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麻生田町大橋遺跡 土偶A 117:穂国造の遺産

豊橋市石巻本町に位置する馬越長火塚古墳(まごしながひづかこふん)の前方部は原型の一部が残っている部分もあり、削り取られてしまった部分もあり、果樹園になっている部分もあり、道路になっている部分もありと、様々な表情を見せていました。

馬越長火塚古墳の前方部は日当たりが良いので、生い茂った雑草が墳上を覆っていた。
草原の西の端に墳上に点在していた葺石(ふきいし)を集めて積んであった。
下記写真はその脇から後円部方向を撮影したもの。

ここにはコンクリートパネルに文字と写真を焼き付けた陶製のタイルをはめ込んだ下記の案内板が地面に埋め込まれていた。

《前方部の前端》
前方部の西半分は柿畑に大きく改変されていますが、発掘調査によって前方部の下半部が土の中に残されているとわかりました。
ここでは前方部の前端が見つかりました。また前方部の上で行われた「マツリ」に使われた須恵器の破片が、土から転落したかたちで出土しています。

上記の積まれた葺石の脇から後円部に向かうと、下記写真左手前のように、葺石を3本の棒で囲ってマーキングしてある場所があった。

この葺石は、ほかの葺石と一緒に集めないで、見つかった状況を見せているのだろうか。

現状の馬越長火塚古墳後円部は樹木が繁殖していて、後円部の稜線はまったく見えていない。

さらに後円部に寄っていって、前方部と後円部のくびれ部の少し南側に回り込むと、やっと後円部の頭頂に近い部分の稜線が見えた。

このくびれ部にも上記写真のように地面に案内板が埋め込まれていた。

後円部から離れ、前方部から降りて、前方部の南西コーナー下から、前方部を見上げたのが下記写真。

後円部は上記写真の右奥。
前方部の土手の一部に石で葺かれた部分が残っている。

このコーナー下にも以下の案内プレートが地面に埋め込まれていた。

《前方部南西コーナー》
ここは、前方部の南西側にあたります。柿畑として利用されたほか、道路によって削平を受けていますが、前方部コーナーの葺石が見つかりました。
葺石はコーナーに沿って曲がるように、列をなして敷き並べてありました。

前方部の一部に長方形の帯状に葺かれた石を残してある一角があった。

馬越長火塚古墳から出土したものは、多くのものが表面を磨かれて、当時の様子がよく解るように復元されている。

下記写真は勾玉など、馬越長火塚古墳から出土した各種玉類だが、メノウ製の勾玉が出土している。

メノウは石英などが火成岩や堆積岩の空洞中に沈殿して生成される鉱物。
日本列島では石川県から北海道に至る列島の緯度の高い範囲で算出し、中部地方の太平洋側での産出はほぼ無いということなので、交易によって三河にやって来たものである可能性がある。
勾玉の原型に関しては諸説あるが、この写真の勾玉の形状は胎児の形説より動物の牙説に近いものだ。
勾玉は縄文遺跡からも出土しているから、シナ地域に文明が成立する以前から存在するもので、道教由来説などありえない。
当然、シナ地域や朝鮮半島で見つかっている勾玉は倭人の製作したものか、日本列島から渡ったものだ。
古墳時代頃の勾玉は権力を象徴する装飾品とみられている。

馬越長火塚古墳群から出土したもので、評価が高いのが以下の金銅装馬具の棘葉形杏葉(ぎょくようけいぎょうよう)だという。

金銅装馬具の棘葉形杏葉は各地の古墳から出土しており、各地方の最高位の人物にヤマト政権が下賜したものとみられている。
馬越長火塚古墳の被葬者の記録は残っていないが、この杏葉から、馬越長火塚古墳の被葬者は穂国造(ほのくにつくり)に比定されているという。
つまり、馬越長火塚古墳の被葬者は馬を所有していたとは限らないのかもしれないということになる。

馬越長火塚古墳からは出土例が25例しかないという以下のような馬具の飾り金具である半球形飾金具も出土している。

この半球形飾金具も各地域の最有力者の所有するものだという。

下記のガラス製トンボ玉の中には国内ではほかに例が無い模様を意匠したものが存在するという。

そのガラス製トンボ玉を現代に復元したものが以下だ。

濃藍(こいあい)に金色を意識したオリジナルの模様をつけたもので、この地元で製作されたものである可能性がある。

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馬越長火塚古墳そのものも、そこから出土したものも、類型の少ないものや、ここ特有のものが見られ、馬越長火塚古墳群は愛知県ではかなり貴重な遺産であることが解ってきました。

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