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お爺さん(74歳)の思い出  その32 籾から玄米へそして生活

田んぼで脱穀した籾を、自宅に牛で運びます。自宅では一旦倉庫に入れて、乾燥に備えます。

乾燥は、先にも書きましたが、自宅の庭に筵を敷いて、その上に籾を広げます。天気との勝負です。一旦雨でも降ろうものなら大変です。家族総出で片付けです。隣近所助け合うのも度々です。

一定の乾燥が終わったら籾すりです。籾の皮を剥がして、玄米にするのです。これは、機械を使ってやりますが、多くの人手が要ります。隣近所が皆さん集まって、「カタヨリ」(隣同士で助け合いながら仕事をする事)に籾摺りをします。籾摺り機械も共同購入です。

玄米は60kg事に俵に詰めます。そして供出です、農協を通じて国に買い上げてもらうのです。この時、乾燥の具合で米の値段が変わります。玄米を一俵ずつ検査をして、一等米〜三等米まで決まります。等級により値段がかわります。乾燥が悪いと買ってもらえないことがあります。

かけ干し、自宅での乾燥と大変ですが、これで一俵の値段が変わります。天気と戦いながらも大変です。

自宅で籾摺りをして、60kg毎に俵に詰めて運びます。前述したように、私の家は細い道で繋がっていますから、60kgの俵を運ぶのは大変です。人力で一俵ずつ担いでの運搬です。役200mの間を6〜7人で、受け渡ししながら運びます。中学高学年になれば一人前に、扱われます。物凄く重かった事を思い出しす。

広い道に出れば、牛車か馬車で運びます。

年末までには国に買ってもらって、年に一度の入金です。農協に預けて少しずつ引き出して、生活費に使って行きます。

もう一つの収入は、子牛の販売です。役牛として使うために、親牛を3頭飼っていました。毎年一頭ずつ繁殖させ、一歳位で競り市に出して、販売していました。それも大きな収入の柱です。

他には、山林(杉山や炭焼き)での収入があります。さらには、日雇い労務者での収入です。戦後の復興期ですから、公共事業が多く発生しておりましたから、農閑期には多くな方々が、土方に出ていました。

今日はこれまでです。

今回も最後までお付き合い頂きありがとうございました。

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