ランド・グラント大学が日本の大学に与えた影響

  1. アメリカのランドグラント大学をモデルとした北海道の開拓
 明治初期の北海道は道南地方や沿岸部を除いて大半が未開地で、この地の開拓は政府にとって緊急の課題となっていた。特に南下政策をとるロシアとの間では樺太(サハリン)の帰属をめぐり江戸時代末期からしばしばトラブルが生じており、土地を開き国民を定着させる必要があった。このことは単に北海道の開発を図るというだけでなく、外交上の問題としても重要視されていた。さらに、明治維新等により職を失った武士階級に職を与えることは、明治政府にとって大きな課題であった。そこで明治政府は、国力を増進することを目的に鋭意産業振興を図る方針をうち出し、1868 年(明治元年)に蝦夷開拓の方法を講じ、1870 年(明治3 年)9 月に民部省中に勧農局を設けた(実業教育50 年史、昭和9 年)。

 こうしたことから、1869 年(明治2 年)に設置された北海道開拓使の次官、黒田清隆は米国に滞在中の森有礼とともにグラント大統領を訪問し、北海道の開拓にアドバイスを仰げる人材の推薦を依頼したところ、USDA の長官を務めていたケプロン(Horace Capron )を推薦し、ケプロンもこれを受け入れた。開拓使は、ケプロン以外にも多くの外国人技術者を雇い入れ、広大な北海道の地を開拓するためヨーロッパ及びアメリカの経験や科学技術を導入しようとした。開拓使はケプロンからの提言のもとに、国内での人材養成を行うために1872 年(明治5 年)3 月、東京芝増上寺に開拓使仮学校(開拓使所管)を設置した。開拓使仮学校は、将来北海道に専門の学校を設置することを前提としておかれ、1875 年(明治8 年)7 月に札幌学校、1876 年(明治9 年)9 月に札幌農学校(いずれも開拓使所管)となったケプロンは1872 年(明治5 年)に開拓使次官の黒田清隆に宛てに「開拓使は科学的組織的にして且つ実用的なる農業を起すが為に全力を傾注せざるべからず。この目的を達するには、東京及び札幌の官園に連結して学校を設け、その内に於て農学の重要なる総ての部門を教授するを以て最も有効にして経済的なる方法となす、此等の学校は整備せる実験室と卓越せる専門の教授とを有せざるべからず。例えば昆虫学教授は年々虫害のために幾百萬弗の財産を滅ぼすこの国の農業者に対して無限の交益を興すべし」との意見書を提出し黒田次官もこれに同意し、1872 年仮に農工諸科の学生をまず東京に設けることになった。

 開拓使長官黒田清隆の強いリーダーシップの元に日本政府は、当時マサチューセツ農科大学(Massachusetts Agricultural College : MAC)の学長であったウィリアム・スミス・クラーク(William Smith Clark:1826-1886)との間で1876 年(明治9 年3 月3 日)にワシントンにおいて1 年契約を結んだ。契約は、日本政府は教頭兼農学、化学、普通、英語教師としてクラークを雇うという内容であった。MAC のカリキュラムは農業専門教育だけではなく徳育・体育など全人的教育を目的としていた。クラークは、MAC のカリキュラム編成の考え方を札幌農学校におけるカリキュラム編成にも取り入れたため非常に特徴あるカリキュラムとなった。具体的には、英語の比重が大きいこと、弁論関係の科目があること、人文科学、社会科学に関する科目が多いといういわゆるリベラル・アート教育であった。クラークは、MAC 出身のウィリアム・ホイーラー(William Wheeler : 1851-1932) 、デイビッド・P ・ペンハロー(David Pearce Penhallow:1854 –1910)、ウィリアム・ブルックス(William Penn Brooks:1851 - 1938)とともに札幌農学校の設立・発展のために尽力した。
クラークの札幌滞在は実質9 ヶ月間という短い期間であったが、開拓使長官黒田清隆の手厚い支持の元に札幌農学校に必要な基本的体系を整えて帰国した。初期の札幌農学校の卒業生からは日本の政界、学会、教育界に影響を及ぼした多数の人材が誕生した。札幌農学校はその後東北帝国大学農科大学(190 年)、北海道帝国大学農科大学(1918 年)を経て、北海道大学農学部へと発展した。

2. ランドグラント大学に類似した役割を担った帝国大学システム
 設立の経緯は異なるが、結果的に地域の中核となる9 つの帝国大学が設立され、その全てに医学部、理学部、工学部が設置され、京城帝国大学と大阪帝国大学以外の帝国大学に農学部が設置された。このことから、帝国大学がヨーロッパ型の自由七科を前提としたリベラルアート大学ではなく、当初から地域の産業や医療を支えるリーダーを養成するという使命を帯びていた点でランドグラント大学が設立された経緯と重なることは注目に値する。また、森有礼は、アメリカの連鎖商業学校(Bryant & Stratton School の一つ)の校長をしていた、ウイットニー (William C. Whitney: 1825-1880)を招聘し、1875(明治8)年に私立の商法講習所(後の一橋大学)を開設した。一方、1874 年(明治七年)にドイツ人ゴットフリード・ワグネ(Gottfried Wagener :1831-1892)の進言に基づき東京開成学校の中に製作学教場が設置され、これを前身として1881 年(明治14 年)に東京職工学校(後の東京工業大学)が設置さ
れた。 従って、日本の大学制度は当初から実用を前提とした技術学に重点をおいた発展を遂げてきたといえる。

2. 戦後の「アメリカ教育使節団報告書」に基づく教育改革
新制大学とは、終戦の翌年に日本を訪れた 米国教育使節団 が連合軍総司令部(GHQ)に提出した報告書の中に「日本には教育改革が必要である」と記述されたことに基づき昭和22 年(1947 年)に制定された学校教育法に拠り再編または新設された大学を指す。その後、昭和31 年(1956 年)に制定された大学設置基準の第39 条に農学に関する学部には農場、獣医に関する学部・学科には家畜病院、畜産に関する学部・学科には飼育場または牧場を設置するということが記載されたことにより新制大学の農学部に附属農場が設置される根拠が明確になった。
 当時は、戦後の食料不足を背景に食料供給体制の整備が最優先課題であったため、農学教育は農業基盤造成と農業生産増加という明確な課題を解決することが目標であった。ところが、その後人口が急激に増加したこと、並びに高度経済成長を背景に農産物の輸入量が次第に増加した結果、GDP に占める農業生産の割合が徐々に低下したことから農学教育の目標もまた次第に変化し多様化してきた。
 日本の大学教育全体に眼を向けると、戦後半世紀近くに亘り新制大学のシステムで運営されてきましたが、政治・経済状況の変化を反映して平成3 年(1991 年)に 大学設置基準が大綱化 されたのに伴い教育組織の大幅な再編が行われました。これに引き続き、平成16年(2004 年)には 国立大学が独立行政法人化され、日本の大学教育に大きな影響を与え現在に至っている。
 特に農学教育に関しては同年に大学基準協会から 「農学教育に関する基準」 が提示された。これらの一連の大学制度改革の結果を農学教育の立場から判断すると、教養教育の比重が低下し、より低学年から専門教育を行う様になってきたこと、農学教育が専門分野ごとに細分化し、より分析的になってきていることが挙げられる。言い換えると、1990 年代からの一連の教育改革は第二次世界大戦後に構築された新制大学の教育システムの見直しであったという位置付けになると考える。

3. 現代の農学教育の課題
 これらの教育改革が日本の社会システム全体に与えた影響を評価するのにはもう少し時間がかかると思いますが、現在の世界と日本をめぐる社会情勢の元で農学教育が取り組まなくてはならない課題には、互いに関連している以下の二つの側面があることを理解する必要がある。
 まず世界的な視点からみると、特に発展途上国における急速な人口増加と経済成長に伴う食料需給の逼迫に対して日本がどの様に対応するのかという問題がある。その一方で日本国内に眼を向けると全く様相が異なり、少子高齢化と人口減少に伴う農業生産者と食料需要の減少に対し、日本国内の農業生産体制をどの様に整備し発展させていくのかという問題がある。
いずれにしても、これからの日本の農業を支えるのは人材であり、技術であるのは間違いない。大学における農学教育が抱える問題は多様で複雑ですが、人口の減少に伴い、土地の値段が下落する一方で、国際的な食糧需要が増加することから、日本の農業が大きく発展するチャンスが訪れる可能性が極めて高い。その時のために、しっかりとした人材を養成することこそ農学教育に携わる大学に与えられた歴史的使命であると考える。

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