、紋が見え易かったり、見えにくかったりするので、6度見に行っているのだが、5度目に見に行った時に見つけた紋も存在する。
上記写真の裏面にそれは記されていた。

7築地町 熊野神社磐座ペトログラフ

「M」に見える凹凸は節理(規則性のある割れ目)の存在する石であれば、自然にできる場合がある。
問題はその左上にある「X」の記号だ。
この記号も墨で書いたものが残っているように見え、しかもその全体の形が筆で書いたかのような形をしているのだ。
現時点では縄文遺跡からの筆の出土は聞かないので、筆が使用されているなら、古墳時代以降に記されたものである可能性も考えられる。
この記号「X」は、同じ刈谷市の本刈谷貝塚で出土した土製品(首飾りのパーツ)にも見られる紋であり、

関係がある可能性も考えられる。

6度目にこの石を観に行ったところ、何とスダジイの3本の幹のうち、テープの巻かれていた幹(写真真ん中の幹)が巻かれたテープのすぐ上で無くなっていた。
驚いていると参拝にやって来ていた地元の70代の男性に声を掛けられた。
聞いてみると、先日の台風14号で折れてしまったという。
しかも、何者かが折れた幹の空洞に火を着けてボヤになったらしい。
石のことを聞いてみると、その男性の幼少期からあったもので、周囲を囲った石も当時からあったといい、この石に登ってはいけないと、子供たちには言われていたという。
つまり、磐座であるということだ。
そして、隣にもう一つ石があったという。
それで、周囲の石の輪が無駄に南に延び、空白がある理由が解った。
しかも、石が二つとなると、天子神社(あまこじんじゃ)の磐座と同じ意味を持つものである可能性があることになる。

男性が石に記されている記号に気づいているか、確認してみると、話題になったことのないもので、知らなかったという。
この男性とは30分以上、話し込んでしまったのだが、話していると、中年の和服の女性が通りかかった。
それはこの熊野神社の宮司家の御内儀だった。
それで、この女性にも石の紋のことを確認してみたのだが、知らなかったという。
つまり、ペトログラフ(石に記された記号)であるなら、小生が第一発見者ということになるのだ。
ただし、ペトログラフという概念のない時代には話題に上らなかっただけで、気づいていた人間はいたかもしれない。
もう一つ存在したという石がどうしたのか聞いてみたが、お二人とも、いつ無くなり、どこへ行ったのか分からないとのことだった。
御内儀にこの熊野神社の烏の飾瓦が八咫烏(やたがらす)なのか聞いてみたところ、やはり八咫烏であることが確認できた。
ただし、足が3本造形されているかどうかに関しては怪しい感じだった。
ところで、3人で密になって会話をしていたのだが、誰もマスクをしていなかった。

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こうなってくると、天子神社(あまこじんじゃ)の磐座も記号が記されていないか、再度、調べに行く必要が出て来た。
そこで、5日前に天子神社に向かった。
しかし、天子神社の磐座は縁石も含めて、綺麗さっぱり無くなり、その場所に土俵が設置されていた。
この地域では年末が近づいて来ると、土俵が設置される日本の神社古来の風習が残っている。

それにしても、磐座が出されたり、仕舞われたりするなんて聞いたことがない。

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