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慢心は無知により生まれる

我々は様々な事象に対して判断していますが、その判断は本当に正しいのでしょうか?

例えば判断により怒ったり、悲しんだり、恐れたりしたとします。
それが正しいならこの世から怒り、悲しみ、恐れはなくならないことになります。

神の心は歓喜、弥栄、調和です。
神心に反するものが存在できるのも歓喜、弥栄、調和に繋がっているからであって、そのままで良いということではありません。

それをそのままでよしとすることは慢心、取り違いに他なりません。
慢心、取り違いは無知が原因であると過去のマスター達は言い、また日月神示でも述べられています。

神心であるものは一切は歓喜、弥栄、調和に繋がっていると知るゆえに、何事にも心が動かされることがありません。
僅かでも心が動いてしまうのはそれを知らない、理解出来ていない証拠です。

慢心、取り違いは不幸しか生まない恐ろしいものですが、神心を知るという行為で浄化、弥栄するようになっています。

神心が知りたければ日月神示を読むか、一切の行為に神を見ることです。
一切は神のものであると知ることで、無知という無明を光明にすることが出来ます。

以下は日月神示に書かれている一文です。

日月神示
【青葉の巻 10帖】
善き⦿(かみ)には善き御用、悪き⦿には悪き御用、自分で自分がつとめ上げるのぢゃ、人になんと言われても腹の立つようでは御用難しいぞ、腹の立つのは慢心からぢゃと申してあろうがな。
仕組途中でグレンと変わり、カラリと変わる仕組してあるのぢゃ、そこに一厘の仕組、火水(かみ)の仕組、富士と鳴門の仕組、結構々々大切致してあるのぢゃ。
仕組変わり変わりて人民にはわからんなり、善き世と致すのぢゃ、いくら智あっても人間心では出来ん仕組ぞ、智捨てて⦿にすがりて来ねばわからん仕組ぢゃ、と言うて人間世界は人間の智いるのぢゃ、智でない智を⦿が与えるぞ、⦿人共にと申してあろうがな、つとめ上げたら他にない結構な御用。

【海の巻 6帖】
いくら利巧でも今までの人間心では⦿の仕組みはわからんぞ、帰るに帰れず、他を探しても根本のマコトを伝える所はなし、泣く泣くつらい思いをせなならんぞ、くどう気つけているのざぞ、慢心取り違いの鼻高さん、路頭に立たねばならんぞ。
日月の世、結構な一(はじめ)の道生まれたものぢゃ、この日月に生まれた仕事は皆よくなるぞ、この神示よく読んでくれたら、何を申さんでも何を聞かんでも良いことになるのであるぞ、戦や天災では人の心は直らんと申してあろうが、今までのどんなやり方でも人の心は直らんぞ、心得なされよ

【春の巻 29帖】
神から出るものは理に決まっているぞ。
この平凡の道が何故にわからんのぢゃ。
得心出来んのぢゃ。
それに従えばこそ向上、弥栄するのぢゃ。
天狗ざから、慢心するから、理がなくなるから行き詰まるのぢゃ。

【春の巻 30帖】
宇宙のすべてがつながりであるぞ。
石でも水でも草でも木でも動物でもすべてがつながりぢゃ。
手と頭のようなもんぢゃ。
拝み合えよ。親しみ合えよ。和せよ。
和すと自分となるのぢゃぞ。
自分大きく、明るくなるのぢゃ。
豊かに嬉し嬉しぢゃ。
赤いものの中にいると赤くなって行く。
理に向かっていると、いつの間にか神の気戴くぞ。
神の光が戴けるのぢゃ。
二度三度、話聞いたり、拝んだりくらいで理はわからん。
神はわからん。
体験せねばならん。
一方的では何事も成就せん。
持ちつ持たれつであると申してあろう。