深い山に悠々と河は流れる〈プロローグ〉
2022/1/16 文学フリマ京都にて販売予定の『深い山に悠々と河は流れる』
そのプロローグになります
読んでみて、もし関心を持たれた方がいたら、是非当日みやこめっせにお越しください
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コウハイの額に汗がにじむ。汗の粒が大きくなり隣の汗粒と繋がる。やがて重力に耐えかねてコウハイの火照った頬をツーーっと汗がつたう。一粒、また一粒と流れる。それらはコウハイの顎で合流し、ポタッポタッと地面に落ちてシミを作る。
何故こんな苦労をしてまで山を登らなければならないのか、とコウハイは一秒ごとに考える。人は山を切り開き、道を通し、バスを走らせて自然を克服してきた。莫大なデータから天気を予報し、地震を予測し、自然をコントロールしようと努力を積み重ねてきた。
それなのに、わざわざ苦労して山に登る意味がコウハイにはまるで分からない。もしきっかけが無ければ、自分一人だけであれば、絶対に来なかっただろう。お世話になっているセンパイから誘われなければ。
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「結構登ってきたねえ。」
センパイは独り言なのか呼び掛けているのか分かりにくい声量で呟く。
「 はい。」
コウハイは曖昧に返事をする。
「人の行き来も無いし、少しマスクを外そうか。」
そう言ってセンパイは白いスポーツマスクを顎までずらす。リュックを背負ったまま器用にサイドポケットのペットボトルを取り出し、厚い手袋を外して蓋を開け、ボトルの口に自身の口をあてがう。中に入ったスポーツドリンクをまるでポンプのように、口、喉、食道、胃へと、ゆっくりと流し込んでいく。
コウハイもセンパイにようやく追いつく。センパイの三歩後ろでマスクを外す。
途端に、冬の凛とした空気が体内に流れ込む。鼻腔をくすぐる木々の匂い、土の香り。息苦しさがウソのように消えて、肺の中が新鮮な空気で満たされていく。
(あぁ、そういえば、外でマスクを外すのなんて久しぶりだな……。)
「気持ちいいでしょ。」
センパイは額の汗をタオルに吸わせながらニヤッと笑った。その笑顔がまぶしくて、コウハイは目を逸らしてしまう。
「人はさ、自然の中にいる時が一番リラックス出来ると思うんだよね。コンクリートジャングルに囲まれたトレーニングジムで汗流しても、こんな爽快感は得られないんだよ。ご時世で周りの目も気になるし、マスクもおちおち外せないしさ。もっとお野菜作ったりお魚釣ったりさ、そういう自然の中で過ごす時間が現代人にはもう少し必要なんじゃないかなあって、最近思うんだよね。」
コウハイは深呼吸してもう一度山の空気を胸いっぱいに吸い込む。就職を機に移り住んだ東京でこの空気を感じた経験は、たしかにコウハイの記憶には無かった。
(皇居周辺や代々木公園なんかには緑が少なからずあったけど、つい深呼吸したくなるような場所があの大都市にあったかって言われると……。怪しいかもしれない。)
コウハイは目線を上に向ける。広くて青い空を見上げる機会もコウハイにとっては久しぶりのことだった。薄い雲が二人の上空をゆったりと流れていく。
「たしかにセンパイの言いたいことは分かりますけど……。」
コウハイは両手を膝に置きストレッチしながら答える。
「自分は汗をかくこと自体があまり好きじゃないですね、正直。ベタベタしますし。家でゴロゴロしながらユーチューブ見たりマンガ読んだりしている方が好きかもしれないです。」
「根っからのインドア派だねぇ、君は。」
困ったように笑いながら、センパイはまたボトルの飲み口をくわえる。
二人の後ろで山を登る人と下る人がにこやかに挨拶を交わしている。コウハイはその様子を和やかな気持ちで眺めている。
「よし、そろそろ再開しますか。」
センパイはボトルをリュックのサイドポケットに入れ直す。
「えー、もう少しまったりしていきましょうよ。」
センパイは浮かべた笑顔にマスクをかぶせ直し、コウハイに背を向けて無言で歩き出す。
「あ、そんな、ちょっと。待ってくださいよ。行きます、行きますってば。」
コウハイは急いで立ち上がる。地面に下したリュックを背負い、センパイの進路をなぞるように追いかける。
真っ青な空に薄い雲がたなびいている。二匹のトンビが山と山の間をゆっくりと旋回する。
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続きは文学フリマ京都にて
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