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己の裁く心に裁かれる

良い、悪いと思考するのは当たり前のことだと誰もが思っています。

しかし、この良い悪いの思考が自らをも苦しめるという事実を多くの人が知りません。

良い悪いという思考は裁きであり、これがないはずの悪を生み出す原因になります。

この裁きは一切に向けられます。

己の裁く心は他者にも投影されます。

故に他者から裁かれると思い込み、結果として一切から裁かれることになります。

自分の裁く心に苦しめられるわけです。

自らへの裁きにどんな誤魔化しも、言い訳も通用しません。

だから仏教では憎むこと、嫌うこと、裁くことを三悪として戒めます。

私の師匠は『己の裁く心に裁かれる』『嫌うことにどんな意味があるのか自問しろ』と言います。

人間関係で恐怖を感じる、やたら攻撃的になったり、不満になるなど心が勝手に動くことが多い、心の動きが大きい人ほど裁く心が存在します。

裁く心があるからダメだとしてしまうと、これがまた裁きになります。

裁く心に気づいたら行動、言動に現さずに裁く心に気づき続けていることです。

これは抑圧すること、我慢することではありません。

否定も肯定もする必要はありません。

裁く心に気づいたら一緒にいればいいだけです。

気づく度に繰り返すことです。

繰り返すことでそれらは徐々に消え去っていきます。

実体のないものはこちらが力を与えなければ消え去るしかないからです。

これが日月神示で言われる『まつり』『和合』であり『悪を抱き参らせる』ことだと私は感じています。

以下は日月神示の一文です。


日月神示
【まつりの巻 5帖】
邪祓うとは、邪無くすることではないぞ、邪を正しく導くことざぞ、追い払うでないぞ、まつろえよ。
引き寄せて抱き参らせよ、取り違いならん大切事ぞ


【日月の巻 11帖】
悪神の仕組はこの方にはわかりているから、一度に潰すことは易いなれど、それでは天の大神様にすまんなり、悪殺してしまうのではなく、悪改心さして、五六七(みろく)の嬉し嬉しの世にするのが⦿(かみ)の願いざから、ここの道理忘れるでないぞ。
今の臣民、いくら立派な口きいても、文字ならべても、誠がないから力ないぞ。
黙っていても力ある人いよいよ世に出る時近づいたぞ。
力は⦿から流れ来るのざぞ。
磨けた人から⦿がうつって今度の二度とない世界の、世直しの手柄立てさすぞ。身魂磨きが何より大切ぞ。


【風の巻 13帖】
楽してよい御用しようと思うているのは悪の守護神に使われているのざぞ。
人の殺し合いでこの世の立て替え出来ると思っているのも悪の守護神ぞ。
肉体いくら滅ぼしても、善き世にならんぞ。
魂(タマ)は鉄砲では殺せんのざぞ。
魂は他の肉体に移りて目的立てるのざぞ、いくら外国人殺しても、日本人殺しても、善き世は来ないぞ。
今までのやり方スクリ変えて、⦿の申すようにするより他に道ないぞ。
このたびの岩戸開きなかなかぞと申してあろうが、見て御座れ、善一筋の与える政治で、見事立て替えてみせるぞ。
和合せんとマコトのお蔭やれんぞ、一家揃うたらどんなお蔭でもやるぞ。
一国揃うたらどんな神徳でもやるぞ、自ずから頂けるのざぞ。
⦿要らん世に致してくれよ。


【光の巻 6帖】
悪い者殺してしもうて善い者ばかりにすれば、善き世が来るとでも思うているのか、肉体いくら殺しても霊までは、人民の力ではどうにもならんであろうがな。
元の霊まで改心させねば、今度の岩戸開けんのぢゃぞ、元の霊に改心させず、肉体ばかりで、目に見える世界ばかり、理屈でよくしようとて出来はせんぞ、それくらいわかっておろうが、わかりていながら、ほかに道ないと、仕方ないと手つけずにいるが、悪に魅入られているのぢゃぞ。