「どうする家康」:CGの戦で何が悪い。

 合戦は戦国大河の華である。
 勝敗で運命が変わるドラスティックなイベントであり、幾多の命が果てる緊張感がある。
 普段と違う鎧甲という華やかな装備をまとい、馬にも乗る。
 究極の非日常である。

 さて「どうする家康」にも当然戦はある。むしろ多い。
 そして感想で頻出するのが「CG」である。
 曰く、「作り物である」「強調が安っぽい」「ゲームだ」。
 どうしても否定の方が目に立つようなのだけれど、はたして本当にそうか。
 CGの戦は果たして悪か。

 CGの是非を問うならまず「戦のシーンに求められるものは何か」次いで「その表現にCGを用いるのに不足があるか」を語る必要があるでしょう。
 先程述べた通り、合戦は華です。
 つまり求められるのは普段にない服と装備を着用し、馬に乗り、命と運命を賭けて戦う緊張感。
「すっごいゴージャスなものが見たい」
 これが要求になります。
 ではCGはこれに足りないのか。
 CGは、確かに演算で描いた絵だ。生きた人や馬はそこにはいない。
 とは言え、見分けはつくだろうか。
 去年の大河、撮影の新兵器たるLEDスクリーン、きっとこここそCGだと思ったシーンを「実はロケ」と明かされることが何度もあった。逆に「えっそこがCG?」という場所もあった。
 お前の目が節穴だからだよ、というご指摘は甘んじて受ける。
 しかし私には実際見分けがつかなかった。
 見分けがつかない以上、CGであるかどうかの詮索は意味がないと思う。
 4月16日に公開されたフルCGの戦場シーンのサンプル動画は美しかった。ここまで技術は進歩したんだなあという感想しかない。
 勿論私は目利きとは言えないし、テレビも未だに4K非対応である。
 しかし逆に4K以上だとしっとり鮮やかな階調で大変美しいのだ、という迫力に「騙されている」訳でもないと言える。
 要求に応える十分な品質は既にあります。
 大体スターウォーズや特撮映画なら、そのあり得ない光景を作り出す技術は評価の対象でしょう。
 号令ひとつで自然に歩いてくれる訳ではないCGを高品質に作る手間は決してインスタントなものではない。当然お値段も張る。
 何故大河だけ、しかも戦だけ「CGなら手抜き」なのか。

 何もロケと実写に価値がないとは言わない。
 実際の広い空間と空気の流れ、生きた人と馬、実物がそこにあるという情報量は大きいし、演じる役者さんにも影響するだろう。
 気象条件による偶然の美が撮れる可能性もある。
 それは紛れもなく屋外ならではの良さだ。
 一方でロケ、ことに戦場のロケの難しさというものも存在する。
 まず合戦が撮影できる広さと構造物の少ない土地は、限られている。
 そしてその土地に撮影の為の人員資機材を持ち込み、撮影し、撤収するまでの運営管理の複雑さ。
 天候に大きく左右されることによる、人員の拘束時間の長さ。
 その困難ゆえに、ロケは予算がかかる。
 ここぞという時にこそ使う。
 大河にとって「合戦が華」なのは物語の大事な転機に合戦があるだけでなく、予算に値する効果を期待するところもあるのではないでしょうか。

 ここでひとつ話を変えますが、「どうする家康」にとって戦は特別なイベントでしょうか。
 初回の「大高城兵糧入れ」から始まり、桶狭間を経て岡崎入り、今川から織田に乗り換えてもずっと、大国の国境にある小国としての争いが続きその疲弊が「三河一揆」に繋がる。今川がなくなって武田を警戒しながら織田の要請に応じて上洛からの北陸攻め、そこからの「三方ヶ原」から「長篠」である。
 すなわちこれまで21回、物語はずっと戦の中である。
 鎧兜を着けていなくても、画面の中には常に戦場の後方である意識がある。
 常に戦場だからこそ意識の底にいつも流れる「厭離穢土欣求浄土」の旗印とも言える。
 最早特別なイベントではない、戦は日常です。
 この頻度だと、戦の映像にあるもうひとつの側面が浮かんでくる。
 戦場は、画面の変化が乏しい。
 戦の規模や重要性に違いはあれど、自らの浮沈を賭け集団で行う殺し合いである。 
 土地の条件は異なり、顔ぶれも異なり、それでも起きることは大体同じこととなる。
 いつも通りに遠距離から近距離の順で武器を振り回し、その中に騎馬武者が点在し、殺したり殺されたりするのである。
 見た目が変わらない。
 見た目にも明らかな武器や戦い方の変化があるときは、それまでの戦がパターンだからこそ違いが際立つ。
 21回までの戦の様子は、ほぼ同じだ。
 だからこそ鵜殿長照父子、お玉、田鶴、阿月、本多忠真と夏目広次、鳥居強右衛門とエピソードで戦ごとの変化をつけている。
 エピソードの他にも、戦の場所は領土の境から遠征での合力、領内での一揆鎮圧。相手は今川武田といった強豪から農民という立場も心情も様々で、地形から見ても海辺、城郭戦、河川敷、平野と様々です。
 この頻度もパターンも満遍ない戦具合をロケだけでまかなえるか。
 あまり現実的ではなさそうです。
 だからこそ、ロケとCG+セットの組み合わせになるのでしょう。
 ずっとずっと戦、誰とでもどこまででも戦という連続性は「厭離穢土欣求浄土」と一続きなので、必要性あってのツールと思います。

 そもそもロケには再現に徹しきれない限界がある。
 安全確保の必要性は重い。
 戦は殺し合いだが撮影で死亡事故を出す訳にはいきません。
 堀や崖、人を殺傷して進軍を止める設備や罠をそのまま作る訳にはいかないし、一度に突進する人数等、安全確保の為に加えた「手心」はしかし画面に映る。
 馬は人以上に事故のリスクが高い。
 過去「武田信玄」で見事な騎馬隊が編成された実績はありますが、それが通例とならなかったということは、画面の外に二度とやらない(やれない)だけの困難があったという推察ができます。
 戦に本物を求めると、安全確保もままならず「いやーやっぱりせめて重傷者の数人は出して馬も2〜3頭は死んでてもらわないとねえ」ということになりかねない訳ですが、やるべきですか。
 違うでしょう。
 CGなら人が死にかねない設備を作り、戦場らしい人数を突撃させ、史実的には正しくても人馬をともに危険にさらす密度で軍勢を動かすことができるのですが。
 実際には撮影隊が展開できない地形での戦場を作れる可能性も出てくる訳ですが。
 その場合どっちが「忠実な再現」になるんでしょうね?

 勿論技術的にまだ発展途上の粗さを見ることはあります。
 ことにスタジオ内に作られた山道の空気感はちょっと屋外との違和感がある。
 CGの制作現場と実写の撮影現場が別々であることの連携の難しさ、それぞれにコントロールしていく必要のある各種考証、他にも色々新しい技術を導入したからこそ変わらねばならない制作現場の流れや、やってみて初めて出てくる問題点もあるでしょう。
 それでも、新しい技術で表現できることが増えていく可能性を私は信じたい。
 人や馬のひとつひとつの動きに対する注目が低くなる遠景の「群」の中まで本物である必要がありますか。
 本当はもっとこうなんだよ、という再現を、自由度の高いカメラアングルでの映像を、見てみたくありませんか。
 CGを使えばこの先もっと進歩があるとするならば、それは試行錯誤しながら進む他ないのではないでしょうか。

 だとすれば、CGの戦の何が悪い。
 私はそう思うのです。

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