見出し画像

[國津神社+松尾大社+北海道神宮] 導きの神、根をはる神、そして切り開く神

日々、生きるためには、空気や食べ物といった自然界から得るものだけではなく、気力という私たち人間が自らの力で作りだすエネルギーが必要です。
この気力とは、自然に創られるものではなく、私たちが努力をして作り出すものであり、そしてこの気力を創造ために手助けをしてくださるのが八百万の神々であり、私たちの祖神様です。

私たち一人ひとりには種々な神様が伴走してくださっており、その神様も氏神様から天孫の神様まで、時間と共に移り変わっていきます。「神様に呼ばれたから会いに来た」というように、その時々に直面する課題や使命に応じて呼ばれる或いは、伴走してくださる神様は異なります。

私たちは伴走をしてくださる神様を通して気力を養うだけではなく、その気力を高次元のレベルへ上げていくことが出来ます。他方、この気力は一度、会得すると永遠に継続されるわけではなく、常に切磋琢磨していく日々の生活の中で、更に高い次元のエネルギーへと高めていくことが出来ます。すなわち、1日、1時間、1分、1秒がその気力の生成源であり、その生成された気力が更に高い次元のエネルギーへと神様により導かれ、そして高次元に行けばいくほど、高次元にいらっしゃる八百万の神々を肌で感じることが出来るようになり、出来ないと思っていたような願い事を成就させる勇気と信念を授かります。

「気が付いたら今日が終わっていた・・・」ではなく、「神様から頂戴したエネルギーを、今日も一日、最大限に活用するぞ!」と生き甲斐をもって過ごしていくことが、神物(かみ)である私たちに与えられた神様からの唯一のリクエストなのかもしれません。

高次元のエネルギーへアクセスするには、日々、神様に向き合うことから始まります。時折、タヌキやキツネといった人を騙したり、脅したりするような霊を高次元のエネルギーと勘違いする審神者がいますのでご注意ください。高次元のエネルギーは敢えて試練という道を指し示すことはありますが、全ては成長のためであり、決して人を騙したり、脅したり、追い込んだり、或いは恐怖心を煽るような言霊や行為をすることはありません。



國津神社(くにつじんじゃ) ー 奈良県桜井市

素戔嗚尊と天照大神がどちらの意見が正しいかという誓約を行った際、素戔嗚尊は天照大神から渡された玉をかみ砕いたところ、その息の霧から五柱の男神が生まれるが、國津神社にはその五男神が祀られている。

正哉吾勝勝速日天忍穂耳命(まさかかつかちはやひあめのおしほのみみのみこと)
天穂日命(あめのほひのみこと)
天津彦根命(あまつひこねのみこと)
活津彦根命(いくつひこねのみこと)
熊野櫲樟日命(くまのくすひのみこと)

誓約とは古代日本で行われてきた卜占の一つとして、物事の成否や吉凶を占う方法であり、天照大神は素戔嗚尊から受け取った剣をかみ砕いたところ、その息の霧からは三柱の女神が生まれ、宗像三女伸として宗像大社に祀られている

國津神社
國津神社 本殿

**
第15代 崇神の御代、大物主が三輪山に祀られ、その後、数十年の歳月を経て天照が伊勢の地へと移動していきますが、その道はレイラインと呼ばれ、國津神社から東の方向へのびて、伊勢神宮へと続きます。

今では村の鎮守様としてひっそりと構えている國津神社ですが、その姿はどっしりとした存在感で、空高く上にのびているエネルギーというよりかは寧ろ、地中に深く、しっかりと根をはっている地のパワーです。

國津神社 拝殿

五柱の男神はこの地を守っていると言わんばかりの落ち着きようで、太古の昔より日本という国土の安定や安寧を守っている神様です。

五神の中でも特に天忍穂耳命(あめのおしほみみ)で知られる正哉吾勝勝速日天忍穂耳命は、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の父神であり、神武天皇が続柄で5世目に当たる直系親族です。國津という名称より、祀られている神々が土着の神様のイメージをもちますが、実は天孫から降臨された神々であり、皇族の祖神様が祀られています。

國津へ導かれる方々の使命は、大きな変革を迎える節目に、その台風となる目に中に入り、変革を起こしていく、そして新しい時代を切り開き、人々を導いていくお役目を頂戴している人々です。
台風の目の外は大いに荒れ狂い、その狂った風に吹き飛ばされる人は多く続出してきます。そういった混乱と混沌とした中今に、自分に与えられている使命を確かめたいという方は是非、國津神社へ、今、この時を逃さず訪れてください。太陽神 天照の直系神々から私たち一人ひとりに与えられた力を受けとってください。



松尾大社(まつおたいしゃ) ー 京都市西京区嵐山

大山咋神(おおやまくいのかみ)と市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)が祀られているが、太古の昔より松尾山に鎮座する磐座を守護神として尊崇したことが松尾崇敬の始まりとされており、その後、第42代 文武天皇の勅命を賜わった秦忌寸都理(はたのいみきとり)が勧請して社殿を設けたと言われている。

松尾大社 楼門
松尾大社 本殿
松尾大社 本殿

平安京遷都後は東の賀茂神社に対して西の王城鎮護社として位置づけられ、中世以降は酒の神として、社内より湧き出る亀の井とよばれる湧き水を加えて酒を醸造すれば腐らないという言い伝えがある。

神泉 亀の井 酒の神
神勅の庭 亀と鯉
天狗岩のある滝御前
天狗岩のある滝御前
霊亀の滝

**
松尾大社は渡来系 秦氏が創設した神社として、大和や難波、近江とは異なる文化や栄光が見えてきます。京都自体は秦氏により開拓された土地であり、第50代 桓武天皇が大和朝廷のあった奈良の背後にあった土地へ都を遷都したことが始まりです。当時の京都は山背(やましろ)と呼ばれており、奈良からみて山の背後に拡がっていた土地であり、今でも奈良と京都の境目には山城という地名が残っています。

松尾大社 本殿

松尾大社には山に杭を打つという意味を持つ山の神 大山咋神が本殿に祀られている一方、古来より大山祇命(おおやまつみのかみ)という山の神が松尾山にある磐座に宿り、御神体として古代祭祀が行われてきました。

その後に渡来した秦氏は、外来人として日本という土地に杭を打ち、根をおろしていくという、大山祇命とは別に大山咋神を祀り、秦の出自を表すような神を松尾大社に祀りました。大山咋神は日吉大社の東本宮の御祭神としても祀られており、秦氏が京都から比叡山へかけて幅広く、定住したこともわかります。

また、松尾大社には水の神である市杵島姫命も祀られており、海の向こうの諸外国との交易を発達させるために祀った神様であることもわかります。広隆寺をはじめ、大酒神社や木嶋坐天照御魂神社伏見稲荷大社と言い、秦氏の息のかかる神社は京都には多く残されており、今も昔も秦氏に見守られている土地であることは確かです。



北海道神宮(ほっかいどうじんぐう) ー 北海道札幌市中央区

大国魂神(おおくにたまのかみ)をはじめ、大那牟遅神(おおなむちのかみ)と少彦名神(すくなひこなのかみ)、そして明治天皇の四柱が北海道を開拓した守護神として祀られており、その他、北海道の発展に寄与した功労者たちの魂が永眠する神宮である。

北海道神宮 鳥居
北海道神宮 本殿

境内には開拓神社といって北海道の開拓へ大きく寄与した三十七名を慰霊する社があり、極寒の中を開拓した先人たちの足跡を讃える。

開拓神社

**
北海道神宮のしめ縄を通り抜け、本殿を目の前にして、なぜか立ち止まると、私の心身にこびりついている穢れが落とされていることに気が付きました。

北海道神宮 しめ縄

雪道だからこそ、滑らないように注意深く、しっかりと地面に足をつけて歩いてきたはずが、本殿のしめ縄をくぐった後に手元を見ると、最寄りの駅で購入したスターバックスのラテが紙袋を破り、したたり、こぼれていました。

本殿を目の前にした参道

次の瞬間、「やっちまった」と思い、恥ずかしい気持ちになりました。
というのも、スターバックスではオーダーが出てくるのが遅く、イライラとしてしまい、その気持ちをそのまま神宮へ持ち込んだため、神様たちが私が生き急ぎすぎて、心が今ここに集中できていないと、私の気枯れに、気づかせたようです。

「コートは洗えるから、むしろコートでよかったんじゃないか」と言われたようにも思い、空を見上げると、先ほどまで曇っていた空に青空が見えていました。

本殿を背にした参道

1年を通して様々な寺社仏閣を参拝しますが、こういった突拍子もない出来事に遭遇すると深く記憶に残るため、神様たちも同様に、私を覚えていてくださると思います。また、こういった思い出話を逸話や経験談を交えて知人や友人にすることで、その知人や友人がその話に興味を持ち、その土地を訪れてくれるため、まさに引き寄せの法則が働きます。ちなみに極寒の地に坐する北海道神宮の神様はなかなか手厳しい神様なのかもしれません。それは私たち人間が、自分さえ良ければ・・・と自己都合的な行動をとると、まるで神鏡にその自分勝手さを映すように、その心の穢れを正すような出来事が起こります。


今の自分を変えたいや、変えていきたい方は是非、北海道神宮を訪れてください。参道から本殿のしめ縄までをゆっくりと歩き、体いっぱいに蝦夷の空気を吸い込みながら、その深呼吸と共に、心身にこびりついた穢れが落ちていくこと、そして気枯れてしまっている細胞に新しいエネルギーが再生していく、喜びを実感してください。


私たちは高次である宇宙へつながればつながるほど、よりパワフルな引き寄せの法則を体現することができ、ひいては物事を動かすために必要なエネルギーを養います。そのエネルギーをつかみ取るためにも、中今(なかいま)を生きることです。中今とは過去を振り返らず、未来へ望みを託すこともなく、今に向き合い、今を全力で生きることです。高次へつながることは容易いことではありませんが、成し遂げた先には必ず、浄土があります。常に中心は私であり、あなたです。

今を大切にお過ごしください。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?