今朝平遺跡 縄文のビーナス 47:石動彦か大己貴命か
県道33号線から愛知県豊田市桑田和町(くわだわちょう)の石動神社(いするぎじんじゃ)に降り、拝殿の右手に迂回して本堂を観に向かいました。
拝殿の脇に回ると、苔の生した巨石があった。
高さは2.5mほどで、巨石の左脇、拝殿の真後ろには石段が設けられている。
巨石の左脇、拝殿の裏面に回ると、石の上に板碑が建てられていることに気づいた。
巨石の石段側はカットされていて、この石から切り出した石の矩形や直線の痕跡が残っている。
巨石の麓にはこの石から剥奪した石の欠片が落ちていた。
石の上に建てられた板碑には大きなフジツボが剥離したような白い跡が無数に残っているが、よく見ると、人為的な装飾にも見えるのだが、人為的な装飾にしては向かって右側の縁と碑頂には全面に入っているのに左側のの縁にはほとんど入っておらず、白い模様が重要な文字にひかかっていたりする部分がある。
それに板碑の左肩に地衣類が繁殖していたり、黒っぽい染みと明るい褐色の染みがない交ぜになって、ほぼ全面に入っていたりして、刻まれた文字が見えにくくなっているが、そもそもこの板碑の材料になっている石が、明るい小豆色という自然石ではあまり見たことのない奇妙な色をした石が使用されていた。
刻まれている文字は以下だ。
天照大神と豊受大神は下記記事の33号線の入り口に建てられていた石標の「伊勢両宮」に当たるから、その石標に刻まれていた「伊勢両宮〓〓神社遥拝地」の「〓〓神社」は「靖国神社」だった可能性があると思われる。
さて本殿に向かうと、石段の上は雑草で覆われており、すぐ先に鳥居、その奥の茂みの中に社殿が見えている。
鳥居は銅板屋根を葺いた両部鳥居で木部も銅板も黒ずんでいる。
鳥居に掛かった社頭額には黒い文字で「石動神社」とある。
鳥居に掛かった注連縄をくぐって奥に進むと、さらに石段が設けられ、その上に銅板葺切妻造妻入総素木の本殿覆屋が設置されていた。
拝所と奥の仕切りには朽木模様の壁代(横に長い白い幕)が張られている。
二つ目の石段を上がって覆屋前で参拝したが、壁代の奥には瑞垣が設けられ、奥には本殿が祀られている。
現在の桑田和町 石動神社の祭神は三河国一宮砥鹿神社(とがじんじゃ)と同じ大己貴命(オオナムチ)が祀られている。
しかし、本来の祭神は山岳信仰の神、石動彦(石動権現)だというから、明治維新に修験動が廃止され、戦後、桑田和町の氏子に山岳信仰の関係者が絶えて、変更されたものかもしれない。
砥鹿神社と石動神社はともに神体山を祀った神社である。
本殿に向かって左隣には素木の社が祀られており、社前にお札が置かれていたが、文字が読み取れなかった。
本殿を挟んで反対側に祀られていた1社も同じだ。
本殿覆屋の外壁には祭りの時に使用された神社饌物(じんじゃせんぶつ)のリストと配置図が残されていた。
(この項続く)
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桑田和町 石動神社の饌物リストの内容は我が町内の饌物リストとほとんど同じでした。わが町内は名古屋市内にあるので、戦前から地元に住み、農業をしていた子息である氏子と戦後我が町内にやってきたサラリーマンを中心にした氏子で神社に対する温度差があります。今週、来年の町内役員と祭礼委員の候補者を選出する会議が行われるのですが、サラリーマンを中心にした氏子たちは平日に町内のことに時間を割くのが難しいこともあって、いつも役員を引き受けることに後ろ向きです。さて、今週の会議はどうなるのやら。
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