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麻生田町大橋遺跡 土偶A 73:稲荷の杜→八幡の杜

愛知県岡崎市大多喜町の山中八幡宮奥宮の神籬(ひもろぎ)に向かうため、山中八幡宮の表参道の長い石段を登りましたが、標高が106mあるため、一気には登れず、途中で2度休憩をとりました。

●麻生田大橋遺跡土偶A

1MAP山中八幡宮

2MAP八幡宮奥宮(神籬)

神門をくぐると、参道はコンクリートでたたかれ、正面30m以内に瓦葺入母屋造平入で白壁に木部が朱塗りの拝殿が立ち上がっていた。

12山中八幡宮拝殿

朱塗りの神門もそうだが、八幡宮としては異例の建物で、唐破風の向拝屋根が突き出ている。

拝殿前の対になった水鉢には二つ穂変わり抱き稲神紋が凸刻されていた。

13山中八幡宮二つ穂変わり抱き稲紋

抱き稲紋は通常は稲荷神社の神紋なのだが、山中八幡宮が稲荷神社なら朱塗りの拝殿や神門は納得がいくのだが、どこかで、八幡宮と稲荷神社が混同されている。
しかも、抱き稲紋は多くのバリエーションがあって、全体は似ていても細部が異なっている。
山中八幡宮と全く同じ二つ穂変わり抱き稲神紋を使用している神社としては東京都中央区新富町の新富稲荷神社が存在する。
隅田川の近くにある稲荷神社だが、この神紋を使用しているのはやはり稲荷神社なのだ。
山中八幡宮と新富稲荷神社は、なぜ神紋が同じなのだろうか。
向拝屋根の下に上がって参拝したが、山中八幡宮の祭神は社頭案内版によれば、以下の3柱となっている。

・応神天皇
・比咩大神(ひめのおおかみ)
・息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)

比咩大神は主祭神である応神天皇の親族の女性全般を表すものだが、皇后なら仲姫命(なかつひめのみこと)、娘は八田皇女(やたのひめみこ)、雌鳥皇女(めとりのひめみこ)、草香幡梭皇女(くさかのはたびのひめみこ)ほか大勢存在する。
息長足姫命は応神天皇の母親である神功皇后(じんぐうこうごう)の『日本書紀』での名称。

向拝屋根の唐破風を見上げると、鬼瓦、軒丸瓦、水流を浮き彫りにした白い拝飾り、いずれにも徳川家との関連を示す三つ葉葵紋が入っている。

14境内社住吉社向拝棟飾り

棟飾の黒雲、蛙股の黒い松竹に白い鳩の浮彫など、いずれも凝ったもので、色は白黒朱が組み合わされている。

向拝柱の白黒の獅子の木鼻もカラフル。

15境内社住吉社手挟木鼻

山中八幡宮の直前に寄った愛宕社拝殿で、神社建築では珍しいと書いたばかりの手挟(たばさみ)と呼ばれる雲水と黒龍が浮き彫りされた長三角形の装飾版も5色で彩られて、これもカラフルだ。

社殿を側面から眺めると回廊にも朱が入っているが、渡殿と本殿に朱は使われていない。

16山中八幡宮社殿

拝殿前の広場の西端には注連縄の張られた小さな竹藪があるが、

17山中八幡宮御開運竹

これには立て札に以下のような説明があった。

《御開運竹》
永禄六年(1563)一向一揆の折徳川家康公鳩ヶ窟において難を逃れ神前に開運を祈り矢をここのところに刺し退下せりこの矢根芽を生じ生育せりと伝うこの竹四時竹のことを生ず

「四時竹のことを生ず」の意味が不明だが、山中八幡宮の社殿に三つ葉葵紋が装飾されているのは、鳩ヶ窟伝承と関係があるようだ。
一向一揆とは全国で浄土真宗本願寺教団(一向宗)の信徒たちが起こした、権力に対する抵抗運動だった。
三河ではこの抵抗勢力として家康の家臣までも反家康勢力として加担した。
三河一向一揆は三方ヶ原の戦い、伊賀越えと並び、徳川家康の三大危機の一つとされている。
鳩ヶ窟とは以下のような鎧を着ては入れないような、ごく小さな入り口の洞穴で、

御開運竹の外側の土手に存在しているようだが、神門内には案内板などの表示が見当たらず、見つけることができなかった。
鳩ヶ窟伝承に関しては社頭に以下の案内板が掲示されていた。

家康の家臣菅沼定顕(すがぬまさあき)が、 上宮寺(じょうぐうじ)から糧米(りょうまい)を強制徴収したことに端を発した三河一向一揆で、門徒に追われた家康が身を隠し、難を避けたという鳩ヶ窟があります。
一揆方の追手が家康のひそんでいる洞窟を探そうとすると、中から二羽の鳩が飛び立ちました。
「人のいる所に鳩がいるはずはない」と追手は立ち去ったといいます。

この出来事が原因で、稲荷神の祀られていたこの杜が鳩を神使とする八幡宮に改変された可能性が高いように思えるのだが、山中八幡宮には境内には掲示されていない以下のような由来がWikipediaに紹介されている。

当地に山中光重という人があり、朱鳥14年(699年)9月9日、宇佐八幡大神の夢のお告げで神霊を迎え、当地に社を建てたのがはじめといわれる。

しかし、この説では最初から八幡宮だったことになり、稲荷紋が使用されている説明がつかない。

八幡宮本殿の左右には西側に境内社住吉社(住吉三神)、

18境内社住吉社

東側には境内社神明社(天照大神)が祀られていた。

19境内社神明社

境内社神明社脇には奥宮に向かう通路が設けられていた。

この通路をたどり、森の中を110mあまり北に進むと、瑞垣で囲われた樹木があるのが見えてきた。

20山中八幡宮奥宮神籬

Google地図には「山中八幡宮(奥宮神籬)」とあるので、奥宮の社殿があるのかと推測していたのだが、純粋に神籬(ひもろぎ)だけが祀られていた。

21山中八幡宮奥宮神籬

 =神霊
モロ=天下る(アモル)からの転嫁
 =木

この神籬の樹種に関する情報が見当たらないが、神籬とはこの神社に神が降りた依り代のことで、八幡宮奥宮では樹木になっている。
つまり、この杜に最初に神が降りた場所が、「奥宮神籬」ということなのだ。
神道ではもともと、社殿を設けていたわけではなく、祭祀を行うたびに依り代を設けて、終われば、最終的には撤去していたことは地鎮祭などに参加した経験のある人なら体験しているはずだ。

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表参道は奥宮神籬の右脇から裏参道となって奥に延びていたので、さらに辿っていったところ、急な下り坂となり、途中まで降ったところで、山の麓に石鳥居があるのが見えたので、社頭に引き返すことにしました。

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