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外側(世界)は内側(心)の投影にすぎない

多くの方が他者から嫌われている、憎まれている、怒りを向けられているなどと感じたことがあると思います。

では他者が本当にその思いを持っていることを客観的に100%証明することが出来るでしょうか?

他者のことは他者本人にしかわかりません。

どんな思いでいるかなどこちら側の勝手な空想でしかありません。

100%知りたかったら他者本人になるしかないからです。

つまり永遠に知ることなど出来ないのです。

『こう思っているだろう』『こう思っているに違いない』という言葉を使ったり、聞いたりしたことがあると思います。

この言葉は自分という立場から出ている言葉であって、他者の立場を無視したエゴ的な断定であることがわかると思います。

ですが人は己の立場に立つことしか知らないから、それしか出来ないのです。

他者になって思ったり、判断することは出来ず、私は私の思いしか使えません。

ここで言いたいのは人は自らの思いを世界に映して見ているに過ぎないということです。

日月神示にもある『内側が外側に現れる』ということです。

外側に現れている世界、皆さんが感じること一切は各々皆さんの責任とも言えるわけです。

内側に憎む心、嫌う心、裁く心がある限り、皆さんは外側の世界から憎み、嫌われ、裁かれることになります。

今に安住できていない以上、必ずそれらは存在しています。

自分の思いに、記憶に自分自身が苦しめられるとは何ともバカげた話ではないでしょうか。

皆さんの内側に憎む心、嫌う心、裁く心がなくなれば皆さんは憎む、嫌う、裁きと無縁となります。

そうなれば心は勝手に沈黙し、大安心になるわけです。

どんな能力を得ても、どんな財産を得ても、どんな権力を得ても、一生安心することなど出来ません。

どんな時でも心が穏やかであることが人々の望みではないでしょうか?

安心なくして喜びなどあり得ません。

安心するためにも、自らの内側と向き合うことが大事です。

素直な気持ちで向き合ってください。

以下は師匠の教えと日月神示の一文です。


【師匠の教え】
私がお話しする生き方とは自由自在に行為しながらその結果は神にお任せして、どんな結果が来ても喜ぶというものです。
これは事物の結果は事物に任せ、人の結果は人に任せると言うことなのです。自分の意見は自由に言えばよい、だが無理に人の意見を変えようとしないことなのです。これが上手く出来ると様々な意見は交換するが、決してぶつからないという意見交換が可能になります。
日月神示では人に神示伝えろと書かれていますが、また決して引っ張るなとも書かれています。
これが今、私がお話していることなのです。
もし自由に行為しながら、結果は任せると言う生き方が出来たら、私の意見は通らないと言う言葉は出てきません。
意見を通そうとせず、ただ意見として言っているからです。

この生き方の中に自分の思いを諦めずに決してストーカーにならない求愛の仕方もあり、ダメでも良くても喜ぶと言う生き方があるのです。
本当の愛があればこの問題は解決するのですが愛が先となると、悟りが先となるから大乗では結果を求めない求め方を学ばねばなりません。
もしここに十人の人がいて一人が公園に遊びに行きたいと思ったら「誰か公園に遊びに行きませんか? 公園はこうこうこの様に楽しいです」と呼びかけて行きたい人を連れて楽しく遊んで来ればよい。
もし呼びかけても誰も自分の意見に賛同しなければ一人で公園に行き楽しく遊んで来ればよい。
この時、自分が公園に行きたい、があれば一人でも楽しく遊んで来れます。
人の意見は自分が行きたいがなく、人に行きなさいがあるだけだから人が行かねば成立しないのです。
自分が公園に行きたい、ではなく相手を行かせたいで、しかも相手の考えは相手に任せるがないから通らないが出てくるのです。

教えとはやること、なすこと、考えることの、全てにおいて生かされなければなりません。
教えとは吸う息も、吐く息も、流す汗さえ教えにならねばなりません。
教えが血肉となれば自然にそうなります。
大乗は生き方で学ぶものです。
だから積極的に行為します。
日月神示でも教えにするな道にしろと書かれて、ここでは生き方を伝えているのです。
悟りの生き方が出来たらそれはもう悟りなのです。
教えは行為に現れて初めて知ったと言えるのです。
意見が通らないという言葉は無知から来るのです。
意見が通るとは抑圧、抑制を意味するからです。
意見を言いながらも相手の自主性を尊重し、相手が下す結論は喜ぶ、があれば意見が通らないはないのです。
これは心に裁きがあると理解出来ませんか?

私はこの様にしつこくお話ししても『なぜ理解が出来ないのだ』はないのです。
聞かれたら何度でも言葉を変えながら同じことをお話しします。
『この前も同じことを聞いたね』『なぜ何度も聞く?』はなく『なぜ理解が出来ない』がないのです。
だから通らないがないのです。
通らないと聞くと、なぜその言葉がどこから出て来るかがわかるのです。
ですからどの位、理解が進んでいるかすぐに分かります。
私がコメントを返す時は見つけた部分のお話をしているのです。
だから私が気分を害したも間違いです。
気分を害して言っているのではないのですが、裁きが内側にあるとそうも見えてしまいます。
外側に見えているものは自分の心の投影だと理解して下さい。
ですから自分の意見が通らないと思った時は人の意見を通さないものが自らの心にあると知って下さい。

私はこれだけ言って、理解されなくても通らないはなく、また聞いてくれる内は言葉を変えて何度でも言います。
そこには悲観的なものがなく楽しみだけがあるのです。
次から次へと新たな言い方を考えながら楽しんでいますよ。
内側にあるものが外側に見えること忘れないで。
通らないのではなく、通せなくしているものが自らの内側にあるのです。
この話も何度もしている内に私はコツをつかんで上手く説明出来る様になって行きます。
これは自分自身の考えさえ、考えに任せているから言えるのです。
自分自身にも通らないはないのです。
人の心を抑圧しようと思えば自らの心を抑圧せねばなりません。
それは人の心は思う様にならず、自らが我慢をせねばならないからです。
自分が我慢が嫌であれば、人に我慢をさせてはなりません。
自らが自由でありたければ、人の自由を認めねばなりません。
そうすると通らないという思いは現れないのです。
こうやって生き方で学んで行くのですから、通らないと言ったことは役に立ちましたね。

考えてご覧、皆がそれぞれに意見を言い合って意見が通っても通らなくても誰も我慢がなく、誰も不満がなく、誰ともぶつからず喜び合うと言う生き方があるのです。
実に素晴らしいとは思いませんか。
公園で遊びたければ公園はどんなに楽しいか力説すれば良い。
それでも誰も公園に行くと言わず、自分は公園で遊びたければでは一人で行って来ますと言って一人で公園に行って楽しめば良く、楽しそうであればその内に誰かがついて来るものです。
それが自分が公園で遊びたいのではなく、人を遊ばせたいので、相手の意見を尊重出来ないから通らないになるのです。
公園に行きたいと誰かが言い、私今は行く気がしないから送って行くから楽しんで来てと言っているのです。
私が行くと言わないからと言って通らないではないのです。
人を無理に連れて行こうとすると通らないが出てくるのです。
これは職場や軍隊のようにどうしても団体行動が求められるところでも団体行動しながら抑圧されないことも可能です。
ですがここは自主性の尊重を教えています。
経験から学んで経験は生かされます。
ですから嬉し嬉しです。


日月神示
【扶桑之巻 10帖】
何事が起こって来てもまず喜こんで迎えねばならんぞ、近づいてくるのは呼び寄せたからぢゃ、こんな嫌な、汚いものはごめんぢゃと申す人民もあるなれど、それは皆己の心の写しでないか。
内に無いものが外から近寄る道理ないのぢゃ、どんなものでも、喜んで迎えるとよろこびとなる結構な仕組、よく会得せよ。
何事も一段ずつ、一歩ずつぢゃ、一足飛びは大怪我のもと。


【五葉之巻 4帖】
お尻を出したらお尻をキレイに拭いてやれよ、怒ってはならん、お尻を出されるには、出されるだけの何かの原因が己の中にあるのであるぞ。
利子は後からでよいと申すが、先に払うこともあるぞ、先にお尻を拭いてやらねばならんこともあるぞ。
世が迫って岩戸が開いたのであるから、先にお尻を拭くことも出てくるぞ、思わぬお尻持ち込まれることもあるなれど、怒ってはならん、気持ちよく拭いてやれよ、やがては神がそなたのお尻を拭いて下さるぞよ。