「作りたい女と食べたい女」:食事のように、当然に。
1:「つくりたい」と「たべたい」はWin-Winか?
沢山作りたいのに小食である野本さんと、いっぱい食べたい春日さんの出会いから物語は始まる。
いかにも互いの利害が一致した幸せな出会いに思える、が少し待って欲しい。
「つくりたい」と「たべたい」は当然に引き合う話だろうか。
作中の野本さんのモノローグを引く。
「自分が好きでやってることを全部男のためだって回収されるの、つれーなー……」
料理を作る趣味が恋人や家庭に奉公する下準備として扱われがちなのは、それだけ趣味の労力にただ乗りするケースが多いということだ。
一方で、食べきれない量の料理は野本さんにとって作品である反面、不要品でもある。
不要品を受け入れる関係。
そう考えてしまうとこれもひどく冷たく響く。
食べることは処理ではないし、一方的な施しを受ける理由もない。
つまり「つくりたい」と「たべたい」は間に良好なコミュニケーションがなければ利己的な願望の組み合わせに過ぎず、だからこそラブストーリーの命題になった。
改めて野本さん、春日さんにとって「つくりたい」「たべたい」の意味を考えてその仲立ちが「食事」でなければならなかったのかを考えたい。
2:心を満たすための「つくりたい」・野本ユキの料理
野本さんの料理は、趣味である。
自分の三食は日常の生活の領域だけれど、そこを超えたところが趣味になる。
作らなくてもいいが「つくりたい」。
それが趣味としての料理であり、何故必要なのかと言えば日常から少し離れた世界を作るためである。
日常からの逸脱は心に余裕を作り、活気を取り戻す。
野本さんの料理の原風景は「ぐりとぐら」の巨大カステラはじめ、絵本や児童文学の祝祭的な料理にある。
だからこそ原風景に触れる為には量が要る。取り戻したい元気が多ければ多いほど大量になる。
自分の食べられる量を過ぎればそれは勿論余るけれど、心のために必要であり、心に必要なものだったからこそ野本さんは残りの部分をも大事にしてきた。雑な振る舞い方も廃棄もしていない。
作れたらいい訳でも食べてもらえたらいい訳でもない。
見ただけで非日常とわかる菓子や海外の変わった料理ではなく、家庭料理の範囲で量だけを非日常にする。野本さんの料理は一見趣味とわかりづらい。
だからこそより「男」「家庭」と日常の拡大を望んでいると思われがちになるだろう。「回収」である。
自分の心の拠り所、不可侵の領域を他人の日常に回収されるのは、尊厳の侵害に近い。
野本さんは作りきった非日常を、処理能力の低い自分の日常に回収しなければならないことを嘆きながら誰も招いてこなかった。
他人に踏み込まれたくない場所だからである。
では本当に他人は必要なかったのか。
己が日常に組み込んで奉仕させることを当然とせず、自分の大事に作ったものを同じような大事さで扱ってくれる評価者は、作り上げた非日常の回復効果をより高めてくれるのではないか。
イマジナリーな動物たちでしか果たせなかった、その部分。
「お鍋をからっぽにしてくれる人」である。
3:自主独立の為の「たべたい」・春日十々子の食事
春日さんの食事は、人生である。
大柄で筋肉質な体と力仕事が要求するカロリーであり、そして実家で強いられてきた抑圧から逃げて現状勝ち得ている自由の象徴である。
男尊女卑のコントロールを強く敷いた実家で女という理由で劣位に置かれ、食べ物の量も家事の負担も男と違いテレビを見る位置も制限され、隠れ食べが見つかることにさえ怯える日々。
だからこそ今なお勝手に量を減らされること、食べ方に口を出されることに彼女は静かに、しかし確実に怒るのである。
「普通に、ついでください」
たかが量、ではない。
「減らしておきました」は動機が善意であっても「女であることを理由に権利の制限を受けた」なのである。
餃子の食べ方について管を巻く酔客については言うまでもない。
食事は彼女にとって人権である(勿論他の誰にでも、であるのだが)。
常に守る意識がないと、刷り込まれた抑圧の習慣に呑まれて奪われそうな、孤独で繊細な戦いでもある。
食べたいものを、他人からの制限なく、食べたい量食べる。
それが彼女の心を守る。
だから春日さんはフライドチキンのバーレルふたつとそれ以上、人目に立つ店内ではなく自分一人のための大きなテレビと、自分の体が伸び伸び過ごせるベッドのある自分の城で食べるのである。
他人に踏み込まれたくない場所だからである。
しかし、ずっと一人でいるからこそ意識の底は実家の軛から抜け切れていない。
弱みを見せない、借りを作らない、礼儀正しさの鉄壁。
鉄壁故に他人を近寄せない、愛想のなさ。
味方が欲しいと思うことさえきっと「弱み」と思ってきただろう。しかし孤独な戦いを続ける彼女を肯定してくれる味方は本当は必要だった。
そう思う。
思えば春日さんは常に常軌を逸した量を食べている訳ではない。
唐揚げ定食ご飯大盛り程度の、普通によく食べる人の食べ量だ。
フライドチキンの日、餃子三人前とご飯大盛りの日、きっと彼女にはストレスの溜まることがあったのだ。
会社の飲み会で大皿からほんの少しの取り分しか回ってこなかった日のように。
あの日の彼女を救ったのは、野本さんの「差し入れ」だっただろう。
野本さんは決して春日さんの胃袋だけをつかんだのではない。
4:食べ物だからこそ、描ける愛
「つくる」と「たべる」にそれぞれの生き辛さを乗せて、二人の繋がりが始める。
始めは野本さんが特盛りのルーロー飯を出し、春日さんが食べる。
言ってみれば「物」としての授受だった。
「つくる」理由を聞かずに食べて欲しい野本さんと、「たべる」ことに口を出されたくない春日さんとでは、おそらくその始まり方がベストだった。
理由や事情に触れるのは、心の一番敏感な部分に踏み込むことだったからである。
野本さんが春日さんの食べっぷりに惚れ込むのは、作る理由を解釈されないからでもある。
春日さんが野本さんの料理に誘われるのは、食べ物を通じた支配を受ける気配がないからでもある。
対価の収受によって心理的な不均衡を是正し、持続的な関係を求めるようになるまでは割とすぐ。
二人で食べるようになり、度を超した特盛り料理が減り、春日さんは会話を楽しむようになり、野本さんは一人ではあまり飲まない酒を楽しむようになる。
無機質な物体のやりとりでは既にない。食事はコミュニケーションの場になっている。
ストレスをぶつける「つくる」「たべる」から、二人の食卓を楽しむようになったということである。
その末に、互いに「つくる」「たべる」の一番触れられたくないところを打ち明け、共感するに至る。
その後で作られるシュトーレン風パウンドケーキ、春日さんは少しずつ食べるルールに抑圧を感じないし、野本さんはちまちま食べる春日さんの姿も変わらず愛す。
触れられたくないセンシティヴ、ただの物体、コミュニケーションと信頼の深まる様子。
それぞれの中で食べることの意味が変わることで、人生が他人と生きる形に変わっていることを示す。
それはやはり友情でなく恋愛の結果なのだ。
そしてその関係と心理状態の変遷を示すバロメーターに適切な物体は何か、と思えばやはり食べ物であったろう。
「作りたい女と食べたい女」は、レズビアンを題材に取るまだ数の少ない作品である。
作品からはごく普通の、真面目に、生き辛さを抱えて生きる人が、普通に恋に落ちる相手が同性でありうる、その当たり前を描く意志を強く感じる。
恋愛の相手を捜しているわけでもない、むしろすぐ結婚に結びつく恋愛の話に疎ましささえ感じる、30代の女性である野本さん。
等身大の人が、生きてる限り誰もがする食事を通じて、恋をする。
普通を重ねた先にあることは、当然普通だという導線の作り方。
そして身長の高いがっしりした体で愛想のない大食漢、と「女性らしさ」の逆を取るように、それでも「男の代役」にならないよう長髪と丁寧な言葉付きに設定された春日さんのバランス。
等身大の野本さんと少し異質の春日さんとを組み合わせることで、女とは何か女らしさとは何か、そして恋の相手に限らず「何故女ではいけないのか」という意識へも導いている。
特殊な人の変わった性指向でもなく、未熟な故の恋愛と友情との混同でもなく、普通に恋愛の範囲と伝わるようであれと。
好奇の目で見られやすい性的な要素を極力省いたこの作品で、二人が運命の人になっていく過程を示すなら、やはり食べ物を通じて描くことがよかっただろうと思う。
食べること程人類普遍の、心と直結した行動はないのだから。
ドラマ版は原作の繊細さと主張を踏まえ、テレビという発信側からは視聴層の選択ができない特性から考証を更に確実に取り、優しく力強く物語をアピールする佳品だったと思います。
公式サイトに掲載される制作に関する舞台裏トークの記事や、全スタッフリスト(「全員」公表されるのは珍しいことなのです)を普段公式サイトまで当たらない人も見て欲しい。
LGBTQ+やジェンダーバランスの問題だけでなく、これからの働き方やドラマのあり方へのひとつの提言なのだと思います。