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【読書】『学問のすすめ』の論点

先日、近所のブックオフにふらりと立ち寄ったとき、『現代語訳 学問のすすめ』(筑摩書房)という本を見つけた。そういえば読んだことがないなと思い買って読んでみたので、福沢諭吉の言いたかったことは何であるのかを軽く整理してみたい。
原文もそんなに分かりづらいということは無いと思うが、こちらの本は圧倒的に現代人に伝わりやすい文章であるから、引用もここから行う。

1. 前提

第一に彼が前提としていることは、時代は変わったということだ。つまり、日本はそれまでの封建的な社会から「近代」と呼べるような時代になった。形式上はお上が絶対ではないわけであるから、いまこそ学問を志してルールを作る側の人間を目指すのが良いというわけである。いうまでもなく、学問とは字を読むことだけでなく実践も含めたものを指す

ここには、もう二、三の重要な前提がある。それは基本的人権法の支配、それと政府による暴力の存在だ。
天は人の上に人を造らず、人の下に造らず」とは、まさに基本的人権を指して言っている。加えて、他人を自分の考えだけで縛ってよいことはない。生まれ落ちて間も無くは皆、大した差はないのであり、故郷や身分やらで差別される謂れはない。また、男と女という違いで一方が他方に従属することが運命とされることも(例えば貝原益軒の『女大学』を改悪したもののように)、全く天の定めるところとは考えられない。
法の支配とはつまり、官と民、全員の了解したルールによって自らを縛るということである。逆に言えば、それ以上の束縛というものは元来無く、他人に迷惑をかけない限り人は自由である。また、ルールに不備があったり、新たなルールが必要と思うのであれば、遠慮なく正当な手続きをもって訴えかけるべきである。例えばある法を道理に適わないくだらぬ法と思っても、あえて政府を欺かず正面から意見を言うべきだ。
そうして決定された法は、政府によってできる限り厳密に行使される必要がある。時には、およそ人の所業とは思えぬようなことをする者とも出会うが、その場合究極的には死刑を執行する。そのような事例において、「釈迦も孔子も名案は無いはず」なのだ。よって、政府は愚かな者に対しては暴力を用いざるを得ないことがある。逆に言えば、民間の能力が高まり、官民が肩を組んで協力し合うことができれば、暴力を行使するような事例は減ると考えられる。

2. なぜ学問を志すべきなのか

学問の目的は、「自由独立」であると総括してしまってよいだろう。
当時の西欧列強やその周辺世界の実情を学んだ福沢諭吉は、日本が他国に侵略されたり、乗っ取られたりすることを危惧していた。ここで、国民が自分で生計を立てることはもちろん、それまでの「卑屈さ」を払拭し、お上に媚びへつらいながら隙を見て欺くのではなく、官民が苦楽を共にした方が良いのだという。そもそも国家であろうが人間の身体であろうがバランスが大事なのだ。共に歩み、外国と自国を冷静に比べながら日本の真なる独立を目指そうじゃないか。このとき物事の道理を見抜く力が必要だから、国民は是非とも学問を志すべきだ。簡単にまとめればこのような次第である。

他にもいくつかの論点がある。
他国と比べると、日本には学術、経済、法律の確立が喫緊の課題だという。そこで官民の協力が必要だと述べたけれども、要は政府だけでは限界があるのだ。政府には命令する力があるだけであり、また命令より教え諭すこと、教え諭すことより手本となることがより良いと考えられるから、民間から手本を示す必要があるのだという。思い返してみれば、今日に至るまで多大な影響を与え続けている人物は中流階級から出てきている(典型的には西洋の経済学者や科学者)。つまり中産階級の重要性を指摘している。
また、文明の「形」と「精神」についても言及している。すなわち、軍備やインフラなどはお金を払って手に入る文明の「形」であるが、「精神」はお金で買えるものでは決してない。そのあるべき精神とは、「人民独立の気概」である。彼はたびたび、当時の日本人の「卑屈さ」を指摘している。ともかく現実をよく見ないまま勝手に西洋を恐れたり、あまつさえ政府を恐れたりするのはやめよという。やはりここに民間の手本が必要であり、物事の道理を捉える学問も必要なのだ。

上記では文明と学問が結びついて語られている。それでは文明の目的とは何か?彼は次のように述べる。

そもそも文明とは、人間の知恵や徳を進歩させ、人々が自分自身の主人となって、世間で交わり、お互いに害し合うこともなく、それぞれの権理が十分に実現され、社会全体の安全と繁栄を達することである。

『現代語訳 学問のすすめ』,p100

安寧を願う思いは、おおむねどんな人にも共通するだろう。これを達するのが文明であり、また学問をやる意味でもある。

3. 日常において語ってみる

どちらかというとこれが本題だが、我々の日常のなかに『学問のすすめ』を適用してみると、どのようなことが語れるだろうか。福沢諭吉になった気分でこれを考えてみる。

昨今の投票率の低さには危機感を覚える。国民は国の主人であり客であるのだから、こうした方が良いと思うことがあれば、遠慮なく正当な手続きをもって訴えるべきである。しかし選挙すら利用しないということは、その権利の放棄であるというだけでなく、そもそもその人たちには「こうした方が良い」と頭に浮かぶことすらないのではないか。
麻生太郎氏は、その手の政治への無関心をむしろ良いことのように言っていたが、はっきり言ってロジックが破綻している。政府だけで国を運営し、国民は大して頭を働かせずとも生きていけるとは、そもそも幻想である。いつでも民間の知恵や行動がなければならない。例えば今の文科省のように、戦後に教育分野を丸投げされた結果、教育機関にお金をちらつかせて施策に従わせることが常態化してしまう事例もある。政府だけでは限界があることは自明である。それは物理的な限界であるから、その意味で官民が肩を組んで協力していった方が良いのは当たり前なのだ。
また、今でこそ日本は世界で一定の地位を獲得し、侵略に怯えることもほぼないが、現在の国の法やシステムはいざというときに自国と善人を守るという意味をもっている。自分たちはただお金を払って保護を買い、それ以上は何もせず、危なくなれば全責任を誰かに押し付けてそそくさと逃げていくとは道理が通らない。ここで、危機時に国外へ避難することはむしろ良いこともある。死んでは元も子もないからだ。いま注意したいのは、個々人が、あるいは各組織が、各々の領分で努力をし力を発揮することの重要性である。「逃げていく」とは、権利だけ受け取って何ら義務を果たさないことである。あるいは、誰も幸せにならない(つまりピントの外れた)行いである。それは紛れもない逃避であり、しかも悪しき逃避だ。

昨今のジェンダー問題や、あらゆる理不尽な差別に対するムーブメントなどにも二、三のことが言える。
いまや、あからさまな差別や排斥、不快極まりないハラスメントなどは、局所的には依然存在するものの広く跋扈しているようにはあまり見えない。少なくとも日本では、そして数十年、百年の幅でとらえれば、紆余曲折あれど上記の意味での精神はある程度進歩したと言えるだろう。
他方、凝り固まった既成概念の破壊が進行すると、良し悪しの線引きが非常に曖昧な領域があらわになる。現実は元来複雑なので当然だが、人間はそれに耐えがたい何かを感じる生き物であるようだ。新しい線引きを次々用意し、なんとか静的なシステムを作ろうとするが、これは無理な相談である。もっと現実的に考えた方が良いし、何よりもまず優先順位を明らかにすべきだ
個人単位では、感情的になって即座にムーブメントを起こしてみたり、SNSであれこれ拡散して良い事をした気になるのではなく、まず冷静になって人と話し合ってみることが先なのではないか怨望は諸悪の根源であるのだから。身の丈を超えてあれこれやったり考えるのではなく、冷えた頭で効果のあることを考えてやるのが良い。組織単位でも、とりあえずムーブメントに乗っかっておこうという姿勢はよろしくないものである。必要であれば、まず情報の精査と議論が先立つ。これが通常の態度だ。
そもそも理不尽な差別に反対する根拠は、我々に生まれた当初から何か善悪のようなものが恣意的に分配されるのは天の定めではないということである。そうであるから、生まれ落ちて以降の差はあれど、我々は人の声に耳を傾けたり協力して効果的な方法を模索できるし、往々にしてそうすべきなのである。

最後に。我々はあれやこれやを一つのものに還元したがるが、このことも自覚し、冷静になるべきである。問題の原因はこれ、解決策はこれとすぐ決められるものではない。普段どのように世界を観察しているか、時間の許す限り情報を集めたか、理屈は通っているか、それら全ての取り組みをもって問題解決の準備となる。
そして、複数の側面から検討するだけではまだ不十分である。それは前提であり、むろん欠いてはいけないが。現実には難しい選択を迫られ、ぎりぎりまで吟味した上での決断が常であり、これが最終工程となる。
三木清は、哲学の出立する場所は現実であると言ったが、思うに何事においてもそうである。現実に向き合うのは恐ろしくもあるが、しかし向き合わなければ道理を掴むことはできない。あなたが自分のためを考えようが、文明や社会のためを考えようがこれは全く変わりないのである。

4. おまけ(数学)

本筋とは関係ない、おまけのトピックがある。以下の文言を読んでみてほしい。

異論を出して議論し、事物の真理を求めるのは、まるで逆風のなか船を進めるようなものだ。右に左に、波に揺られ風に逆らい、数百キロの航海でも、目的地までの進み具合からすれば、わずかに十、二十キロにすぎない。

『現代語訳 学問のすすめ』p193

ここで語っているのは、疑い、真理を求めることの大切さである。上記のように現実は複雑であって、どうにも進んだ気がしないのだが、しかし少しずつ議論を重ねる以外に方法はないという。正論だ。
ただ、私がこれを読んだときにびっくりしたのは数値の見積もりの正確さである。皆さんは、水に浮かぶ目に見える粒子(有機物であれ無機物であれ)が不規則に運動することを知っているだろう。これをブラウン運動という。いま、平面上でこの粒子が全方向に対しランダムに、かつ時間あたりに進んだ道のりが一定であるとする。このとき、酔っ払いのでたらめな歩みのように考えよう。"歩数"Nと"歩幅"aに対して、初めの位置から測った直線距離は√N×aと求まる。仮に100~400[km]の道のりを、a=1[km]として進めば直線距離では10~20[km]と見積もれる。あら、なんて正確なの!
原文では「数十百里の海を経過するも、その直達の路を計れば、進むことわずかに三、五里に過ぎず」とある。日本では一里はおよそ3.9[km]らしいので、まさに上のような見積もりを行ったようだとわかる。ただ、歩幅あたり(単位時間当たり)1[km]においてこの結果なので、西洋の単位を用い、むろん平方根を理解している必要がある。福沢諭吉はこの計算を行ったか、どこかで目にしたのだろうか?もし偶然だとしても、素晴らしい直感をお持ちである。

おわりに

『学問のすすめ』では、「ばかもの」とか「ただ飯喰らい」とか罵倒する言葉が割と多くて、なにやら時代を感じる。しかし、彼は率直な言葉、わかりやすい表現を用い、等身大の自分が理解されることを全く恐れていない。まるでお節介な父親のような、そんな文章なのだ。
学問とは物事の道理を掴むためのものであり、文明を発展させ我々の暮らしを良くするものである。くだらない見栄を張ってないで、やるべきことをせよ、世の中のためを考えよ。このように叱咤されている気分だ。今日からすればいささかナイーヴに感じられる主張も少なくないが、我々の時代をもつらぬく道理を明確に内包していることに変わりはない。

当時の人々は痛快だっただろう。日常で「何かが違う」と思ってもそれが何かは分からなかったが、『学問のすすめ』にはその中身が明らかにされていたのだから。
生まれに貴賤などあるか。男女という違いが上下関係などに繋がるものか。聞くべき意見はとにかく聞け。人任せにしてないで肩を取り合え。現実を見よと。
しかし翻ってみれば、月日がたった現在、我々はそのうちどれくらいを実践できているだろうか。その実践の問題と、それ以前に明晰であろうとする態度。100年以上経っても、それは常に問われるべきことなのであろう。

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