麻生田町大橋遺跡 土偶A 150:高水敷内水路の終焉
豊橋市牟呂大西町の素盞男神社から80mあまり南西で牟呂用水に架かった同じ牟呂大西町の無名橋2に向かいました。
牟呂大西町 無名橋2上から上流側を眺めると、高水敷の幅は牟呂松原幹線水路としてはこれまで最大幅のまま変わっていなかった。
牟呂大西町 無名橋2の下流側右岸には無名橋2を渡っている道路と牟呂用水右岸に沿った道路との角地に自然石で囲った三角地があり、堂が祀られていた。
記憶に残っていないのだが、堂内を撮影した写真が残っていないので、奉られていたものは地蔵菩薩ではなかったかと思われる。
堂の隣の敷地には塀などのまったく無い状態で、真新しいタンクが建造されているのだが、現時点で、地図には何も表記されていない。
当初、都市ガスのタンクかと思ったのだが、周囲に柵が設けられてなく、しかも、ここは通常、ガスタンクや原油タンクなどの危険物の設置されない住宅地だった。
それで、上記地図の中にタンク図も描き込み、名称も「貯水タンク」ではないかと推測した。
周囲に柵が無いことから推察すると貯水されているのは飲料水ではないと思われるのだが、もしかすると、撮影の時点ではまだ稼働していないタンクである可能性もあった。
無名橋2上から下流側を眺めると、水路は左に折れており、その折れた場所から左岸(下記写真左手)の高水敷の幅が80cm幅から40cm幅に変化している。
下流70mあまりの場所の牟呂大西町には無名橋3が掛かっているのが見えている。
無名橋2から無名橋3に移動して、上流側を眺めると、大きな変化があった。
右岸(上記写真左手)に樋門を持つコンクリートボックスが設けられていて、上流5.6km以内の豊橋市旭町から始まり、
延々と続いてきていた、内部に暗渠の用水を持つ右岸の高水敷が、ここで終了していることに気づいた。
上記地図で確認できるように、右岸のタンクのある敷地前で終了した高水敷内用水と牟呂用水から取水された水はタンクのある敷地の地下を通り抜けて、南西の用水に流れているものと推測できる。
2つの水路の間に存在することから、タンクは貯水タンクと見られるのだが、浄水装置のありそうな建物はタンクの周囲には見られないので、単に組み上げて貯水するためのタンクではないかと思われるのだ。
一方、下流側を眺めると、タンクの脇から右岸(下記写真右手)の高水敷は幅が20cmほどになり、左岸に沿った道路は無名橋3を境に消滅して住宅地に変わり、蛇行している。
この日から5日後に、牟呂大西町 無名橋3の東南東210m以内に位置する牟呂中村町の作神社(さくじんじゃ)に向かった。
作神社の社頭は南側の道路に面しており、南々東を向いていた。
境内には入り口から砂利が敷き詰められ、石造八幡鳥居が表道路から10m近く引っ込んだ場所に設置され、鳥居からコンクリートでたたかれた表参道がまっすぐ奥に延び、鳥居の正面20mあまり奥に瓦葺の拝殿らしき建物が見えている。
鳥居が八幡鳥居なのは、ここが『豊橋百科事典』によれば牟呂村八幡末社であったとあり、そのことと関係しているのかもしれない。
鳥居の向かって右手前に「作神社」と刻まれた社号標が設置されている。
社頭脇に愛車を駐めて、石鳥居の前に立つと、鳥居に細いしめ縄が下がっているのに気づいた。
大きな房が両端に付いているのが珍しい。
鳥居をくぐって拝殿前に至ると、切妻造平入で舞良戸の閉め立てられた拝殿が50cmほどの高さの土壇上に設置されていた。
拝殿前に上がって参拝したが、祭神は『豊橋百科事典』によれば倉稲魂命(ウカノミタマ)となっている。
つまり、伏見稲荷大社を総本社とする稲荷神社だ。
屋根の巴瓦には北々西210mあまりに祀られていた牟呂大西町 素盞男神社と同じ丸に五つ瓜唐花紋の神紋が入っていた。
拝殿から降りて左側に回ると、これも牟呂大西町 素盞男神社と同じ形式の幣殿、本殿が連なっていた。
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作(サク)神社の名称から祭神は大山咋神(オオヤマクイ)の「咋(サク/クイ)」に由来する社名だろうかと想定していたのだが、違っていた。三河地区では現在では他の神が祀られている形になっていても、最初に大山咋神が祀られていた場所である場合があり、そんな場合には現在は境内社山神社として残されている場合がある。牟呂大西町 素盞男神社と違い、作神社には境内社がほとんど見当たらなかったのだが、ただ1社だけ、屋根の四方が欠け落ちた不明の石祠がコンクリートブロックの上に祀られていた。もしかすると、それが大山咋神を祀った石祠である可能性もありえないことではなさそうだ。