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御用地遺跡 土偶 15:弘文天皇の所在

岡崎市に存在する弘文天皇陵とする伝承のある小針古墳(こばりこふん)の周囲には弘文天皇の関わる遺跡が存在するので、それらの遺跡を巡ることにしました。

●後頭部結髪土偶

小針古墳の南々東1.4kmあまりに弘文天皇を祀ったとされる大友天神社が存在するというので、そこに向かった。

1MAP大友天神社神明社

大友天神社のある一角は不規則に区画された住宅街となっているのだが、その不条理な区画自体が綺麗に区画整理された西大友町の住宅街の中に割り込むように組み込まれていた。
実際には不条理な区画が先に存在していて、後にその区画を避けて、新たな住宅街の区画が整備され、順次住宅で埋まった結果なのだろうが。
そんな住宅街の中で大友天神社は路地に面した側を主に生垣に囲われて存在していた。
ただし、社頭のある南東側だけは、ステンレス棒を通した高さが30cmほどしかない玉垣が張られていた。

1大友天神社社頭

石造の八幡鳥居は社頭の面した路地から少し引っ込んだ場所に設置され、「村社 大友天神社」と刻まれた社号標は鳥居の向かって左手の路地沿いにあった。
鳥居の正面奥、15mあまり先に狛犬を従えた瓦葺の拝殿が位置している。
社叢は薄いものの、拝殿の向かって左脇では2月の中旬ということで、桃の花が百花繚乱となっている。
鳥居をくぐって拝殿前に向かうと、床を1.5mほどに上げ、周囲に廻縁を設けた入母屋造の拝殿は特別なものではなく、拝殿の裏面に回ると、本殿も瓦葺だったが、最も多い流造となっており、こちらも高さ1.5mほどの石垣の上に設けられていた。

2大友天神社拝殿

明らかに川の氾濫を意識した建物だ。
板碑に刻まれた由緒書『大友天神社』には以下のようにあった。

 御祭神 弘文天皇(大友皇子)
 鎮座地 愛知県岡崎市西大友町字天神十番地

 由緒
往古 天智天皇の長子大友皇子は壬申の乱に会い 従者長谷部信次等と此の地に流偶し 草庵を結ぶ 皇子は「天性明悟にして雅より博古を愛ます」と懐風藻にあり
後に信次 皇子のために一祠を創建奉崇し その所在地を大友と云い 村落を長瀬村と呼ぶ 明治九年供進指定村社

この由緒書と社名の「大友」、社の存在する町名「西大友町」以外に、弘文天皇を忍ばせるものは特に見当たらない神社だった。
しかし、大友天神社の境内には弘文天皇が祀られているからこそ奉納された令和天皇御即位祈念瓦が展示されていた。

3令和天皇御即位祈念瓦

獅子頭を鬼瓦に仕立てたものだ。
第39代弘文天皇即位の大化4年(672)から第126代令和天皇の即位の令和元年(2019)まで、実に1,347年が経過している。

大友天神社から南南東290mあまりに位置する大友皇子丸藪之館跡に向かった。
丸藪之館跡は現在は神明社となっていた。
神明社の社頭は東南東を向いており、社頭をほぼ南北に通っている路地との間に玉垣は設けられていず、完全に解放されており、境内には大勢の子供と、その母親たちがいた。

4東大友町 神明社社頭

石造の伊勢鳥居が路地から少し引っ込んだ場所に設置され、「村社 神明社」と刻まれた社号標は鳥居から離れた場所だが、路地沿いに設置されていた。
路地から鳥居をくぐり、まっすぐ20m近く奥に位置する瓦葺の神門まで石造の縁石内をコンクリートで叩かれた表参道が、真っ直ぐに延びている。
神門の両袖には、やはり瓦葺の回廊が延びており、回廊前に対になっている狛犬の前には松の若木が重なるように対になっているが、社叢は深くない。

5東大友町 神明社神門

門の扉は開かれているが、大きく下がっている注連縄が、入場拒否している。

6東大友町 神明社神門注連縄

いや、この場合は祀られている大友皇子が出てくるのを封じようとしているのか。
それを示すように、門と10m近く奥にある拝殿は一直線上には無く、角度が異なっている。

注連縄の端をくぐり抜けて、門内に通ると、白壁にガラス格子戸を持った切り妻造銅板葺平入の拝殿にも入場を拒否するような注連縄が垂れ下がっている。

7東大友町 神明社拝殿

拝殿を撮影しようとしていると、鬼ごっこをしている子供達が何人もこの社殿の周囲を逃げ回っていた。
社頭の路地に向かって掲示されていた『社記』には以下のようにあった。

一、鎮座地 岡崎市東大友町字堀所36番地
一、神社名 神明社
一、祭神  天照皇大神、大友皇子、保食神、猿田彦命、建御名方命。
一、例祭日 10月8日
一、氏子数 330戸
一、由緒 この東大友町は往古入海に沿浸る処にして壬申の乱(西暦673年)大津の軍利あらず。時に大友皇子御舟にて南海を巡りひそかに伊勢の神宮に詣で御玉串を請け更に進んで三河国碧海湾に到り沿岸の地に駐り給ふ。
村人相謀り皇子の為に館を竹林の中に造りて皇子を住まわしめ奉る。今に其処を丸藪と言へり。皇子祠を建てて天照大神を祀る。
当神明社これなり。かくて皇子の御遺跡たるを以って村人此の地を大友と称ふるに至る。後村人等祠を建て大友皇子を祀り大友神社と称す。
然るに宝暦二年(1753年)五月矢作川氾濫し北野切の災に逢ひ。祠流失明治十二年(1880年)九月再建す。当社は明治九年一月に列し
明治四十一年十月七日無各社大友神社を合祀
昭和十二年十二月八日境内社なる稲荷社。社口社。諏訪社の三社を合祀す。昭和二十八年七月十八日宗教法人となる。昭和三十四年九月の伊勢湾台風により大松が倒れ社殿が倒壊。氏子の献身的努力により昭和四十年十月二十一日立派に竣工し現在に至る。
  平成十三年十月八日
                               神明社社務所

祭神の中の保食神(ウケモチ)は境内社の稲荷社に祀られていたのだろうが、
この由緒によれば、弘文天皇(大友皇子)は自分を討とうとしている大海人皇子(天武天皇) をバックアップしているのが伊勢神宮であることを知らずに伊勢神宮に参拝し、玉串を請け、更に祠を建てて天照大神を祀ったことになる。
情報戦で、すでに弘文天皇側は遅れをとっていたわけだ。
しかも一方で、大海人皇子は隠遁していた吉野(奈良県)を出て、弘文天皇の本貫である上野(三重県:大海人皇子の従者がいた)を経て、伊勢神宮には寄らずに、大津(琵琶湖畔)の弘文天皇の元に向かっているのだ。
伊勢神宮が弘文天皇ではなく、クーデター側の大海人皇子に加担した理由ははっきりしていないが、能力的に大海人皇子の方が、まだ若かった弘文天皇をはるかに凌駕していたことは当時も明らかだったはずだ。
大海人皇子が兄である天智天皇(大友皇子の父)の胸中を計って吉野に入った時、世間では「翼を持った虎を野に放ったようなものだ」と噂し、大海人皇子が皇位を狙うのは時間の問題とみていたからだ。

回廊を迂回して子供たちがワイワイしている左手(西側)から拝殿の裏面に回ると、鉄筋造ながら、神明造の本殿が祀られていた。

8東大友町 神明社本殿

鰹木は6本、千木は平削ぎで天照皇大神を表したもの。
ここまで安城市、岡崎市の神社を巡ってきた中では、最も美しい社殿の神社だった。

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正史と異なり、大友皇子が三河で生き延びていたということは、天武天皇が大友皇子を恐れるに足りない人物とみていたからかもしれません。
高句麗で王や、その参謀たちを殺害して日本列島に渡ってきた伊梨柯須弥
(イリカスミ)と同一人物とみられている天武天皇だけに、恐れるのは唐だけだったはずです。

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