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内側(心)が変わらなければ何も変わらない

心と身体は別のもののように見えますが密接に関係しており、お互いが独立して活動することはありません。
 
心が潜在的な活動を行い、身体は顕現的な活動を行うことで人の活動は成り立っています。
 
我々人間の行動、言動は何によって決まるのでしょうか?
 
言うに及ばず心により決まります。
 
皆さんも最初に心に描いてから行動、言動に移しているはずです。
 
逆に言うと心にないことは行動、言動に現れません。
 
つまり、人間の活動はその人の心次第ということです。
 
例えば心が嫌だ、怖い、無理だ、出来ない、となっているなら行動を起こすことはないでしょう。
 
また心が良さそうだ、出来る、絶対にやり遂げる、死んでもやる、となっているなら周りが止めても行動を起こすでしょう。
 
同じ環境にあったとしても上記のように心の態度次第で行動が変わるため、現実も大きく変わってしまうんです。
 
これは環境が変わっても心が変わらなければ意味がないということを現しています。
 
ヒンズー教の教えでも下記のように言われています。
 
心が変われば、態度が変わる。
態度が変われば、行動が変わる。
行動が変われば、習慣が変わる。
習慣が変われば、人格が変わる。
人格が変われば、運命が変わる。
運命が変われば、人生が変わる。

 
生き方を改めることを改心と言いますが、改心するには心である内側を変える必要があります。
 
内側とは本心、本音のことで人の本心、本音とは皆さんもよくご存知のように他人に見せられるものではありません。
 
自分本位な欲望、嫌悪の感情、怠け心、執着、恐怖など多すぎて認識するのさえ困難です。
 
人によってはそれらから目をそらし、臭いものに蓋をするように生きている方もいます。
 
ですがこの本心、本音を知ること、ひたすら見続けることが改心に繋がります。
 
なぜかというと見続けることで意味がないと納得することが出来るからです。
 
先にも書きましたが、人の本心、本音とは他人には見せられない負の部分です。
 
これら負の部分を失くしさえすれば、人は自然とするべき行動を起こすようになります。
 
だから意味がないと納得するまで見続けることです。
 
改心は時間も手数もかかる一歩一歩の道ですが、揺るぎない土台を築く一歩一歩の道です。
 
揺るぎない土台が安心を、自信を、余裕をもたらしてくれます。
 
これは同時に不安、恐怖、嫌悪を消し去ることになります。
 
人生において不安、恐怖、嫌悪と無縁になることに大きな意味があると思いませんか?
 
私はこれを求めて学びを続けてきました。
 
迷いながら長い年月かかりましたが、大きな意味があったと自信をもって言えます。
 
次はこれを読んでいる皆さんにそうなって欲しいと願っています。
 
以下は日月神示の一文です。
 
 
日月神示
【磐戸の巻 7帖】
右行く人、左行く人、咎(とが)むるでないぞ。
世界のことは皆、己の心にうつりて心だけのことより出来んのざぞ、この道理わかりたか、この道は真中行く道とくどう申してあること忘れるなよ、今までのような宗教や教えの集団は潰れてしまうぞ、⦿(かみ)が潰すのではないぞ、自分で潰れるのざぞ、早うこの神示、魂にしてマコトの道に生きてくれよ、配給は配給と申してあるが、天理は天理、金光は金光だけの教えであるぞ。
この神の申すこと、天の道ぞ、地の道ぞ、人の道ざぞ。
今度の岩戸開きは大望済みたとて、すぐに善いことばかりはないのざぞ、二度とないことであるから臣民では見当とれんから、肚の底から改心して、素直に、⦿の申す通りにするのが何より結構なことざぞ。

 
 
【秋の巻 4帖】
道徳、倫理、法律はいずれも人民がつくったもの。
本質的には生まれ出た神の息吹によらねばならん。
神も世界も人民もいずれも生長しつつあるのざ。
いつまでも同じであってはならん。
三千年一切りぢゃ。
今までの考え方を変えよと申してあろう。
道徳を向上させよ。
倫理を新しくせよ。
法律を少なくせよ。
いずれも一段ずつ上げねばならん。
今までのやり方、間違っていたことわかったであろう。
一足飛びには行かんなれど、一歩々々上がって行かなならんぞ。
ぢゃと申して土台を捨ててはならん。
土台の上に建物立てるのぢゃ。
空中楼閣見ておれん。