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伊川津貝塚 有髯土偶 23:十一面観音の化身=玉照姫

愛知県名古屋市南区笠寺町の笠寺七所神社(かさでらしちしょじんじゃ)社頭を出て、笠寺七所神社の東側に位置する市場町 秋葉神社に向かいました。「市場町」は現在は存在しない町名で、笠寺七所神社の東に位置する字名「市場」として残っている名称です。おそらく、笠寺七所神社社内に祀られている新町 秋葉神社と同じような事情で、市場町 秋葉神社は笠寺七所神社神職の住宅の庭の中に位置しています。ただ、市場町 秋葉神社の出入り口は一般道に直接面しており、笠寺七所神社とも神職住宅とも独立しています。

愛知県名古屋市南区笠寺町 市場町 秋葉神社/大門 秋葉神社/天林山 泉増院
名古屋市南区笠寺町 市場町 秋葉神社

市場 秋葉神社の社頭は東南東を向いており、3mほどの高さの石垣上に登る石段が設けられている。

愛知県名古屋市南区笠寺町 市場町 秋葉神社

瑞垣内の入口には瓦葺の神門が設けられ、瑞垣はブロック塀になっている。
瑞垣前右手に「市場町 秋葉神社」の社号標、左手には石灯籠。
石灯籠は秋葉神社が神仏習合していたことを示すものとも言える。
背後に見える軒下が白壁の建物は笠寺七所神社の社務所。
その社務所の奥の高木の社叢の場所は、やはり古墳の可能性があるとみています。

石段を登って素木の格子戸越しに神門内を見ると、瑞垣内中央に石垣を組んだ基壇上に瓦葺き切妻造棟入で前面に格子戸を閉めたてた素木造の秋葉神社が祀られていた。

名古屋市南区笠寺町 市場町 秋葉神社

瑞垣上には火炎をデザインしたものと思われる装飾瓦が設置されている。

笠寺町 (市場町 秋葉神社)

秋葉神社は火伏せの神を祀った神社なのだ。

神門の鬼瓦には秋葉神社の神紋である楓紋(かえでもん)が装飾されているが、これは噂にあるように楓というよりも天狗の団扇だ。

市場町 秋葉神社 神門鬼瓦


市場町 秋葉神社から北北東260m以内に位置する大門 秋葉神社に向かった。

愛知県名古屋市南区笠寺町 市場町 秋葉神社/大門 秋葉神社/天林山 泉増院

大門 秋葉神社は笠寺町大門の地元に祀られている秋葉神社だ。

名古屋市南区笠寺町大門 (大門 秋葉神社)

社殿の形式は基本的に市場町 秋葉神社と同じだが、門が新しく、格子戸はアルミサッシになっている。
社号標は無く、石灯籠が左右対になっている。

格子戸越しに塀内を見ると、中央に祀られている秋葉神社は銅板葺素木造の社で石段を持つ石垣を組んだ基壇上に瑞垣が巡らされていた。

南区笠寺町大門 (大門 秋葉神社) 社

瑞垣には赤錆びているが、鉄の扉が取り付けられていた。
ここが尾張製鉄族の地であることの証だが、他の地域なら、撤去されてしまうものだろう。

大門 秋葉神社から180mあまりに位置する天林山 泉増院(せんぞういん)に向かった。
天林山 泉増院は 旧東海道を挟んだ向かい側に位置する真言宗智山派の天林山 笠覆寺(りゅうふくじ)にかつて存在した宿坊である十二坊の一つである塔頭(たっちゅう:宿坊)だ。
現在も笠覆寺の塔頭は周辺に泉増院を含めた4院が現存している。

愛知県名古屋市南区笠寺町 (天林山 泉増院)

泉増院の瓦葺の山門は北々東を向き、石段の麓には「當山安置笠寺由緒 玉照姫(※たまてるひめ)」の標石が建てられ、銅板葺朱塗りの献灯ゲートから山門に向かって表参道左脇には白地に「笠寺由緒 玉照姫」と墨書きされた幟が並んでいる。

名古屋市南区笠寺町 (天林山 泉増院) 献灯ゲート〜山門

祭りの際には献灯ゲートと右側には幟と同じ文言の献灯が並ぶはずだ。
ここ笠寺の地名の由緒は笠覆寺にあるが、笠覆寺の寺院名は玉照姫の行った行動に由来している。
この行動に関しては泉増院の絵馬になっているので、下記絵馬の紹介の部分で説明する。

愛車は塩付街道(しおつけかいどう)の路地に駐めて献灯ゲートをくぐると、石畳の参道が山門の奥に20mあまり延びており、突き当たりには生年の干支に応じた守本尊8体の石仏を奉った堂がある。

天林山 泉増院 山門

参道は守本尊堂前で右に90度折れ、そこにある小門をくぐって西北西に向かっている。

小門をくぐると、左手の潅木と右手の寺務所に挟まれた参道があるが、ここがこの寺院のもっとも広い場所で、祭の際は参拝者で溢れて賑わう。

天林山 泉増院 境内

小門から参道の突き当たりにある玉照堂までは40m以内だ。

笠寺に参拝にやって来る人たちの目的は笠覆寺(通称笠寺観音)だが、代々笠寺に住む人や、通の人々は泉増院に参拝する。
その泉増院に祭りの時以外に参拝にやって来る人たちのほとんどが玉照姫にあやかって自分や親族が玉の輿に乗る(通常の縁結び・夫婦円満も)願いをするのが目的だ。

その玉照姫神像が奉られているいるのが以下の玉照姫堂だ。

天林山 泉増院 玉照堂

大きな石造線香立てが設置されているのは本堂ではなく玉照堂だけだ。
玉照姫神像は8年に1度の開帳となっており、次の開帳は2030年になる。

紺桔梗の神前幕に白抜きされているのは徳川三つ葉葵紋。
泉増院は8歳の時の徳川家康(松平竹千代)と織田信広(信長の異母兄) の人質交換が行われた場所であり、尾張徳川家の姫君の奥女中たちからも厚い信仰を受けてきた寺院である。

参道は玉照姫堂前で左に折れ、本堂に向かっている。

境内には絵馬掛けができていた。
始めて見た絵馬が以下だ。

天林山 泉増院 絵馬

この絵馬の内容を『玉照姫の由来』に基づいて以下に紹介する。

美濃の国野上に住む豪族、美濃守重満(みののかみしげみつ)の娘玉照姫は、美しいことで知られていた。
ある日、成高という鳴海の長者が玉照姫の評判を聞きつけ、彼女を手に入れようと、鳴海の家に連れ帰った。
成高には妻がいたのと、古参の召使いの中では針のむしろの状況で、玉照姫は女中として働き、いじめにもあったが、信仰の力で耐えた。
ある雨の日、玉照姫は路傍に奉られた十一面観世音菩薩を見て哀れに思い、自分の笠を使って仏像の頭を覆った。
泣きながら「衆生の厄難を除く、との誓願空しからざれば、あわれ現世の苦を免れしめ、未来の果報を得さしめ給え」と祈った。
その場を通りかかった藤原兼平公
(鎌倉時代中期に摂政・関白を務めた人物)に見染められ、上京して妻となり、兼平公の公私を支えた。
晩年、過去の厄難を乗り越えられた感謝と、亡夫兼平公の菩提のために星崎(笠覆寺の前身となる寺院のあった地/塩付街道起点のある地)に下向し、観音のお堂と僧坊を建立し、大供養を行った。

天林山 泉増院『玉照姫の由来』をもとにした約文(by 山乃辺 時久)

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塩付街道を挟んだ向い斜め前にも笠覆寺の十二坊の一つである塔頭、天林山 東光院が存在します。東光院の本尊である不動明王像は紀州熊野神宮の本尊だったもので、伝教大師(最澄)の作と伝わっているものです。また、東光院は宮本武蔵が尾張藩に仕官するために尾張に来訪した折に宿坊とした場所でもあり、数ヶ月から数年滞在したと伝えられています。

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