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三河天野氏の代表に天野康景を挙げると三河天野氏の本質を見誤る【研究ノート:天野氏】

前回の記事で天野氏の出世頭として天野三郎兵衛康景を紹介した。

実は三河の天野氏の中で康景の家系は「異端」なのだと述べたが、まずその系譜を見てみよう。

天野康景の系譜

康景は三河国坂崎(現愛知県額田郡幸田町坂崎)の生まれとされるが、三河へやって来たのは祖父の遠房で、家康の祖父である松平清康に仕えたという。
寛政年間(1789-1801)に江戸幕府が編修した大名や旗本の家譜集『寛政重修諸家譜』(以下『寛政譜』)によると、次のような系譜となる。

天野左近右衛門定景―甚右衛門遠直―縫殿助景行―縫殿助遠房―甚右衛門景隆―三郎兵衛康景

定景は遠江守景秀の子で、民部少輔景貞の弟とされる。景秀までの系譜も見てみよう。

天野下野守景隆―安芸守秀政―左京亮景政―安芸入道景顕―山城守景保―遠江守景秀

この辺りの系譜には異動がある。というのも、天野氏の本宗家である遠江天野氏の系図すらはっきりしておらず、天野氏の確かな系図というものが存在していないからだ。

天野景隆は南北朝期の1375年に近江守、1382年に下野守を歴任している。その子秀政は応永7(1400)年に安芸守に任ぜられている。
その子について『寛政譜』天野三郎兵衛康哉家譜(康景直系の系譜)や『士林泝洄』天野系図は左京亮直景とするが、直景は景隆の叔父の名であり同じ左京亮を名乗ったことから、景政と混同があったと私はみている。
左京亮景政は遠江国犬居の地頭となり、犬居城を居城とした。『士林泝洄』(尾張藩士の系譜集。『寛政譜』より100年ほど早く編纂されている)によると貞治2(1363)年に17歳とあるので、1347年生まれであろう。(南北朝期の元号はややこしくなるので省いた)

安芸入道景顕は養子で、実際は景政の弟という。山城守景保は景顕の次男とされ、その子が遠江守景秀である。

犬居の天野と中山岩戸の天野

さて、『寛政譜』天野三郎兵衛康哉家譜の左京亮景政の項には次のように記されている(読みやすいよう適宜旧漢字や旧仮名遣いを改め、句読点を補っている)。

或る本の系図および天野麥右衛門光景が今の呈譜に参考するに、秀政が長男を左京亮直景とし、遠江国乾城を築きこれに住す。この子孫を乾の天野と称す。二男を安芸守景顕とし同国秋葉山の城に住す。其男を民部少輔遠幹、遠幹が男を対馬守遠貞とし、倶に尹良親王に仕う。のち遠貞四家七名字の人々と共に良王を奉じ処々に逃れてときをまつ。終に三河国額田郡中山の庄岩戸村に隠居す。この子孫を中山岩戸の天野と称すという。今按ずるに、寛永の譜嫡流のみを記して支庶流に及ばず。其他九家各突出して出所をいわず。今捧るところの系図を参考するに、対馬守遠景よりいずるもの天野麥右衛門光景・孫左衛門久周・常次郎貞正等が祖なり。然れども旧系みだりに補綴し難し。よりてしばらくその祖の出るところを弁ずるのみ。

三河には「中山岩戸の天野」と称される天野氏がいる。「中山岩戸の天野」の3家以外は取り立てて己の家系の出所は記しておらず、康景の家系も「中山岩戸の天野」には繋げられないのである。

煎本増夫は『徳川家康家臣団の事典』でこれを全く無視して遠房(康景の祖父)を遠貞の子孫としているが、理由は述べられていない。

そして、家康の父や祖父の時代から三河にいたとみられる天野氏のうち、「中山岩戸の天野」ではないことが確実である天野氏は康景の家系のみ(はっきりしない家はある;後述)で、しかも康景の家系は秀政―直景(景政)の末裔であり、寧ろ「乾(犬居)の天野」なのである。

中山庄(中山郷とも)は矢作川支流乙川上流の山間部一帯の地域で、現愛知県岡崎市の田口町・大井野町辺りから東へ乙川を越え、大高味町辺りまでを含むが、庄域ははっきりとはしていない。岩戸(現岡崎市岩戸町)は丁度その中心辺りになろうか。個人的にはもっと東、桜形町辺りまでは中山庄に含まれるのではと思っている。

一方、康景が生まれたとされる坂崎は、同じ額田郡内ではあるが、中山庄からはまるで外れる。系譜上のみならず、地理的にも「中山岩戸の天野」ではないのである。

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中山庄はこの地図の右上の辺りである。岩戸・坂崎とも城とすべきか古屋敷とすべきかは判然としないが、ひとまず城と表記した。岩戸城から坂崎城は、岡崎城よりも遠い。

中山岩戸の天野

『寛政譜』天野麥右衛門光景家譜の冒頭には、次のように記されている(適宜旧漢字や旧仮名遣いを改め、句読点と西暦を補っている)。

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今の呈譜および或本の系図に、対馬守遠貞南朝につかえ、四家七名字の人々とともに良王を奉じて処々に逃れてときを待。ついに三河国額田郡中山庄岩戸村に隠居し、享徳元(1452)年十二月八日死す。法名松翁。これを中山岩戸の天野と称す。長男藤左衛門長弘岩戸村を領し、永享(1429-1441)のはじめより御当家(※松平=徳川家)につかえ、文明七(1475)年七月十四日死す。法名霊槎。二男を清右衛門忠勝という。今常次郎貞正が祖なり。<後略>

犬居を含む遠江西部は南北朝時代、井伊谷(井伊氏の本貫。「女城主直虎」の舞台)を中心に南朝方であった。
井伊道政は後醍醐天皇の皇子・宗良親王を井伊谷に迎え、宗良親王と道政の娘の間に尹良親王が生まれたという。尹良親王の子が良王だ。

尹良親王や良王の実在性には疑問の声もあるが、一般に南北朝期の犬居天野氏は北朝方と南朝方に分かれて争っていたと言われ、遠江に南朝勢力がいたのも事実である。
ここの考察に入ると長くなるので先へ進もう。

犬居の天野のうち、南朝方として尹良親王および良王を奉じてあちこち逃れた後、中山庄岩戸に「隠れ住んだ」のが、「中山岩戸の天野」の祖・遠貞ということになる。
そしてその子の代に、勢力を拡大してきた松平氏に従い、以来代々仕えている。

『士林泝洄』では藤左衛門長弘を孫四郎景儀としており、「兄弟多く松平家に仕える」とあるから、「中山岩戸の天野」は現在記録に残っているよりも多くいたかもしれない。

以上が系譜で見る「中山岩戸の天野」の興りである。

三河一向一揆にみる三河天野氏

永禄6(1563)年(永禄5年説もある)、西三河全域で一向一揆が起こる。一揆は翌年にかけて半年ほど行われ、鉄の結束と言われた三河家臣団を二分する戦いとなった。後に三方ヶ原の戦い・伊賀越えと並んで家康の三大危機とされるほどの事件だったのである。

では、三河に於ける天野氏を『三河物語』の三河一向一揆の際の記述で見てみよう(但し著者の大久保彦左衛門忠教はこの時まだ幼少で、当人の体験に基づく記録ではない)。記述といっても家康に味方した人名の羅列である。天野氏以外の名は全て省略する。

<前略> 天野三郎左衛門 天野三兵衛 天野助兵衛 天野清兵衛 天野伝右衛門 天野又太郎 <中略>
此外岡崎に有衆数多有。上和田には <中略>
天野孫七郎 <後略>

天野三兵衛が三郎兵衛康景であり、伝右衛門は弟の景房である。
上和田にいた天野孫七郎(賢景)は遠貞の長男・長弘の玄孫に当たる。助兵衛(重信)は孫七郎賢景の子だ。又太郎(貞久)は遠貞の次男・忠勝の玄孫で、この3名は紛れもなく「中山岩戸の天野」氏である。

三郎左衛門(貞行)は後に、子孫が「先祖が中山庄に住んでいた」ことを理由に中山と改名している。清兵衛(家次)は家康より「栗木村三百石」を賜っているが、栗木村(現岡崎市才栗町)は中山庄の南端だろう。系譜は不詳だが、この2名も「中山岩戸の天野」とみられる。

つまり、三河一向一揆に家康方として参戦した天野氏のうち、康景・景房兄弟だけが「中山岩戸の天野」ではないとみられるのである。少数派なのだ。

『寛政譜』天野三郎兵衛康哉家譜によると、康景は「其宗門たりといへども、これをあらため無二のお味方に候して」とあり、一向宗門徒であったものを改めて家康に味方したのだという。

中山岩戸の天野氏の本拠地である岩戸町に、岩戸山正蔵寺という浄土宗の寺がある。元は宝福寺といい、天台宗であった。この寺は応永31(1424)年、天野遠貞の創建と伝わる。
中山岩戸の天野氏の中には、この寺に墓が確認できる者が複数名存在している。つまり「中山岩戸の天野」は康景の家とは違い、元々一向宗門徒ではないと考えられる。家系も、土地も、信仰すら違っていたのである。

その他の三河天野氏

三河には他の天野氏もいたと考えられる。

下野守景隆の次男・玄蕃助景道は三河国吉良に住んだという(『続群書類従』『諸家系図纂』)。子に彦三郎景助がいるが、子孫については判らない。

また福釜松平家の祖・松平親盛(松平家5代当主長忠の次男もしくは五男)の母は天野弾正某女といい、長忠により家長として親盛に附けられた天野源兵衛忠俊もそれまでの系譜は伝わっていない。弾正某の子が忠俊かもしれない。そうすると忠俊は親盛にとって「おじ」ということになる。

遠貞の次男・清右衛門忠勝は、三河国和田村(現岡崎市上和田町)の天野清右衛門忠久の養子になったと『寛政譜』天野常次郎貞正家譜にあるのだが、この忠久もどういう系譜か不明である。忠俊や弾正某の親族かもしれない。

ちなみに吉良に住んだという玄蕃助景道だが、三河一向一揆に参戦していた又太郎貞久の孫に玄蕃政連という名が見える(『士林泝洄』)。貞久の高祖父が忠久の養子となった忠勝であるが、忠久は景道の系譜に連なる者なのであろうか。同じ通称や官途名は、同じ一族内で繰り返し用いられる傾向がある。

『寛政譜』には他の系譜の天野氏も見えるが、元々織田家に仕えていたという天野氏は藤原氏ではなく平氏であると伝え、また望月→山上→天野と名を変えている天野氏もいる。これらは全く異なる系譜の天野氏であり、三河でもない。

全くの異説

三河天野氏については、犬居の天野氏の天野宮内右衛門景貫の兄・正貫の系統とする記述がネット上に散見されるが、景貫は家康が犬居城を攻撃した時の城主である。
しかし『続群書類従』『士林泝洄』『諸家系図纂』等の系譜で、正貫の名は見えない。
犬居城が落城し景貫が甲斐へ落ちたのは、天正4(1576)年、三河一向一揆より後である。仮に正貫が実在してその子孫が三河にいたとしても、戦国時代も末の頃のことだろう。
この説の出典を知りたいところである。

「中山岩戸の天野」を見落とすな 「犬居の天野」を見逃すな

三河天野氏を語る際に、天野康景に注目しすぎて「中山岩戸の天野」を見落としたり軽視したりすると、その本質を見誤る。
三河天野氏の多数を占めるのは「中山岩戸の天野」の一族である。そして繰り返すが、康景は「中山岩戸の天野」ではない。

さらに、今に伝わる系譜が真実なら、康景の家系は限りなく「犬居の天野」、つまり天野本宗家に近い。
犬居落城と共に「滅びた」とされる北遠の雄「犬居の天野」は、徳川方で生き延びていたのである。

最後に、敢えて言うとすれば、「中山岩戸の天野」も元は「犬居の天野」に連なる(とされる)一族である。
そういう意味では康景も中山岩戸の天野氏も同族なのだが、それでも康景は「中山岩戸の天野」たり得ないことに留意してほしい。

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