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調和は神の現われ

平和と争いを選べるとしたら全ての人は平和を選ぶと思います。

幸福と不幸を選べるとしたら全ての人は幸福を選ぶと思います。

喜びと苦しみを選べるとしたら全ての人は喜びを選ぶと思います。

一見、人は多種多様にいて複雑に見えますが望んでいることは同じです。

同じことを望んでいるのに何故、争いが絶えないのでしょうか?

それに至る手段や方法が違っているからです。

たったそれだけのことですが、それが原因で戦争に発展することもあります。

望んでいることは同じであるなら、自分と皆は同じということに気づかないでしょうか?

私達は皆、平和を望み、幸福を望み、喜びを望んでいます。

何が違うというのでしょうか?

人間が皆、見た目も中身も同じになれば争いなどなくなると思うかもしれません。

しかし、神は人に多種多様な見た目、考え方を与えました。

何故でしょうか?

車は見た目も働きも違う部品の集まりで、車としての役割を果たしています。

人間も多種多様な器官の集まりで、人としての役割を果たすことが出来ます。

それぞれが違う働きをしながらも他の部分の出来ない所を補いあっているのがわかると思います。

私はここに神の意図を感じています。

人間が多種多様にいるのもあえてそうしないといけないように仕組んだとしか思えないんです。

会社の複数の部門が優れていても、それぞれが好き勝手に動くとどうなるでしょうか?

結集すれば100の力が出せるとしても、30の力すらも出せないかもしれません。

人間の各器官が栄養を奪い合えばどうなるでしょうか?

人間の生命は危うくなるでしょう。

何事も調和的でないと上手くいかないようになっています。

つまり、我善しは自らをも苦しめてしまう愚かな行為にしかならないということです。

本当に喜びを求めるなら我善しを捨てることです。

我善しを捨てるほど勝手に日常が調和的な行為になってきます。

日常が調和的になるということは日常が喜び、感謝になるということです。

マスター達がしきりに調和を説いたのもそのためではないかと私は感じています。

以下は日月神示の一文です。


日月神示
【青葉の巻 21帖】
弥栄とは次々に限りなく喜びを増やして養って行くことざぞ、喜びとはお互いに仲よくすることぞ、喜びは生きものぞ、形あるものぞ、声あるものぞ


【春の巻 30帖】
宇宙のすべてがつながりであるぞ。
石でも水でも草でも木でも動物でもすべてがつながりぢゃ。
手と頭のようなもんぢゃ。
拝み合えよ。親しみ合えよ。和せよ。
和すと自分となるのぢゃぞ。
自分大きく、明るくなるのぢゃ。
豊かに嬉し嬉しぢゃ。
赤いものの中にいると赤くなって行く。
理に向かっていると、いつの間にか神の気戴くぞ。
神の光が戴けるのぢゃ。
二度三度、話聞いたり、拝んだりくらいで理はわからん。
神はわからん。
体験せねばならん。
一方的では何事も成就せん。
持ちつ持たれつであると申してあろう。


【春の巻 35帖】
念じつつやれ。
神の為と念じつつやれば神の為となる。
小さい行為でも霊的には大きはたらきするのぢゃ。
自分ということが強くなるから発展ないのぢゃ。
行き止まるのぢゃ。
我れ善しとなるのぢゃ。
調和が神の現われであるぞ。
霊と調和せよ。肉体と調和せよ。人と調和せよ。
食物、住居と調和せよ。世界と調和せよ。
嬉し嬉しぞ。
一生かかってもよいぞ。
遅くないのぢゃ。
自分の中のケダモノのため直しにかからねばならん。
悪いクセ直さねばならん。
これが第一歩、土台ぢゃぞよ。


【極め之巻 5帖】
つまらぬことに心を残すのは、つまらぬ霊界との縁が残っていることぞ。
早う岩戸を開いて富み栄えて下されよ、人民富み栄えることは、神が富み栄えることぞ。
何事も祓い清めて下されよ、清めるとは和すことぞ、違うもの同士和すのがマコトの和であるぞ。


【月光の巻 38帖】
始めの喜びは食物ぞ。
次は異性ぞ。
いずれも大きな驚きであろうがな。
これは和すことによって起こるのぞ。
融け合うことによって喜びとなるのぢゃ。
よろこびは神ぢゃ。
和さねば苦となるぞ。
かなしみとなるぞ。
まず自分と自分と和合せよと申してあろうが。
そこにこそ神の御働きあるのぢゃ。
ぢゃがこれは外の喜び、肉体のよろこびぞ。
元の喜びは霊の食物を食うことぞ。
その大きな喜び与えてあるのに、何故手を出さんのぢゃ。
その喜び、驚きを何故に求めんのぢゃ。
何故に神示を食べないのか。
見るばかりでは身につかんぞ。
よく噛みしめて味わいて喜びとせんのぢゃ。
喜びが神であるぞ。
次には神との交わりぞ。
交流ぞ。
和ぞ。
そこにはかつて知らざりし驚きと大歓喜が生まれるぞ。
神との結構による絶対の大歓喜あるのぢゃ。
神が霊となり花婿となるのぢゃ。
人民は花嫁となるのぢゃ。
わかるであろうが。
この花婿はいくら年を経ても花嫁を捨てはせぬ。
永遠に続く結びぢゃ。
結魂(けっこん)ぢゃ。
何ものにも比べることの出来ぬ驚きぞ。
よろこびぞ。
花婿どのが手を差し延べているのに、何故に抱かれんのぢゃ。
神は理窟ではわからん。
夫婦の交わりは説明出来まいがな。
神がわかっても交わらねば、神と融け合わねば真理はわからん。
何とした結構なことかと人民ビックリする仕組ぞ。
神と交流し結婚した大歓喜は、死を越えた永遠のものぞ。
消えざる火の大歓喜ぞ。
これがマコトの信仰、神は花嫁を求めて御座るぞ。
早う神の懐に抱かれて下されよ。