[六道珍皇寺 六道の辻+福生寺跡 生の六道+黄泉比良坂+ギリシャ神話 ハデス デメテル ペルセポネ] 日本の記紀神話にあるギリシャ神話
毎年、お盆の時期になると両親の故郷へ帰省してお墓参りをしたり、近所の氏神様で開催される盆踊りに参加したりと、日本人にとってのお盆は大切な伝統行事のひとつです。
「盂蘭盆会(うらぼんえ)」がお盆の正式名称であり、仏教の「盂蘭盆経(うらぼんきょう)」というお経に由来しているそうで、ご先祖様があの世と呼ばれる浄土からこの世に戻ってくる期間のことを指します。全国的には新暦の8月15日を中日として、8月13日から16日にかけての4日間がお盆となり、これは旧暦の7月15日が農繁期と重なり、行事に専念できない家族が多くでたため、新暦に合わせたと言われています。東京などの一部の関東エリアでは旧暦の7月15日を中心にお盆をおこなうことが多く、地域により時期や期間に違いがあります。
普段ばらばらになっている親族が一堂に会する魂祭、それぞれが故人を想い、また家族親戚でご先祖様との昔話に花を咲かせながら大切なひと時を過ごしてみてはいかがでしょうか。
六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ) - 京都府
現在の日本では、人が亡くなると火葬することが一般的だが、平安時代では皇族や貴族に限り火葬や土葬が執り行われてきたが、多くの人々は野ざらし、すなわち風葬することが慣用であった。その中でも葬送地として一番規模の大きかったのが、東山の鳥辺野(とりべの)であり、今も鳥辺野の入口を示す「六道の辻」の石碑が立っている。
この世に生きるすべてのものは何度も生死を繰り返し、新しい生命に生まれ変わるとされており、その繰り返しを輪廻転生という。この輪廻転生では、必ずしも人に生まれ変われるというわけではなく、生まれ変わる世界は、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の6つに分けられ、「六道」と呼称する。精霊はこの六道のいずれかに転生しながら、あの世とこの世を往生するため、この六道の辻を境に、南は「あの世」(鳥辺野)で、北は「この世」として、その間に建つ六道珍皇寺は現世とあの世の境目とされてきた。
また六道珍皇寺には「冥土通いの井戸」という説話があり、平安時代の公卿 小野篁(おののたかむら)が昼は朝廷の役人として、夜は冥界で閻魔大王の裁判の手伝いをしていたとされ、今もなお、本堂背後の庭内には冥土の入り口とされる井戸がある。
また嵯峨野にある福生寺跡(ふくしょうじ)には「生の六道」と呼ばれる井戸があったとされ、小野篁はこの井戸から地上に戻ってきたため、あの世からの出口とされている。
**京都は碁盤の目のように造られていると言いますが、その碁盤の目の外れにある六道の辻から、今もなお、故人とのお別れの「野辺の送り」をしている風習に心が打たれます。京都のお盆は、「迎え鐘」を鳴らして先祖の霊を迎える「六道まいり」から始まり、「五山の送り火」に終わります。こういった仕来りは、日常の延長線上にご先祖が眠る場所があり、また輪廻転生を通して、新しい命を授かり現世へ戻ってくるという願いに基づくもので、平安京に生きた人々の故人への想いの深さに、私の魂が共鳴する土地です。それゆえに、私たちの日頃の生活圏内に六道の辻が佇み立っていることに、「今、ここに、ある」を感じます。
京都で駐車場を探そうとしてもなかなかタイムリーに見つからないのが常。周辺を2往復した後、寺前で立ち往生していると住職さんがたまたまいらっしゃって、「その車やったら、中に停めてくれはってもいいですよ」と声をかけていただきました。写真の通り、赤門を抜けての駐車となるため、ここでも往生していると、「大丈夫、いけるいける」と住職さんが車のハンドルの切り方を前に後ろに立ちながら、指示をしてくださり、六道の辻へなんとか入れました。出庫の際も車幅を気にしながら赤門へ差し掛かると、「大丈夫、入りはったから出れるわ」とどこからともなく住職さんが現れ、見送られながら、なんとか六道の辻から生還しました。ちなみに、この世とあの世の境目である六道の辻で人は必ず、大往生する気がしました。
黄泉比良坂(よもつひらさか) - 島根県松江市
古事記の神話にも、あの世とこの世には境目があると記されており、その境界場所を黄泉比良坂という。
その昔、伊邪那岐(いざなぎ)の妻として一緒に国造りをしていた伊邪那美(いざなみ)が火の神である加具土命(かぐつちのみこと)を産んだことにより、その火で亡くなってしまう。その死を嘆き悲しんだ伊邪那岐は伊邪那美と再び会うために死者の国である黄泉の国にわたるが、伊邪那美は「私の姿は絶対に見ないでほしい」と懇願する。その懇願にもかかわらず、伊邪那美の醜く変わり果てた姿を見て逃げ出してしまう。追いかけてくる伊邪那美に対して、千引の岩(ちびきのいわ:動かすのに千人の力がいる)で道をふさぎ、この世とあの世を行き来出来ないようにしてしまった。
**この神話で思い出すのは、ギリシャ神話に登場するハデスとデメテルとペルセポネ。全知全能の神ゼウスと豊穣の女神デメテルの子どもとしてペルセポネは生まれますが、冥界を司るハデスに好意をよせられてしまった結果、冥界へ連れ去られてしまいます。娘のペルセポネが誘拐されたことを知ったデメテルは深く悲しみ、洞穴に引きこもってしまい、豊穣の女神が不在の期間、草や木は枯れ、作物は採れなくなり地上は食糧不足になってしまいます。この様子を見たゼウスは神々の使者であるヘルメスを冥界に送り、ハデスにペルセポネを帰すように説得します。その説得を聞き入れたハデスは、デメテルのもとへペルセポネを返します。すると草や木は芽を出し、作物も実るようになりました。ところが、ある事実が発覚します。それは、冥界の物を食べていないということで地上に帰れたペルセポネですが、実はハデスがザクロの実をペルセポネに4粒、食べてしまっていたのです。冥界の物を口にした者は冥界で過ごさなければならないという掟を破ったペルセポネは、再度冥界へ送られそうになりましたが、デメテルがゼウスに地上で過ごせるように懇願した結果、ペルセポネは1年のうち4ヶ月を冥界で過ごすことになり、以外は地上で過ごすこととなりました。今では、ペルセポネが地上にいない4カ月間は、デメテルは洞穴に引きこもってしまうため、作物が育たない冬という季節がくるようになったという逸話です。こういった冥界と地上の境目に関する奇談や、弟の素戔鳴尊の乱暴を怒って天の岩屋へこもってしまう天照大神の一説を耳に、目にしながら、古今東西、古人が同じような世界観をもっていたのかと、哲学に限らず、神話や宗教、文学や美術などを通して伝説の地を訪れると、更に想像力が掻き立てられ、理屈を超えた霊性意識の扉が開きます。
お盆は唯一、この世を去ってしまった故人と再会できる稀有な時です。今はなき人へ思慕を捧げながらお過ごしください。
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