会話を考えてみる

 会話が苦手だ。人の話を聞くのは好きだけれど、自分が話すことは苦手。理由はわかっている。会話は言葉を自分から放したとたん、曖昧なものに変わってしまい、記憶の中にしか存在しなくなるからだ。私も相手にも。
 そんな想いを140字小説にしたことがあった。2017年6月の作品。

 こんなふうに、そのへんに話した言葉が漂ってくれていたら、どんなにいいだろうと夢想する。当時、びっくりするほどいいねの数が少なくて、共感が得られなかったのだろうな、と思った。
 私は比較的言葉を選びながら、慎重に伝えたいタイプだ。それは間違いたくないという気持ちから。自分の気持ちもそうだけど、見たものや感じたことを、なるべく正確に誠実に伝えたい。後悔したくないという気持ちが強いからだろう。

 会話は重ねられるから、リカバリーできるよ。夫はいつもそう言う。親しい人なら特に。
 それはよくわかる。でも、私は自分が発言した言葉で、相手の表情や反応を見て、気になった言葉はずっと反芻してしまい、言わなければよかった、別の言葉を使った方がよかったかもしれないと思ってしまう。時が経ってしまって、リカバリーするタイミングを逸することなんてざらにある。だから不必要に話したくないと思ってしまうのだ。消極的すぎるにもほどがある。話さないとはじまらないことがたくさんあるのはわかっているのに。
 会話のなかには、言葉だけではない、非言語的コミュニケーションが多く含まれていて、相手を見ながら声を聴きながら会話することで、言葉と一緒に受け取っているものがかなりある。
 1971年に心理学者のアルバート・メラビアンが、矛盾した情報を伴った言葉の受け止め方を研究した論文があり、そこからメラビアンの法則として抽出されて、さまざまな場面において利用されているものがある。何を優先して受け止めるか、の順位でいうと、視覚情報>聴覚情報>言語情報の順だという結果になっている。表情や仕草、目線など視覚情報が55%、話の口調やスピードなど聴覚情報は38%、話の内容など言語情報が7%。
 本来なら、対面での会話がいちばん情報が多いのに、そこが苦手なのはどうしてだろう。誤解されたくないし、誤解したくない。情報が多いのに間違ってしまうことが怖いのかもしれない。私自身が会話を鏡をみてやれるわけではないから、どんな表情でと確認できないのも怖い。感情をのせた口調も、怒りが乗ってしまうと時々生々しすぎて嫌になるのに、後で記憶の中で反芻したりしている。なんであんなに感情的に言ってしまったんだろうって。
 言葉だけの文章は、手紙やメール、SNS、いずれも消して書き直すことができる。発するまでのあいだに精査する時間が組み込まれているのだ。必要以上に感情を乗せられないからこそ、言葉を選ぶ。そして文章は残る。言った、言わなかったと争うこともない。言葉の受け取り方は、やはり相手次第なので、誤解は生じる。もしかしたら対面での会話以上に。
 でも、私は言葉だけの文章が好きだ。生の感覚ではない、残された痕跡。書いた瞬間に過去に変わってしまうものが、たまらなく好きだ。なんどでも読み返して、また違う感覚を味わえる醍醐味。とても個人的な、閉鎖的な、そのなかにいることで安心できる。
 20代の頃から変わらないこの感覚、いつまで続くのかな。一生かもしれない。

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