中条遺跡 土偶A 6:空海石仏
刈谷市内でもう1ヶ所、弘法大師の関わったと思われる井戸を見つけたので、そこに向かったのですが、そこに到着する直前で、派手な六角堂と遭遇したため、このページではまず、その六角堂のある場所を紹介します。
刈谷市には重原(しげはら)の三ッ井戸以外にも弘法大師の関わる井戸が存在することが判ったので、その井戸山泉龍寺(いどさんせんりゅうじ)、通称〈井戸弘法〉に向かった。
井戸弘法は重原の北北東2.5km以内に位置している。
愛車で国道23号線から北東に向かっていると、井戸弘法に着く直前の左手に六角堂を持つ寺院の前を通りかかった。
六角堂の正体が気になったので、寄っていくことにした。
門柱の間を抜けて、左手の砂利の敷かれた駐車場内に愛車を入れた。
目の前には「三弘法第二番 御自作見送弘法大師霊場」と刻まれた霊場碑があった。
「見送弘法大師」に関しては『弘法大師一代記』(第17節 お見送り)に以下のような出来事が紹介されている。
(※高野山の)御廟を後にした一行ですが、後ろに誰か人の気配がします。ふと振り返ると弘法大師空海が手を合わせて見送っています。帰って行く姿に合掌しているのです。
「見送りをしなくてはいけないのは私たちの方です。どうぞ、そのままで。」
何度も固辞しますが、ずっと見送ってくださいます。
「空海さま、どうして私たちのような者を見送ってくださるのですか。」
答えて曰く
「私はあなたたちを見送っているのではない。あなたたちの持っている仏の心に手を合わせているのだ。」
※=山乃辺 註
この時の弘法大師の姿を弘法大師自らが彫像した見送り弘法大師像がここに奉られているという。
弘法大師レベルの人間が自分の偶像を制作するわけがないので、おそらく高野聖の創作した話だと思われる。
それはともかく、この見送弘法大師像に対して隣の知立市(ちりゅうし)には見返り弘法大師像が奉られているらしい。
そして、ここの山門の向かって右の柱には「三河三弘法第二番 大位山 西福寺(さいふくじ)」、左の柱には「卍 三河新四国 第二番・西福寺」の看板が掛かっている。
山門前に教育委員会の制作した案内書があって、そこにはこうあった。
寛正年間(1460~1466)阿弥陀如来を本尊とする雲涼院(真言宗)と弘法伝説にある〈見送り大師〉を本尊とする西福寺(天台宗)の両寺が兵火により焼失したため、草堂(雲涼院の跡地が蓮台と呼ばれていた)に両寺の本尊をまつっていた。慶長元(1596)年、両寺を合併再興し現寺名となる。
三河三弘法の第2番霊場。道を隔てて当時の奥の院にあたる井戸山泉龍寺があり、井戸弘法ともいわれ、弘法大師の命日には両寺とも参拝者が多い。
なんと、目指していた井戸弘法は、ここ西福寺の奥の院だったというのだ。
山門をくぐると、山門の正面20mあまりの場所に本瓦葺の本堂が立ち上がっていた。
ここに見送弘法大師像が奉られているということなのだ。
ちなみに、ここに寄る切っ掛けとなった六角堂は聖観世音菩薩を祀った観音堂だった。
西福寺本堂前と脇には非常に雑多なものが奉られていたが、個人的に唯一興味を惹かれたのは六角堂内に祀られた立派な仏像ではなく、本堂西脇にある太子堂の、さらに西脇に奉られていた仏塔というか、石のブロックを積み上げたモニュメントだった。
一見、焼却炉かと思ったのだが、塔頂に阿弥陀如来石仏が乗っており、
塔内に岩屋のような石室が設けられている。
その石室の中に坐像石仏が納められていた。
近寄ってみると、石室内に立方体の石のブロックが置かれており、その上に座布団を敷いた像高15cmくらいの弘法大師石仏と、その傍らに完全に赤化した杉の枝の挿された真鍮の花立が乗っている。
岩屋で修行する弘法大師を再現したものだと思われる。
この大師像は頭部の目鼻が完全に磨耗して失われていたが、体の方はほとんど風化が見られず、最初からどこかの石祠内などに奉られていた石仏のようだった。
おそらく、多くの参拝者が撫でたことで目鼻は失われたのだろう。
この弘法大師像は、この寺院で最も小さくて古い石仏だと思われた。
立方体の上に三角錐が乗っている組み合わせ。
大師の足元の真鍮製のトレイに賽銭が2枚入っていたので、銅製のワンコインを1枚追加させていただいて陽数に整えた。
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井戸弘法に向かった結果、かつてその入り口に当たるここ西福寺で、こんな石仏と出会えるとは予想外でした。