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裁かれるものなどない

人の世界では善と悪は別のものとして分離されています。
 
善は良いもの、悪は良くないものとされ、善は好まれますが、悪は嫌われ、裁かれ、避けられる傾向にあります。
 
以前の記事で悪は必要なものだ、ということを書きました。
 
簡単に言うと人は悪がないと善が何なのかすらわからないということです。
 
皆さんもよく考えてみて下さい。
 
対比するもの、比較するものなしに物事を判断することなど出来るでしょうか?
 
普段、我々が行っている判断は記憶という比較するものがあるから出来るんです。
 
記憶なしに判断など出来ません。
 
これが御用の悪としての必要性です。
 
悪があるから善を知ることができ、善を行うことが出来るんです。
 
善と悪は表裏一体で別々のものではありません。
 
悪を行うことは慎まなければなりませんが悪を憎み、嫌い、裁いてはいけません。
 
一切は神が生み出したもので、悪も神が人に与えたものです。
 
故に悪を憎み、嫌い、裁くことは神を憎み、嫌い、裁くことになることをよく覚えておいて下さい。
 
私の師匠や過去のグル達は言います。
 
『裁かれるものなど何もない』と。
 
以下は日月神示の一文です。
 
 
日月神示
【黄金の巻 97帖】
生命捨ててかからねば、まことの理解には入れん道理。
身慾信心では駄目。
いのち捨てねば生命に生きられん道理。
二道二股多いと申してあろう。
物の文明、悪(あ)しざまに申す宗教は亡びる。
文明も神の働きから生まれたものぢゃ。
悪も神の御働きと申すもの。
悪にくむこと悪ぢゃ。
善にくむより尚悪い。
何故にわからんのか。
弥栄ということは歩一歩ずつ喜び増して行くことぞ。
喜びの裏の苦に捉われるからわからんことに苦しむのぢゃ。
苦と楽、共に見てよと申してあろう。
偶然の真理、早う悟れよ。
 
 
【黄金の巻 98帖】
大切なもの一切は、神が人間に与えてあるでないか。
人間はそれを処理するだけでよいのであるぞ。
何故に生活にあくせくするのぢゃ。
悠々、天地と共に天地に歩め。
嬉し嬉しぞ。
一日が千日と申してあろう。
神を知る前と、神を知ってからとのことを申してあるのぞ。
神を知っての一日は、知らぬ千日よりも尊い。
始めは自分本位の祈りでもよいと申してあるなれども、いつまでも自分本位ではならん。
止まると悪となるぞ。
神の道は弥栄ぞ。
動き働いて行かなならん。
善と悪との動き、心得なされよ。
悪は悪ならず、悪にくむが悪。