「好き」っておもしろい!

 「好き」っておもしろい。今泉力哉監督の「サッドティー」を観てそう思った。今泉監督の作品は「愛がなんだ」を観て以来、レンタルしたり劇場に足を運んだりして、何作か観ている。私が観たなかで最も古い作品が「サッドティー」で、2014年の作品。この作品を観ると、今泉監督作品の原点であるように勝手に思ってしまった。登場人物たちの「好き」の多様さだったり、登場人物同士が実は関連性があったりするというおもしろさに加えて、どこかずれているおかしみがあって、それが今泉節だと私は解釈して、「サッドティー」はとても楽しく観た。ストレートに「好き」を素材に遊んでいるので、こんな「好き」があってもいい!と思えたし、「好き」に優劣はないと思った。
 ちょっと「好き」を語っていきたいと思う。

 映画「サッドティー」に登場する人物の「好き」は人さまざまで、二人を同時に愛する「どっちも好き」や、もう解散してしまった地元アイドルを10年以上一途に愛し続ける「ひたむきに好き」、今つきあっている人がいるけどやっぱり片思いしていた相手を好きな「もしかしたらまだ好き」、二股されているのをわかっていながら、よくわからないけど好きな「なんとなく好き」。一目見ただけでその人のことほとんど知らなくても忘れられなくなってしまう「理由なき好き」などなど。

 「好き」は理由があって、一途に長い間ずっとひとりのことを「好き」が、どことなく高尚な気がしてしまい、それ以外の「好き」だと申し訳なくなっていた節が私の中にはあった。
 でも、実際にはほとんどひとめ惚れだったり、なんとなく好きだったり、その人のことなんかほとんど知らないくせに好きだったりした。中高生の恋に恋する時期は、ほとんどそれだった。
 別に異性に対してだけ、「好き」があるわけではなく、たぶん人に対しての「好き」のはじまりは、お友だちに対しての、ずっと一緒にいたい、遊んでいたいだと思う。遡ればたぶん4歳とか5歳の頃で、近所に住んでいた子と遊ぶのが楽しくて、でもその子の親は仕事場は我が家の近所でも、家を引っ越してしまい、その子と遊べなくなるのがさびしかった。失ってはじめてわかる「好き」。でも、そんなの一時のことで。また違う好きな子ができて、その子と遊ぶのが楽しくて、というのを何度も繰り返していたと思う。小学三年生の時、それまで同じ地域で集団登校も一緒にしていたのに、あまり話してなかった子と同じクラスになって急激に仲良くなった。ほぼ毎日遊んだし、家に泊まりに行ったりもして、楽しくてたまらない時期を二年くらい過ごして、クラスが別れた。でも、その後もなんだかんだとつながり続けて、40年越えの付き合いになる。その子への「好き」は、あの頃の密度や熱量ではもちろんなくなったけれど、かけがえのない大切な友だちだ。
 小学生の高学年にもなると、異性を意識しはじめる。どの子が好き?とか聞かれることもあり、私は正直、だれもいいと思えなかったけれど、適当に誰かの名前を言って流れに乗っていたいいかげんなところがあった。
 中学生になって、見た目にかっこいい先輩を見ているだけが楽しいというのを知り、ひたすらそれで楽しんだ。先輩がかっこよかったと友だちに話すのも楽しい。もはや身近なアイドルのように、話しもせず、ひたすら眺めるだけの一方通行。以前ツイートでバレンタインデーの朝のことをつぶやいたことがあるが、まさに究極の一方通行。早朝に、友だちと二人で自転車をとばして、先輩の家の前に駐めてある、たぶん先輩の自転車のかごの中に、名前も書かずにチョコを入れた。当時はその行動そのものに満足していた。完全なる自己満足。しかし端から見たらこれ不審物。私が親なら誰が入れたのかもわからないやつ、捨てさせる。相手のことが好きというよりも、相手を好きな自分が好きのパターンの典型例。
 
 「好き」につながるのに、繰り返し目に触れることがある。なにやら心理学用語で「ザイオンス効果」と言うらしいのだが、何度も目にしていると好感を抱くようになるというもの。ほんまかいな? 確かに「いいかも」と思ったアイドルとか、いろいろ検索したり、テレビで見たりしているうちにもっと好きになっているということはある。けれども、その気がまったくない対象に対しては、たくさん目にしたとて、変わりない。この「ちょっといいかも?」こそが大事なのだ。じゃあ、どんなところに「いいかも」と感じるのか。それは人それぞれな気がする。私に関してだけの見た目の法則なのだけど、比較的目の細い人を好みがち。これは性別関係なく、私は細い目の人、一重あるいは奥二重の目の人が好みなのだ。そしてどちらかといえば細身で背の高い人が好きなのも変わらない。しかし、夫はまったくそことはずれている。見た目の「好き」は結婚に直結しなかったのだ。見ているだけで満足できる対象の人が、だいたいそこに当てはまる。ちょっといいかも、はいつまでたっても変わりなくちょっといいのだけど、それもいつしか薄れていってしまう。あんなに気になる存在だったのが嘘のようにどうでもいい存在になってしまう。なにか嫌いになるきっかけがあったわけでもないのに。なんか、もう、いいかと思ってしまう。こんないいかげんな感情でも、「好き」と思ったそのときのキラキラした感じとか、わくわくする感じとか、なんか脳内をかけめぐる物質が、めちゃくちゃ多幸感をあおってくるような感覚があるので、「好き」と思うのはやめられない気がする。
 たいがい惚れっぽいのだけど、冷めるのも早い。それでも、いいか。楽しいし、幸せだし、やっぱり「好き」っていいよね。そう思えた「サッドティー」という映画。とてもおもしろいので、観たことのない方、よければ、ぜひご覧あれ。結末、最高におかしい。


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