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父親からのバトンの話。

 今回はいろいろと考えるひとつのきっかけとなった私の父親のことを書こうかと思います。父親は今80歳半ばですが、数年前に危篤状態になったことがありました。
 そのときはまだ原因が特定できておらず、コロナのような症状で肺に炎症が広がり呼吸がどんどんできなくなってきていました。母からの連絡で駆け付けた駆け付けたときには、既にかなり深刻な状態。
 事前に母からある程度聞いていましたが、医師から病状の説明のあと「延命を優先して寝たきりになることを覚悟して人工呼吸器措置をするか、このままの治療でいくか(その場合は最悪の事態も覚悟してほしいということでですね)」をその場で(!)決めてほしいとお願いをされました。

 なにはともあれ本人と話さなければ、ということで短い時間でしたが特別に病室に入れてもらい父親と少し話をしました。
 思ったとおり父親は延命措置は望まず、寿命に任せたいということでした。私が握った手をしっかり持って、なにも不安を感じさせない笑顔で「お母さんをお願い」と。

 結果的にぎりぎりで(というかその日に)原因が判明し、投与した薬が間に合ったおかげで症状が劇的に改善しました。2か月後には退院することができ、いまも元気で暮らしています。その後今度は母親が介護状態になっていますがそれはまた別で書きたいと思います。

 あの場で父親はなぜあんなに穏やかな笑顔ができたのか?

 ある意味ドラマなどでよく見るシーン(「あとをお願い」的な)ではありますが、いざ自分に起こってみると、あのとき病室で父親と過ごした時間、笑顔を見たことが時間が経つにつれて自分の中で大きな意味があったように感じてきました。私は言葉にできないなにかをその場で父親と交わしたような感じでしょうか。
 
 近内悠太さんの「世界は贈与でできている」の中に「不当に愛された自分」の負債を返していく家族のヒストリーの話があります。
 親は子供を愛情をもって育てていくが子供には親に返すすべをその場では持っていない。結果的にその愛は一方的な贈与であり、子供は「愛されるべき理由がなく愛されている自分」を「負債」として引き受けることになる。
 親も自分の親から同じく愛されており、その「負債」を子供を愛し育てることで返していくという愛情のバトン渡しがあるということでした。
 そのうえで親の安心とは、子供がキチンとそのバトンを次の世代に渡せるようになることを見届けることで得られるものであると。
(もちろんこのバトン渡しは対象は自分の子供だけとは限りません)

 今回のことを振り返ってみますと、それまで過ごした時間の中で父親は私のことを自立した大人であると認めてくれていた。だから最後かもしれない瞬間になったときに自分が安心してバトンを渡せすことができると思ってくれた。
 自分が親からもらった愛の贈与を自分の息子は引き受けて、次の世代へ渡すことができるから安心できると感じてくれた。

 バトンは無意識では既に渡されていたのかもしれないけれど、あの場でその受け渡しが表面化したのではないか。

 そんなように感じるようになりました。そうであれば良いなと思っています。

バトンをもらったので、自分も子供たちを愛情をもって育てて、笑顔でバトンを託せるようにならなければ。まだまだ先は長い。。。

お読みいただきありがとうございます。

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