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麻生田町大橋遺跡 土偶A 129:消滅した牟呂松原幹線水路

神田川を南岸に渡り、再び愛知県森岡取水場脇で地表に現れた牟呂松原幹線水路(むろまつばらかんせんすいろ)の右岸(この部分では西岸)に沿った道を下流(西)に向かうと、豊橋市石巻本町大坪に位置する大壷橋に到達しました。

大壷橋上から上流側を眺めると、左岸に愛知県、森岡取水場の建物群が見える(下記写真では右手)。

水路内を見ると、用水は姿を消しており、牟呂幹線水路と松原幹線水路の間の分割壁は大壷橋の上流20mあまりの場所で水面から浮上していた。

一方、下流側を眺めると、すでに二つの幹線水路の間の分割壁は水没しており、橋から30mあまりの場所で分割壁は初めて姿を消し、幹線水路は初めて1本だけになり、ここまでに時折、表示されていた「牟呂用水」となった。

消滅した分割壁の下流20m以内に樋門が見えている。

ところで、ここで姿を消した松原幹線水路はどこへ行ったのか。
小生は牟呂松原幹線水路が分割壁で2分されていることから、ここまで2分された左岸側の水路が牟呂幹線水路、右岸側が松原幹線水路と見てきて、最後は牟呂用水になることは知っていたので、水路が1本になる場所に「松原」という地名があるのだろうと考え、分割壁が存在する間は地図の表記を無視して「牟呂松原幹線水路」という名称を使用してきた。
しかし、地図でチェックしても、分割壁が無くなったこの周辺に「松原」は見当たらない。
松原が存在しないとなると、ここまで存在してきた右岸側の幹線水路は何だったのか。
それで、牟呂松原幹線水路の水源から牟呂松原幹線水路周辺に「松原」が無いか、改めて辿ってみた。
すると、牟呂松原幹線水路の豊川沿いの水源の豊川下流3.5kmあまりの場所に豊川市松原町が存在した(最上段の地図参照)。

牟呂松原幹線水路からは松原用水が分岐し、水田に沿って松原町に向かっている。

この部分を記事にしたのが下記の記事「90:本宮山眺望」だった。

つまり、松原用水が分岐して以降の幹線水路は「牟呂用水」と呼ぶのが正しく、ところどころ現場に表示されていた「牟呂用水」は「牟呂松原幹線水路」が成立する以前の旧い表示版ではないことが確認できた。
間違いの多いGoogleMapも、「牟呂用水」の表記に関しては間違えていなかった😅

そこで、問題になるのが「牟呂用水」になって以降も水路が2本存在する必然性だ。
これは片方が最下流に存在する牟呂(豊橋市)への水路、もう片方が松原(豊川市)のように、各所で地元に配水されるための水路と解釈するしかないのだろう。
最初に築造された牟呂用水の一部が最初に松原に分水されたことから、「牟呂用水」は名称が「牟呂松原幹線水路」に変更され、その後、順次排水先が増え、その度に水路名を変更するのは煩雑であることから、「牟呂松原幹線水路」だけ名称が残されたのかもしれない。
牟呂松原幹線水路の水源である頭首工(とうしゅこう:取水目的で河川を堰き止めた場所)の名称も、場所は新城市(しんしろし)であるにも関わらず、配水される豊川市の「松原」名を使用した「松原頭首工」となっている。

記述を豊橋市森岡町に戻す。
水路が1本になって最初の樋門は森岡町に存在した。
この樋門は上流側(下記写真手前)にまず独立した水門が1基設置されている。

見たところ、丸いハンドルが付いていて、水門の上げ下げは手動式になっているようだ。
この水門と、奥の2基の水門を持つ設備の間は10mほどがプールになっている。
写真では確認しにくいのだが、左岸側に分割壁で区切られた50cm幅ほどの用水路が通っている。
2基の水門のある方は門上に機械ボックスと思われる箱が付いており、電動式になっているようだ。
3つの水門の金属部分はすべて銀色にペイントされている。

下流側から2基の水門を見ると、水門では2つに分かれている水路も水門を過ぎると、もう分割壁は設けられていない。

やはり写真では確認しにくいのだが、左岸側(上記写真右側)の用水路は30cm幅ほどになって続いている。
水門が2基に分かれているのは1基では水門が大きく重くなり、電動設備の建造及び、運用コストが大きくなってしまうためだろう。

上記写真では手前にも丸いハンドルを持つ小さな水門が設置されているのが解る。
この水門は写真左手に並行して流れている神田川の分流から取水するための水門だと思われる。

森岡町樋門から牟呂用水沿いの道を下流に向かったのだが、この道には、ここまでにもあったように、森岡町樋門の脇で車止めが設置してあり、歩行者や自転車などしか入れなくしてあった。
小生の愛車はもちろん通り抜けられるので、この道を利用させてもらった。

森岡町樋門から50m近く下ると、仮設のような無名橋があった。
その橋上から上流側を眺めると、水路はカーブしているものの、樋門の一部が覗いており、左岸(下記写真右端)に分割壁で分けられた細い用水路が並走している。

水量は多く、樋門上流側ではまったく動いていなかった水が動いている。
神田川からの水がかなり入っているようだ。

一方、下流側の牟呂用水は以下のような状況で水の流れは勢いがある。

上記の無名橋から牟呂用水を下流に140mあまり下ると、左岸側(下記写真右側)に空き地が広がっている場所に出た。

地形を見ると、水の流れをスムーズにして土の堆積を防ぐために不要な部分を埋め立てたものであることが推測できる。
住宅の建てられている左岸側とこちらの右岸では大きな高低差がある。

同じ場所から下流側を見ると、生土橋(なまどばし)が架かっており、対岸に登っていく通路が見えている。

牟呂用水沿いの道から生土橋前に出る部分の両側には車止めの白いポールが立てられており、写真では確認できないが、この二つのポールには鎖が張られていた。
ただし、小生はポールの外側を何無く刷り抜けることができた。
対岸の空き地を見ると、金網塀が巡らされ、立ち入りできないようになっている。

生土橋上に移動して、上流側を見ると、下記写真のように金網で封鎖されたコンクリート造りの無名橋が架かっている。

この橋の両岸は土が盛られており、現在はコンクリートの壁で閉ざされていた部分に登っていく道が存在していたことが推測できる。
もしかするとこの橋がもともとの生土橋で、旧生土橋を封鎖して、現在の生土橋が築造された可能性がある。

現在の生土橋から下流側を眺めると、牟呂用水と左岸側の用水路(下記写真では見えにくい)が真っ直ぐ下流に向かっていた。

牟呂用水沿いの右岸にはこれまで通り、道が続いてるのだが、生土橋より下流の入り口は車止めに鎖が張ってあり、小生の愛車でも立ち入れないようになっていた。

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上記写真では左岸(上記写真左側)は高台には見えませんが、かなり落差の大きくなった高台が聳えていて、その上に稲荷山古墳1号墳がありました。

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