見出し画像

麻生田町大橋遺跡 土偶A 7:お犬様の起源

この日は第一目的の豊川市炭焼古墳群を観終えたので、炭焼古墳群を通っている国道21号線周辺の神社をチェックしながら帰途に着くことにしました。

●麻生田大橋遺跡土偶A

国道21号線を西に辿ると、21号線の北側で炭焼古墳群4号墳の西南西3.1kmあまりの場所に「中山神社(お犬様)」と表記された神社が存在した。
この表記は小生がモーターサイクル・ツーリングで使用しているデジタル地図maps.meによるもので、Google地図ではただ「中山神社」となっている。
「お犬様」なんていう謎な表記があっては寄らずにはいられない。
下記の地図はnoteで使用しているWorld Topographic Mapに書き込みしたものだ。

1MAP中山神社

足山田町(あしやまだちょう) 中山神社は水田地帯に半島のように突き出した低い丘陵上に存在していた。
中山神社に向かい21号線を外れて、水田地帯の中を抜ける農道を走っていると、池があり、その一角にスダジイらしい樹木が1本だけ伸びていて、絵になるので撮影した。

1スダジイ?

この日は6月中旬のことで、周囲の水田には水が張られ、田植えが終わったばかりだった。
この場所は標高が高いことから、田植えも遅いのだろうか。

画像4

こうした水田に沿って森があった。
水田に向かって突き出た、その森の入り口に瓦葺の堂と常夜灯があった。

3弘法堂

堂内には白いよだれ掛けを与えられた4体の石仏が奉られていたが、中央の2体は弘法大師像なので、太子堂ということになるのだろうか。
周辺に真言宗寺院があったのだろうが、地図には見当たらない。

太子堂の右脇から森の中に向かう道があったので、森の入り口に愛車を駐めて、徒歩で森に向かった。
通路に入るとすぐ、通路左側に複数の石仏が並んでいた。
この中にも2体、弘法大師像が混じっている。

3石仏群

しかし、石仏はこれだけではなかった。
森の中に進んでいくと、道幅が広がり、2体がセットになった石仏が延々と並んでいた。

4山道

道は右手に茂る竹藪の落ち葉で埋まり、降ったり登ったり、うねっていて先が見通せない。
この延々と続く石仏を見ていると、廃寺になっているにしても何か密教寺院の痕跡が残っていると想像でき、中山神社の社頭と思しき場所があったが、中山神社を後回しにして、先に進んだ。
200m以上たどってみたが、同じような光景が続いているのみで、行き当たるものが無いので、あきらめて中山神社の社頭まで引き返した。

中山神社の表参道は上記写真の通路から登っていくように左手に枝分かれしており、入り口には左右一対の笹竹が立てられ、注連縄が張られていた。

5中山神社社頭.JPG

注連縄をくぐって、落ち葉で埋まった山道を進むとすぐに少し開けた場所に出たが、その奥の土手の途中に忠犬ハチ公のような神像が祀られていた。

6中山神社

神像の前脇には森の入り口にあった常夜灯と同じものが建てられ、神像は金属棒で組まれた櫓に桧の枝葉を葺いた覆屋の中に収められている。
中山神社は鳥居も神殿も存在しない神社だった。
数々の神社を巡ってきたが、地図に表記のある神社で、こうした神社は初めて遭遇した。
お犬様は頭部は秋田犬風だが、前脚がたくましく、山犬かもしれないと思った。
神像に使用されている石材は岡崎御影石だ。

7お犬様

お犬様神像の足元には丸いが一部の欠けている石と十円玉が奉納されていた。

8足元.JPG

お犬様に関する情報は現場には無く、ネット上に以下の情報のみがあった。

岐阜県の中山神社から犬の守護神の御分神をお迎えしたのが始まりという。

調べてみると、岐阜県恵那市の串原にある中山神社が総本社のようだ。
串原はウチの母方の曽祖母の実家のある地だ。
主祭神は広国押武金日命(ヒロクニオシタケカナヒ)、つまり第27代安閑天皇のことだ。
安閑天皇は尾張と関係の深い継体天皇の長男だが、継体天皇の後を受けて即位している。
安閑天皇の代には関東から九州までの屯倉(みやけ)の大量設置と、41ヶ所の屯倉の名が列挙され、これに伴う犬養部(いぬかいべ)の設置が記録されている。
「屯倉」とは全国に設置された大和朝廷の直轄地のこと。
「犬養部」に関して、現在は「犬を用いて屯倉の守衛をしていた職掌」という説が有力になっている。
「お犬様」の起源は、この犬養部にあると思われるが、お犬様神像の前脚のたくましさに関わると思われる別説も存在する。

江戸時代初期の朱子学派儒学者林羅山が国内で仏教が盛んになり、神道が廃れたことに危惧を抱き、国内の口碑縁起を訪ね歩き、これを『古事記』、『日本書紀』、『延喜式』、『風土記』その他に照らし合わせた書『本朝神社考』に安閑天皇の御霊を「修験道の蔵王権現(ざおうごんげん)と同じ」と記した。
このことから、明治初期の神仏分離によって、蔵王権現を祭神としていた神社の多くが祭神を安閑天皇に改めている。
蔵王権現は山岳信仰の修験道で祀られた神で、そのことから広国押武金日命の使いが「山犬」とされ、「お犬様」を山犬と見立てたことで、足山田町 中山神社の「お犬様」の前脚がたくましく表現されているのではないかというのが、小生の推測だ。

修験道は弘法大師が密教に取り入れた信仰であり、弘法大師自らも蔵王権現を祈り出したとされる修験道の開祖役小角(えんのおづぬ:役行者)の修行した山を訪ね歩いて修行を行い、その山々に寺院を建立している。

中山神社のすぐ裏山に江戸時代には存在しなかったものの、豊川用水西部幹線が流れているというので、観に行ってみた。

9豊川用水西部幹線上流側

田に水が入れられたばかりなので、水はほとんど流れていなかったが、美しい森の中を流れる静かな用水路で、カヌーで1日、森の中を抜けながら過ごすことができれば素晴らしいだろうなと思わせる水路と環境だった。

◼️◼️◼️◼️
蔵王権現を祀っていた神社が、現在は安閑天皇ではなく犬の神像を祀っているというのには驚かされたましたが、それには安閑天皇の歴史を第29代欽明天皇の朝廷が消去した可能性があることも関係しているように思われます。
531年ころ、安閑天皇と太子・皇子が共に薨去したという所伝が存在するようで、
安閑天皇と次代28代宣化天皇の2朝廷と第29代とされる欽明天皇の王朝は並立し、抗争があったのではないかとする説があるのです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?