インフェルノ


人が地獄に行きたくないと感じるのは、既に地獄にいるからである。
生まれたことで、命という業火に焼かれることになる。
初めてこの世が強く地獄であると感じたのは高校2年。
初めてできた他校の彼氏が3か月で音信不通になり、吹奏楽部の親友とは喧嘩になりほぼ絶縁状態、家族はわたし以外運動部家系で、両親と同じ運動部だった弟の活躍に熱心だった。
当時のわたしは居場所のなさのそのあまりにも地獄の様に、毎日風呂で泣いた。そのまま自分で手で首も締めて死のうとしてみた。死ねなかった。死ぬことさえできないことに死にたくなる。
この時期、わたしを慰めたのは父が好きだったGARNETCROWのHoly ground、Crier Girl&Crier Boy、そして、皮肉にも返信がなくなった初彼が好きだったBUMP OF CHICKENの才悩人応援歌、そしてカルマである。
わたしの死生観や人生観はここから始まったと言ってもいい。
結局、酸素を体内に回すうちに、比較的思い出の薄い失恋は克服し、親友とは元通りになり、家族からの寵愛は諦められるようになっていた。
この時のわたしを、わたしは決して否定はしない。が、生きるということは、業火に焼かれ続けることであることを、この時は知らなかった。


《Go to hell》
「俺、浮気しちゃったんだ、、」
わたしの家で、泣いてわたしに抱きつきながら、A君は言った。
この時わたしは大学4年で、A君は大学2年。同じ吹奏楽サークルで知り合い、7ヶ月ほど付き合っていた。高校でまともに恋愛をしなかったわたしでも、惚気られるくらいの思い出もしっかりできていた頃だった。
ちなみにこれはわたしが女の勘とやらで問い詰めたり、無論証拠を見たわけでもない。完全に彼の自白である。
悲しみや怒りよりも何よりも先に、浮気を自ら告白する人がこの世にいるんだという、新種の生物を発見したときのような新鮮な驚きがわたしを支配していた。
「浮気したって?どういうこと?」
わたしの胸の中でさめざめと泣くA君に、わからない単語の意味を聞くようなトーンで語りかける。
「この前俺東京行ったじゃん。そのとき。」
県外への出先で知り合った女の子とそういう仲になり、心を奪われてしまったとのことだった。
「でも!沙也加ちゃんのことが嫌になったわけじゃないんだよ。けど、今はそっちの人への気持ちが強くなってて、、。俺どうしたらいいんだろう?」
変わらず泣く彼。"泣く"と"どうしたらいい"はこちらの手札であるはずだが、そうではない試合を前に途方に暮れるしかなかった。
話し合い、別れるという結果を出すところまでは辿り着くことができた。彼は納得していなかったが、A君と曖昧な関係になる気はなかったため、わたしが先導して決めた。
嫌いになったわけではない。むしろ、こっそり浮気をする男性が世に蔓延る中、こうして自白してくれたことに誠実ささえ感じていた。
翌朝、ベッドで1人目覚める。
あ、無理だ
今、そしてこれからを思い、今更ながら悲しみがおしよせた。
タイミングも悪かった。大学4年の春休み、つまり講義もサークルもなく、あるのはいささかのバイトだけ。一人暮らし。自分の孤独を実感するにはあまりにも条件が整いすぎていた。

初デートの日、A君とレンタカーで出かけた。運転を任せていたのだが、途中立体駐車場の柱に車を擦ってしまい、まあまあ大事になってしまったことがあった。
「俺は各所に連絡するので、沙也加先輩は車の中にいてください」
「時間かかりそうなので、送ってあげられないの申し訳ないんですが、地下鉄で先に帰ってもらっても大丈夫なので。」
賛否両論だとは思うが、アクシデントの際に相手にこんな風に声がけができる彼のことを、わたしは頼もしく誠実に感じた。こんな人と結婚したいと思った。
それから無事恋人同士になったわたしたちは、大学生らしい恋愛をした。
カラオケオールで2人で歌い明かした。普通の街中デートもした。アマゾンプライムでホラー映画を観て一緒に怖がった。クリスマスイヴにはサプライズでプレゼントも用意してくれてた。誕生日プレゼントだってもらった。お互い一人暮らしで、サークルじゃない時間も一緒に過ごしていた。
付き合う前から別れ話の時までわたしの彼に対する印象は誠実だった。
結婚したいという気持ちも変わっていなかった。

"神様、どうか、声を聞かせて
ほんのちょっとでいいから
もう二度と 離れないように 
あなたと2人 この星座のように
結んでほしくて"
まだ付き合って間もない頃の彼が、わたしに共有してくれた米津玄師のorionのサビが浮かぶ。
音信不通にならなくてよかったと思いながらも、目覚めて頭が冴えた今は思考回路ショート寸前。今すぐ会いたいよ。
そんなことは無理である、という理性は思わぬ方向に進んでしまうことになる。
マッチングアプリ。
当時はまだ周りでは主流ではなく、手を出したら終わり、のような位置付けであった。
しかし、なんとなくその言葉を耳にしたことがあったわたしは、構わずApple Storeで検索し、ほどほどの吟味の上インストールをした。
プロフィールの設定。何かの会員登録よりパーソナル的なことを設定していく。いつ結婚したいか、初デートのタイミングは、タバコは吸うか、、、
この設定が結構面白い。自分の性格や恋愛観を主観的であると同時に客観的にも見つめることができた。
そうしてアプリの本筋が始まる。どうすればいいのかわからないままオロオロしているうちに何件か通知がやってくる。
「シンさんとマッチングしました!」
わたしともう1人のアイコンが画面に並んでいる。
これがマッチング、、、
正直わかっていない。
すると程なくして別な通知がやってくる。
「こんにちは!マッチングありがとうございます!お話しませんか?」
先程わたしのアイコンと並んでいた人のアイコンがわたしに話しかけていた。
どうやらこのまま会話ができるらしい。それっぽく返してみよう。
「初めまして、さやです。よろしくお願いします!」
そんなこんなで通知が来れば逐一返していると、あっという間に日が暮れた。趣味の話ができた人、お茶の約束をした人、少し話すだけなら10人くらいはメッセージの交換ができた。
一通りやりとりをし、一息をつく。
これまでの人生で1番男性と会話した日。忘れないように言っておくが、失恋の翌日である。
こうしてわたしは地獄の中で救いを求め、皮肉にもさらなる地獄へ嬉々として進むことになった。


《二者択一》
社会人になり初めての冬、わたしのアプリ活動は全盛期だった。この頃には別なチャットアプリも複数併用するようになり、常にやりとりしたり定期的に会う男性は5人ほどいた。
始めてしばらくは男性に会えば会うほど、A君の良さが際だった。わたしさえその気になれば付き合っていたであろう人がいたにも関わらず、関係を進められずにいた。A君だったら、、と思った回数は計り知れない。こんなこと何になるんだろうというどうしようもない虚無感は、アプリをすることを真っ向否定しながらも、それしかないという崇拝にも似た気持ちを助長させていた。
敬愛するGARNETCROWはここでも、in little timeでA君との思い出を包み込み、わたしを強くしてくれた。同時に、強い女性でありたいと思う気持ちは、ビッケブランカの茶目っ気のある失恋ソングや、洋楽のカーマは気まぐれが馴染んだ。
たくさんの男性と関わることで、女性としてもてなされる喜び、男性の全てが野生的であるわけではないことを学べたことは良い経験値になった。
しかし1年弱の間に多くの人を傷つけたし、傷つけられたし、体も汚した。
学生時代のわたしがこの時のわたしをみたら、死ねないにせよ、人間性の堕落に間違いなく絶望したに違いない。
未練を誤魔化す刺激に疲れ始めてきたこの頃は、だんだんと素直に目の前の男性に向き合えるようになっていた。

年が明け、やりとりをしていたT君と3回目の約束をしていた。前回は彼の運転で県外の鍾乳洞に行き、楽しい1日を過ごした。
アプリで知り合ったにも関わらずなんと同じ大学の同級生というご縁は、わたしたちをすぐに近づけた。
彼と付き合えたらいいなと思えるようにもなっていた。そんなだから、あまりにも大胆な提案をしてしまうことになる。
「ねえねえ、今度会う時2日間休みとるから、泊まりで福井の恐竜博物館行こうよ!」
ラインで送ると、しばらくしてから
「え!?泊まり!?福井!?」
と、当たり前の反応が返ってきた。ただし、彼はすごく紳士で、
「俺も福井行ったことないし、沙也加が行きたいなら行こう!」
と嬉しい答えをくれた。
これで付き合えなかったらそれまでだったと思うことにしていた。
もちろんそこは期待通り、わたしはT君から告白を受け、付き合うことになる。
恐竜は完全にわたしの趣味だったが、彼は一緒に目一杯楽しんでくれた。
T君とは遠距離とはいかないまでも、市外に住んでいたため中距離恋愛だった。さらに、彼は土日休み、わたしはシフト休みであったため、会える日はせいぜい月に1〜2日ほどであった。
それでもその少ない休みで温泉旅行をするなど、できる限りのイベントは楽しんだ。
彼が金曜の仕事終わり、一緒に遊ぶ前日にわたしの家にくるときは、夕飯を作って待っていた。
「いや〜職場の上司に飲み会誘われたけど、彼女がご飯用意して待ってるんでって、ドヤ顔で出てきたわ!笑」
その嬉しそうなこと。わたしも思わず顔が綻んだ。
彼は同い年とは思えないほどスマートであった。外食時、お手洗いに席を外そうものなら必ずお会計が済ませてあったし、もちろん長距離運転だってお手のものである。
こんなわたしにはもったいないと感じてしまうほどだった。

T君と付き合って半年ほど経つ秋の初め頃、なんとなく続けていたチャットアプリでY君と知り合い会話が続いていた。
「君はもしや別腹の持ち主か?」
その時のわたしのアイコンは、友達とパフェを食べていたときに撮られた写真だった。
はじめの切り出しがあまりにも斬新すぎて、返信をせずにはいられなかった。
対して彼は、本人と思われるアイコンの顔はわからないものの、着ていた赤いアウターが印象的だった。
Y君も同い年ではあったが、資格勉強のため関東の私大を出てからも専門学校に通っていた。
頭の回転が早いのか、ちょっとひねられた返信が来る度、わたしの好奇心はくすぐられた。
あとから聞くと、彼もわたしの返信はひねっていて、返すのに苦労したと苦笑いしながら言っていた。
雨の日の匂いをずっとカエルの匂いだと思っていた田舎者に、ペトリコールという名前があることを教えてくれたのは彼だった。

ここでこの時期のキーパーソンを紹介する。
高校の吹奏楽部の親友はるひ。冒頭で述べた親友は彼女のことである。3年の文化祭では2人でステージでハモリながら歌を披露した。
はるひは高校3年の進路決定の時期に声優になると言って、進学校の進路指導に迎合せず上京する道を選んだ。
小学生の頃は、わたしも声優への憧れが強くあった。しかし、田舎の地元を出て、都会で一人暮らしをすることがとてもじゃないが無謀に感じられ、その夢を本気にすることはできなかった。
だからこそ、親友がその夢を掲げて上京すると聞いたとき、寂しさより、応援の気持ちが勝った。
そうしてわたしたちは高校卒業後別々の道を歩むようになったわけだが、大学生であるわたしは暇を見つけては東京に行き、高校ではできなかった都会の遊びを楽しむのだった。
はるひが上京して3年は経った頃、
「私、就職することにした。」
そんな連絡を受けた。
「それは声優にならないってこと?」
「うん。課程が終わって学校は卒業できるけど、事務所所属が決まらなくて。」
彼女はあくまで淡々としていた。
本当に難しい世界なのだと改めて実感した。素人目ではあるものの、はるひは歌唱力もさることながら、声の抑揚だって器用につけられたし、ダンスだってキレッキレだった。
「百貨店の化粧品売り場の人になるわー」
次が決まっていることへの安堵とやるせなさ。
「陽キャの仕事じゃん笑」
冗談を言うことが、彼女とわたしのためになると信じたかった。

時を戻すが、わたしも社会人になりアプリ全盛期を経てやっとT君と付き合うようになった頃には、はるひにも大事な人ができたようだった。
化粧品売り場の仕事は性に合わず辞めてしまっていたが、その彼のことを話す電話越しの彼女の声はいつも活き活きしていた。
「ひと回り上でね、ほぼ全身タトゥーなの。やばくない?笑」
2人のツーショットが送られてくる。
「おおん、、」
タトゥーに偏見はないたちだが、彼女が話す特徴と、実際の写真の様子が寸分の狂いなく合致し、そのインパクトの強さに思わず恐れ慄いた。
それでも、彼女が愛する人というだけで、わたしを納得させるには十分だった。

ところが、数ヶ月で連絡を取り合うはるひの様子に異変が出始めた。
どうやら付き合っている彼のなかなかに複雑な人間関係が問題であるようだった。
バツイチの子持ち。しかも子は1人目の奥さんと別れた後に付き合った彼女との子供。
「元カノとね、まだ連絡とったり、会ったりしてるみたいなの、、、子どもがいるからその関係って言うけど、なんかそれだけではないみたいなんだよね。」
とうにわたしの理解の範疇は超えている。でも、はるひの話は聞く。
「それについて彼と話はしたん?」
「うん、、俺が好きで一緒にいたいのははるひだって。そうとしか。でも、、、」
あまり深く彼女は話そうとしなかった。女の勘がこれでもか、というくらい働いているに違いなかった。
あんなに活き活きと彼の話をしていた電話越しの彼女は、今やどんどん精気がなくなっていくようだった。
なんとかしてあげたかった。わたしのT君との惚気話をしている場合ではない。自分が誰かを変えることなどできないということを知るのはまだ先の話であり、この時のわたしはおせっかいも甚だしい思考に取り憑かれていた。

久しぶりにはるひと東京で会うことになり、心配はしつつも楽しみにしていた。
ついでに、チャットアプリでたまたま話していた同じ宮城出身で、東京在住の男の子と3人で一緒に飲もうと提案もしていた。
「それ沙也加も私も大丈夫なん?笑。それに私今お金ないからあんまり遊べないよ?笑」
そうは言われていたが、わたしははるひに会えればそれで良かったので、
「いいよ今回は全部奢るわ笑笑」
と話していた。
わたしはその男の子と浮気をするつもりはさらさらなかったし、はるひとくっつけたいわけでもなかった。
ただ、仕事もできず彼の家に1人取り残された彼女を、少しでも外に連れ出し、新鮮な空気を取り入れてもらうきっかけがほしかった。
わたしが東京に行く前日、ちょうど仕事帰りのタイミングで彼女から電話がきた。
明日のことで何か話しておくことがあるのだろうかと思い、なんの気なしに出る。
「ぐすっ、ぐす、、」
はるひは泣いていた。ザッザッと外を歩くような音も聞こえた。
「え、どうした?」
事態の深刻さは雰囲気で伺えた。それでも状況を確認せずにはいられない。
「、、、彼と喧嘩したの、、、。今ね、彼のタバコ買いに行ってる、、はは、、、。」
文系の自分でも、まだ高校の数学Ⅱの問題を解く方がわかる気がした。支離滅裂とはこのこと。
「大丈夫?なんで喧嘩したの?」
「、、やっぱり彼、会ってた、、もうやだよ、、」
はるひの彼が、理由はともあれ元カノに会っていたことがはっきりわかる出来事があったのだろう。
「そっか、、、明日やめとく?」
「ううん、いける。あ、、、」
「どうした?」
「、、、待ち合わせの駅までの運賃払うお金ないや、、、」
親友が、東京の数駅を移動するお金がないにも関わらず、喧嘩した彼のために夜中にタバコを1人で買いに行く現実が、電話の向こう側にはあった。
「わかった、じゃあ、わたしがはるひの最寄りまで行くよ。それでいい?」
「うん、ごめん、ありがとう。」
「ううん。楽しみにしてる。でも無理しないで。」
電話を切ると、一刻も早く、という気持ちだけが残暑の夜道に漂っていた。

翌日、都内で待ち合わせの時間まで1人でカフェで時間を潰し、さあいざ待ち合わせ場所に向かおうとした時だった。はるひからの着信画面がスマホに表示される。
「ん、もしもし?どうした?」
「おい、お前なに人の女に別な男紹介しようとしてんだよ」
どう考えてもはるひの声ではない。
一瞬で全てを理解した。はるひは彼からスマホのパスワードを教えられ、彼のスマホをいつでも見れるようになっていると聞いていた。逆も然り、ということだろう。
わたしが返す隙も与えず、相手はわたしに強い語気で罵声を浴びせ続けた。
どんな内容だったかは、全身タトゥーの男が怒ったときの様子を想像してほしい。
わたしは滞在していたカフェの出口付近の邪魔にならないところで立ち尽くしながら聞いていた。その横を幾多の人が通り過ぎる。
このまま電話を切り何事もなかったかのように解放されようか。そのある種常識的な考えは、狂気にも似た老婆心がすぐに打ち消した。
このままわたしが去れば、はるひにも飛び火があるかもしれない。それだけは絶対に避けたい。避けなければならない。
話しっぱなしだった彼が一呼吸置く。そのタイミングでわたしは口を開いた。
「でも、とにかくはるひは悲しんでます。あなたと2人で幸せに暮らしたいだけなんです、彼女は。話を聞いているとそうではないからなんとかしたいだけなんです。」
わたしの話にかぶせるように彼はまた話し始める。
「うん、でもそれは俺たちの問題であって他人は関係ないよね、それはわかる?」
そうしてそのまままた激昂する。
もう何を言っても無駄だと悟り口を開くのはやめた。適当な相槌のみに徹した。とりあえず、問題解決ができていないからこんなことになっているということがまるでわかっていないということだけは理解できた。
わたしだって本当ははるひが愛する人を愛したい。ただ、2人を繋ぐ愛の形に、わたしはどうしても納得はいかなかった。
散々わめき散らし、いい加減疲れたのだろう、語気が徐々に穏やかになり、最終的には
「まあ、はるひも沙也加ちゃんしか友達いないって言ってるからさ、これからも仲良くしてあげてよ」
と、何も解決しないまま終わりよければ全てよしと言わんばかりにまとめられた。
「じゃあ、はるひにも代わるね」
わたしは少し身構えた。
「、、ぐす、、ごめん、沙也加、、」
やっぱりはるひは泣いていた。
もう親友にさえなんと声をかけたらいいのかわからなくなっていた。
「今日、もう無理して来なくてもいいからね、、」
そう言われ、すぐ
「いや、今から行くよ」
と言いたかった。でも、実際には
「、、また今度にしよっか!」
この期に及んで、わたしは怖くなっていた。実際に行って自身の身に危険が及ぶ可能性を冷静に捉えてしまっていた。
そんな狡さを悟られないよう明るく発した言葉だった。
「うん、そうしよ」
簡単に別れの挨拶を交わし電話を切る。
このあと遊ぶためにホテルのチェックインは深夜にしていたが、構わずそのままホテルに向かおうと足を動かす。
数分後はるひからラインがあった。
「やっぱり少しだけでも会えないかな?」
どくん、と心臓が脈打つ。足は止めた。数十分前まであんなに会いたかった親友に、この時はもう会いに行けなかった。
「ごめん、さっきの電話で会いに行かなかった時点で、わたしもうはるひに合わせる顔ないや、、、だから、ごめん、会えない」
すぐに返事が来る。
「そっか、そうだよね、ごめんね、ありがとう」
はやくホテルに帰ろう。わたしが歩ける今のうちに。

「夜だったらいいよ」
電車で連絡を取った相手からの返信は、余裕のない心を追い詰めない程度の間隔できた。
ホテルに帰っても1人。ならば、せめてスマホを介してもいいから、誰かと話をしたかった。
この時真っ先に浮かんだのは、Y君だった。機転の効く彼なら、どんな方向からでもわたしを元気づけてくれる気がした。
おまたせ、と連絡が来た時、わたしは普段より少しわがままだった。
「嫌だったらいいんだけど、、、電話でもいい?」
実は、Y君とはまだチャットで話すだけで電話をしたことがなかった。
ダメ元だったがすんなりOKをもらえたので、そこで初めてライン交換をし、声で話すことになった。
「もしもし、わあ、電話はじめてだね!」
謎にテンションが高くなった。
「ふ、そうだね笑。で、どうした?」
対して彼は落ち着く声だった。
「うーん、、なんかね、、、」
そこまで言って、わたしは言葉を紡げなくなった。代わりに涙が溢れた。
「、、、っく、、、」
嗚咽がもれる。今ここに、わたしの感情を遮るものは何一つなかった。
先程とのテンションの違いに驚いていたであろうY君は、無理に介入はせず、かといって離れていくわけでもなく、心地よくそばにいてくれた。
「わたし、親友なくしちゃった、、、」
その安心感を頼りに、わたしは少しずつ顛末を話し始める。
高校の親友とずっと仲良くしていたこと、その親友が辛い恋愛をしていたこと、わたしが今日を境に寄り添えなくなってしまったこと、、、
話し終えた後も、涙と嗚咽は止まらなかった。
深呼吸が電話の向こうから聞こえ、今度はY君が話し始めた。
「でも、それって沙也加は悪くないけど、友達も悪くないよね」
また心臓が脈打つ。
わたしは親友を守りきれなかった。けど、そんなわたしにとどまらず、わたしの守りたかったものさえ守ろうとしてくれる存在がいることは、わたしがこの世に生きる許しであり、救いだった。
もう感情は抑えられなかった。子どものように脇目も振らず声を上げて泣いた。会話はしていたとはいえ、初めての通話でしかも顔さえ知らない相手からこれだけ感情を露わにされる彼には同情したが、それだけわたしの彼への信頼は色濃くなっていた。
わたしが泣き疲れて話せなくなる頃には、
「沙也加とその友達になんかある時は俺がその男ボコりにいくわ!笑」
と冗談で笑わせてくれた。
「わたしさ、何より友達大事だからさ。その大事なものを否定しないでくれたことが一番嬉しかった。ありがとね。」
「ううん、よくがんばったよ。おつかれ。」
Y君がかけてくれた言葉は、今、そしてこれからを生きるわたしにとってなくてはならないものになると確信していた。

付き合っているT君がいつものようにわたしの家に来ていたその日、夕飯を一緒に食べたあと、わたしは東京での出来事を彼にも報告した。
あの日ほど泣きはしなかったものの、思い返すことでより強くわたしは自責の念を抱いていた。
同い年の彼は世代的にも同じレベルで物事を語り合えた。遠出をする時はいつも会えない分、車の中でいろんな話をしていた。変にお姉さん振る必要も、べたべたに媚びる必要もない関係性は、同い年のパートナーの良さを享受するには十分だった。
今回もうんうんとテンションを合わせて聞いてくれていた。
しかし、そのあとのT君からの言葉で、全てが変わってしまうことになる。
「もちろんそれは沙也加悪くないよ。友達は自業自得でしょ笑」

ああ

「ありがと笑」
その夜、わたしは孤独だった。

それ以来、わたしの気持ちは顕著にT君からY君に傾いた。
この前の電話のお礼を、という理由で食事に誘い、そこで初めて顔を合わせることになった。
Y君は筋トレを趣味にしていて、腕の筋肉がやばいとのことだった。普段筋肉質な人物と縁がないわたしは、そんなところも楽しみにしていた。
「Y君!ほんとにすごいね笑」
実際に会うと同時に、人差し指と親指で上腕筋をつまませていただく。
「でしょ笑」
電話と変わらない落ち着いた声のY君は、緊張していたのかぎこちなくはにかんだ。
お礼のつもりの食事だったが、予約から道案内、最後のお会計まで任せることになってしまった。
「次はぜったい出すからね!!」
半ば強引に次のアポイントとこちらの会計を宣言する。
「いいよ別に笑」
クールな反応でも、落ち着く声と不器用なはにかむ顔が、わたしを常に安心させた。

東京でのことがあってから数日後、
「この前はごめん」
とはるひからラインがあった。
「こっちこそ、ごめん。大丈夫だった?」
「うん」
最も懸念した彼からの暴言や暴力はおそらくなさそうだった。
「彼とはどうするの?」
逃げたくせに図々しく問いかける。
「私、やっぱりあの人と生きていく。そう決めたんだ」
わたしははるひが大事だった。だから守りたかった。でも、わたしの理想の未来は、彼女の見据える未来ではなかった。
わたしも、腹を括らなければならなかった。
「わかった。はるひの決断は尊重する。でも、正直、あの人のことで傷つくはるひを、わたしはもう見ていられない。だから、あの人と一緒にいるうちは、わたしはもうはるひとは関われない」
わたしの利己的で最低な意思表示にはるひは、
「うん、ごめん、ありがとう」
とどこまでも謙虚だった。
連絡を受けたのが家でよかったと思った。

付き合っていたT君とは月に1〜2回会う程度、ラインや電話も元々そこまで多くなかったため、この頃にはもうわたしの起きている時間は仕事かY君にほとんど費やされるようになっていた。
Y君は学生ということもあり、比較的夜中も起きていることが多かった。夜行性かつショートスリーパーのわたしと生活のリズムは合っていたといえる。
何度目かの会う日、夜の公園のベンチで話していた日がわたしたちの記念日になった。
わたしが軽く誘導尋問を仕掛け、言わせたような感じではあったが、Y君もまんざらではなさそうだった。
それと同時に、わたしはもう一つの決断もしなければならない。

その夜、T君と電話を繋いでいた。
「話さなきゃいけないことがあるの」
「ん、どうした?」
いつものように彼は聞く姿勢をとってくれる。
「ごめん、別れよう」
「え?」
東京での件で、親友を蔑む言い方をされたことが嫌だったこと、そして自分にとって特に友達は大事なものであったからこそその価値観が違う人とは生きていけないことを素直に伝えた。
断っておくがT君は全く悪くない。今回の件も彼女であるわたしを全面的にフォローしてくれたし、普段の彼氏としての存在も完璧だった。
だからこそ、この人にはわたしじゃなくてもいい、という気持ちがどこかにあった。そして、今回の件で親友が自業自得と言われたことも、親友を蔑むという見方のほかに、
「お前がはるひを守れなかったからこうなった」
と責められているようにも感じて仕方なかった。
もちろん彼はわたしを責めるつもりは一切なかったはずである。ただ、だとすればそれはやはりわたしの中で親友を蔑むということになり、どの道彼の価値観にわたしが合わせていくことは困難であった。
「久しぶりに電話するから楽しみにしてたのに、、こんな、、」
彼は電話の向こうで泣いていた。別れを告げられることの辛さを身をもって知っているからこそわたしも辛かった。
そして、冷静にこの状況を捉えられる自分に激しく嫌悪した。
これが、二者択一でわたしが選んだ答えだった。


《ふりだし》
嫌なことを一つも言わずに別れてくれたT君は最後までスマートな男の子だった。
彼と別れたことを後悔はしていない。後悔することは、別れ話をすることより失礼なことのような気がした。
Y君と付き合って間もない頃、ここ数年で最大の台風がくるということで世の中はざわついていた。
直撃当日は休みになる会社もある中、わたしの会社はそうではなかったため、わたしは通常通り出社しなければならなかった。ただ、通勤の脚である電車が止まってしまう可能性が多いにあった。
「Y君、お願いがあって、今度の台風の日仕事終わりに迎えにきてくれない、、?電車止まって帰れなくなるかもしれなくて、、」
ラインで送ってみる。すると
「いいよ。何時ごろ?」
と返ってきた。
Y君は実家暮らしで、父親が単身赴任でいないため、母親と2人で生活していた。
その事実を知って尚、わたしはさらにわがままを仕掛ける。
「その日はたぶん早く終わると思うから17時くらいにきてもらえたら、、、。でね、もし嫌じゃなかったら、その日そのまま1人で過ごすの怖いから、泊まっていってほしいの、、、」
送ってからやはりやめればよかったかと少し後悔する。が、
「わかった、そうする」
とあっさり返ってきてしまった。
Y君がわたしと過ごすということは、その日は母親が1人で過ごすということである。あくまで他人とはいえ、いささか申し訳なさは感じつつも、わたしの元に来てくれるY君には感謝した。
当日、猛烈な土砂降りの中、Y君は車で迎えに来てくれた。
「ごめんね、こんな中。浸水マップとかも出てるけど、お母さん大丈夫かな」
素直に心配な気持ちはあった。
「大丈夫。にしてもすごいな笑」
フロントガラスに打ち付ける雨は、今にも世界を飲み込んでしまいそうなほどだった。わたしはY君と一緒ならこのまま世界が終わってもいいと思った。
結局、世界は終わらなかった。わたしの職場の事務所が水浸しになるくらいであった。

相変わらず夜行性だったわたしたちは、いわゆる寝落ち通話や、夜の散歩をよくした。寝落ち通話に関しては、わたしが寝落ちていても、彼は通話を切らずにそのまま寝ていたようで、わたしが朝起きた時まで繋がっていたときはさすがに驚いた。
「、、Y君?おはよう、、?」
おそるおそる声をかけてみる。
「、、ん、、沙也加おはよう」
一緒に寝ていたみたいで、なんだか面白かった。
とにかく彼の声が好きだった。その声に、常に触れていたかった。本人に直接伝えたくなるほどで、伝える度に彼は照れていた。
わたしが優しいY君に強烈に惹かれる理由はもう一つあった。
彼はTOEICで最大750点を獲得したことがあると言っていた。英語のやつ、という認識しかないわたしだったが、調べると英語を使ってある程度仕事ができるレベルとのこと。大学受験のリスニングで精一杯のわたしには到底到達できないレベルだった。
何か強みを持つ人は、それだけでわたしには輝いて見えた。
そんな彼は、夜の散歩をしながら、英単語のアクセント問題を出してくれた。わたしは歩きながら一生懸命発音し、一番しっくりくるアクセントで答えた。
わたしは学生時代にゲーム機で謎解きのソフトや、スマホを持っても脱出ゲームばかりするような人間だったので、こうしたゲーム感覚の問題はとても楽しめた。
そんな風にして時間を気にせず歩いていたので、本来なら車やバスで15分ほどかかるようなショッピングセンターにいつの間にか徒歩でたどり着いてしまったときには思わず笑ってしまった。彼もそんなに歩ったと感じていなかったのだろう、きょとんとしながら笑うわたしを見ていた。
わたしがY君に尊敬されることもあった。それは歌である。俺は音痴だから、とはいいつつも、歌うことは好きだったらしく、カラオケは2人でよく行った。
わたしが歌う毎に、Y君はすげえ笑とこぼしていて、その反応にわたしも満たされていた。
そういえば、大学時代にA君と付き合っていたときも、よく歌を褒められていたことを思い出した。
幼い頃から家族にも歌を褒められていた。友達にもその特技を認められていたからこそ、高校ではステージに上がれるほどには自信がついていたと思う。
夢だった声優にも歌手にもならなかったが、好きなことで褒められることのありがたさは常々感じていた。
いつもクールなイメージとは裏腹に、Y君はポップな楽曲も好んで歌っていた。親友のことでわたしを励ましてくれたように、胸の内に熱いものを秘めている性格を思わせた。ORANGE RANGEのO2は高音を外すことはあったが、そもそもの声が好きであるのと、楽しそうに歌うY君を眺めることが楽しかった。
"まちがいさがしの間違いの方に
生まれてきたような気でいたけど
まちがいさがしの正解の方じゃ
きっと出会えなかったと思う"
何気なく彼が歌った菅田将暉のまちがいさがしの冒頭に、そっとわたしは共感した。
英語が堪能なY君といる期間は、弟から教わったFIVE NEW OLDの楽曲をよく聞いた。日本人バンドだがほぼ全ての曲が英詞という、ちょっと変化球なところが気に入っていた。

Y君にとってわたしは初めての彼女だった。
いつものお礼に、と好きそうなブルーのLeeのアウターをプレゼントすると、
「え、やったあ、ありがとう。着て帰るわ笑」
と開けて早々に試し羽織りし、ご満悦と言ったご様子だった。
彼が通う専門学校でも話題になったようで、
「Yさんいいアウターですね!こういうの着るの珍しくないですか?」
という問いに対し、
「おう、彼女にもらった」
「え!?Yさん彼女できたんすか!?」
と仰天される具合だった。
というわけで、彼の女性への対応力は知らないが故の未熟さがあったが、むしろそれくらいが安心できた。わたしは、彼が他の女性のもとにいく心配もいらなければ、彼の存在に背伸びをする必要もなかった。

その日は隣県までお寺散策のため、昼間から2人電車に揺られていた。昼間だが、初冬の小雨の日、いよいよ寒いという言葉がしっくりくる季節になり始めていた。
着いた頃には夕方で、開いているところも少なく、散策もほどほどに帰ってきてしまった。
シフト休みだったわたしは、学校のないY君の休みと合わせることが難しかった。珍しく昼間から遊んだその日は、ほぼ丸一日一緒だったので、このまま解散するには寂しすぎた。
「ねえねえ、今日は泊まってく?」
帰り道に期待を込めて聞く。すると、少し意外な答えが返ってくる。
「今日は遊んだし、さすがに夜は勉強しようかな」
「え〜、帰っちゃうの?」
寂しそうにわたしは言う。本心である。
「うーん、、」
結局彼は泊まることになった。おそらく彼の優しさと、わたしのわがままによる結果だった。
半ば強引に誘ったとはいえ、家の近くまでくるとさすがに少し良心が痛んだので、
「来てくれてありがとう」
と伝えると、
「ううん、いいよ」
といつものようにY君は言った。
もちろんだが、Y君は女性と過ごす夜もわたしが初めてだった。
その日はもう何度目かではあったが、まだまだ不器用さが残るY君との時間は、とても愛おしかった。
「、、あれ、、?」
終わってからの彼の様子が変だった。
「どうしたの?」
「、、ついてない」
どうやら、わたしの中でゴムが外れていたようだった。
わたしの体から取り出してみると、中に収まっていたようだが、100%安全と言えないのは分かり切っていることである。
「大丈夫?」
いつものように冷静にみえる彼の声色に不安の色が滲んでいた。
「うん、たぶん大丈夫、専用のピル一応飲もうかな」
対してわたしは、この手の展開は既にこれまでの彼氏で何度か経験済みであった。しなくてもいい失敗は、心と体に傷をつけることでそれらを無駄に強くした。
「いくら?俺出すよ」
断ったが、彼が引き下がらないので、いただくことにした。
それでも不安がるY君を宥めながら、その夜は2人で眠った。

翌朝目覚めたとき、Y君はいなかった。確実に一緒に寝たはずである。
勢いよくからだを起こし、部屋を見渡した。
自分のスマホが目に入り、通知を確認する。
Y君から一件ラインがあった。
「ごめん、今日はやっぱり帰るわ」
ちょうどわたしが眠りについたであろう時間に送られていた。
この後の展開を予想できないほど、わたしだってばかではない。

明らかに彼の返信はそっけなくなった。
3日ほど様子を見て、
「何か思ってることある?言ってくれなきゃわかんないよ」
思い切ってラインで伝えた。声だったら、確実に震えてしまったであろう。
いつもの彼よりはゆったりのペースで返信が来る。
「ごめん、別れよう」
覚悟はしていた。でも、いざ現実に突きつけられると、酷く傷ついた。
「なんでそう思うの?わたしが嫌いになったから?」
ださくてもいい。すがりたい気持ちが勝つ。
「嫌いになるわけない。けど俺、今は家族が大事だし、勉強もしたい。だから、ごめん」
どうやら彼はわたしと結婚しないといけないと思ったようだった。だとしたら、この理由はY君らしいと思った。
わたしはY君の一番になりたかった。わたしがそうだったから。でも、この時のわたしは、彼の気持ちを差し置いて図々しくなることもできなければ、彼を待ち続けられるほど大人でもなかった。
「そっか、じゃあ、Y君のやりたいこと、全部できるといいね。今までありがとう。じゃあね。」
そう伝えるだけで精一杯だった。
そこから、Y君の返信はない。
わたしは、何も守れなかった。
愛してくれた人も、大事な親友も、大好きな人も、自分の気持ちも。
強制的に戻された人生のふりだしで、その失ったものの大きさを前に絶望するしかなかった。


《カルマ》
絶望しても死ぬことはできない。その力がないことは高校2年で証明されていることは不幸中の幸いである。
懲りずに以前入れていたアプリを再インストールする。酒やタバコと何ら変わらない、中毒であった。
もう誰かと会話を楽しみたい、などという暢気な自分はいない。コメントを返す、というある種の作業を行うことで、空白になってしまった時間が少しでも潰れてほしかった。
街中に1人で出かけた日、唐突に泣き出したくなったときは、なけなしの理性とプライドで路地裏まで避難した。そのまま誰が停めるのかもわからない薄暗い駐車場の縁石に座り込み、泣いた。
あまりにも気持ちのやり場がなく、ラインのトーク画面で一番上の友達に電話をかけた。その子とは、Y君と旅行に行くはずだったわたしの誕生日の休みに、秋田に一緒に行くことになっていたため、打ち合わせのラインをしていた。
高校時代からの友達だったが、なぜかその前からずっと仲が良かったような気がする不思議な縁があった。
泣いたまま話し続けるわたしに向かって、友達は優しく相槌を打ち続けた。
その他の日の夜中、ほとんどの人が寝静まり、誰とも話せないときは、EARTH WIND & FIREのSeptemberを聞きながら散歩をした。9月の出来事を12月に思い出す歌であり、時期がY君と付き合った頃と重なっていた。

この頃、"変化せずに変化する"という感覚に陥ることがあった。画面の中でやりとりすることはずっと変わらない反面、わたしのY君と出会う前後の心情は明らかに違っていた。
"永遠に訪れることのない永遠"も嘆いた。誰かとの関係が永遠でないことが、本当に耐え難く、苦しかった。
同じ学科で一緒に4年間を過ごし、大学を卒業してからは県が離れるため文通を始めた友達がいた。
当時はクリスマスシーズン。ホームアローン2でケビンが、鳩おばさんに対の鳩の飾りを渡したシーンばりに、封筒に手紙と小さな鳩の飾りを忍ばせ送ってみると、
「永遠は存在します。鳩は二羽います。それには理由があるはずです。愛は、小さな子どものように、繊細でやわらかく、傷つきやすいので、それをとても正しく扱える鳩が二羽必要です。
沙也加のくれたかわいらしい鳩を、私はちゃんとうけとりました。
永遠は存在します。
ほんものの永遠の愛は、鳩と鳩のようにつむがれていくものではないかな。
けれど、愛を差し出すのは、たいへん勇気のいる行動です。今回は、私に、鳩をくれてありがとう。お互い愛を信じましょう。」
と、冬らしいポストカードで返事が送られてきた。わたしたちは手紙で、手紙以上のものをやりとりしていたのかもしれなかった。
ところで、"less is more-少ないことは、豊かなことだ","do or die-一か八か"といった、後のわたしの座右の銘となる言葉を教えてくれたのも彼女である。後にも先にも、彼女はわたしの先を行く存在で、いつまでも追いつけそうにはない。

これまでクリスマスは家族か、サークルの仲間か、高校の友達か、A君か、誰かが一緒にいてくれた。
だから、この年が初めての1人のクリスマスだった。
幸か不幸か、イヴは休みだった。何もせず過ごし、ふと21時前にこのままではだめだと思い、深夜まで営業するカフェに行くべく、財布とスマホと文庫本を持ち家を出た。
地下鉄を降り、カフェの最寄りに降り立つと、そこはイルミネーションとカップルたちで賑わっていた。その中を何の遠慮もなく進んでいく。全てが満たされているような空間の中で、Y君だけが足りなかった。
そのカフェは何度か行った場所でそこまで迷わずいけた。入口を入るとすぐに地下に続く階段があり、降りた先にはヒゲとメガネがチャームポイントのマスターと、色とりどりのソファとテーブルが並ぶ薄暗い店内が広がる。まだ1人でも選べるだけの空席があった。奥のゆっくり座れる席を選び、もはや深夜など関係なくカレーライスとナポリタンを注文した。
どちらもまあまあなペースで平らげた。明日仕事であることを思い出し、読書もそこそこに仕方なく帰り支度をする。
帰り際、マスターに
「メリークリスマス」
と声をかけると
「メリークリスマス」
と返してくれた。

アプリでの会話を作業のように行うだけだったわたしと、健気に話し続けてくれる子がいた。Y君と別れ、以前のアプリを再開してから間もなくマッチングした一個下のR君。長い日には7時半から20時まで働いていた日もあったわたしは、彼への返信を1日に一回しかできない日もあったにもかかわらず、彼は毎日
「おはようございます!」
「今日もがんばってください!」
「お疲れ様です、沙也加さん働きすぎじゃないですか?」
といったあたたかい言葉をかけてくれた。
こうしたアプリの界隈では、だいたい4〜5回コメントを交わせば会いませんか、とお誘いがあるのが通例であった。一年で会うだけなら50人は優に超える経験者が言うのだからそうなのだろう。
だが彼はそこには当てはまらず、数日間は当たり障りのない会話を続けていた。その謙虚さは、わたしの疲れた心にペースを合わせてくれているような感覚を起こさせた。
彼は自分の仕事を畳屋と言った。興味がそそられ詳しく聞くと、社内で製作された畳やふすまを運搬し、取り付ける業務を行なっているそうだった。20代前半で数ある仕事から畳を選ぶのもなかなかな感性だと感心した。彼自身としては、まあ和のものが好き、くらいの感覚だったようだった。
やっとR君が「電話しませんか?」と誘ってくれたのは、話し始めてから3週間ほど経ってラインを交換した頃だった。付き合ってもいない上、ほぼテンプレのような会話しかしなかったのに、ここまで付き合ってくれていることは素直にありがたかった。
電話を繋ぐと、ゆったり話す口調が印象的だった。比較的早口なタイプのわたしはペースを合わせることに少し苦労したが、トークで話すようななんでもない会話は、わたしを十分に癒した。
そこから気を許してくれたのか、数日後にはドライブに誘われた。ここまでくると、多少はR君がどんな人なのか気になり出してきた。わたしがシフト休みであるのに対し、彼がカレンダー通りの休みであったため、彼が年末の休みに入るタイミングで、わたしの仕事終わりの夜に会うことになった。
当日、彼はわたしの家の最寄りのコンビニまで来てくれた。
白色の車、とラインで言われ、駐車場を見渡すと白い盛岡ナンバーの車を見つけた。出身が岩手と言われていたことを思い出し、すすすと近寄る。
車の特徴からクラウンという高級車であったことを知るのは、後に周囲にこのエピソードを話した時である。興味がない分野とは言え、出身のナンバーにはしゃぐ気持ちしか持てなかった幼さを、恥じたり誇ったり忙しなかった。
最早出会って間もない男性とドライブすることへの抵抗は無いに等しかった。そのため以前のような緊張感などもなく、まるでいつも会う友達かのようなテンションで会いにいくことができた。
車のドアを開けると、驚愕した。
かっこいい。
R君はアプリもラインも加工アプリで可愛く施されていた写真を使っていた。その上、電話も少し高めの声でゆったり話す口調から、てっきりかわいい感じの男の子が来ると思っていた。
ところが、目の前の運転席に座る男性は、尖った顎、切長の目、ハット、ニットにチェスターコートという綺麗めファッションに包まれ、わたしのタイプにどストライクの人だった。
世間のかっこいいは知らない。とにかく、マッチングアプリにおける出会いでは稀少なパターンであった。
急に緊張した。こうしたシチュエーションに緊張できる心がまだ残っていたことに安心した。
「おまたせ〜、沙也加だよ、遅くに来てもらっちゃってごめんね」
「全然いいですよ〜」
そう言って、彼は何の気なしに車を走らせ始める。
「写真SNOWだったからかわいい人が来るのかと思ったらすごいかっこいい人来ちゃった笑」
助手席から話しかけると、
「え、そうですか?」
とクールに返ってきた。
おそらくR君の方がよっぽど緊張していた。
アプリで何人かとやりとりはするも、実際にこうして会ったのはわたしが初めてだと言う。
夜中にもやっているファミレスに入り食事をする時も、注文を待つ間彼はずっとスマホを見ていた。
一見興味がなさそうな行動に見えるが、話しかけると面白そうに笑ってくれるのでまだ私と話すことに気持ちを置いてくれていることがわかり、そんな様子もかわいかった。
店を出て車に乗り込んでから彼は
「プーさんどうぞ」
とわたしの上半身ほどはある大きさのプーさんのぬいぐるみを後部座席から引っ張り出し、助手席のわたしに抱かせた。
「うわ、おっきいね笑笑」
と笑いながらわたしは言われるがままに膝の上に座らせる。
そのまま彼は少しドライブしましょう、と言いながらまた車を走らせた。
ふと、
「沙也加さん、もう帰りましょうか?」
と隣から声がかかりはっとした。寝てしまっていたのだ。
仕事終わりの夜、食事後、膝の上のプーさん、という条件がついて、寝ない方が無理だったかもしれない。
すぐに罪悪感が込み上げる。
「うわ、ごめん寝ちゃってた、何時だろ」
「23時くらいですね」
別に普段寝る時間ではなかった。もう少しいてもよかったが、このまま揺られてまた寝てしまうのも申し訳ないため、今日はこの辺で解散となった。
R君はわたしを家の近くまで送ってくれ、わたしは彼の車が見えなくなるまで見送った。
やってしまった。
車を降りてはっきりそう感じた。わたしが彼に抱いた印象がよかっただけに、尚更罪悪感があった。
自分が誰かに運転してもらう時に寝る、ということを親以外にはしないようにしてきた。それはもちろん運転してもらうことへの敬意もあるし、単純にその人との時間を楽しみたいという気持ちもあったためである。
ところが、このポリシーが覆されたことはわたしの中で意外にもポジティブに働いた。
つまり、それだけ安心できた、ということだと思った。その考えがとても腑に落ちた。
そして、そのまま変なところに連れて行かれなかった、という事実も彼の印象を上げる助けになった。
それにしても、初対面で寝てしまったわたしの印象は思いやられた。もう次はないだろうと少し残念に思いながら家までの道を歩いていると、R君からラインがあった。
「今日は楽しかったです!また遊びましょ〜」
すぐに返信コメントを打つ。
「寝ちゃっててごめんね、、また遊んでくれるなら嬉しい!今日はありがとう〜」
柄にもなく舞い上がっているなと感じた。

その後もR君とラインは続き、また3日後の大晦日に年越しそばを食べに行こうとなった。
大晦日と元旦は仕事の休みをもらっていたため、昼間から会うことができた。
結局店を考えるのが面倒くさくなり、すぐに行ける回転寿司にしたが、次はないと思っていたわたしは既に会えているだけで満足だった。
大晦日の夜から元旦にかけては実家で過ごす予定だったため、夕方くらいには解散したい旨を伝えると、
「よかったら近くまで送りますか?」
と言ってくれたが、市外に実家があり遠いため遠慮すると、最寄りまでと申し出てくれたので、そこはお言葉に甘えることにした。
わたしが実家で過ごす間もラインは続いていた。
0時になるタイミングでR君にあけおめラインを送る。
「あけおめ〜今年もよろしくね!R君に一番初めに送ったよ〜」
すぐに返信がくる。
「あけおめです!僕なんかに一番初めに送ってくれて嬉しいです!」
そんな風にやりとりを続けていくと
「なんだかもう沙也加さんに会いたくなっちゃいました」
そんな風に言われ、嬉しくないわけがない。
「元旦のうちに戻るから、もし昨日みたいにまた最寄りに迎えに来てくれたら会えるよ」
少しずるい言い方であることを認識した上で出方を待つ。
「じゃあ迎えにいきます〜」
よおし。

そのやりとりをした数時間後の元旦の夜、彼は本当に迎えに来てくれた。
「ごめんね〜連日来てもらっちゃって、、、」
「いいんですよ〜」
R君は、優しい人だった。
そのまままた夜のドライブが始まる。彼が仙台城のライトアップが見たいというので、向かうことになった。
そこで告白されるのだろうかと思う気持ちがなかったといえば嘘になる。しかし、実際着いてからは景色を眺めるだけで、1月の寒い時期でもあるため早々に車に戻りドライブが続行された。
2連休でもちろんわたしも眠くなく、話したり、窓の外を見たりしていた。そんな何をするでもない時間が純粋にわたしは楽しかった。
あっという間に時間が過ぎ、彼がわたしの家の近くに車を停めてくれたときには0時を回っていて、彼も目を擦り始めていた。
「わたし明日仕事だからそれでも良ければだけど、明日R君休みならわたしの家で寝ていく?そのまま帰るの危なくない、、?」
素直に事故を起こさないかの心配と、遅くまで付き合わせた申し訳なさから出た言葉だった。
「いや、満喫どっか探して寝るから大丈夫ですよ」
「ああいうとこちゃんと寝れなくない?一応うちならベッドだから寝れるかなと思うけど、、、」
「うーーん、、でも、、、」
もう彼は易々と手を出してくるような人間ではないとほぼ確信できていた。
だからこそ、疲れた彼にすぐ休んでほしいと優しさを持つことができた。
いつまでも決めきれなさそうな彼に痺れを切らし、
「もう悩んでる間に寝よ、ね!笑」
と半ば強引に説得し、その夜は初めて一緒に過ごすことになった。

こたつで寝落ちるプロと言っても過言ではなかったわたしは、その夜も迷わず自分がこたつを選び、R君をベッドに促した。
R君は初めこそ遠慮したが、わたしの変なプロ意識に負け、ベッドで寝る選択をしてくれた。
お互いの場所で寝つこうというとき、R君がもぞもぞし始めた。
そして、
「沙也加さん、起きてますか」
とこたつの中のわたしに声をかけた。
「なあに?」
と返事をすると
「こっちきてください」
と呼ばれる。
ああきた、と思う。でも、それを拒む気持ちはなかった。
「いいよ。寂しくなっちゃったの?」
彼があけてくれたベッドの隙間にお邪魔する。
「うーん、、、」
曖昧な返事をする彼と向かい合うように横になった。
彼はわたしに体をぎゅっと寄せた。わたしより20cm以上は身長があるはずの彼の体は、わたしと同じくらいのように感じられた。
顔が近い。どちらからともなく唇が触れた。
「沙也加さん、すきです」
布団に顔を埋め、小さく、彼は確かにそう言った。
一瞬沈黙し、すぐわたしは布団から勢いよく起き上がり、
「それは、わたしがR君の彼女になるっていうこと?」
と、彼の控えめな熱量に合わせる気のない返事をした。
すかさず彼が
「僕の彼女になってくれますか!?」
と、今度はわたしの方を見ながら問い返してくれた。
「いいよ、よろしくお願いします。」
そのまま、わたしたちは優しく抱き合って眠りについた。

付き合ってから、彼がタバコを吸う人であることがわかった。
当時のわたしはタバコの煙でむせてしまう人であったが、彼も気遣ってくれたおかげで支障になることはなかった。
しかし、一緒に歩く夜道で彼がタバコを吸い、終わったものを道端に投げたことがあった。
「あ、それはよくない!あと2回したら別れるからね!笑」
と譲歩して言ってみた。
「え〜わかった、、」
まずかったか、と思いきや、次に会うときには吸い殻ケースを持参していた。
些細なことではあるが、わたしのために行動を省みてくれる姿勢は好印象だった。

この頃のわたしは、仕事も転換期であった。志望して飛び込んだ葬祭業は大変でも好きだったし、未熟ながらも携わることへの誇りもあった。しかし、上司との折りが悪くなり、閉塞感のある日々を過ごしていた。
そんな中、付き合い始めたR君と何気ない会話をしていたときに、彼が
「今を生きるってことが大事だよね〜」
と言っていたことをきっかけに、わたしは"今を生きる"という観点で仕事や人間関係について考えるようになった。
葬祭業は、遺された人たちのための仕事と捉えれば今を生きる人のための仕事と言えるが、どうしても過去の色が強くなることは否めなかった。
そして思えば、何よりわたし自身が、いつも取り戻せない過去や来るかもわからない未来に気を取られて、今を生きれていないことに気づいた。
社会人数年で転職をするリスクはある程度理解していたが、今度はわたしを含めた今を生きる人たちのために仕事を変える決意をした。
それと同時に、これからはR君と今を生きていくと、はっきり心に刻んだ。

はずだったが、予想より早くそれが揺らぐ出来事が起きる。
彼は車が好きな人だった。わたしが知らなかった高級車に普段乗りをする他、サーキットでも大会に参加するという世界線で生きていた。
付き合って2ヶ月になろうとする頃、その大会がどんなものかをSNSで調べようと、Twitterで検索をかけていたところでたまたまR君のアカウントを見つけてしまったことがあった。
鍵がかかっておらず、なんとなく覗いてみると、目に止まる投稿があった。
「隣で歌われるの本当にうるさいからやめてほしい」
心臓が激しく脈打ち始めるのがわかった。投稿日時を確認し、すぐに彼とのラインを遡る。
わたしたちは付き合ってからも毎日何かしらの会話を続けていたため、ラインを遡ることでその時に何をしていたかがだいたい思い出すことができた。
ラインから予測できたことは、彼のコメントの投稿時、わたしたちは彼の家に行くために彼の車に乗っていた時だということだった。
つまり、車に乗る間、わたしが流れている音楽に合わせて歌っていたことに対してのコメントだと見当がついた。
黙っておくこともできた。しかし、黙って付き合い続けられるほど妥協できる要素では絶対になかった。
何度も言うようだが歌を生業にしているわけではない。ただ、これまで歌が好きだったこと、ありがたいことにわたしの歌を気に入ってくれる人たちに囲まれてきた自分には、あまりにも受け入れ難い事実だった。
それがこれから一緒にいたいと思う存在からのものであるということが、さらに事実の深刻さを極めた。
後日彼がわたしの家に来た際に慎重に切り出してみた。
プライベートのアカウントを勝手に覗いたことは確かに歓迎されることではないため、その部分への謝罪はし、その後自分の素直な感情を伝えた。すると、
「流れてる音楽を純粋に聞きたいからそこに被せて歌われるのが嫌なんだ。だし、あのアカウントは車の仲間たちでふざけるためのものだから、中身はないよ。だから、それで別れるとかは言わないで、、」
後半はまだ理解できたが、前半は何度反芻しても納得はできなかった。それでも、彼に関係維持を懇願されたわたしは、結局拒むこともできなかった。
彼と生きる選択をしたことで、わたしの重要な一部は徐々に封印せざるを得なくなっていった。

関係性を心配しつつも、すぐにそれをカバーできる嬉しい出来事もやってきた。
バレンタインのお返しとして、ホワイトデーにスタバのタンブラーをもらった。春らしく桜の模様があしらわれ、彼のプレゼント選びのセンスが感じられた。
しかし、それよりもわたしを喜ばせたのはそれを選んでくれた理由と経緯だった。
「沙也加ちゃん紅茶好きだから、タンブラーとか使うかなって、、友達とスタバに行って、15分くらい悩んできた!」
自分の好きなものを覚えていてくれたこと、そして普段あまり行かない場所に友達を連れて時間をかけて選んでくれたこと。
わたしのために何かを捧げてくれる人であると実感し、有り難く、嬉しかった。

R君はとても寂しがり屋だった。わたしが友達とやひとりで数日泊まりに行くときには、
「沙也加ちゃんが3日もいないなんて、、どうすればいいの??」
と大袈裟に寂しがっていた。そんな風に寂しがってもらえることはわたしも悪い気はせず、帰ってきてからはすぐに会うようにしていた。
彼も一人暮らしであったため、わたしの家にくることもあれば、わたしが彼の家に行くこともあった。彼が仕事終わりにわたしを拾い、連れて行ってくれた。
ただ、彼の家は市外であったため少し離れており、わたしの家から車では40分ほどかかる場所にあった。そのため、わたしが行くのはわたしが翌日休みの日にしていた。
彼が翌日仕事に行ったあと、アパートの目の前のスーパーで買い出しをし、彼の夕飯を作り置きしていくことも習慣になっていた。まるでお母さんのようだが、わたしの料理を喜んで食べてくれる彼のためなら全く苦ではなかった。
そうして作り終わると、冷蔵庫に作り置きがあることを置き手紙に残し、わたしは最寄りのバス停からバスに乗り帰路に着くのだった。
彼のお弁当袋がボロボロになり、見かねてそれなりの新しいものをプレゼントすると、それも大袈裟に喜んでいた。胸に抱きかかえ、余韻に浸っていた。わたしからの何かが、彼も嬉しいようだった。

この頃、思わぬ人物から連絡があった。
「沙也加、お久しぶり。元気にしてる?」
はるひからのラインだった。約一年弱ぶりの連絡に戸惑いつつも、返信する。
「久しぶり、元気にはしてるよ。はるひは?」
「私、別れたよ」
しばらくはるひからの返信の文字を見つめた。
その短文から、計り知れない苦労と葛藤を想像した。
「頑張ったね、おつかれさまでした」
精一杯の労いを送る。
「私、実家戻ることにした。しばらくそっちで休むわ。お母さん心配してるし。」
彼女にとってそれが一番だと思った。
「じゃあまたわたしとも遊んでよ」
調子が良い。にもかかわらずはるひは
「もちろん、近くなるしね」
と受け入れてくれた。
はるひとは和解しいつでも会える距離にはなったが、彼女は東京での心の傷が深く、外出することに大変な勇気が必要になるようだった。
そのため、何度もトライしたがなかなか実際に会うことが叶わず、自然と連絡も途絶えるようになってしまっていた。

R君と付き合って半年経つ頃、初めてラブホに泊まることになった。
既にわたしたちは関係があったが、彼の会社の近くに噂のラブホがあるとのことで、この度一緒に行こうとなったのだった。
彼は付き合う女性がわたしで2人目だったそうだが、1人目は2年ほど付き合っていても男女の関係にはなったことがないようだった。つまり、わたしが初めてだった。
彼は男女でこそないものの、岩手から菅生サーキットに行くために1人で前のりしラブホを宿泊で使うことが多く、意外と内部事情に詳しかった。
彼曰く、ビジネスホテルより少し値段は張っても、設備やアメニティ、部屋の広さを考えると割安であるとのことだった。
わたしは前述の通りで、ラブホも流れで入ってしまったことが一度だけあった。その話をすると怪訝な顔をされたので、彼はあまり過去の恋愛の話をしたくないタイプであるとわかった。
選んだ部屋は壁一面に魚や海藻などが描かれ、ブラックライトモードにすることでまるで海の中にいるような気分が味わえるところだった。
値段の割に部屋も広く、設備も充実、彼氏と初めて来たというシチュエーションもありとても楽しむことができた。
わたしがかっこいいと思うR君の容姿は、私の性の開放をいつも容易にしてくれた。外出先ではクールでも、2人きりになると甘え出す様子は、さらにわたしの性的欲求を駆り立てた。回数を重ねても恥ずかしいと思えることで、自身が女性であることも強烈に認識できた。

梅雨の時期、わたしは葬祭業の仕事を正式に退職し、翌月の7月に転職先のリラクゼーションの会社への入社を控えていた。今を生きる人のために自分が何をできるかを考えた結果、この業界にたどり着いた。未経験であったが、充実した研修制度と業界的には珍しい完全歩合ではない給与形態に惹かれた。
2週間ほど無職になるため、思い切って髪の毛をオレンジにしてみた。
久しぶりに会う友達には驚かれたが、そんな反応も新鮮で楽しかった。
R君には写真で見せると
「嫌もう会いたい。むかえいく」
と気に入ってくれた。容姿に自信があるわけではないわたしは、好きな人から褒められることで自信をつけることができた。

わたしが7月1日から関東で一ヶ月研修だったため、しばらく会えなくなる前にR君の家で一緒に映画を見ていたときだった。わたしは急に気分が優れなくなり、
「ちょっと具合悪いから横になってていい?」
とソファに体を横たえた。
彼は初めこそ心配したものの、だんだん
「一緒に映画見ようって言ったじゃん。なんでそうなっちゃうの」
と機嫌が悪くなり始めた。
なぜと言われても、具合が悪くなるのは仕方ない。そこに文句をつけられる筋合いはないはずだった。
具合は悪かったがいてもたってもいられなくなり、わたしは荷物を持って彼の家を飛び出した。
すぐに彼からラインがくる。
「なんで出ていくの、戻ってきて」
「俺お酒飲んじゃったから車で行けないしさ」
その後もラインや電話が来ていたが、わたしがなにも返さないことで一旦おさまった。
しばらく深夜の住宅街をふらつき、頭も冷えてきた頃に電話を折り返した。
「、、、」
無言で彼の言葉を待つ。
「今どこにいるの」
怒った様子はない。
「歩いて10分くらいのとこ」
「もう早く戻ってきて」
夏とはいえいい加減深夜の外は肌寒く、仕方なく戻ることにした。
家に入ると彼が出てきて、玄関でわたしを強く抱きしめた。
「心配したんだよ、、、本当にこういうのやめて、、」
聞くと、実家にいた頃、彼の母親も同様に出て行くことがあったらしく、それが幼い頃からのトラウマになっているようだった。
それを聞き、流石に申し訳ないと思い反省した。
「ごめん、、、」
よくわからない感情で涙が出た。
「このまま帰ってこなかったら、もう沙也加ちゃんも関東行っちゃうし、一生会えないかと思ったよ、、」
喧嘩したきっかけはさておき、わたしと離れることをこれだけ惜しんでくれることも、わたしの存在の自信につながっていた。

髪色を元に戻し、関東での一ヶ月研修が始まろうとしていた。
一ヶ月分の荷物の重さに絶望したり、そんな中雨で移動が大変だったり、研修場所と寮が電車で1時間ほど離れた県を跨いだ場所にあったり、部屋に着いたらシーツがないので買いに行かなければ寝れなかったり、前乗りの0日目だけでも相当だった。
さらに、
2日目の休みには買い物袋が破け商品が全てアパート前で散乱、挙句ビンのオイスターソースが割れる。
5日目の夜には1ルームの部屋にゴキブリが出現。夢でうなされたまらず業者を呼び対策してもらうも特別給付金の半分が消える。
といった序盤で心が折れそうな出来事が続いたが、本分の研修は楽しく学びを得ることができた。
3日も会えないことを嘆くR君はもちろん寂しがっていた。わたしが夢に出てきたと報告するくらいだ。
わたしだって寂しかった。期間も距離もR君とはこんなに離れて過ごしたことはない。改めて遠距離はできないと実感させられた。

8月になり、仙台に戻って配属されてからは、新しい仕事と、R君や友達との時間をうまくやりくりしていた。忙しくても、充実していた。
9月は彼の誕生日だった。バーでサプライズケーキを用意し、お祝いした。あまりちゃんと誕生日をお祝いされたことがなかった彼は、とても喜んでくれた。

そんな楽しい時間を過ごす中でも、感情を揺さぶられるような喧嘩も絶えなかった。
彼は感情が昂ると口が悪くなったり、高圧的に話すような人だった。そうした態度はわたしを極限まで萎縮させ、追い詰めた。
落ち着くと穏やかになり、その度に仲直りはするが、またいつその入ってほしくないスイッチが入ってしまうかがわたしは怖くもなっていた。
学生時代の友達に相談し、頼ることもあった。しかし、みんな学生時代とは変わり、恋人ができたり、結婚したり、子供ができたり、失恋したり、仕事でキャリアを積んだりと、それぞれの人生を歩む姿を見て、それをいたずらに邪魔してはいけないと変な気遣いをするようになっていた。友達が大事、という気持ちがよくわからない方向に進んでしまっていた。
そして、いつしかわたしはエスケープゾーンとしてまたチャットアプリを使うようになっていた。会うわけではなく、とにかく彼とのことを誰かに伝えたいのと、逆に仲がいいときでも彼だけに依存しないように気持ちのバランスをとりたいと思う気持ちからだった。わたしのことを知らない人と話す方が、気が楽でもあった。

彼がわたしの家にきたとき、とても話しにくそうに
「話したいことがあるの」
と言うので、なんとなくデジャヴを感じた。
しかし実際の内容は予想を超えた。
「俺の友達がね、なんかトークするアプリ?で沙也加ちゃんっぽい人を見つけたみたいなんだよね」
静寂。使用用途は先述だが、その説明を彼が飲み込めるとは思えず、これまでは話さないでいた。
そのため、それらを説明すると、
「だとしても、俺はそういうの浮気としか見れないからやめてほしい」
とのことだった。大学の同期の飲み会で男性がいるだけでも良い顔をしない彼だったので、この回答は妥当だった。
了承し、わたしはアプリをその場でアンインストールした。
しかし謎は残る。アプリのわたしのアイコンはわたしの写真だったが、頭部と衣服の一部が見えるだけで、それをわたしであると判断するには、余程わたしの写真や様子に詳しい必要があった。それを彼が判断するならまだしも友達が判断したということが、にわかに信じられなかった。

チャットをしなくなってからも彼の急に気性が荒くなる性格が変わるわけではなく、変わらず楽しいと怖いの波が激しい生活は続いた。
そんな中、今度はスマホの広告で目に止まった配信アプリをダウンロードしてみた。
チャットとは違い、公言しなければどこに住んでいるかもわからない人たちと一度に複数人で話せること、そしてさらに声を出すことで感情を交えて話せることが魅力であった。
同性とも話せるため、同性ならではの悩みや恋愛の話ができることも嬉しく、わたしはたちまちどハマりしていった。
R君に対し前科の意識が全くないわけではないが、当時の生活の精神的なバランスをとるためには、こうした手段をとるしかないように思われた。細心の注意は払うつもりだった。

R君とは引き続き日常的にラインのやりとりは交わしていたが、ある木曜の夜に送ったラインが土曜の夜まで返ってこない時があった。アプリの頃からほとんどずっとやりとりしていたため、こんなに返信の間隔があいたことは初めてだった。いつもは夜に送ったラインは翌日の朝には返ってきていたのだが、今回は彼が休みであるはずの土曜にさえ返ってこなかった。
流石に心配になり、土曜の仕事終わりにライン電話をかけてみても繋がらず、念のため携帯の番号や会社携帯の番号にもかけてみたがいずれも繋がらなかった。
様々な悪い予感が頭をよぎる。なんとなく誰かを頼りたく、配信アプリを開くと、懇意にしていた人が配信をしていたため入室した。
その人は雑談兼筋トレをしながら配信をするわたしからしたらお兄さんで、タロット占いにも長けていた。入室したときは、10人弱のリスナーと雑談をしていたところだった。
「彼から一向に返信がこない、、、」
そうこぼして心配してくれたお兄さんとリスナーたちにコメントで現状を伝えると、
「わかった、ちょっとタロットで見てみるわ。待ってな」
と雑談の途中にもかかわらずわたしに時間を割いてくれた。
よく聞きにいくお兄さんの配信でのタロットは当たると評判で、わたしとR君とのことも見てもらったことがあった。
「うーん、、、これは、わかんないけど、もしかしたらなんかあったかも。行けるなら行ってあげた方がいいかもしれん。なんもなければそれはそれでいいんだけど、俺はちょっと胸騒ぎがするな」
おそらくわたしの中ではもう彼の家に行くという気持ちはあったのだが、あともう一歩が足りなかった。お兄さんの言葉で、気持ちが決まった。
「わかった。今から行く。不安だから、行く間配信聞いてていい、、?」
「もちろん。気をつけてな」
財布とスマホと鍵だけを持ち家を飛び出した。土曜の23時半、もちろんバスはない。タクシーで行くしかないが、この際手段はなんでもよかった。
慌てすぎて配信を聞くためのイヤホンを忘れたことをタクシーに乗り込む時に気づいた。しかし戻ることももどかしく、タクシーの中で音量を抑えながらお兄さんたちの話を聞いていた。
行く間、お兄さんとリスナーたちはわたしを優しく励ましてくれた。様々な彼の悪い状況が浮かんでは消えを繰り返していたが、みんなの励ましがわたしを落ち着かせてくれた。これを機に仲良くなった女性リスナー2人とは、後日3人でラインを繋ぎ、ビデオ通話をするまでになった。

いざ彼の家の前に着きお兄さんたちとは一度離れ、タクシーを降りると、ちょうど目の前のスーパーの駐車場に彼の車が入ってくるところだった。思わず近くの車の陰に隠れ、様子を伺う。
車からは彼ともう1人男性が降りてきた。楽しげに話す様子から、頭を渦巻いていた悪い予感たちがほとんど当たっていなかったことにまずは安心した。
となると、なぜ返信しなかったのかが気になり出した。しかし、そのまままた2人は車に乗り込みまたどこかへ行ってしまった。
途方に暮れたわたしは彼のアパートの壁にもたれてしゃがみこんだ。明日も仕事がある。いい加減帰らなければ、、、
そう思い、タクシーをつかまえて帰ろうと立ち上がったとき、R君がアパートの駐車場に車を停めようとしていた。
彼が運転席から降りて存在に気づくであろう位置にわたしは表情のない顔で立った。
案の定彼は降りてからギョッとした顔でわたしを見つめ、車の前に立っていた。
「え、何してんの」
動揺を悟られまいとする抑えた声。
当たり前だ、この時間にわたしがこの場所に来れるはずがないのだ。タクシーを除いては。
「、、何してんのじゃ、ないじゃん。なんで返信返さないの?電話もしたんだよ」
「忙しかったから、、」
目をたっぷり泳がせて彼は言った。
「、、生きているならよかったです」
そう呟きわたしは力無く歩き始めた。タクシーを拾い帰って寝る。もうそれしか考えられなかった。
「沙也加ちゃん、待って」
後ろから彼が呼び止める。構わず歩くわたし。
「沙也加ちゃんってば!」
彼がわたしに追いつきそのまま腕を掴んだ。
彼に触れられた瞬間、糸が切れたように急に涙が溢れた。そのまま道端に崩れるようにしゃがみ込んで嗚咽を漏らした。
足元がおぼつかないわたしを彼が抱えるようにして彼の家までつれていき、わたしが泣き止むのを待ってくれた。
ここでやっと彼は自分がしたことの重大さに気づいたようだった。毎分ごとにごめんね、と言い、その夜はわたしを車でわたしの家まで送ったあと、そのまま泊まっていってくれた。

この頃は、Aqua Timesの千の夜をこえてに電撃的に感化された。
"まっすぐに相手を愛せない日々を
繰り返してはひとりぼっちを嫌がった
あの日の僕は無傷のままで人を愛そうとしていた"
人を愛するためには傷つかなければならないということが、わかっていたようでわかっていなかったと気付かされた。これだけR君と揉めてしまうことに不安を感じていたわたしを力強く元気づけてくれた。
それだけ鼓舞された反動で、もう全てから解放されたいという衝動も同時に自覚していた。
藤井風のもうええわや帰ろうは、手放すことへの寛大な許しをわたしに与えてくれていた。

クリスマスが近づいてくる。R君とは初めて過ごす時期であり、まもなく付き合って一年を迎えようとしていた。
この頃にはもうR君はわたしの家で過ごす日の方が多くなり、わたしはほぼ毎日彼が目覚ましのメロディにしていたLisaの炎のイントロで彼と共に早々と起こされていた。
時世はコロナウイルスがしぶとく猛威を奮っており、人々は体調不良に敏感な世の中になっていた。
彼が発熱したのはクリスマス直前の12月23日だった。翌日の24日に休みをもらった彼は、前日のPCR検査の結果がこの日の昼に電話でわかることになっており、この日はわたしも休みであったため一緒だった。結局陰性だったが、内心ここで陽性であればわたしも濃厚接触だったため、彼と同じくらい胸を撫で下ろした。
そんな感じだったためイヴは、わたしがケーキやらケンタッキーやらを調達し、家でささやかなクリスマスを過ごした。
最寄りの路面店ケンタッキーは、おそらくスタッフ総動員で稼働していた。その見るからに忙しそうな様を見て、せめてもの報いをと思い、レジを担当してくれた女の子に
「よいクリスマスを」
と声をかけると、ちょっと困ったようなスマイルが返ってきた。

年が明けてから、恐れていたことが起きてしまった。
配信アプリが少し前からバレていたようだった。経緯は同じで、友達が見つけたとのことだった。
仲間たちの誰かが、、と考えを巡らせたが、少なくとも普段よく話す人たちがそうしたスパイになっているとは考えにくかった。
タロットのお兄さんやそこから繋がったお姉さんたち、わたしとR君とのことをイメージして弾き語りをしてくれた男の子、そして特にわたしを支えてくれたのは、当時はまだ大学生だった男の子と女の子だった。彼らともラインやスカイプで繋がり、個人的な話もよくする間柄だった。その3人の誰かが配信をすれば集まり、寝落ちるまで話した。R君とのことも逐一聞いてもらい、よき相談相手になってくれていた。
一方彼にとっては2回目ということもあり、憤りははっきり伝わった。ここまでくるとわたしが振られてもおかしくはなかったが、彼はその選択はしなかった。
わたしは、どんな理由があっても彼がわたしを手放さないことに不思議を感じつつ、安心している部分もあった。
だから、目の前のR君と向き合って今を生きていくために、わたしは配信もやめることにした。
そしてけじめのため、そこで出会った仲間たちとも、もう連絡は取らないことにした。
後日仲良くしてくれた人たち一人一人に挨拶をした。寂しがってくれる人もいれば、応援してくれる人もいた。
大学生たち2人と話せなくなるのは本当に惜しかった。顔も知らない相手だが、わたしの中では大きな存在になっていた。
それでも覚悟もって、わたしはまた大事な一部を切り離していった。

なんだかんだで翌月1月のわたしの誕生日も初めて一緒に過ごした。
県内の温泉に泊まりに行くことになり、その前に彼から4℃のネックレスをプレゼントされた。
オンラインでない限り、わたしが知る店舗は駅の近くなど人が多いところにしかない。
「駅前に1人で行ったの?」
「うん」
「車で?」
「うん。このね、真ん中のキラッとしたのがいいでしょ」
彼は人混みが苦手であることと、移動がほぼ車であるため、駅前の方にましてや1人で行くということはほとんどないはずだった。
実物を見てこだわって決めるために、その苦手を越えて彼が動いてくれたことで、今この手にこのネックレスがあることに胸が熱くなった。
「ありがとう。すごく嬉しい。大切にするね」
実はクリスマスの時も、彼はわたしが手紙のやり取りをしていることをヒントに、封をするためのシーリングワックスセットをプレゼントしてくれていた。
彼のそうした人を見たプレゼントのセンスや、好きな人のために動く気持ちがあることは、わたしが彼を愛する十分な理由だった。
しかし、そこで終われないのが辛いところである。
旅館に泊まった翌朝、部屋に朝食を準備する仲居が来たため、わたしが出迎え、セットをしてもらった。
仲居が出て行った瞬間、彼は
「ねえなんでふすま開けっぱなしにしていくの?いつもやめてって言ってるじゃん」
とひどく機嫌が悪そうにわたしに言った。
泊まった部屋が広く、寝室にもふすまがあったが、そこを開けっぱなしにして仲居を出迎えたことに怒っているようだった。
「ごめん」
とは言うものの、納得はいかない。
確かにわたしは家でも基本ドアを開けておく癖があった。暖房などを使用するこの時期は、家ではこの行動が損になるため、指摘されてからは気をつけるようにしていた。
しかし、今回は急いで仲居を迎えなければならなかった。それを説明しても、閉めてよの一点張りは変わらなかった。
そんなに閉めたいなら自分が閉めればいいし、なんなら彼が仲居を出迎えればよかったのではと思う。事を荒げたくなかったわたしは、苦々しく思いながら気持ちを飲み込んだ。
せっかくの誕生日は、後味が悪く終わった。

その後は2月に震度6の地震が起こり、家や体は無事だったものの、職場のある商業施設が被害を受けしばらく休業になった。
東日本大震災はまだ学生であったのと、社会人になりこれまでのコロナ期間でもほぼ通常の業務にあたっていたため、こうした休業の経験は初めてだったが、その期間は半月ほどであった。
夜中の地震でわたしとR君は一緒ではなかった。後にその時の様子を聞くと、
「ヤマトの営業所に荷物取りに行ってたんだけど、スタッフが対応遅いからまだですか?って言ったら、今地震来たから待っててねって言われたんだ〜」
と暢気だった。彼には悪いが、スタッフに同情した。

5月には、R君が参加する菅生サーキットでのレースを初めて観に行くことになった。この時から、彼の車仲間との交流も出てくるようになる。
各チーム毎に車両配置場所が分かれており、観戦はその配置場所からすることができた。間近で彼が車体のメンテナンスをしたり、レースウェアを着たり、車両に乗り込む姿を見ると、こちらまでわくわくした。
レースに緊張しながらではあるが、車仲間といる彼はすごく砕けて楽しそうだった。こんなにキラキラしたR君を見ることは珍しかった。
実際のレースでは、物凄い速さで走り抜ける車たちがわたしを圧倒した。わたしが知らなかった世界が、目の前に広がっていた。
あの車たちの中にR君がいるのだと思うと、なぜか誇らしい気持ちになった。
車仲間の人たちも、初心者のわたしに案内や説明をしてくれ、親切にしてくれたことが嬉しかった。
1日を通し、改めてR君が車が好きであることを感じ、その眩しいまでの輝きを愛しいと思った。

その頃同時に、わたしたちは同棲の話を進めていた。もう98%は彼がわたしの家に住んでいるような状態で、彼が職場の近くに引っ越すタイミングで広い部屋に移ろうとなったのだった。
学生時代から住んでいた部屋から脱せることは、わたしにとって良い転機だった。アプリ全盛期に不純な関係を結んだ空間だったことや、社会人になっても契約を変更できなかったことで家賃が親の支払いになっていたこともうんざりしていた。過去の思い出から、そして現実的に自立できることで、今を生きるということの実現に限りなく近づけると思った。
ずっと結婚して子どもがほしいと思っていたが、愛する人を愛し、共に過ごすだけで十分なのかもしれないと思えたのもこの時期だった。
物件を一緒に決めるのは楽しかった。新しい場所、新しい部屋で生活できることに、胸が膨らんだ。
一緒に住む前に、彼にわたしの親に会ってほしい旨を伝えると、気の進まない様子だったが了承してくれた。
双方に都合をつけてもらい、わたしの地元のレストランで顔を合わせることになった。
わたしの親も実際にこうしたシチュエーションに立ち会うことが初めてだったため、緊張していたのか予想より口数が少なく、時間にすれば15分程度で終わってしまった。
彼は余程緊張したのか顔色が良くなかったが、わたしの親が置いて行ってくれた1万円で2人でパスタを食べたあとは少し元気になった。

家は彼の職場から車で10分、わたしの職場までは電車を一回乗り継いで行くところにあった。11畳の1LDK、メゾネットタイプで広めのお風呂にテレビがついた築浅の部屋は、どちらかと言うとわたしの希望が強めで決まった。
家賃は折半して、お互いがもともと住んでいたところの家賃になるような金額だった。
引越し当日はわたしが仕事で立ち会えず、彼の他に車仲間2人に手伝ってもらうことになった。彼は普段から仕事で大きめの車両を運転し、30〜40kgの畳を手作業で運んでいたため荷物の運搬は安心して任せられた。
引越し業者に頼らずとも、1日3人でわたしと彼の家の2軒分の荷物を運び終えてもらい、大変助かった。
わたしの仕事が終わる頃に迎えにきてもらえることになり、合流して一緒に新居に帰った。
まだダンボールはあるが、ある程度家具はセットされており、ひとまず生活はできるようになっていた。
「俺たちの新しいおうちだよ!」
R君が新生活を楽しみにしてくれていることが、わたしも嬉しかった。

わたしは引越す前から月に一度は週末に休みをとり、R君との時間に回していた。
ペアルックまでは行かずとも、シミラールックくらいの服装で出かけるのが好きだった。
同棲してからは、一緒に出かけて夜遅くなっても、同じ家に帰れることが何より幸せだった。一緒にいる分、次の出かける予定も決めやすかった。
彼の誕生日には行きたがっていたキツネ村に行った。話題のライトアップも堪能したし、彼のレースも熱かった。そのまま車仲間とご飯に行くこともあった。
県外のレースに参加するときは前日に2人で前乗りした。レース用の車両で向かうため、乗り心地はお世辞にも良いとは言えないが、そんなのも面白かった。宿泊は決まってラブホで、地域で価格帯や設備が違うのも面白かった。
夜のドライブは意味もなく楽しかった。ただ最寄りのスーパーに行くだけの外出も、わたしは楽しかった。

わたしが休みの日は、彼が帰る頃までに夕飯を用意し、食卓を囲んだ。
彼はわたしの料理を好んで食べてくれた。特ににんじんしりしりと油麩丼は、わたしの手料理のお気に入りになり、よくリクエストされた。
不思議だったのは、夕飯時彼がおかわりをねだり、わたしがキッチンによそいに行くと、その間に彼がわたしの茶碗の中身をつまみ食いしていたことだ。
「おかわり今よそってるよ?」
と言っても、
「沙也加ちゃんが食べたやつがいいの!」
と謎のこだわりを主張していた。
人によっては引くのかもしれないが、わたしは意外とまんざらでもないたちだった。
彼は釣りも趣味としていた。早朝に出かけて釣ってきた魚を持ち帰ってきて、捌くまでは彼、調理するのはわたし、のような連携プレーも楽しかった。
お風呂が広かったため、夕飯後は一緒にお風呂に浸かれた。スキンシップが大好きなR君は、存分にわたしと密着した。
この頃になると出先でもたまに彼の甘えたがりが出てしまう時もあった。店のお会計やエスカレーターで、後ろからこっそりおしりに触れてくるときは、周りにバレないかヒヤヒヤした。

この時期険悪になったのは、彼の車仲間とのことと、わたしの車の運転の練習のときである。
引越したことで、彼の懇意にしている車屋も近くなり、わたしも家から自力で行ける距離になった。職場からの通り道でもあったため、仕事帰りに寄ることもできた。
そこのオーナーはレースでも顔を合わせたり、引越しも手伝ってくれた人だった。気さくで話題の引き出しが多く、車に詳しくないわたしのこともいつも楽しませてくれた。
わたしが休みの日は、差し入れを持ってたまに1人で顔を出しに行くことがあった。オーナーはいつも穏やかに迎えてくれ、時にはR君とのことの相談に乗ってもらうこともあった。
R君のことを知る人に話を聞いてもらえることは、わたしにとっては心強かった。
しかし、ある日彼から
「ねえ、オーナーのとこに用もないのに行くのはやめなよ。オーナーは仕事中で、沙也加ちゃんは何か買うわけでもないでしょ」
と言われた。
これは大方なるほどと思えた。その後この話をオーナーにすると、
「彼の知らないところでやりとりされてるのが嫌なんじゃない?」
と言われ、これもほぼほぼ納得した。
味方は多い方が良かったが、今回も難しそうだった。
運転に関しては、わたしが運転の練習をするため、彼に助手席に座ってもらいながら挑戦していた時だった。
彼は引越すだいぶ前に車屋から安く手に入れた軽自動車を運転して通勤していた。
クラウンは車屋に置かせてもらい、使う時に交換していた。
練習時はもちろん軽自動車だったが、鍵を差し込むもエンジンがうまくかけられず、予想通り彼をイライラさせた。
こんな単純なことができないので苛つかせて然るべきではあるが、狭い空間でパートナーに嫌悪を向けられて平気でいられるほど強くはなく、わたしはそのまま運転席を飛び出した。
このようにわたしに非がある場合も多々あった。

"カルマ"というものの存在を強く意識するようになったのは彼と過ごす2回目のクリスマスを控えていた頃だった。
R君の性格や幼さからくる嫌な出来事を周りに相談し、散々彼との別れを勧められていた。
しかし、わたしだけが知る彼の良さや、喧嘩の度に繋ぎ止められる安心、その後セットのように付いてくる生物的な欲望を開放する時間が、いつも別れを遠ざけた。
これだけ悩み苦しむということは前世からの宿命であり、現世における必然、そして来世のために解消の余地があるのでは、と考えた。
さらに、カルマを裏付けるのははるひの存在にもあった。
彼女が理不尽に傷つけられてでも愛する人と生きる人生を決意したことで、わたしは彼女から一度離れた。
それはつまり、わたしがこのままR君との関係を続けていくことで、彼との付き合いをよく思わない周りがわたしから離れていく可能性があるということを示していた。
そのことに気づいてからは、彼との未来への不安に加え、友達を失う恐怖と、改めてはるひへの罪悪感が生活に付きまとうようになっていた。

クリスマスが近づくと、なぜか去年同様また彼が発熱してしまった。
依然としてコロナは強い勢力を持ち、人々を脅かしていた。
この時期はもう職場にも同棲している旨は伝えており、彼に陽性反応が出た場合は休まなければならない。
上司に彼の発熱の件を伝えると、陰性かわかるまではわたしも休みをもらうことになった。
幸い発熱した翌日に陰性がわかり、わたしは一日休むだけで済んだ。
去年は結果にヒヤヒヤしていたが、一緒に住んでからは職場には申し訳ないと思いつつ、なるときはなる、と割り切る気持ちを持てるようになっていた。
クリスマスイヴの夜はわたしの仕事終わりに彼が迎えにきてくれた。そのまま併設のスーパーやケンタッキーでクリスマスらしいものを買い、帰り道はイルミネーションを通って帰った。
新居のクリスマスも楽しかった。彼が持っていた大型のテレビでホームアローンを観ながらチキンやケーキを頬張った。
クリスマスプレゼントとして先駆けて彼にはネックレスを渡していたが、彼からは
「プレゼントちょっと待っててね〜」
とのことだったので楽しみに待つことにした。
翌朝目覚めると、枕元に薄い正方形の包みが置かれていた。
開けてみると、わたしが好きなえんとつ町のプペルのイラストが目に入った。特典ディスクがついた特装版DVDで、通常のものより大きくインパクトがあった。
もともと絵本が好きで、映画化されたときに彼と見に行った思い出の作品だった。どちらも涙脆いわたしたちは、上映中に啜り泣いた。
「ねえねえR君、サンタさんきてた!」
「んー?よかったねえ〜」
まだ眠そうにベッドに横になっている彼に、わたしはありがとうと伝えた。
ふと、大学時代にA君と過ごしたクリスマスの時にもサプライズでプレゼントをもらった時のことを思い出した。あれから数年が経ち、いろんなことが変わったが、いつになっても人から愛されることは幸せだった。

年末は一緒に過ごそうと彼から提案され、異議がなかったわたしはあえて年末年始は休みにはせず帰省しなかった。それでも、31日は施設が早く閉まるため、早く帰ることができた。
帰宅してすぐに年越しそばの準備に取り掛かる。初めて手作りしてみたが、結構うまくいった。
インスタグラムのストーリーで、彼がそばを食べたら山に行こうか、といった内容の投稿をしていた。ここで言う山は雪が積もった峠道のことであり、そこに車仲間と行きスリリングなドライブを楽しむということであった。
しかし今日彼はわたしと過ごすと言っていたので、それは冗談だろうと深く考えずにいた。
すると、食べ終わってから彼が、
「ねえ、今日このあと山に行くって言ったら怒る?」
と言う。耳を疑った。
彼は、わたしが土日休みに友達と遊ぶことさえ寂しがったり不満に思うような人だった。確かにわたしの土日休みは限られており、彼とゆっくり過ごせる時間も限られていたからだった。
だから彼の年末への提案は飲み、シフトなどのスケジュールを組んだのだった。
いいよとは言いつつ、あからさまに不機嫌になったわたしの様子に慌てて彼は行かないと訂正したが、そもそも今日出かけるという発想自体がおかしいと思えて仕方なかった。
出かけないというので、気を取り直して紅白を見るなどし、眠りについた。

明け方珍しく目を覚ますと、隣にいるはずの彼はいなかった。時間は4時を回っていた。
思わず仰向けで天井を見つめた後に右腕で目を覆った。
もう何を信じたらいいのかわからなかった。
寝付けるはずもなくただベッドに横たわっていると、1時間ほどして彼が帰ってきた。そのまま静かにベッドに潜り込む。
「行くなら初めから行けば良かったじゃん」
背を向けたままはっきり彼に向かって言った。
時が止まったような静寂だった。
「え?」
彼は口が渇いたまま話したのか、声がかすれていた。
耐えきれず隣のリビングに移動しソファに横になった。4時間後に仕事を控え、もう少し寝たかった。
「ねえ、沙也加ちゃん、ごめん」
横たわるわたしのそばに来て彼は静かに謝った。無視。
「ねえ、ごめんね」
体を揺らされる。わたしは体を起こす。
「あのさあ、ごめんじゃないじゃん。あなたが逆の立場なら確実にブチ切れるよね」
わたしより二回りは身長がある彼の体は驚くほど小さくなっていた。幾度となく彼に怒鳴られてきたわたしは、付き合って2年で初めて彼に100%の怒りをぶつけた。
彼の言い分としては、あの後山には行かなかったが、別な友達から初詣に誘われ、わたしが起きる前に帰ってこようと思ったようだった。
そんなのは関係ない。
わたしはソファから降り、彼と同じカーペットの上に正座した。そして
「別れてください。お願いします」
頭をカーペットにつけて土下座した。もうこの苦しみから脱せられるならなんだってできる気がした。
年が明けて5時間で同棲する彼に土下座して別れを乞い、3時間後には仕事をするという状況が、地獄以外になんだというのだろう。
そしていつも通り、彼は別れを拒み、わたしは彼の説得にほだされ、何も変えることはできなかった。

友達たちはまだわたしを粘り強くサポートしてくれていた。
ある時は3人で遊び、その後わたしは彼と合流するため1人離脱した。高校時代の同じ吹奏楽部、同じホルンの仲間で、卒業してからも年に何回かは会うメンバーだった。しかし彼と合流後すぐに喧嘩になり、ダメ元で先程の友達に連絡するとまだ帰っていなかったため再合流することになった。
長年の関係性もあり、ラインからわたしがまともな精神ではないことを2人とも察してくれた。合流してからは目の焦点の合わないわたしを個室で泣いてもいいようカラオケに連れていき、そのまま終電を快く犠牲にしてわたしの思いの丈をきいてくれた。
結局その日はまだバスのあるメンバーの1人の家に転がり込むことになった。
終電を逃した子とわたしは翌日も休みだったが、泊めてくれる子は仕事だった。そんな中でも最後までわたしに付き合ってくれた2人には感謝してもしきれない。
また、別な日には喧嘩して空白の土日を過ごしていた時、ドライブに連れ出してくれた友達もいた。中学からの友達で、おそらくわたしの恋愛について話してきた時期が一番長かった子になる。わたしのうまくいかない恋愛をこれだけの長い期間受け止め続けている器の広さは、自身の辛い経験から基づくものでもあり、様々な意味で尊敬する。
彼女と行ったわたしにとっては初めてのコストコは、もはや冒険であった。新しい世界を目前にしたわたしは、R君と来たら楽しそう、とも考えるくらい愚かだった。
こうした寄り添う友達たちを前に、わたしははるひとのことを話し、自らが恐れる未来について溢した。そんなことないよ!と本心から言ってくれる厚情のある友達を、はるひと離れる前の自分と重ねてしまうわたしがいた。

わたしの誕生日はR君と白川郷に行き、普段滅多に見れないほどの積雪を楽しんできた。
水族館で、彼は終始釣りに行きたがっていた。
わたしの希望で、ペアリングも買った。
わたしの方にワンポイントがついている方がいいという彼のこだわりを嬉しく思う反面、つける指で揉め、やはりうまく終われなかった。

この頃の喧嘩は、彼が高圧的な態度に加え、物にあたるようになってきていた。付き合って序盤には紙タバコからiQOSユーザーになっていた彼は、激昂してiQOSを壁に力強く投げつけ使用不可能にしてしまったこともある。
あまりの恐怖にやはり逃げ出すしかないが、以前のように待つだけではなく追いかけてくることも多くなった。だいたい深夜にこうした事態になるため、周りに人はほぼいなかった。
捕まる時もあれば、撒ける時もあった。
撒けた時は、他所の花壇の縁にしばらく腰掛けさせてもらった。
捕まっても手を出されるわけではないが、数時間は彼から言いたいことを言われる精神苦痛に耐えなければならなかった。
気力のないときは、彼の鍵を掛けていない軽自動車の後部座席で身を小さくしていた。車内が自然に温まるにはまだ早い時期であり、凍死する自分を想像しながら震えていた。
家から出て行かないでほしいという彼の強い希望を叶えたくないわけではない。ただ、その空間に自分の身を守れる存在が自分しかいない時、力で勝つことができないなら、わたしはやはり自らの足で自分を守るしかなかった。
いっそ暴力を振るわれてしまえばいいとも考えるようになった。そうすれば、わたしの気持ちにかかわらず、法がなんとかしてくれると思った。

引越したい気持ちだって多分にあった。
しかし、同棲の初期費用で貯金がほぼ尽き、さらに引っ越すための経済的な余裕はないのが現状だった。
ここで多くは親に頼るという選択肢が生まれる。しかし、どうしてもそれだけはしたくなかった。
わたしの親は立派だと思う。教師になるためそれぞれ大学で学び、現役で教師になり、職場恋愛で結婚し、仕事の傍らわたしと弟を育て、不自由なく大学まで行かせた。
それがどれだけすごいことかは社会人になったわたしが一番よくわかっていた。
優秀な親から生まれた子どもは、働きこそしても貯金はなく、パートナーと結婚どころかまともな関係さえ築けない人間だった。
わたしは親を尊敬すると同時に、その子であることがどうしようもなく恥ずかしかった。
また、運動部家系の中で唯一吹奏楽部員だったこと、仕事の選び方、パートナーの出会い方など、人生の選択の違いが埋まらない価値観の相違を生んでしまったことも親に近付きがたい理由になった。
もちろん家族仲が悪いわけでは決してなかった。ただ、干渉しない性格と、相談時に教師を連想させる物言いは、親に相談して安心したいという気持ちにフィットしないことが多かった。
総じて、親への恥と気まずさが、打ち明けようとする勇気を消耗させていた。
また、彼に対する申し訳ないという気持ちもあった。この部屋はわたしたちふたりで折半をして生活を維持できる場所であった。だから、わたしが出ていくということは、必然的に彼も出て行かなければならなかったのである。

いよいよわたしは精神的に孤独になった。精神的、と書いたのは、頼れば家族も友達も支えてくれたはずだったが、わたしの心があえてそれをしなかったからである。
これまで築いた大切な絆が、わたしの行為によって切れてしまうことになるのが恐ろしかった。
最終手段として、わたしは再度配信アプリを再開することにした。寒さがまだ続く2月の終わり頃であった。
以前使用していたものはサービスが終了しており、一度インストールしてほぼ使ったことのないものを使うことにした。リスクを承知で使用するため、下調べは綿密に行なった。
全く新しいアプリをインストールすると、スマホの設定に一番初めにインストールした日が記される。この日付は何度再インストールしても変わらない。つまり、アンインストールしてしまえば、以前インストールしたアプリは今現在使用している証拠は残らないようになっていた。インストールのゲシュタルト崩壊。
平日はR君より出発が遅いわたしは、朝は彼に簡単な朝食を用意し、弁当と水筒を持たせて見送っていた。その後、アンインストールしていた配信アプリを再インストールし、ログインすることでわたしの一日が始まる。
仕事の日は、休憩時間や閉店後の1人の時間、帰宅中などに開いていた。
R君のいない休日は6時間連続で自分が配信をしていたこともある。
特に仕事の帰宅中にわたしが配信を開いていたときは楽しかった。毎日5〜6人程度のリスナーが集まり、雑談や、R君の相談にみんなが付き合ってくれた。
みんなの話を聞くのも同じくらい楽しかった。
色んな世代、地域、立場の人がいて、大いに刺激になった。
声で話せる機能もついており、リスナーと電話感覚で会話ができることも気に入っていた。
楽しむあまり、少しでも配信可能な時間を延ばすために家の最寄りの2駅前で降り、そこから徒歩40分かけて帰りながら配信することが習慣になっていた。
リスナーもノリが良く、わたしが家に近づき間もなく終わることを伝えると、
「駅に定期忘れてるから取りに行こ!」
「え、終わるの?嘘だよね?」
などとふざけ放題で、わたしもついつい名残惜しくなってしまうのだった。
そして配信を終え、家に入る前にはまたアンインストールし、何事もなかったように帰宅していた。翌朝からは、前述である。

そうしたわたしの精神バランスが取れた生活の中で、また震度5はある地震が起きた。3月中旬の深夜で、縦揺れを強く感じる震災を思わせるような嫌な揺れ方だった。
わたしとR君はまだ起きていて、取り乱すわたしに対し、彼は大丈夫、大丈夫と落ち着いていた。彼がそばにいてくれて本当によかった。こうした非常事態に愛する人といることは、とても尊いことだと感じた。
前職柄、人より死について考えることは多かったように思う。人は必ず死ぬということは周知の事実だが、どんなに愛する人の死も事前に知ることはできない。
そのため、何かしら法的な関係がないと死の事実を知ることさえできないということが、悲しいことにこの国ではあり得た。
例えば、この時のわたしが外出先で亡くなった場合は、帰宅もせず連絡もつかないわたしのことを彼は心配するだろうが、それをすぐに知る手段がない。おそらく、公的機関から連絡がいくのは実家と職場くらいなはずである。
公的機関がどこまで血縁関係のない存在に情報を提示するか不明確な部分もあることを考えると、彼はわたしの家族か職場に連絡がついたときに初めて死を事実として聞くことになるだろう。もしかしたらこの両者から聞くことだってできないかもしれない。これは逆の場合も然りである。
しかし、このもどかしさは結婚という公的契約を交わすことで一気に解消される。何かあった場合は彼の職場を通してにはなるだろうが、迅速な連絡がなされるに違いない。
災害を受け改めて死について思いを巡らせることによって、愛する人と最も近い存在になるためにわたしは結婚したかったのだと本心に迫ることができた。
ちなみに地盤が緩い職場は多大な被害を受け案の定また休業を余儀なくされた。給料は出るだけありがたいが潤いはなかった。前回より長く1か月は続いたが、その分R君との時間と配信アプリに勤しめた。

わたしの休業期間も終わりGWが近づくと、R君はクラウンを手放し新しい車に変えた。彼にとってクラウンはあまり思い出のない車だったそうだが、わたしにとっては出会いの時のエピソードもあり、ちょっと切なかった。
86(ハチロク)というスポーツカーで、とてつもなく乗り口が低いため小柄なわたしでさえ多少乗車に苦戦した。しかし、新しい車で乗り心地を楽しむR君を見ることは、わたしも楽しかった。

5月に彼の地元である岩手に遊びに行った際、
「俺んち寄ってく??」
と急に提案された。その日はわたしの好きな恐竜展を観に行く日で、気合いを入れ恐竜柄のシャツを着るという趣味全開の日であった上に、手土産もないような状態だったので、行きたい気持ちはあったが日を改めることにした。
その約1か月後に会いに行くことが決まった。もともと父親がトランペット、母親がヴァイオリン、姉が琴をしていたという音楽一家である話を聞いていて、学生時代は吹奏楽しかしてこなかったわたしは、お会いしてお話するのがとても楽しみだった。
彼は三兄弟の末っ子で、姉兄をもつ次男であった。本来なら家を継ぐ立場にはならないはずだが、兄が海上保安官で同じ場所に留まれない職業柄、将来実家に戻るとすればR君になるだろうと本人が予想していた。だから、彼と人生を共にするのであれば彼の両親も身近な存在になる可能性が高かった。
彼の両親が、最後の砦かもしれないとも感じていた。彼が認め、わたしの味方になり得る、唯一の存在かもしれなかった。
だからこそ楽しみでありながら慎重に事を運びたかった。日取りは決まっているとして、会う時間、場所、滞在時間など、状況に応じて服装や準備物を考える必要があった。
ところが、彼はどこまでも暢気だった。
「親御さんの準備もあるだろうし、わたしも準備があるから予定決めといてね」
と行く日が決まってすぐこう伝え、
「わかった〜」
と言っていたが、当日2日前になってもそれ以上決める様子がなかったのである。
詰めると、
「そんなきっちり決めなくても大丈夫な親だから」
というのだ。百歩譲って彼の家はいいとしても、それではわたしが困った。
わたしが相手の実家に行くならこうした段取りは常識なのでは、と言うと、それは沙也加ちゃんの常識でしょ、と返される始末である。
そこで詰めても進まないと思い、わたしが親御さんと良い関係を築くためにせめて時間帯だけでも確認してほしい旨を伝えると、渋々連絡をとってくれた。
流石にこの件は議論をしたいと思い、後日配信アプリでリスナーに問いかけたところ、彼はコテンパンにディスられていた。彼に全ての非を押し付けたくないわたしも、これは少しスカッとした。
当日の午後2時に彼の実家にお邪魔した。閑静な住宅街の中の一軒家で、玄関を入ると天井が広く開放的だった。音楽一家なこともあり、家柄の良さが伺えた。
彼の母親に迎えられ、数年の接客業経験を駆使して印象の良い挨拶を心がけた。
リビングのソファに案内され、水菓子と手土産として持参したお菓子をご馳走になった。その間に彼の父親が帰宅し、ご挨拶をした。
彼が、わたしが吹奏楽をしていたことを話題として出すと、トランペットをしていた父親が熱く学生時代の苦労や懐かしい吹奏楽楽曲について語り始めた。話の内容はまるでOBの先輩が話すようなことだったが、実際には立場が違うので、純粋にわたしも学生時代を懐かしみながら話に没頭した。
話し足りず名残惜しそうにする父親の話をうまくまとめながら、頃合いを見ておいとますることにした。母親から岩手の飲食店で使えるギフト券をいただき、その夜はそれを利用し夕飯を済ませ、ラブホに泊まった。
翌日は青森の三沢航空科学館で無重力体験をするなどした。彼が幼少期に家族で行った場所でもあり、それも実家で話題にすることができた。
その帰りに余ったギフト券を返しに再度彼の実家に立ち寄った。玄関先でご挨拶するだけのつもりが、昨日の話で気持ちが盛り上がった父親が上がっていきなさいと歓迎してくれたので、お言葉に甘えた。
そろそろ、と帰る雰囲気を出すと、
「車に懐かしい吹奏楽楽曲のリストがあるんだ、最後に聞いていきなよ」
と恐れ多いご提案をいただいた。父親の車に父親と2人きりで乗り、アフリカンシンフォニーやディスコキッドを聞く、という謎の空間であったが、懐かしさに震えたことは確かであった。
家への帰り道、感想タイムが始まる。
「お父さん、俺の兄貴が奥さん連れてきた時より楽しそうだったわ」
「わたしも楽しかったよ。むしろお父さんの方が盛り上がってて帰してくれないかと思ったもん笑」
彼は苦笑いし、続けた。
「でね、俺お母さんに沙也加ちゃんはやめときなって言われちゃった」
ここにきて意外な展開だった。わたしから見て父親はともかく母親も良くない印象を与えたようには感じなかった。もしかしたら気づかないうちに粗相を、、と思い、この二日間の振る舞いを省みた。
「え、、なんで、、?」
恐る恐る聞いてみる。
「あんなハキハキして明るい子、俺には釣り合わないってさ。あんたなんかすぐ振られちゃうよって言われた」
どうやら褒められているらしかった。ひとまず両親に好印象だったことに安心した。
何度も別れ話を繰り返してきたわたしたちにとって、母親のその言葉は妙な説得力があった。
その言葉を彼がどう感じたかはわからないが、わたしはそれを言霊の力で現実にさせないためにも、
「そんなことないよ」
と言葉で否定をした。
後日お邪魔したことへのお礼の手紙を送ると、母親手製のカードケースが送られてきた。余った布地で表紙が覆われたものだが、その布地がレトロな感じで絶妙にかわいかった。お邪魔した際にいくつか作品を見せてもらい、わたしが気に入って一ついただいてきていたので、それが嬉しかったのだと思う。
ご両親と良い関係が築けそうだと肌身で感じ、R君との将来的な関係も前向きに捉える気持ちを持てそうだった。

その翌月の6月には猫島で有名な田代島に出かけた。猫好きな彼ははしゃぐわけではないが、目がキラキラしていた。
初夏の暑さの中でツーショットを撮るのも楽しかった。
楽しい時間も束の間、翌日彼が仕事終わりに帰宅し、汗拭きシートをねだったので渡すと、一枚取るや否や本体をテーブルに乱暴に投げつけた。
「なんで投げるの?」
そう問いかけてもまともに返事は返ってこなかった。
年が明けてからは、以前よりも喧嘩の際にわたしの言い分も大分主張できるようになった。
出て行かずに話をして、と言われたから、強く言われてもまずは伝える努力をした。
それなのに、わたしが勇気を振り絞って聞いても、この有り様だった。
彼がシャワーを浴びる間に、わたしは翌日の出勤のための荷物をまとめ、即時予約したカプセルホテルに向かった。バケツをひっくり返したような土砂降りで、傘をさしても服は濡れ、サンダルを履いたかかとは皮膚がふやけて靴擦れした。惨めという言葉が相応しかった。
後に謝罪はあったが、投げた理由を聞いても疲れてたから、としか言われなかった。
楽しい時間は、いつになっても、どんなに環境が変わろうと、ネガティブな感情に相殺された。相殺の継続は、維持ではなく、緩やかな低下だった。

友達に加え、配信アプリのみんなが確固たる心の支えになっていた7月には、もうR君との外出は上の空になり、あんなに欲望が解放できたはずの夜も、演技の時間になっていた。
別れる、ということが、現実味を帯びてきていた。
経済面は、同じ市内に住む叔父に協力してもらうことにし、お盆の前半のわたしの休みに会い相談することになった。
そして、決定的な出来事が起こる。

お盆の時期は、ちょうど14連勤の時期であった。毎週月曜が定休であるわたしは、木曜の半休の日を含めると基本6連勤になるわけだが、その時は月曜に自宅でZOOMでミーティングが入ってしまい、2時間ほどではあるが仕事が入ってしまった。
そしてその頃、わたしの職場ではスタッフのコロナ感染がピークを迎えていた。ほぼ同時期に半分のスタッフがダウンしてしまい、いつ誰が感染してもおかしくはない状況だった。
わたしの14連勤が始まる直前、彼は長期のお盆休みを迎えようというタイミングで、わたしが
「またスタッフがコロナになったみたい、、もう5人目だよ、、」
と心配の声を漏らした時だった。
「え、それ大丈夫なの?俺明日からお盆休みで実家帰るから移さないでよ」
そう、彼は言った。
「そんな事言わないでよ〜!ワクチン打ったし大丈夫だよ!」
と、言えたらよかった。つまり、言えなかった。
「うん」
とだけ言って、翌日実家に向かう彼を見送った。
わたしはこの2年、わたしより体調を崩しやすい彼には自分なりに寄り添ってきたつもりだ。
特に、コロナ禍で一緒に過ごすことを決めた時は、運命共同体になる覚悟もあった。先述の2回目のクリスマスがその例である。
愛に見返りを求めるな、と言われればそれまでだが、この背景があるからこそ、この彼の言葉はあんまりにも残酷であった。
どんなに両親が味方になってくれたとしても、もう彼と人生を歩んでいくことはできないと思った。

実家から戻った彼は久しぶりにわたしに会えて嬉しそうだった。
しかし、違和感が彼のスマホの中にあった。
というのも、ふと見えた彼のスマホの画面の中に炎のマークがついたアプリを見たような気がした。
なんとなく予想がついたが、その日は行動には起こさなかった。
数日後の夜、先に眠った彼に気づかれぬよう彼のスマホのロックを解除し確認する。彼のコードはわたしの誕生日で、わたしたちはもう長いことお互いのロックが解除できる関係であった。そのためわたしは配信アプリを家にいる間はわざわざアンインストールする必要があったわけだが、彼はツメが甘かった。
ばっちりTinderが画面の中に鎮座していた。しかも、直近で開いた形跡があった。わたしは開かれているアプリの順番を記憶し、再度その順番で開き直せるようにしてから、炎の世界の中を確認した。
やりとりしているのは3人、いずれもお盆期間中に会話が始まっている。そこまで進展もなく、内容も趣味の域に留まっていた。
そこまで確認し、見た形跡を残さないようにするため、元の開かれていたアプリ順に戻し、画面を閉じた。
浮気をするのは別によかった。わたしが言えた立場ではないことも承知であるし、男性が浮気をする性質があることも経験上理解があるつもりだった。
その行為を厭い、禁じてきたはずの彼がしていることに問題があった。
浮気をすることよりも、信念を貫けないということに圧倒的な不誠実さを覚え、失望するしかなかった。
ここにきてやっと、do or dieの体現をするときがやってきたのだと、彼と並ぶ布団の中で独り、決意を固めた。

連勤の後半の半休に不動産に行き、いくつか内見をして物件を決めた。8月の中旬だったため、準備期間などを考慮し、引越し日は9月の頭の月曜日に設定した。彼が仕事に行き、帰宅する前に全てを移動させる段取りであった。
相談していた叔父に具体的な費用を伝え、必ず返すことを約束に支払いを依頼した。叔父は返す必要はないと言ってくれたが、それがなけなしのわたしの意地であり、プライドだった。
書類関係は絶対に見られることのないよう、わたしの衣装ケースの中の衣類の間に挟んでいた。彼は洗濯を畳むまでで、わたしの服をケースにしまうことはなかったので、存在に気づく可能性はほぼないと言えた。

R君はAmazonプライムで配信しているONEPIECEをしばらく前から一から見直し、この頃はやっと最新話に追いついていた。
内容こそ見ていなかったが、主題歌の希望のある未来を感じさせるその明るさは、わたしを内面的に照らした。
特に、ONEPIECE FILM REDをわたしも何気なく大画面のテレビで見ていたとき、ウタの新時代には衝撃を受けた。
世界的に有名になったこの楽曲は、まさに綱渡りみたいな運命を辿るしがない人間に、新時代を信じさせてくれた。
インスタグラムも新時代に向けて新しくした。

「ねえねえ」
連勤も最終日に近づいていた日の夜、わたしは彼に揺り起こされた。
「ん、どうしたの、、」
すっかり眠りに入っていたので、まだ朦朧とする意識のまま聞き返す。
「引越すってどういうこと?」
その言葉で完全に目覚めた。クローゼットは開けられた形跡はない。
「なんで知ってんの」
「ラインでやりとりしてた。インスタも新時代とかになってるし」
スマホを見られていた。SNSの中身を見るような人ではないと思っていたが、わたしもツメが甘かった。
おそらくだが、これまでのアプリもこうしてバレたのだろう。
「もう引っ越すよ」
「それはもう決めたの?」
「うん」
「お金も払ったの?」
「まだ」
入金が済んでいないということに少し彼は一息ついた。しかしそんな余裕も束の間、彼はすぐにいつものようにわたしに強く言葉で当たった。
最後の切り札の出番だった。
「でもさ、R君もTinder入れてるよね?」
静寂。元旦の光景が蘇る。
「わたしも勝手に見て申し訳ないけど、画面に見えちゃったんだよね」
「それは、、」
理由は、お盆初めの休みに一緒に出かけられず寂しかったから、と言っていた。8月の頭にお互い休みである確認はしていたが、一緒に具体的な話をしていなかったため、わたしが叔父と相談をする日にしてしまっていた。
お盆前の心無い言葉と信念の無さに、もう共に生きていく気持ちがなくなった話をすると、先程の威勢は消え、彼は狂ったように駄々をこねはじめた。
「もう沙也加ちゃんといれないなら死ぬ、、、なんか、、、紐、、、」
あたりを徐に探し始める。
「本当にやめて」
はっきりとしたわたしの言葉に彼は手を止めはしたが、気持ちは全く収まらず会話にもならないような独り言を呟いていた。
時計はとっくに2時を過ぎていた。いくら夜行性とはいえわたしも気持ちと体力が限界だった。まだ連勤は最終日を控えていた。
思わず横たわろうとすると、彼に強く非難された。だから、
「R君は明日休みだからいいけどさ!わたしは明日も仕事なんだよ!もうずっと仕事してるの!死んじゃうのはこっちだよ!」
叫んだ。角部屋でよかった。
「そうだよね、沙也加ちゃんは明日仕事だよね、ごめんね、また明日話そう」
私の取り乱す様子に、彼は冷静になったようだった。
翌日出勤した私は、先輩から顔色が悪いと心配された。ただそれだけのことで、気持ちの糸が切れ、開店前に床に泣き崩れた。
それでも仕事はしなければいけない。すぐに落ち着かせ、朝イチのお客様を笑顔でお迎えし、14連勤最終日の12時間労働を始めた。
仕事が終わっても気持ちは落ち着かない。帰宅すればまた彼と話し合いが始まる。
比較的お互いに冷静になれたその夜は、最終的には別れるということになった。

翌日、わたしは久しぶりの1日休みだった。
すると、彼の車仲間からラインが来た。
「別れるって本当ですか?」
既に話は回っているようだった。
事の顛末を話すと、
「俺はまた、沙也加さんとRさんが仲良くしてるとこ見たいです」
と言ってくれた。しかし、もうわたしの気持ちは変わらないといったことなどを伝えると、
「それはRさんだけが悪くて、沙也加さんは何も悪くないってことですか?」
と返ってきてしまった。
「同じ男の子で、友達同士だとわからないかもしれないけど、女性が男性と2人で暮らしてて、男性が物を投げたり、強く言ってくるのって、すごく怖いんだよ。それが変わらない以上、もうわたしはこうするしかなかったんだよ」
そう言うと、車仲間の彼は本心かはわからないが、納得したように引いてくれた。
車仲間と過ごす時間もわたしは好きだった。R君と別れる事で、そうした縁がなくなる事も悲しかった。
この彼はきっと、わたしを恨むだろうと思った。その気持ちを糧にしてでも、R君の強い味方でいてくれることが、わたしのせめてもの祈りだった。

その日R君は、仕事から帰宅するとわたしを呼び、話があると言ってリビングのソファに座らせ、自身も隣に座った。
「俺、昨日沙也加ちゃんにモラハラって言われてから、今日仕事の合間に調べてみたのね」
もうどうせ別れるなら全て伝えようと思い、周りも、わたし自身もわかっていたことを前日の夜に指摘していた。
「そしたら、書いてある事全部当てはまってた。俺、自分がこんなにクズなやつだって、今まで知らなかった」
一言一言をしっかり確かめるように彼は話した。本心だと感じた。
「俺、これが治るなら病院にも行くし、治療もなんだってする。カウンセリングも必要なら頑張る。頑張って治すから、お願い、別れないで」
それがどこまで実現するのかもちろん保証はない。ただ、彼にそこまで言わせる何かが、わたしたちの間にはあった。
もっと早く、怖くても、彼にいろんなことを伝えておけばよかった。そうすれば、彼の何かを変えたかもしれない。はるひの時のように、誰かを変えることはできないことをこの時にはもう頭では理解していたが、それでも悔しかった。でももう、全てが後の祭り。
「ごめん、もう、無理なんだ」
わたしはそう言うしかなかった。
彼はしばらく変な姿勢で硬直し、呻いていた。
物を掴もうとしてもうまく掴めず、思わずフォローすると、
「なんで優しくするの、、」
と葛藤を露わにした。
そうして、少し落ちついた頃、
「じゃあ、俺が頑張っても、やっぱり沙也加ちゃんが無理だと思ったら別れよう。でも、9月の頭は早すぎるから、もう少し待って、、」
と持ちかけてきた。
正直もう待つこともできなかった。十分待ったから。
嘘はつきたくなかった。この嘘はついてはいけないと思った。が、話をまとめるには、最早手段は選べなかった。
「わかった、そうする」
程なくして、叔父の代わりに費用の入金手続きをしてくれた義理の叔母から、入金が完了した旨のメールが届いた。本当にありがとう、と、感謝の意を伝えた。予定通り、カウントダウンは2週間前からスタートした。

R君と過ごした期間の中で、おそらく最も深い地獄だった。
彼はわたしがやり直すと言ったことに相当張り切っていた。
ほぼわたしに任せきりだった家事を積極的に行う他、少しでもわたしとの時間を増やそうと毎日送迎の有無をラインで確認してくれた。毎日断るのは怪しまれそうだったため、程よくお願いした。
9月の誕生日を一緒に祝ってほしいと遠慮がちにお願いもされた。当然だがその頃にはもう一緒にいない。叶う事のない彼の要望を、心臓が押し潰されそうになりながら了承した。
珍しく仙台の観光雑誌を買ってきて、あれこれプランをわたしに提案してくれた。心臓は、潰され続けた。
わたしが辛いと感じたのは、別れる彼と共に過ごす現実ではなく、愛する彼と気持ちがすれ違ってしまったというどうしようもない事実だった。
彼の送迎で帰る途中で寄ったスーパーで、お互い缶のお酒を買った。彼は飲酒習慣があったが、珍しくわたしも飲みたい気分になったのだった。初めて飲む、いつもより強い度数のものにした。
帰宅し夕飯を食べながら飲む。その後一緒にお風呂に入ることになっていたため、度数の強さで酔いがいつもより早く回るわたしに彼は、無理しちゃだめだよ、と声をかけた。
いざ入浴し、上がると、急に目の前がぐらぐらした。飲酒と入浴で、激しくのぼせていた。
浴室の床に座り込み、胃の中から込み上げるものを抑えようとじっと動かず耐えた。わたしは、嘔吐恐怖症の節があった。彼は、心配そうにしていた。
あ、耐えられないと感じた次の瞬間には床に胃の内容物を吐き出していた。誰かの運転で寝てしまうことも家族を抜いて彼が初めてだったが、人前で嘔吐することも家族以外では初めてだった。
「大丈夫?お水持ってくるね、待ってて」
彼はすぐに動いてくれた。わたし自身が体調を崩したときには、いつもこうして気遣ってくれた彼だった。
「R君、ごめん、ごめんね、、」
お水を手渡してくれた彼に、わたしはむせび泣いて謝り続けた。
彼は吐いてしまったことへの謝罪だと思っただろう。しかし、その真意は、彼の努力に報いてあげられないことへの懺悔からくるものであることを、わたし以外に知る由はなかった。

引越し日が間近になると、引越しを伝えていた友達数人からラインで応援を受けた。配信でも、リスナーのみんなが応援してくれた。
既にスマホのロックは番号を変えていた。そこを咎められることもなかった。
自分の人生に責任を取るのは自分自身。だが、自分の人生を形作るのは、きっと自分以外だった。

「R君へ

これが、最後のお手紙です。

誕生日、一緒に祝ってあげられなくてごめんね。
ずっと一緒にいてあげられなくてごめんね。

R君が、頑張って変わって、沙也加ちゃんを幸せにすると本気で思う気持ちがあるなら、次に付き合う人を絶対に幸せにしてね。
R君なら、それができるはず。

電気代と水道代は10月までは支払うね。
鍵は玄関の郵便受けにいれとくね。

たくさんたくさん、楽しい思い出をありがとう。
じゃあね。

沙也加」

前日に絶対に聞こうと思っていた曲は、GARNET CROWの永遠に葬れである。聞けばいつでも水のように自然と身体に浸透する彼らの曲は、これからもわたしの原点であり続けるだろう。

引越し当日朝、彼は仕事に行く前、まだベッドに横になっているわたしにいつものようにキスをした。心なしかいつもより少し長い気がした。
彼が完全に玄関を出て行った後、わたしは耐えきれず涙を流した。
しかし、悠長にはしていられない。
引越しは内密に行う関係で事前の荷造りが一切できなかった。引越し業者に事情を説明すると、ありがたいことに荷造りのサービスなど柔軟に対応してもらえた。
とはいえ1人では難しいこともあるため、友達に手伝ってもらうことにしていた。
その友達は大学の吹奏楽サークルの同期で、数ヶ月後に結婚式を控えていた。わたしはご招待を受け、さらに光栄なことに、披露宴で自前のホルンを使用し、新郎の伴奏で演奏することにもなっていた。その繋がりからお願いしたところ、友達は快諾してくれた。
友達が作業しやすいよう準備を進めるべく、涙を拭き起き上がった。
その後友達、業者の順で来訪し、準備を進めていった。
新居に移動してからの業者の立ち会いを友達にお願いし、わたしはウォーターサーバーの回収に立ち会うため元の家に戻った時に、予め用意したR君への手紙をテーブルに大事に置いた。
まだ一緒に住む前だった時、お互い自分の家に帰る前に置き手紙をしていた頃を懐かしんだ。
回収が済み、忘れ物を確認した際に、姿見を積み忘れていたことに気づいてしまった。
様々模索した末、電車で戻る予定だったが姿見を持ち帰ることにしたためタクシーに変更した。
鏡部分とキャスター部分を分解し、念のため鏡部分には新聞紙を巻き付けた。
こうして見事、分解された姿見をタクシーで運ぶ謎の客が現ることになったわけだが、運転手のおんちゃんは
「引越しですか?」
と聞くだけで、深入りはしてこなかった。
施錠し鍵を玄関の郵便受けに入れ、ドアにそっと触れながら心の中で全てに別れを告げた。

友達は荷造り、新居への車での移動、業者の立ち会い、買い物まで一日がかりで手伝ってくれた。こんなありがたいことはない。
蛍光灯の取り付けだけがどうしても届かずできなかったため、友達の旦那さんも駆けつけてくれ、夫婦2人が肩車をして取り付けてくれた。
結婚式で必ずいい演奏をすることを約束し、この上ない感謝の意を伝え、2人を見送った。

一人になり少ししてから、急に知らない番号から着信があった。
すぐに留守電が入ったので確認する。
「もしもし、Rです。俺からだと繋がらなかったので、車仲間の携帯借りて電話しました。話したいので、折り返し待ってます」
R君からの連絡手段は全てブロックしていた。
そしてまたすぐに同じ番号から着信があったが、わたしが出ることはなかった。

翌日職場で、閉店後に先輩が少し不安そうにわたしを呼び止めた。
「さっき彼氏さんを名乗る人が受付に来て、何時に終わるか聞かれたから、ここではわかりかねますって伝えたよ。あと、手紙預かったから、ロッカー見てみて」
職場に迷惑をかけてしまうことになり、先輩には丁重に謝罪をした。先輩はそこを気にする様子はなく、大丈夫?と心配してくれた。この先輩は、引越しがバレたときに顔色が悪いと心配してくれていた先輩でもあり、わたしが店で最も信頼する上司でもあった。

他のスタッフが退勤し、店に一人になってから手紙を開く。

「沙也加ちゃんへ

急なお手紙ごめんなさい。最後のわがままをゆるして下さい。こんなことをしても沙也加ちゃんの気持ちが変わらないことも分かってます。ただ、このままお別れなんて嫌なのでお手紙にしました。
人生で初めて便箋買いました。それがこんな形になるなんて思ってもみなかったです、、、
やっぱり出て行ってしまったんですね。何となくそんな気はしてました。2年以上も一緒にいたんだもん。分かるよ。一緒に暮らしてたのにほとんどオレの私物だったんだね。一瞬出ていったことに気づかなかったです。
ただ、沙也加ちゃんのいない部屋はすごく静かで寂しくとても寒いです。沙也加ちゃんのことだからオレのことをいっぱい考えての決断だったと思います。辛かったね。本当にごめんなさい。
沙也加ちゃんがやり直してくれるって言ってくれたとき死ぬほど嬉しかったです。本気で変わるんだ!沙也加ちゃんを絶対幸せにするんだ!!って決意しました。でも、ダメだったみたいだね。最後にちゃんとお別れとお礼を言いたかったです。こんなオレを愛してくれてありがとう!幸せにしてあげられなくてごめんなさい。次は絶対に絶対に幸せになって下さい!!
沙也加ちゃんはお手紙で謝っていたけど自分が思っている以上に素敵で可愛くて他人の心がわかる人です。他人のいい所しか見ようとしない、とっても心の綺麗な優しい人です。謝る必要なんてありません。こんなクソ男を最後まで愛してくれたんだから。
沙也加ちゃんがいなくなってから自分の親や会社の上司、友達にモラハラや物にあたってしまうことなど全部話しました。全員に怒られました。自分がどんだけクソだったか、沙也加ちゃんをどれだけ悲しませていたか、、、、謝っても謝っても取り返しのつかないことをしてしまったんだと。そしてもっと早く変わろうと本気で思っていろんな人に相談、行動していればこんなことにならなかったのかなぁ?本当にごめんなさい。
この2年以上ずっと沙也加ちゃんの優しさに甘えてました。心のどこかで、また許してくれる、沙也加ちゃんはオレから離れないでそばに居てくれるって思ってました。その優しさに甘えまくって本当にごめんなさい。
本気で治して来年の1月オレが沙也加ちゃんに惚れた青葉城でプロポーズしようと思ってました。沙也加ちゃんとの結婚や子供のことも少しずつではあったけど考えていてそういうこともちゃんと伝えていれば、、、、、、
オレの沙也加ちゃんとの思い出はいつも優しく、オレの全てを受け止めてくれた思い出しかありません。色んな所に行ったのも楽しかったし、沙也加ちゃんと一緒じゃないと自分一人では行かないようなところも沢山連れてってくれましたね。ありがとう。
沙也加ちゃんと会う前は横で歌われたりするのが嫌だったのに今は沙也加ちゃんにノリノリで歌って欲しいなぁ、沙也加ちゃんの歌声もっと聞きたいなぁって思えるほどになりました。沙也加ちゃんの料理は全部美味しくて特に人参しりしりと油麩丼は好物になってしまいました。(自分で作ってみたけどいまいちだった)
ここでは書ききれないほどのたくさんの思い出を本当にありがとう。オレは沙也加ちゃんに何を残せてあげれたかな?ごめんね。

本当に本当に沙也加のことを愛しています!
今も変わらずずっと。

帰って来てなんて言いません。言える立場でもないです。沙也加ちゃんの覚悟もわかりました。
ただ、少しでも心の片隅にでもまだ俺がいるのならいつでもいいので連絡ください。(◯◯◯-◯◯◯◯-◯◯◯◯)
10月末までは今のお家にもいます。

本当にごめんなさい。
本当に今までありがとう。
そして誰よりも愛しています。

R」

読み終わるまでひどく時間がかかった。涙が溢れ、読み進められなかった。
もうそろそろ警備員が見回りに来る時間だった。
手紙を受け取ってくれた先輩からラインがきていたことに気づいた。
「彼氏さんらしき人は外にはいなそうだったけど、もし不安なら一緒に帰ろうか?地下鉄のベンチで待ってるね」
わたしはお礼とすぐに向かう旨を返しながら、自分の幸せを大事にしていく権利と義務があることを胸に刻んだ。

それからR君からの音沙汰はない。
落ち着いてから、改めて力になってくれた人々に連絡をした。
あたたかい労いの数々、これだけ多くの救いがあるということが、わたしにはありがたく尊いのだった。
何も知らない両親にも話をする覚悟を決めた。R君が自らと向き合い、周囲に打ち明けたなら、わたしも同様にする責任があった。
実家に帰るタイミングが掴めず、両親が揃って話ができる週末の夜に話すことになった。
話す間にも涙は止めどなく流れる。もう何に対して泣いているのかはわからなかった。
一通り話し終えた後、
「もう連勤は落ち着いたの?そのうち1日だけでも帰ってきたら?」
と母。
「そういう大事な話は直接会って話すものなんじゃないか?」
と父は言った。
親なりに心配してくれていることは痺れるほど感じた。しかし、電話でこれだけ泣いているのだ。直接会って話すことが、どれだけ勇気のある行動か、おそらく伝わっていなかった。
「そんな簡単に言わないでよ!確かに自分もこういう話はしてこなかったけど、そっちだって聞いてこなかったじゃん!そういう環境じゃ、なかったじゃん!この話するの、本当に怖かったんだよ!そんな、、簡単に、、」
親は電話越しではあるが、初めて対峙する長女の剣幕にしばし声を失っていた。
今更ながらの反抗期であった。学生時代、模範のように生活することしか知らなかったわたしは、外すべきではないハメを外すのが、多分遅すぎた。
それでも両親はわたしの親であることに変わりはなかった。新居を見に来た彼らは、相変わらず多くを聞いてくることはなかったが、必要であるものを惜しみなく与えてくれた。
そこに遠慮がちにも甘えてしまうわたしも、両親の子であることに変わりはなかった。


2ヶ月後、招待された友達の結婚式が無事執り行われた。
参列者には社会人になってからも付き合いのあった友達もいて、元気に育つ娘ちゃんと共に久しぶりに会うことができた。
慣れない場所でも奔放に振る舞う娘ちゃんと、その我が子を優しく見つめる友達の様子に、心が温まった。
こだわりのドレスに身を包んだ新婦の友達は美しく、ヴァージンロードを歩く姿は胸に迫るものがあった。
わたしは引越し以前から新郎新婦どちらとも交流があった。2人がこの日を迎えるまでの苦労を双方から聞いており、第三者ながらも心痛していた。彼らも間違いなく彼らの地獄を歩んだ者たちだった。
1ヶ月集中練習した演奏の出来はまずまず、といったところだったが、聞き手のいる演奏は奏者冥利に尽きた。
披露宴の最後に2人は、コンパス・オブ・ユア・ハートが流れる中式場を後にした。
結婚がゴールではなく地図のない冒険の途中であること、そしてこれからは2人でその冒険をしていくのだという2人の決意を思わせた。
わたしも好きだった曲であり、その希望に溢れどんな人も先導するようなその歌詞から、2人の未来に思いを馳せた。
そして、わたしも共に夢を追いかけ、育んでいける人と生きて行くと誓い、願った。


R君と別れて9ヶ月、歩きながら聞いていたプレイリストから、いつかの目覚ましだったLisaの炎が再生される。
なんとなくこれまでとばしていたが、そのまま聞いてみることにする。
"託された幸せと約束を超えて行く
振り返らずに進むから
前だけ向いて叫ぶから
心に炎を灯して
遠い未来まで"
わたしは、今だけでは生きられない人間だった。
だから、今を生きて、未来に向かっていくのだ。
愛し愛する、共に生きる幸せを掴むために。

人が地獄に行きたくないと感じるのは、既に地獄にいるからである。
生まれたことで、命という業火に焼かれることになる。
それでも、命という炎があるからこそ、儚くも香り高く、あたたかい煙が包み込んでくれる。
炎が尽きれば、灰が残るのみである。
わたしたちは、命の炎が消えるまで歩いていくしかない。
地獄を行く者よ、業火に焼かれ救いの煙があらんことを。

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