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嫌うことをやめる

自分という立場を完全に消し去ることが出来れば修行の完成と言われますが、それだけでは人はどうしてよいのかわかりません。
師匠からの教えに『嫌うことをやめなさい』というのがあります。
この教えはすることが明確です。

嫌うことをやめるのは自と他の分離をなくしていくことになり、自分というものが全体に溶け去っていくことで自然と自分という立場が消え去ることになります。

故に実感しつつ進める、わかりやすい道であると私は感じております。
怒り、恐怖、不満、不安、悲しみなど負の思いの一切は嫌うことです。
心が僅かでも反応するならば嫌っている証拠です。

他者への思いならば気づくことが出来ますが、自分に対してのものとなると気づくのは簡単ではありません。
ですが人に対して嫌う心がある以上、自分に対しても嫌う心があるんです。

前に書いた『自分の嫌う心に嫌われる』という記事を読んだ方はご存知かと思います。

皆さんは人から○○をされたら恐ろしい、□□と言われたら腹が立つなどの嫌う心があると思います。
逆に自分が○○をしたら嫌われるのではないか、□□と言ったら怒られるのではないかという自分に向けた嫌う心もあるはずです。

このように他者の判断まで自分で行っていませんか?
人は何事に対しても己の記憶だけで判断しています。
なぜならそれ以外の考え方を知らないからです。

だから自分の嫌う心に嫌われ、裁く心に裁かれるんです。
嫌うことをやめるにもまずは嫌う心があることを知らなくてはなりません。

人に対する嫌う心、裁く心があれば、自分に対する嫌う心、裁く心が必ずあります。
人に対する嫌う心、裁く心に気づいたら、自分に対してもないかにも気づいていって下さい。

自分に対する嫌悪、裁きと向き合うのは恐ろしく、苦しいものです。
弱い心、卑屈な心、汚い心、傲慢な心など認めたくないものがあると思います。

ですが、それから逃げることが嫌うことになるという事実を忘れないで下さい。
気づいて、ただそれとともにあれば自然とやめるようになり、結果として消え去ります。

そうやって嫌うことをやめていくほど心が勝手に反応することがなくなり、静かになってきます。
インドの聖者ラマナも『心が静まれば、世界全体が静まる。心が全ての原因である』と言っています。

全ては自分の心次第です。
以下は日月神示に書かれていることです。


【雨の巻 9帖】
誠の教えばかりでは何もならんぞ、皆に誠の行い出来んとこの道開けんぞ、理屈申すでないぞ、いくら理屈立派であっても行い出来ねば悪であるぞ、この世のことは人民の心次第ぞ。


【雨の巻 16帖】
⦿(かみ)の守護と申すものは人民からはちっともわからんのであるぞ、わかるような守護は低い⦿の守護ざぞ、悪神の守護ざぞ、悪⦿の守護でも大将の守護ともなれば人民にはわからんのざぞ、心せよ、どんなことあっても不足申すでないぞ、不足悪ざぞ、皆人民の心からぞとくどう申してあろうがな、人民、キから起こって来たのざぞ、我の難儀、我が作るのざぞ、我恨むよりほかないぞ、人民の心さえ定まったら、この方自(おの)ずから出て手柄立てさすぞ、手柄結構ざぞ。
この世のもの一切⦿のものということまだわからんか、一切取り上げられてから成程なァとわかったのでは遅いから、嫌がられても、くどう同じようなこと申しているのざぞ、人民の苦しみこの方の苦しみざぞ、人民もこの方も同じものざぞ、言(こと)分けて申しているのざぞ。


【青葉の巻 16帖】
神示で知らしただけで得心して改心出来れば大難は小難となるのぢゃ、やらねばならん、戦は碁、将棋くらいの戦で済むのぢゃぞ、人民の心次第、行い次第で空まで変わると申してあろうがな、この道理よく心得なさりて、⦿の申すことわからいでも、無理と思うとも貫きて下されよ、それがマコトぢゃ。