知るとは納得すること
知るとは納得することで、それが血となり骨となることであります。
だから生き方に現れます。
生き方に現れてこそ、意味があるわけです。
師匠から学んでいた初期の頃、私は知識を詰め込むことが学びで、それが心をつくり変える方法なのだと信じていました。
それを師匠から注意されましたが、当時はまだよく理解できませんでした。
その後、実生活の中で心が騒がしくなることが何度もあり、それと向き合うことで心は徐々に静かになっていくという体験を通して、実践し、実感することが本当の学びであると気づくことができました。
師匠の教えはシンプルです。
恐怖、不満、怒りなど心が騒がしくなっても解決しようとするな、それとともにありなさいと言うことでした。
なぜかと言うと恐怖、不満、怒りなどの心の騒がしさの原因は外側にあるのではなく、内側にあるからです。
日月神示でも内側が外側に現れると書かれています。
ここでよく考えてみて下さい。
あらゆる物事を判断しているのは心です。
同じことが起こっても、ある人は嬉しく思い、ある人は怒ることがあります。
何が違うのでしょうか?
それぞれの判断が違うとわかると思います。
その判断はそれぞれの心がしているわけです。
内側が外側に現れるとは、心が世界をつくりだしていると言えます。
だからこそ内側である、心の掃除洗濯が必要なわけです。
師匠がいうそれとともにありなさい、とは日月神示でいう抱き参らせることだと私は思っています。
良いも悪いもなく、ただ抱いて受け止めてあげることが大事です。
誰でも心の汚れはあるものです。
自身の中に裁く心、嫌う心、憎む心がある限り、外側から裁き、嫌悪、憎しみを感じてしまいます。
そういった思いもひっくるめて抱きとめてあげることが心の浄化になると私は実践し、実感しています。
日月神示にはこう書かれています。
【磐戸の巻 16帖】
洗濯と申すのは何事によらん、人間心捨ててしもうて、知恵や学に頼らずに、⦿(かみ)の申すこと一つも疑わず、生まれ赤子の心の初心(うぶごころ)になりて、⦿の教え守ることぞ。
身魂磨きと申すのは、神から授かっている身魂の命令に従うて、肉体心捨ててしもうて、⦿の申すとおり背かんようにすることぞ。
学や智を力と頼むうちは身魂磨けんのぞ。
学越えた学、智越えた智は、⦿の学、⦿の智ざということわからんか。
今度の岩戸開きは身魂から、根本から変えてゆくのざから、なかなかであるぞ。
天災や戦ばかりでは中々埒あかんぞ、根本の改めざぞ。
小さいこと思うているとわからんことになると申してあろがな、この道理よく肚に入れて下されよ、今度は上中下三段に分けてある身魂の因縁によって、それぞれに目鼻つけて、悪も改心さして、善も改心さしての岩戸開きざから、根本から造り変えるよりはどれだけ難しいか、大層な骨折りざぞよ。
叱るばかりでは改心出来んから、喜ばして改心さすことも守護神にありてはあるのざぞ、聞き分けのよい守護神殿少ないぞ、聞き分けよい悪神、早く改心するぞ、聞き分け悪き善の守護神あるぞ。
この道の役員は昔からの因縁によって御魂調べて、引き寄せて、御用さしてあるのぞ、滅多に見当狂わんぞ、⦿が網かけたら中々離さんぞ、逃げられるならば逃げてみよれ、くるくるまわってまた始めからお出直しで御用せなならんようになって来るぞ。
身魂磨け出したら病神などドンドン逃げ出すぞ。
【まつりの巻 5帖】
邪祓うとは、邪無くすることではないぞ、邪を正しく導くことざぞ、追い払うでないぞ、まつろえよ。
引き寄せて抱き参らせよ、取り違いならん大切事ぞ