見出し画像

【思索】主観と客観、悩みの種

友人に、人間関係の悩みから「主観と客観って結局何なのだろう?」という疑問を投げかけられた。つまり、彼女に対する他者と自身の認識の乖離に関する悩みである。彼女が最終的に知りたいことは、果たして人とわかり合うことはできるのか、本質的にそれが難しいのならどう考えるべきなのかといった事だろう。

この問題の答えへ向けて、今一度、主観と客観なるものの性質を整理しようと思う。先に言っておくと、(ⅰ)主観と客観のあいだの境界の曖昧さ、および(ⅱ)自己と他者のあいだの意識の断絶を確認し、それらを踏まえ(ⅲ)現実に生じる問題とこれに対する気構えを考えるという流れになる。

1.客観とは何か、主観とは何か

主観というと、その定義はまず「自己の観点」が第一に思いつく。しかし客観についてはもう少し幅広く考えられるから、こちらを先に整理しよう。

客体化される対象
他者の観点
精神活動から独立した外界の事物

さて、それぞれ確認していこう。①客体化される対象 については、例えば「自分を客観的に見る」などと言うときにピタリと当てはまるだろう。私は私自身を客体化できる。客観的であるとは、②他者の観点 に立って考えることでもある。

③精神活動から独立した外界の事物 なる捉え方は、我々の素朴な信念に由来する。つまり、客体化して見るそれは実在であるか、少なくとも意識とは独立の何かだという自明性である。ちなみにこの信念に対して、意識表象の他に実在は保証されないのだと異を唱えることもできる。その究極がデカルトのコギトだ。

①〜③は相容れない部分もある。だから我々が用いている論理構造は、①または②または③すなわち客観ということになるだろう。

客観を定義したところで、あらためて主観を考える。確かに主観とは自己の観点であり、その精神活動の対象となるのが客観であるが、主観もまた客体化の対象になるのだ。

これ以上詳細に議論しても仕方がないだろう。ともかく我々は、主観は客観に媒介され、また客観は主観に媒介されるという相補的な性質を無意識に認めていることが明らかになればそれで良い。

我々は客観的なそれを我がものとし、また主観的なことを外界に投影する。つまり主体と環境の相互の働きかけが現実にある以上、主観と客観は相補的なのである

環境には他者も含まれる。他者の観点を我がものとすることもできるし、自己の観点を他者に投影することもできる。むろん、これはなんらかの言語を介して行われる。

2. 私と汝

私と汝は相互理解ができる。このことを確認したが、その意識の断絶もまた了解されねばならない

我々は単に主観のごとき意識のみの存在ではなく、行為主体である。私と汝はどこまでも一致し得ぬ、別々の主体である。私は汝とのあいだに意識の断絶を認めるからこそ、汝に対するものとしての私でいられるのだ

もしも汝やそれに準ずるような存在がいなければ、私は自覚ということを成し得ない。そこにいるのは、なんら意味を持たない「何か」である。

互いに一致し得ぬ、異質な個々が言葉を交わし連帯するとは不思議なことのようにも思える。しかしとにかく、我々ヒトはそのように創造されているのだろう。

3. 現実に生じる問題、心構え

我々のあらゆる行為や思惟は、言うまでもなく現実から出立せざるを得ない。そのため主観と客観の境界は曖昧となるのだが、しかし行為主体の孤立性も無視できない。このとき生じる問題はどんな事柄であろうか。

第一の問題は、主観を客観に放り込んで己を虚しくしたり、他者にもそれを強要するような、いわば個が全体に、あるいは直感が合理に還元されてしまう運動である。我々はこの問題から逃れることは決してできない。時間経過とともに共同体の歪みが限界に達したとき、それは社会問題として眼前にたたきつけられる。小さな共同体でもこれは同様である。

第二の問題はその逆、すなわち客観を主観に放り込む独りよがりな運動である。ほとんど自己投影のみで外界を把握し、およそ反省的な目を持とうとしない態度である。これも誰一人として逃れることはできぬ。

結局のところ、人と人とが完全に分かり合うとか、誰とでも相互理解するなど原理的に不可能なのだ。では共同体を諦めるのか?いいやそうではない。そもそも、それさえあれば十分という物事が現実にあり得ないのは我々が既に知るところだ。我々はいつだって必要条件を探しているのだろう。それは例えば次のようなことだ。

対話なくして良き共同体はあり得ない。それで十分ということはないが、少なくとも愛すべき人を愛し、理解に努めるべきである。互いを支え合うことは、日々を楽しむことにもつながる。

平静なくして平和はあり得ない。冷めた頭脳と暖かい心が必要だ。我々は無知であると自覚して現実をよく観察すべきである。また、ままならない感情から逃げずに相対するべきである。

両手を労苦で満たしてはいけない。片手は安らぎで満たされなければ、我々は終ぞ虚空を得る。その理不尽の意味を問うても、その問いは虚しく反響し自身に返ってくるのみである。安らぎは、労苦を楽しみ、日々をひたむきに生きる地盤を与える。労苦は必要だが、ただ苦しめば良いというものではないのだ。

思想は実践されなければならない。思想は行為に先立つが、いずれにせよ実践において確認されねばならない。現実を差し置いて論理があるのではない。論理は常に現実の内にある。

私に言えるのは以上のようなことだ。結局、「泥臭く頑張って、連帯していこう」という程度のことだ。

人生は儚く、世界は混沌のようである。しかしそれでも種を蒔くしかない。安らぎを糧に目の前の労苦を楽しみ、愛すべき人を喜ばせ、魂の声を実践する。その先にこそ幸福はある。むろんそれは賞賛への道ではないかもしれないが、しかし確かに祝福への道なのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?