母のこと
こんにちは。りっちゃん・ののちゃんです。
前回の記事を 前々回の記事の上書きで作ってしまい、
うっかり記事を消してしまいました…
あー… 大日如来様〜😭 しばらく凹みました。
だが しかし!
5歳児は 起き上がりましたよ。
先週 施設様が「ちょっこし外出」と銘打ち
母を我が家へ連れて来てくださいました。
母が来る数時間前に やっつけで庭掃除して🧹迎え、
木陰でお茶🍵を飲んで過ごす至福の時間を過ごす事が
出来ました。
そこで今回 私にとっての太陽であり 灯台である
母のこと を綴りたいと思います。
母の生い立ち
母は日系カナダ人3世です。
大山の麓 鳥取県西伯町から母の祖父母の代に
カナダのバンクーバーへ移住し、日本人街で日系人同士のコミュニティの中で生まれた3世です。
第二次世界大戦前は、宿を営む祖父母(私にとっては
ひいお祖父さん・ひいお祖母さん)・ブリティッシュコロンビア大学を卒業して銀行員になった父(私にとってはお祖父さん)と母と姉と賢いワンちゃんと なに不自由無く暮らしていたそうです。
妹の出産直後、母(私にとっては祖母)が亡くなり、
赤ん坊の妹は養女に行きます。
その数年後に 第二次世界大戦が勃発。
真珠湾攻撃で日系カナダ人は、カナダ政府に全財産を没収され、一家は収容所(母が送られたのはタシメ収容所)に送られました。
バラック(家畜小屋)での収容生活。
日本が敗戦して カナダに残るか日本に強制送還されるかの選択を迫られ、一家は日本行きを選択しました。
大きな船に乗せられて 何日も航海し 横須賀港に着き
浅瀬を歩いて上陸したそうです。
母 明子 6歳の事です。
日本での人生のはじまり
日本に上陸した後は、鳥取県の親戚縁者の元に身を寄せましたが、父親(私の祖父)がネイティブだった事で暫くは、アメリカ進駐軍の通訳となって家族を支えていました。
祖父は、元々目鼻立ちがハッキリしていて外国人のように見える人でしたので、進駐軍の軍人さん達と祖父が一緒に写っている写真は、まるで祖父も軍人の一人のようでした。
祖父は再婚をしました。
相手は島根県の女性でした。地元の女学校の第一期生で、昔「はいからさん」と言う漫画がありましたが、
まさに田舎のはいからさんの様な女性でした。
母は、新しい母親に後に生まれる弟や妹たちと何の分け隔ても無く、大切にされ愛されて育ちました。
祖父は、進駐軍の通訳を終えた後、高校の英語教師として島根県内を転々と暮らし、最後は伴侶の実家である
大東町海潮地区の須賀の家で暮らし、島根大学在職中に脳卒中でリタイアし、隠居生活ののち生涯を終えました。私が小学3年生の時でした。
物語の魔法
私は幼い頃、母が聴かせてくれる絵本や昔話や童話が大好きでしたが、何よりも聴いて心が踊ったのが、この母自身の物語でした。
母が話すと何故だか悲壮感が無く、戦争が始まる前の楽しかった思い出や新しい母親が作ってくれたスカートやブラウスがどれだけ素敵でうれしかったかを話してくれ、私はこども心に いろんなことを感じたものでした。
ただ、私が10代後半になった頃に、母が「二十歳の時に 国籍を日本に変えた時は、本当に嬉しくてほっとした。」と言った時は、母がずっと抱えていた物を垣間見た気がしました。
あっ! いけない!
もう 仕事に行く時間になりました。
続きは 後ほど
物語の魔法の話を綴りたいと思います。
最後まで読んでくださり
ありがとうございました。
今日もあなたにとって
素敵な一日になりますように。
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