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自分の嫌う心に嫌われる

人間には必ず好き嫌いがあります。
なぜ好き嫌いがあるのでしょうか?
要求があるからです。

要求とは思い通りであれば好き、そうでなければ嫌いになります。
好きと嫌いは表裏一体です。
現れる条件により好きになったり、嫌いになったりするからです。

「思い通り」と「思い通りでない」は条件で、自分でどうにか出来るものではありません。
そのどうにもならないものに依存して好き、嫌いと思いが揺れ動かされるわけです。

例えば人の好き嫌いで、優しい人は好き、冷たい人は嫌い。
清潔な人は好き、不潔な人は嫌い。
気のきく人は好き、気のきかない人は嫌い
要領のいい人は好き、段取りが出来ない人は嫌い。
物を丁寧に扱う人は好き、物を乱暴に扱う人は嫌い。
思いやりのある人は好き、自分勝手な人は嫌い。

など挙げればキリがないですが、ここで注意したいのは好きがあれば、必ず嫌いもあるということです。

人は自分の好き嫌いの価値観で一切の物事を見て判断しています。
その判断は自分自身に対しても行っています。
自分の価値観を他者に投影し、自分自身を判定しているんです。

自分のことは自分が一番よく知っていますから、他者は騙せても自分は騙せません。
故に自分に嫌う心がある限り、自分を嫌ってしまうんです。
逆に言えば、自分に嫌う心がなければ何者も自分を嫌わないんです。

仏教では憎む、嫌う、裁くことを三悪と呼んでいます。
それは自分自身を憎み、嫌い、裁くことになり、ひいては一切を憎み、嫌い、裁くからです。

憎む、嫌う、裁くことで何か良いことがあるでしょうか?
以下は日月神示の一文と師匠の教えです。


【日月の巻 36帖】
人裁くのは神裁くことざぞ。

【雨の巻 16帖】
どんなことあっても不足申すでないぞ、不足悪ざぞ、皆人民の心からぞとくどう申してあろうがな、人民、キから起こって来たのざぞ、我の難儀、我が作るのざぞ、我恨むよりほかないぞ

【星座之巻 25帖】
歓喜に裁きのないごとく、神には裁きなし。
裁き説く宗教はいよいよ骨なしフニャフニャ腰となるぞ、戒律や裁きは低い段階、過去の部分的一面に過ぎん、裁きを説くのは自分で自分を裁いていること、人民に罪なし

【極め之巻 16帖】
頭下げて低うなって見なされよ、必ず高い所から流れてくるぞ。
高くとまっているから流れて来んのぢゃ、神の恵みは水のように淡々として低きに流れてくるぞ、自分が自分に騙されんように心して下されよ、善悪を決めて苦しんで御座るぞ


【師匠の教え】
自分の裁く心がなくなってくると不可能と思うことはなくなってきて、この世にもう怖いものがなくなってくるんだ。
それと同時に自分の言葉にとやかく言わなくなり、言葉を自由にさせれようになるんだ。
自分の言葉に口挟まずに自由にさせるようになってくるんだ。
これが審神(さにわ)だよ。
自分に裁きがあると言うこと言えないんだ。
心に裁きがなくなってくると勇気が出てくるんだけれど、それは口出す心が静かになって来たからなんだ。
自分の行為に口を出さなければあなた方に恐れはなくなり、不可能と思うことはなくなり、行為は自由自在になるんだ。