見出し画像

小説『天使ってなんでデパートが好きなの? 第2話』

 すると、海に驚くべきことを聞かされる。
「この鑑識のスタッフは、皆、特技があって、俺は言語中枢が他の奴等より優れている。他にも犬並みに嗅覚が鋭い奴とか、五才の科学の天才なんかもいる」
壮太はまるでここのメンバー全員がエスパーのようだ、と非現実的なものを見るように、部屋の全体を見回した。ここにいる、あの人にもこの人にも、きっと常識を超えた力がある。そして、メンバーの特殊能力を結集させて、事件解決に努力している。まるで壮太が子供の頃読んだSFのようだ。目になる人と、鼻になる人と、口になる人と、それからもっと色んな半端じゃない能力を持った人が集まって、それで一つの生物のようになる。最強の。
 頭がいいだけじゃここで働けないんだ。特出した力がないと。目の良い人、耳の良い人、嗅覚が鋭い人。科学や他の分野の天才達の力が一つになって、現場に行き、証拠を集め犯人を追い詰める。
「兎に角、レオンという人を探そう。皆であの『白檀の扇子』というアニメを観たけど、異世界に飛ぶなんて現実にありえるのか。白檀の香りにはどんな科学的成分が含まれているのか、情報を集めている」
壮太は驚いた。海のメンバーは、レオンの好きな転生もののアニメまで観てくれていた。
 女性は今度は壮太が削除してしまった画像を取り出す。そこには映像もある。
「ここにはっきりレオンさんの影が写っている」
それはレオンがふざけてメールしてきた、セクシー動画。ベッドの上で、裸で、下はなにか穿いてるけど、乳首もはっきり見えて。流し目で、唇を舐めて。壮太はその動画を見て爆笑したけど。まだ十八になっていないレオンの、肌に触れないように気を付けてた壮太だが、時々それを観て、彼が十八になったらどうしようか、とよく妄想に耽った。その動画。
 十八になった途端、その誕生日に白檀の香りを嗅いで、消えてしまった。何処へ行ってしまったのか。苦しい様子はなかった。どこかで、きっと天使達と一緒に、呑気に暮らしている。……そう思いたい。
 しかし、彼の姿が無くなった動画には価値が無いし、誰もいなくなったベッドを観ているのも非常に辛かったので、壮太は動画を次々と消してしまった。レオンが消えても、影が残っている。不思議なことがあるものだ、と壮太は思った。消えた人物を再生できるなんて。
 ベッドに影が見えるのは、スタッフの中でもその髪の奇麗な女性だけだった。レオンの身体が消えてしまっても、影だけは残っている。不思議なんだけど、そういうことらしい。身体のあった、その下の影。普通なら、身体の下にあって見えない筈の影が、レオンが消えたことによって逆に見えるようになる。
 
 子供の笑い声がする。きゃっ、きゃっ、て。なにが可笑しいんだろう? 声が、壮太の消えた天使達そっくりだ。あいつ等はいつも悪戯をしながら、ああやって甲高い声を上げて、うるさく笑っていた。
 壮太は声の聞こえる方へ歩いた。床にうつ伏せに寝そべっている子供がいる。足をぶらぶらさせて。高校生くらいの女性が一緒にいる。お姉さんなのかな、と壮太は推測した。だとしたら、随分年が離れている。子供は画用紙に絵を描いている。周りにばらばら沢山クレヨンが、落ちている。磨り減ったり、折れたりした、とてもカラフルなクレヨン。
 さっきの色彩感覚の鋭い、と言っていた長髪の女性なら、きっとその色達が、もっともっと普通の人達よりカラフルに見えるのだろう。それは羨ましいことだな、と思いながら、壮太は少しづつ子供に近づいて行った。
 抱き上げたくなるような可愛い子。ピンクのセーターを着ているから、女の子かと思ったら、可愛い男の子だった。男の子らしく、きりっとした顔だ。側に、見覚えのあるラルフ・ローレンの、おまけのくまさんが置いてある。壮太はその偶然に驚いた。
 その子の後ろへ回って、描いている絵を覗いた。楽しそうに、何を書いているのだろう? 画用紙から床にまではみ出している。カラフルなクレヨン画を見て、壮太は驚いた。……それは絵じゃなくて、精密に描かれた、数式だった。
 
 机やキャビネットの影に、隠れた部屋があった。中を覗くと、そこは薄暗い実験室だった。昔、観たモノクロ映画の、有名な怪物の創造主である、フランケンシュタイン博士の部屋みたいだ。
 学校の科学室にあるみたいな、人間の骨格見本がぶら下がっている。近くで見たら、それは模型じゃなく本物の骨だった。背の高い、がたいの良い、大人の男性の骨。どこで聞いたのか忘れたが、普通、寿命で死んだり、病気で死んだりした場合は、死者を焼くと、骨はばらばらになる。ここにある標本みたいな立派な風情の骨は、大抵、事故で突然死んだ人のものだと。
 風もないのに、ぶら下った骨格標本が、がくっと動いたような気がして、それに壮太のことを見たような気がして、震えがきた。キャビネットの中に、怪し気なビーカーや試験管が並んでいる。後ろからライティングがしてあって、もっと不気味に見える。ほんとに映画みたいだ。壮太は感心した。その部屋の中に男がいる。初老の、白衣を着た。白衣といっても、汚れてあんまり白衣みたいじゃない。
 壮太はなんだか白衣のメンソレータムのナース達のことを思い出していた。白い古風なナースの帽子を被った。連中は今、どうしているんだろう? レオンと一緒に幸せに暮らしているといいな、いつかまた会えるのだろうか? いつかまた会えるか、なんて、疑ってはいけない。もっとここのスタッフを信用しよう。壮太はそう考える決心をした。きっと、この人達なら、皆にまた会えるようにしてくれる。
 
 子供は巻き毛で、ほんとに壮太の天使みたいだ。ほっぺや、唇が赤くて、きっと翼も生えているに違いない。壮太は彼の背中を見た。実験室にいた初老のフランケンシュタインが、男の子の名前を呼んだ。
「祐樹(ゆうき)」
祐樹はお絵描きを止めない。絵じゃなくて数式だけど。フランケンシュタイン博士はノートにびっしり書かれた数式を祐樹に見せる。
「それ、どっか違う。……ここと、ここが違う」
祐樹は、赤いクレヨンで、ノートに修正を入れる。
 海が、驚くことを壮太に教えてくれた。
「ペリー・エリスのメゾンに、360に入っている成分を聞いたんです。製造法に関して特許申請中だと言うことで、公開を渋ったんですが。日本のNational Police Agencyが捜査中の、人命の係る緊急事態だ、って説明してやっと」
この人達は、ペリー・エリスにまで連絡してくれていたんだ。壮太は心強く思った。青史が話に加わった。祐樹のくまさんを拾い上げて、弄んでいる。
「あの時、レオンさんが手に持っていた360の瓶は、彼と一緒に消えてしまった。次の日に担当のスタッフに聞いたら、あれは新しく出したばかりのテスターらしいんです」
博士が説明を始める。
「ペリー・エリスの言う通り360を調合しても、本物と同じにならない。問い合わせても協力的じゃない。なぜ隠すのか? 隠す理由がどこにあるのか?」
360というフレグランス。白檀の香りのする。それを嗅いでレオンは消えてしまった。彼の好きな、転生もののアニメそっくりに。
 紺のブレザーに細いネクタイの、高校生と見られる若者が入って来る。やや落ち気味に穿いたズボンの上からシャツを出して、あまり優等生とは言えないなりだ。高校生は真っ直ぐに、博士の試験管に近付いて匂いを嗅ぐ。
「まだ違う。なにかが違う。どうしてだろう?」
 海が壮太に、古めかしい扇子を渡す。壮太は、広げて風を起こした。……白檀の香りがする。扇子は、アニメ『白檀の扇子』に出てきた、白檀の木で作られた扇子にそっくりだ。
 白檀の若木を見せられた。これが生きた白檀なんだ。鉢植えになって、元気に育っている。白檀の香りについてはミステリアスな部分ばかり聞かされたけど、実際の植物はこんなにイノセントだ。
 壮太はレオンが消えてから、ネットにある白檀についての、あらゆる文献を読んだ。その時、有名な諺に出会った。……栴檀は双葉より芳し。栴檀という植物にはあまり香りはなく、諺で語られているのは、実は白檀のことなのだ。
 線香の主な香りは白檀だ。壮太は花屋で床に落ちた線香を拾った。手に、白檀の香りが残った。毎年三島の命日の前、三日間、壮太の周りに線香の匂いが付き纏う。日本の文化に芳香を放ってきたこれらの植物。三島が命を落としてまで守ろうとした、日本の文化。
 
「祐樹、もう御家に帰る時間よ」
 祐樹と一緒にいた女性が主張する。彼女の、よくアイロンの掛かった白いブラウスが眩しい。
「御姉ちゃん、待って。祐樹、もういっぺんやってみたい」
祐樹は姉の手を握る。そして甘えた様に握った手をぶらぶら振る。五才の天才科学者だって、海が言ってた。まだこんなに小さいのに、科学者としての責任感がある。
 さっきの高校生が、海の言ってた犬並みに嗅覚が鋭い者なんだろう。実験室の中の物を嗅ぎまくっている。博士が壮太の為に分かりやすく説明してくれる。
「これが人工的に作られた白檀の香りです。トランス-3-イソカンフィルシクロヘキサノールと呼ばれます。本物の白檀とかなり近いでしょう? だから今、製造される香水には人口の香りが使われるんです。白檀の香りは、英語でサンダルウッドと呼ばれて、好まれる香水の定番です。360は特にサンダルウッドの香りが強いんです」
試験管を嗅いでみると、確かに白檀の香りがする。しかし、壮太には、本物の白檀と、人工的に作った白檀の違いは分からない。
 高校生は机に置いてあった360の匂いを嗅いでいる。本物の360。ファッショナブルで瀟洒なガラス瓶に入った。
「360にはミステリーがある。どうして博士が作ったのと、本物のフレグランスの香りが違うのか? レオンさんと一緒に消えたテスターには、何か特別な物が入ってたんだろうか? これ等の謎を解かないと、彼等が消えた原因は分からない」
高校生は少年探偵を気取って、腕組みをする。壮太の後ろから、佐山青史の喜ぶ声がする。
「凄いな! 360のミステリーか。それさえ解ければ、天使達やレオンさんにも会えるんですね」
 青史はまだ祐樹のくまさんを抱いている。祐樹が博士に手を伸ばす。博士は祐樹を抱き上げる。
「博士、もう一回やろ! 化学反応が起こったはずだよ。香水を作った時。そのペリー・エリスさんも知らないの、きっと」
高校生が祐樹の頭をなでなでする。
「本物のフレグランスには、隠し味がある。……なんか、ネズミの尻尾みたいな臭い」
壮太は、ネズミの尻尾の臭いって、どんなだろうと想像してみたけど分からない。
 祐樹は、持っていたオレンジ色のクレヨンを使って、博士のノートに書き込みをする。それを見て博士はエキサイトする。
「あ、これは可能性ありますよ! 入れる順番を変える訳ですね? これで化学反応が起こる筈だと。やってみましょう」
「ちょっと待って!」
女性の声。色彩感覚の鋭い。見ると、さっきの長く垂れた髪を、いつの間にか二本の緩い三つ編みにしている。良く似合う。少女のようだ。
「それとこれの色が違う」
みんなが本物の香水瓶と、博士の試験管を見比べる。どう見ても色が違うとは思えない。
「この香水瓶に色が付いているんでしょう?」
博士はそう言ったが、女性は同意しない。
「同じ試験管に入れてみて」
 
 みんなは一斉に二つの試験管を覗く。本物の香水と、博士が調合した香水。
「ほら、やっぱり色が違う。本物には、緑がかったおしっこみたいな色がある」
ネズミの尻尾の臭いより、おしっこの色の方が想像しやすい、と壮太は思う。もう一度、みんなで試験管を覗き込む。やはり彼女の他の誰にも色の違いは分からないようだ。
 祐樹の姉が、もう家へ帰る時間だ、と繰り返す。祐樹は本当に抱き上げたくなる程可愛い。壮太には祐樹の背に翼が生えてないのが信じられない。壮太は、天使達との思い出に浸った。
 三島由紀夫の墓の前で、御葬式ごっこをした。いつもなら金髪の連中が、黒い髪に、黒い翼、青い目まで黒くなっていた。ドラキュラの入っていそうな棺桶を皆で担いで行進して。その棺桶から、一匹の白い翼の天使がひょっこり出てきた。あれも可愛かった。そして皆でハレルヤを歌った。壮太も歌った。あれもこれもみんな、いい想い出だ。
 
「あ、今なんか感じた!」
キャビネットの影から声がした。壮太はその声の主を見ようと試みる。中学生位の女の子。エスパーには若い人が多いのか。五才に、高校生に。今度は中学生だ。昔から、初潮前の女性にはシャーマン的な力が具わると言われている。神道では歴史的に、一部の巫女が霊と人との交渉を務めるという。
 壮太は三島の思想を思い出した。線香の匂いも思い出した。花屋のことも思い出した。天使達、一人一人にパンジーの花を持たせてくれた。死んだ息子さんが望んだ通りに。連中はパンジーを巻き毛に挿して、ちっちゃな楽譜を持って合唱した。そして、あの首の痛みも思い出した。
 中学生の女の子の隣に、使い古された白い杖が置いてある。三島に傾倒するようになって、壮太は神道にも詳しくなった。死者の言葉を伝えるという、イタコと呼ばれる、特別な巫女には、歴史的に目の見えない人がなったという。
 中学生は立ち上がって、ランダムに置いてある机や椅子の間を縫って、普通にみんなの所まで歩いて来た。彼女は迷わず壮太の顔を見た。全く目が見えない訳ではないのか、それとも特別な力が目の替わりをしているのか。驚くことに、彼女の眼は深い緑色だ。非現実的な。一体この目で、今までなにを見てきたのだろう。
 
「さっき、小さな足が貴方の首筋を蹴った」
壮太はなにも感じなかった。彼女は壮太から見えない所にいたのに、なぜ足が見えたのだろう?
「公園で鳩がいっぱい舞い上がるような音がした」
天使が存在するという証拠は、これが初めてだ。海の率いる鑑識メンバーの努力に感動した。涙が溢れて止まらない。
 佐山青史が壮太の肩を抱く。それでも涙は流れた。
「壮太さん、ほら!」
緑の目の少女が空中を指差す。ゆっくり落ちて来る。何かが。一番背の高い海が空中で、落ちて来る物を受け止めた。海が手を開く。皆で手の中の物を覗き込む。……レインボーの羽。
「信じられない! 今まで見たことない。こんな色!」
色彩感覚の鋭い、三つ編みの女性が感動する。壮太はまた新しい涙を流す。高校生が壮太が持っているレインボーの羽を嗅いでいる。
「この色って、本物だろうか? 地球にここまでカラフルな羽の生えた鳥類がいるのだろうか? ……人工的なケミカルの匂いはしないな。自然界に、生物界に、存在するケミカルの匂いだけ。でも、これってなんの羽?」
 
 壮太の足に鋭い痛みが走る。呻きながら急いで靴を脱ぎ、靴下をめくる。人々が壮太の足を覗き込む。一体なにがあったのか? 今、やられたばかりの新しい傷から、血がゆっくり流れている。
「あの時やられたのと同じ痛みだ。弓を持った、レインボー色の天使達が、人魂を狩っていた。レオンはそれは天使じゃなくて、弓矢を持っているのはキューピッドだって言ってた」
壮太は思い出した。金色の矢で刺された者になにが起こるかを。両手で目を覆って、その場に蹲った。
「キューピッドの矢に刺された者は、最初に見た誰かと激しい恋に落ちるんだ。前の時はレオンだった。……どうしよう? どうしよう?」
御喋りな高校生が知識をひけらかす。
「そうそう、それでナルキッソスが自分の顔が映った泉を見て、大変なことになったんだよね。自分に恋しちゃって」
 
「壮太さん」 
 青史の声がした。静かな声。壮太の隣に座った。肩を抱いてくれた。あのデパートの、あのフロアの匂いがする。天使がいっぱいいて、色んな悪戯をして、青史が一匹抱き上げて、一緒にくまさん遊びをしてくれた。でも、そんなことを覚えている人は誰もいない。青史だって覚えてない。
「少しの間ならいいでしょう? 僕と恋に落ちても。レオンさんに会ったら、きっと元に戻るから」
青史の、御坊ちゃんっぽい、すべすべした手が、壮太の手を握った。壮太は怖かった。また恋に落ちて、また失って、そしてもう帰って来ない。壮太は迷った。迷っても仕方がないのに。誰だろうと、いつかは誰かの顔を見る。キューピッドの力には敵わない。あの悪戯者のキューピッド。
 青史がいいと言うなら、壮太を求めてくれると言うなら、賭けてもいいと思った。とうとう壮太は、顔を覆っていた手を外した。青史の顔を見た。
 天上からファンファーレが鳴った。うるさいトランペット。それから歌が聞こえた。ハレルヤ、ハレルヤ、ハレルヤ! ボーイソプラノのコーラス。ばたばた飛ぶ音。舞い散る羽。キューピッドが弓を持って飛ぶ。これ以上刺されたら大変だ。壮太は逃げ惑う。
 デパートで天使の顔にはたいた、あのきらきらの粉が落ちて来る。色が沢山入っている、魔法のような粉。「隕石」という名のフェイスパウダー。
 花がばらばら落ちて来る。いつまでもいつまでも切りが無い程、ばらばらと。天使達はその花を拾ってみんなで髪に飾って、そして輪になって、手を繋いで、空中で、それから地上でも、ぐるぐる遊ぶ。色んな花。色んな色や大きさの。
 壮太は天使達が戻って来てくれたのかと思った。なのに前の連中みたいな現実感はない。手を差し伸べると皆、後ろを向いて飛び立って、空中に消えていく。レオンが消えた時みたいに。空気に溶ける様に。
 青史への恋は、もっと大人の、でもレオンへの恋とも少し似た、ルネッサンスのビューティフルな花が飛びかう、とても自由で、温かなものだった。壮太はその恋を、一瞬で満喫した。この若者の顔をもっと近くで、もっともっとよく見たい、と壮太は願った。
 初めて見た時、青史はデパートの偉い人で、老舗の銀座のデパートだから、彼は偉い人に見えた。それから、意外とざっくばらんな人だって分かって、ぐずる天使を上手にあやしてくれて、それから何故だか一緒に病院に泊まってくれたり、壮太の言う、天使やレオンのことも最初からしっかり信じてくれた。今でも信じてくれる。警察庁のこんなに素晴らしい人達とも知り合いになれた。これも全部、青史の御陰だ。
 
 博士が祐樹を抱いたまま、実験室に入り際にこう言った。
「キューピッドの威力って凄いですね。あの矢にはどんな媚薬が塗ってあるのか……」
御喋りな高校生が割って入る。
「ほら、香りの秘密に我々はかなり近付いてるんですよ。やっぱりですよ。メーカーの人も知らない、化学反応によってできる謎の物質さえ特定して、それを大量にばらまけば、きっと皆さんのいる世界とこの世界が繋がる」
なんだかいい加減なことを言っている。そんな簡単なことではないだろう、と壮太は思う。
 色彩感覚の鋭い女性が、レインボーの羽を写真に撮る。信じられない、奇麗、奇麗、を連発する。壮太は、もし彼女が本物のレインボーの兵士達を見たら、どんなに感動するだろう。想像すると楽しい。
 緑の目の少女が、預言者のように皆に告げる。
「近付いて来てます。オゾン層の向こうに」
壮太は、オゾン層の向こうならまだまだ遠いじゃないか、と不平に思う。そこへ、海が色んなメニューを持って来る。
「皆、ほら、なにか食べよう」
ラーメン屋とか、中華屋とか、ピザ屋とか、弁当屋とか、色々ある。
 もう帰らなきゃ駄目だ、と騒いでいた五才児の姉が、一番熱心だ。腹が減っていたのだろう。彼女の提案で、皆でピザを頼むことにした。早く帰ろう、と言ってたのが、実は祐樹の心配をしてたのではなく、自分の御腹が減っていただけなのでは、と壮太は邪推した。
 
 壮太と青史は肩を並べてピザを食べた。壮太には青史が別の人のように見える。神々に捧げられたローマの大理石像みたいな、完璧な男の身体。大きな黒雲が丸く抜けて行って、そこから聖なる太陽が現れ、天使が空を覆う程飛び交う。ピザを食べながら、壮太は目の前を泳いで行く花弁を見ていた。あの「ラブ」という名の薔薇。表がスカーレットで、裏が純白の、あの不思議なバラ。
 壮太はピザを食べながらそれを捕まえようとした。赤になったり、白になったり、ひらりひらりと身を交わして、なかなか壮太には捕まらない。以前のように現実感はない。花弁は目の前を飛びながらも、どこかよそよそしい。
「貴方の見ている物が僕にも見えたらいいな」
 壮太は青史の顎を引くと、しっかり唇にキスをする。ピザくさいキス。懸命にピザを食べている祐樹の姉が、油っぽい手で、祐樹の両眼を隠して、キスを見えないようにしてあげる。
「壮太さん、今、何が見えてたんですか?」
「壮太でいいよ」
「じゃあ、僕も青史でいいです」
「今ね、ラブという名前の薔薇の花弁が、宙を水平に流れていた。その薔薇の花弁は、表が赤で、裏が白。そうだ、明日、あの墓地に一緒に行こう」
「そこに行けば壮太のことがもっと分かる?」
壮太は頷く。
「花屋に行って、それを墓に手向けよう。そこが俺の原点だから」
「多磨霊園ですよね。僕、明日休みにするから、一緒に行きましょう」
 
 壮太と青史は警察庁を出ることにした。祐樹と姉も、中学生も高校生も、皆、それぞれの生活に戻って行った。実験は続けられる。レオンと天使どもが現世に帰って来るまで。
「自信が無くなった……。この先、俺に仕事ができるのだろうか? レオンには株の予測をする力があって、それはあいつが前世で、未来に生まれていたからだ、って言ってた」
「どんな未来?」
「未来で、竜宮城の乙姫様だった、って」
「あれって、未来だったんだ」
 壮太達はタクシーの中にいた。タクシーはいつも壮太の哀愁を誘う。なぜだろう? 運転手と、知らぬ同士が狭い空間にいて、二人の人生の交差を感じる。運転席と後部席を仕切る、プラスティック板の匂い、大勢の知らない者が座ったシートの匂い。普段の街も別世界に見える。
 暫くして、壮太は気が付いた。
「俺達、何処に行くの?」
「僕の所からの方が多磨霊園に近いでしょ?」
「そんなことはないだろう? あそこはどんな所からでも遠い筈だ」
何故か運転手が聞いている。
「御客さん、どんな所からでも遠いなんていう所、ないですよ」
「あそこは何処から行っても遠いから」
運転手が笑っている。青史が運転手の真後ろに座っている。壮太は、運転手の横顔が見える所に移動した。この人は色んな人を乗せてきたから、きっと自分より人生を知っている、と壮太は信じた。
「多磨霊園に行きたいっていう御客さん、嫌なんですよ。昼間でも。変なものが付いて来ちゃうから」
「え、どんな変なもの?」
青史が興味津々で身を乗り出す。
「光って浮いてる変な人魂みたいなものとか」
「それは俺が三島由紀夫の墓で見たものだ!」
「勘弁してくださいよ、御客さん! それそれ、その時の御客さんも、三島由紀夫の墓に行くって言ってた。何かの流行りですか?」
青史が笑って聞いた。
「その人魂は、ちゃんとタクシー代を払ったんですか?」
「勘弁してくださいよ。なんだか悲しそうにぶるぶる泣いてたから、料金は頂きませんでしたよ」
今度は壮太が聞いた。
「人魂は何処で降りたんですか?」
 タクシーが止まって、そこが、二人の降りる場所だった。青史が降りて、壮太が降りる時、もう一度聞いた。
「人魂は何処で降りたんですか?」
「教会。キリスト教の。幼稚園があって、幼稚園かと思ったら、大きなマリア様の像があって、そこは教会でした」
幼稚園を併設したキリスト教の教会。マリア像があるならきっと、マリア崇敬をするカトリックの教会だ、と壮太は思った。運転手は大まかに場所を教えてくれた。大田区と品川区がくっ付くくらいの場所らしかった。
 
「どうして場所を聞いたんですか?」
二人が歩き始めた時、青史が聞いた。
「手掛かりは全部、当たりたい」
壮太は青史の後に付いて、なんとなく見覚えのある街を歩く。キューピッドに刺された場所が痛む。自分に起こった辛い出来事に押し潰されて、壮太は蹲り、その場に腰を下ろした。目の前に大きなショーウインドー。上を見ると自分がライオンの足元に座っていることが分かった。そこから見えているショーウインドーは和光だ。
「ほら、壮太、競合の前で座ってちゃ駄目ですよ。もうちょっとだから歩いて」
ライオンのあるデパートと青史のデパートは、成程、ライバル同士だ。制服の警備員がこちらに向かって歩いて来る。諦めて、壮太は立ち上がって痛む足を引き摺る。
 青史のデパートで警備員に捕まったことを思い出した。自分もレオン達と一緒に、あの世でも前世でも未来でも、何処でもいいから行きたかった。
「教会だったら、きっと天使連中もハレルヤを歌いに来る筈だ」
「いいな、僕も聴いてみたい」
「これから行こう」
「いい子はもう寝てる時間でしょ?」
「俺はどうしても行きたい……。行かせてくれ」
「好きになってはいけない人を、好きになってはいけないと思って……」
何を言ってるのか分からない。
他の男を好きな男なんて。
君のことは好きだよ。
キューピッドにやられたから。それだけでしょ。
君が思ってるより、俺は君が好きだよ。だから、今直ぐ一緒に教会に行こう。
僕の家まで、あと三分だよ。
へー。
通勤時間三十秒。デパートの裏。そこに先祖代々の土地があって、マンションが建ってるから。
俺は教会に行く。羽一枚でもいい。どうしても捜す。
 
 表通りには、デパートが閉まっても、まだ人出が沢山ある。買い物した袋を下げて、嬉しそうに歩く人々。世の中は平和だ。驚くことに、青史は車道に向かって手を挙げる。またタクシーだ。タクシーに乗ると、壮太はつい人生を振り返る。タクシーは嫌だな、と思ったけど、教会に行きたいから、壮太は我慢することにした。
 銀座の街がバックミラーに映って、その内、見えなくなった。喋らなくなった青史の手を握ってやった。きっとあのまま青史のマンションに行って、熱い行動ができると思ってたのだろう。手を握っても黙っているし、壮太の顔も見ないから、壮太は、車の窓に押し付ける感じで、熱いキスをしてあげた。
「わー、御客さん方、今の相当ロマンティックですよ。今まで後ろの席で見た中でも、かなりいい線いってます」
壮太は笑って礼を言う。今日は変なタクシーばっかり拾うな。さっきは多磨霊園だった。運転手は、歌うようにリズムを付けて言った。
「いいな、御客さん方、僕も宗旨替えしようかな」
青史を見ると、なんだか涙ぐんで見える。だから嫌なんだ、タクシーは。湿っぽくなる。
 
 ようやくタクシーが止まって、降りた先は、成程、カトリック教会だった。マリアの石像がある。像にはライトアップがしてある。壮太はその真下に立つ。神を信ずることのできない壮太だが、マリア像に尊厳さを感じる。マリアの足が蛇を踏んでいる。それにはどんな意味があるのだろう。カトリックって、あれだよな、懺悔とかするんだよな。壮太は懺悔するネタは色々ありそうだ、と自分を振り返る。
 ここに天使が隠れている。あの白い杖を持った、緑色の目をした少女なら、ここで何か感じるかも知れない。壮太は耳を澄ませてみた。匂いも嗅いでみた。空間に何か見えないだろうか、と宙を見詰めた。連中は何処に隠れているのだろう? 
 携帯のライトで足元を見た。あいつらのちっちゃな足跡があるかも知れない。ライトでもどうしても見えない。壮太は腰を低くしながら地面を見て歩いた。まるでほんとの探偵のようだ。何も見当たらない。そんな筈はない。不安感が増す。きっとここだと思った。
 
 壮太はそのまま暫く歩き回った。大きな建物がある。これが幼稚園か。この子供が少ない時代、経営も大変だろう、と壮太は余計なことを心配した。
 ここで人魂がタクシーから降りたんだったら、それには理由がある筈だ。そもそも神道の人魂がカトリックとは、宗旨が違う。さっきのタクシーの運転手が言ってたな。宗旨替えをしようか、って。壮太は昔から、キスが上手いと褒められる。研究した覚えはないから、それは天性のものだ。
 こんな住宅地を夜遅くうろうろしていたら、思いっ切り怪しいよな、と壮太は考えなくもなかったけれど、少しの手掛かりも見逃したくなかった。人魂は泣いているところを、天使共になだめられて、手を引かれて三島の墓に戻ったんだった。またふらふら出て来て、こんな所までタクシーで来たんだったら、きっと天使達に会いたくて来た筈なんだ。
 もう一度、耳を澄ませた。何だかうるさい。車の音。環八が直ぐそこだから。何だかけらけら若者達の笑い声。遠くのあっちの方にコンビニがある。コンビニは東京中にあって、一晩中明るくて、キリスト教の教会よりよっぱど教会っぽい。壮太は仕事で韓国のソウルへ行った時、街の角々に、必ずキリスト教の教会を見付けた。
 そもそもカトリックは、こんなに人権が叫ばれる世の中になっても、いまだに同性愛を認めていないんだ。俺はここで何をしているんだろう、と壮太は今更考えた。幼稚園の頃から好きになるのは男の子ばっかだった。
 
 ずっと拗ねて黙り込んでいた青史が突然氷解した。
「教会だったら、住んでる人がいる筈だよ」
「何でそんなこと分かるの?」
「僕の幼稚園もこんな感じで教会にあったから」
流石、皇室御用達の銀座の坊ちゃんだな、と壮太は思う。建物の表からだと、人がいるかは分からない。裏へ回ってみようとしたけど、裏へ回るには敷地へ入らないといけない。それはやばいだろうと、流石の壮太も考えた。
 見ると、青史が電話を掛けている。
「はい、すみません。どうしても今夜、御会いしたいって言ってまして」
 教会のドアを開けてくれた。壮太は天使を捜した。きっと何処かに隠れている。講壇の裏や、人々の座るベンチの下や、天井も見上げたけど、姿は見えない。壮太は絶対いる、ここにいる、と頑固に捜し続けた。羽一枚でもいい。それが天井から舞って落ちて来るところを、壮太は想像した。
 そこが神父さんの偉いところで、彼は壮太の謎の行動を、黙って見守ってくれた。時折、青史と言葉を交わしているけど、それは壮太には関係ないことばかりだった。
「天使達の歌うハレルヤを聴きませんでしたか?」
壮太は、ヘンデルのハレルヤを口ずさんだ。神父は知らない、と首を振った。今度はモーツアルトのハレルヤを歌ってみた。神父は知らないと言う。
 壮太は辺りを見回した。真っ白なテーブルクロスの上に、沢山の金色の燭台が並んでいる。壮太はそれを一つ一つ引っ繰り返して、証拠を捜した。壁面を覆うステンドグラス。天使連中が見たら大喜びするだろう。昼間ならステンドグラスを通して、カラフルに色付いた御互いの顔を見て、きゃーきゃー笑いあって大騒ぎするだろう。
 壮太は人々の座る所に置いてある、聖書の中まで捜した。壮太は朝まででも捜し続けたかった。しかし、魂が疲れてそれが痛んだ。首に激痛が走る、前兆を感じた。救いなく、講壇の前に蹲って両手で顔を覆い、むせび泣いた。
 神父が壮太に近付いた。
「神に祈りなさい」
この人は何を言っているのだろう? 考えても分からない。自分が捜しているのは天使達だ。可愛い顔をして、いつもどんな悪戯をしようか、皆で集まって作戦を練っている。黒いのもいたし、白いのもいたし、レインボーなのもいた。きっとここに来た筈なんだ。
「神はきっと貴方に手を差し伸べてくださる」
壮太はそう言った人の顔を見た。恐怖の表情で。三島の教義は神道だ。三島に魅せられてから、壮太も神道の勉強をしてきた。この人は何を言っているのだろう?
 深夜のステンドグラスから光がおりて来る。壮太は月の明かりかと思った。でも月明かりがこんなに鮮やかな色になる筈がない。壮太は膝まづいて、床に映る、動いている色を手で触った。赤や緑や黄色や紫。これは天使がやっている。連中の悪戯だ。壮太は動く色をいつまでも追い駆けた。天使がステンドグラスの向こうで、懐中電灯を動かしているのかも知れない、連中ならそういう遊びをしそうだ、と壮太は思ったが、もう身体が動かせない。
 
 モルヒネの見せる夢は、いつも悪夢だ。壮太を揺り起こす者がいる。目を開けたら暗闇が見えた。
「あんまりうなされてるから……」
壮太がタクシーの中で、熱いキスをしてやった男。壮太の頭に、金色の燭台が見えた。火の消えた蝋燭。蝋の垂れた筋の見える。ステンドグラスの動く色。
「俺達、教会に行ったよな?」
「行ったけど、なんで?」
「……じゃあ、あれは夢じゃないんだ」
壮太が教会に天使達を捜しに行った、ということは、レオンや天使が消えたことが夢ではないことを語っている。目の端にメンソレータムのナース達が、がたがた働いているのが見えるような気がする。白い制服と制帽の。
「メンソレータムを塗って欲しい」
「メンソレータム? 遅いから店は閉まってるから、明日。痛いんだったら注射打ってもらう?」
「あの時連中は、ステンドグラスを外から大きな懐中電灯で照らしてたんだ」
青史が返事をしないわけを考えた。壮太が聞いた。
「眠い?」
「いいよ、もう起きちゃったし。何か喋って。きっとまた眠くなる」
青史はトイレに立って、部屋にあるバスルームの灯りが点いた。薄暗い中に、黒い棒状のものが浮いて、動いて、人間のような形になる。
 
「花屋の死んだ息子がここにいる」
「見てこれ、ほら。トイレに置いてあった」
青史が壮太に何か小さいものを渡す。……メンソレータム。青史が部屋の灯りを点ける。花屋の息子は其れ切りいなくなる。メンソレータム。壮太は金属の蓋を開けてみた。
 小さな指の痕が三つある。豆粒くらいの。よく見ると指紋も見える。
「天使達が、その蓋に描いてあるのとそっくりなナースの格好をして、俺の首にメンソレータムをぬりぬりしてくれて、それが気持ち良かった。この指紋は奴等に違いない」
「明日、これを鑑識に持って行く」
青史は慎重に蓋を閉めると、自分のバッグにしまい、また部屋を暗くすると、ベッドに横になった。
 花屋の息子がまた姿を現した。さっきは薄暗い所に、黒く出ていたが、今度は暗闇に白っぽく出ている。壮太の三島に対する憧れも尋常でないが、この人は三島の墓の前で自害したんだ。
「用があるなら言ってくれ。用があるから来たんだろう?」
青史の寝ている簡易ベッドから、ぎしぎし軋む音がする。窓に、車のヘッドライトが走る。幽霊の身体を通過する。俺はどうして一階にいるんだろう?
「俺はどうして一階にいるんだろう?」
一階は精神科だ。首が痛い時、壮太はもっと上の階にいる。
「ここへ来る時、散々抵抗したから。ここにいたいって」
「ここ?」
「教会。首が痛いのに。痛い痛いって騒いで、それでも教会にいるって叫んで。近所迷惑。全然覚えてないの?」
「あそこに戻ろう」
「馬鹿なこと。薬切れたらまたぶっ倒れるよ」
「じゃあ、君が俺の替わりに行ってくれ」
「面識もないのに」
誰と?
天使と。
あるじゃないか。あの時、くまの縫い包みを持って。
だから、それは覚えてない。
あんなに上手に抱っこして。一階のフロア全部に天使が飛び回って、散々悪戯をして。あのフェイスパウダー。「隕石」という名の。もう一度見てみたい。
あれは高いよ。ゲランだから。
いいよ。あの時、教会で、連中はステンドグラスの向こうから、きっと、懐中電灯よりもっと大きなライトを使ったんだ。映画の撮影に使うような、スタンドの付いた。
僕、壮太が救急車に乗った時、ステンドグラスを外から見たけど、何もなかったよ。
逃げ足が速いんだ。翼があるから。
じゃあ、ライトは?
きっと飛んで持って行った。
何でわざわざそんな真似するの? 出てくればいいじゃない。壮太がこんなに捜してるのに。警察庁の皆だって。
まだ出てきちゃいけない訳があるんだ。だから出て来られない。だけど君もあの光を見ただろう? 教会の中で。動くカラフルな光。……見なかったのか? ……黙ってるのはそういう意味なんだろう? 見えなかったのか? ……どうして?
 
 壮太は打ちのめされた。青史にはステンドグラスの動く光が見えなかった。
「僕は見ましたよ」
「誰?」
声は空中から聞こえる。青史のベッドが軋んでいるから、それは青史がベッドに横になっていることを意味している。だから青史は空中にはいない。そもそも青史とは声が違う。
「どこで? 何を見たの?」
壮太はベッドに起き上った。途端、首が痛くてもう少しで悲鳴を上げるところだった。幽霊はよくメンソレータムの天使がやってたみたいに、前に出した人差し指を左右に振って、だめだめをする。壮太は起き上るのを諦めて、再び頭を枕に沈める。
 暗闇で、さっき宙に浮いている人の指が見えた。それって変だよな、暗いのに。壮太がもう一度ちゃんと浮いてる者を見たら、それが次第に金色に発光し始める。幽霊は恨めしそうに言う。
「さっきからいるのに無視して」
「ごめん、俺達は忙しいんだ」
いじいじいする様子が何かに似ている。金色に発光する。
「君はあの金色の泣き虫の人魂の親戚かい?」
何がそんなに可笑しいのか知らないけど、幽霊はずっと笑っていた。
「そう言えば、君が花屋の息子だったら、君がそうしてあげたいって言って、君の御母さんに天使達に一本ずつパンジーを渡してやったんだろう? その時の天使連中、君は覚えてるだろう?」
うんうん、と幽霊は頷く。
「初めてだ! やっと天使のことを覚えている人が見付かった。人じゃないかもだけど。よかった、よかった」
すると、青史が、がっかりするようなことを言う。
「その人は覚えてるかも知れないけど、僕にはその人が見えないよ」
「話も?」
「聞こえない」
壮太は金色の幽霊に向かって質問をする。
「君、俺のレオンと天使達が何処にいるか知ってる?」
「僕たちは宗派が違うから、僕が彼等に会ったら、ハレーションを起こして、大爆発して、全滅だよ。……良く知らないけど、そうじゃないか、って言う人がいたから」
いることはいるんだ。死んだ訳じゃないんだ。まあ、君は死んだ訳だけど。
いるいる、いることは確か。
皆、元気でいる?
いるいる、大丈夫。
もし会ったら、早く帰るように言って。
僕、忙しいから。
なんで?
盾の会の訓練が。
そっちでもやってるんだ。
そうそう。
死人を集めて?
そうそう。
じゃあ、君は死んでハッピー? って言うか、なんで死んだの?
三島の勇気に打たれて。心底惚れたんです。あの方に。
分かるよ、俺もそうだし。
 
 花屋の息子の幽霊は、訓練の時間だ、と言って、とっとと消えていった。
「今の人、っていうか人じゃないかもだけど、一体何しに来たの?」
青史がベッドを軋らせながら聞いた。
「幽霊を見える人が珍しいんじゃなかな? 寂しがり屋なんだよ」
「レオンさんと天使さんは何処にいるって?」
「それは分からないそうだけど、元気にはしてるらしいって」
「よかったね。それが分かって」
「俺も首が良くなったら、また警察庁に行きたい」
 退院の日、壮太の主治医は、原因不明の壮太の首の激痛について、論文を発表するつもりでいるのに、壮太が元気になってしまって、とても残念だ、という見解を述べた。壮太は毎日、青史にメンソレータムをぬりぬりしてもらったので早く元気になった、と青史に御礼を言った。
「ほら、これが噴水だよ。鑑識で観た」
「ああ、あの動画を撮った所ね。いい所だね、ここは。確かに太陽が出てると、いい影ができそう」
「皆はここで水浴びをしていたんだ。小鳥みたいに身体を震わせて。そいつ等はほんとはメンソレータムの天使なんだけど、その日は非番だったんだ。天使の輪を浮き輪にしたり、フラフープにしたり、輪投げにしたり。天使の輪は大忙しで、ぐったりと疲れ果てていた。不思議なことに、天使達のことが見える人と見えない人がいるんだ。面白いだろう?」
「僕には見えるのだろうか?」
「一度見えたんなら、また見える筈だよ。あのデパートの一階の、ほとんどの人にはまた見える筈だよ」
「壮太、僕のうちに来るでしょう?」
「なんで? なにしに?」
「キューピッドの矢に刺されたにしては、つれない言葉」
「俺、レオンにも言われたんだよな。鈍いって。もうこんな人のこと好きになるの止めようかな、だって」
「先にデパートに行って、隕石を見よう」
「え、ほんと? 君はなぜ俺の心を掴む方法を知ってるんだ?」
隕石という名の極彩色のフェイスパウダーには、俺と天使達の思い出が詰まっている。あの時、皆でデパートにいて、天使達は自分達の顔にあのパウダーをはたいて、俺の顔にもはたこうとしたから、俺は逃げたんだけど、その時に見たあのパウダーがあまりにも美しく、そして悲しい。
 
 大病院の玄関にはタクシーがいつも止まっている。タクシーは全部で五台いて、運転手さん達は車の外で、皆で話をしている。楽しそうだから、楽しい話。壮太と青史は一番最初の、白っぽい車に乗った。発車するや否や、壮太は運転手に、こう聞いた。
「運転手さん、多磨霊園から人を乗せたことありますか? 人じゃなくてもいいけど、何か変な物」
「多磨霊園ね。大きな霊園だから。ここからだと大分遠いですよ」
「こんな所からタクシーで行ったら大変ですよね。何分くらい掛かるのかな?」
「まあ、朝のこのくらいの時間で、高速に乗ったら、三十分は掛からないですよ」
「え、そんなもんなんだ! 今、銀座に行く途中ですけど、多磨霊園は銀座に行く途中ですか?」
「そんな訳ないでしょ、御客さん。全く逆方向ですよ」
「そうか、俺、方向音痴だから」
 青史は壮太の頭をはたいた。
「運転手さん。多磨霊園に行ってください」
壮太は驚いた。
「ほんとにそんなつもりじゃなかったぞ!」
「分かりました。信じます」
「信じてないだろう?」
「ちょっと行ってみたかったし。人魂とか面白そうだし。御花屋さんも」
「そうだ。花屋に行こう。夕べ息子さんに会った話を」
 
 珍しく花屋には客がいなくて、彼女は、人の入れるサイズの冷蔵庫の前で放心したように座っていた。彼女が座っているところを壮太は初めて見た。壮太を見て彼女は微笑んでくれた。
「嬉しいわ。一年に一回じゃ、寂しいですもんね」
壮太はタクシーの中で、この人の息子の幽霊のことをどう話そうか考えていた。
「前に俺とここに来たレオンっていう奴と、天使共のことを息子さんに聞いたら、皆、元気だって」
「貴方ばっかり、息子に会って。どうして私には出て来ないんでしょう?」
「忙しいって言ってましたよ」
 青史が花を見たがって、彼女は冷蔵庫の中に入る。熱帯魚のような。
「お墓でしょ。こんなに派手な配色でいいのかしら?」
「いいですよ。めでたい人ですよ。自分の思う通りに、派手に死んで」
青史は彼女と一緒に、熱帯雨林に住む大型インコくらい派手なブーケを創り上げた。今にもインコの、ぎゃーぎゃー叫ぶ声が聞こえてきそうだ。青史は彼女と、謎の会話を始めた。
「貴女はどうして霊園で花屋をやられているのですか?」
「……息子がそこの墓に入っているから。以前は六本木だったんですが、息子の側にいたくて。変ですよね。そんなの。もう何年も経つのに……」
「壮太が言ってたけど、息子さんは忙しくて、やりがいのあることをしてるそうで」
二人はずっと会話を続けている。壮太はここに御行儀よく並んで、一人ずつ御花をもらっていた黒い翼のすました顔の天使達のことを思い出していた。記憶に新しくて、本当にまだそこにいるようだった。こっそり涙ぐんだ。
 耳を澄ますと、二人は彼女の六本木時代のビジネスの話をしている。花屋がどのくらいの大きさで、御客さんはどんな人達で、売り上げのことまで聞いている。
「あの時は三人、人を雇って」
壮太が聞いた。
「こないだ電話したら、若い女性が出ましたよ。そう言えば」
「あれね、私の姪っ子。もう大学生なのに、子供っぽくて。トレーニングしてあげてる。花屋になりたいって」
「へえ、その方、週何日くらい入れるんですか?」
青史は何故そんなことまで彼女に聞くのだろう、と壮太は不思議に思った。
「あの子ね。今は週末だけお願いしてるんですけど」
「じゃあ、もう少し入れるんですね」
「なんで?」
壮太が聞いた。
「なんでですか?」
同時に彼女も聞いた。
「家のデパート。最先端の花屋が入ってたんだけど、今、三代目で……。社長は御前に任せるからって」
「この人のデパートは銀座の老舗ですよ」
壮太が彼女に言った。壮太が青史に聞いた。
「その三代目、どうするつもりなの?」
「僕はやる気のない人間はいらない」
 青史はビジネスには厳しいんだな、と壮太は新たな彼の側面を見る思いがした。そう言えば、最初に会った時は、ビジネスライクで、御堅いイメージ満々だったよな。それから、あーだこーだで、壮太に懐いてきて、病院に泊まってくれたり、警察庁に一緒に行ったりで、あっちの方が年下だから、というのもあって、あっちが壮太に甘えてる、みたいな感じになってたのが、今日、こうやってビジネスの話になると、彼の最初に会った時の彼に戻るんだ、と壮太は巡り巡って考えた。
 
 青史は、今創ったトロピカルなブーケを椅子に置くと、その写真を撮った。それから花屋全体の写真も撮った。墓場の側にあるにしては、派手で、似合わない、ブティックみたいな花屋なんだ。壁全体に大きな花のプリントがある。
「今、社長に送りましたから。直ぐ返事が来る筈です」
 御客さんが何組か入って来た。青史は後ろに回って、御客さんと彼女の会話を聞いている。ここにいると、お墓参りなのは聞かなくていいけど、予算とか、ボリュームとか、色とか、聞くことは沢山ある。御客さんと会話をしながら、手早く、見事に花束を仕上げていく。壮太はあの最後に包む色紙は好きじゃないけど。確かに花屋というビジネスは大変なものだ。やる気の無い者にはできない。
 青史に電話が掛かってくる。
「そんな中途半端なのは駄目です。さっぱり切りましょう……」
青史は暫く話をして、電話を切った。壮太は好奇心満々で聞いてくる。花屋は御客で忙しい。
「なになに、どうなったの?」
「今、入ってる花屋を、地方の支店に送る、って言うから、さっぱり縁を切ろうって」
「君ってサディストだったんだな」
「三か月猶予をやるっていうから、そんなに待てない、一月で出て行くようにって」
「うん、やっぱりサディストだ」
「このまま毎日、売り上げが下がるのを見ている訳にはいかない……。そしたらその花屋はデパートの創業以来そこにあるんだぞ、とか言うから、関係ないです。僕が任されていますから、って」
電話がもう一度掛かってきた。青史は声を荒げた。
「御父さん、甘やかしちゃ駄目ですよ。ビジネスなんだから!」
「御父さん?」
また女性と壮太が一緒に言った。
「君の御父さんが社長なんだ。あれってほんとだったんだ」
「そうですよ。言ったでしょ。僕で四代目。きっとね父は、後ろへ回ってあいつに何かしてあげる気です。いつもああなんだから」
 壮太は思った。こいつを敵に回すと怖そうだな。ただの御坊っちゃんだと思ってたのに。それにしても、こんな墓場にいたんじゃ彼女の才能がもったいない。息子は盾の会に入って、三島達と毎日、刀を振り回すのが忙しいんだから、これはとてもいいチャンスだ。
 青史は、近日中に弁護士と契約書を持って来ますから、と名刺を置いて墓へ向かった。彼女は多分、何を言っていいのか分からなかったから、何も言わなかったみたいだった。
 
 トロピカルなブーケはやはり三島の墓には似合わなかったけれど、三島はあんな派手な戯曲を書いたり、変な映画を創ったり、それに出演してたりしたんだから、まあ、いいや、と壮太は思った。金色の人魂はまだこの墓から抜け出して、変な所へ出没しているんだな。タクシーの運転手さんまで怖がらせるなんて。
 ここで花屋の息子さんは首を切ったんだ。血糊が付いたこの墓を想像した。どうして三島がそんなに特別なのか、花屋さんは悔しがっていた。
「あの人、幸子さんって言うんだ。今時、古風な名前だな」
青史が花屋の名刺を見て言った。幸子さんね。幸子さんは息子の自害した現場に来たのだろうか? 見ていないといいな。何処かに旅行に行ってた、とか。大変な親不孝だ。しかし、ここにいると、死に引き込まれそうになる。命を懸けて、自分のイデオロギーを証明したんだ。日本という国を守るために。
 男が男に惚れる世界。それってなんだかヤクザっぽい。気のせいかな? 皆でハレルヤを歌ったな。三島は神道で、墓は仏式で、天使はハレルヤを歌っていた。まるで滅茶苦茶だ。壮太は静かに手を叩いて、御参りをした。
 レオンくらいの年の男が、さっきから壮太達のいる辺りをうろうろしている。きっと三島のファンで墓参りに来たんだな。三島由紀夫の小説を読んだり、演説を聞いたり、映画を観たり、そしてファンになっていくのは分かるけれども、それと、墓参りに来るのとには、大きな隔たりがある。壮太や幸子さんの息子さんには、もっと三島に憑依されたような、気骨がある。
 三島に傾倒してから、壮太は墓に参るようになった。首の激痛もその頃から始まった。天使達にじゃれ付かれるのも、その頃からだ。レオンに会って、知らずに運気も上がって、株屋のビジネスも好調だった。レオンの御蔭で壮太は、三島のことばかり考えることも無くなっていた。
 しかし、レオンと、それから天使に見放された俺には……。俺には何も残っていない。
 
「壮太、ほら。次の御客さんがいるから」
壮太は墓参りの客のことを御客さん、と呼んだのが可笑しかった。レオンと同じくらいの年のその子。可愛いな。レオンみたいにカラコン着けて、髪を染めたりなんかはしてないけど。何か言ってあげたいな。ここまで来るというのは、相当きてる。もう、ただのファンではない。魅入られてる。壮太は声を掛けることにした。
「君は高校生?」
ちょっと驚いた顔。それも可愛い。
「高一です」
「へえ、大人っぽいね。なんで墓参りなんて来たの?」
「剣道部に入りました、って報告に」
「俺は剣道はやらなかったけど、ジムに通ってる」
「え、ほんとですか? ちょっと、いいですか?」
高校生は壮太の二の腕に触る。
「凄い! 大人、って感じがします!」
青史がくすくす笑っている。
「君、こんなとこに来るの、御両親は知ってるの?」
高校生は、上目遣いで甘えた声で言う。
「親に言わないと来ちゃいけないんですか?」
「普通は来ないだろ?」
「じゃあ、ここの御二人は何しに来たんですか?」
高一なら去年まで中学生だろ、それにしては生意気だな、と壮太は思う。青史が笑いながら言う。
「僕はただ面白そうだから付いて来た」
壮太が言った。
「俺は、友達を捜しに」
 
「友達って?」
そう聞かれると思ったけど、壮太は正直に、友達を捜しに来た、と言った。真摯な子を相手に嘘をつきたくなかった。
「ここへ友達と一緒に来たんだけど、いなくなって」
「え、どんな人?」
「人間で言うと、五才前後なんだけど、身体の大きさは人間の半分くらいしかなくて、背中に翼が生えてる。それが三十匹くらいでハレルヤを歌っていた」
「飛ぶの?」
「うん」
「どうしていなくなったの?」
「それは分からない。今、警察庁の人達が調べてる」
青史が携帯を見ながら言う。
「壮太、海が夕方来いって、四時頃だって。僕、デパートに寄らないと」
「俺も行く。最後に皆を見たのはデパートだから」
一年生は口の中で呟いている。
「天使が三十匹? まじで?」
青史が一年生に、一緒に帰るか、と聞いたら、その場所は随分遠かった。多磨霊園から銀座を通り過ぎてもっと東へ。
「天使を捜すなら、僕も手伝いたい」
そんな、今、会ったばかりで、と壮太は驚く。
「でもちょっと待って。三島さんに御挨拶してから」
一年生は熱心に拝んでいる。余り長いから、壮太と青史は顔を見合わせる。壮太はもう一度、結構きてんな、と思う。
 
 タクシーに乗った。一年生の名前は雅也という。彼は助手席に乗って、壮太と青史に振り向いて熱心に話している。
「僕の名前、おばあちゃんが付けたんだけど、昔の俳優さんだって。それで、その人、三十代で新宿のホテルから飛び降りたんだって。四十七階から。前から飛び降りたんじゃなくて、後ろ向きで飛んだんだって。だから、男前の顔だけは無事だったんだって。でもなんで人にそんな名前付けるんだろう? 僕ね、そのホテルの四十七階までは入れなかったんだけど、できるだけ上の方の階に行ってみた」
壮太が茶々を入れる。
「君、ほんとに行ったの? 御墓参りには行かないの?」
「ううん。どのくらい高いのか見てみたかっただけだから」
青史が言う。
「君は自殺した人に興味があるの? なんで?」
雅也はちゃんと自分の気持ちを相手に伝える言葉を持っている。
「中二病の時は、ほんとに死にたかったけど。毎日。死にたい、死にたい、って。そういうのなかったですか?」
壮太がそれに答える。
「俺は分かるな。今でも考えるぞ。あっちの世界に飛びたいって。大人に近付くと……、そうだな、やっぱり大体、中二くらいだよな、大人に近付くと、生きてるのが辛くて辛くて堪らなくなるんだ」
青史は反対意見だ。
「僕はなかったな、死にたいとか。……あ、でも一回、男に振られた時」
雅也は二人の顔を代わる代わる見る。
 銀座に近付いた。銀座には銀座の香りがある。壮太は古い銀座の街並みを、よく映画で観た。まだモノクロの頃の。銀座は晴れやかな、戦後の復興のシンボルだった。壮太は、こないだゴジラ映画で銀座が破壊されるところを観た。交差点にちゃんと、ちっちゃな模型の和光があった。破戒されたけど。
 レオンが消えたあのデパート。あんな所に行って泣いてしまったらどうしよう? と壮太は心配した。雅也は当然のように壮太と青史に付いて来る。従業員が皆、青史に御丁寧に御辞儀をするので、雅也はそれが面白いらしかった。かなり年上っぽいスタッフも御辞儀をする。
 吹き抜けの部分に来た。ルネッサンスやゴシックの頃、大聖堂の天井には、天使のテンペラ画があった。天使達は絵の真似をして、天井に張り付いて、ポーズを取って、落ちそうになって、皆でけらけら笑っていたっけ。
 コスメティック売り場に入る。気付くと青史が後ろにいる。用があって来たんじゃないのか。きっと壮太を信用してない。また警備員に捕まって、上の事務所に連れて行かれて、窓から飛び降りようと試みる。そして、救急車、病院のコース。レオンと天使共がいなくなったんだ。あんなの可愛いもんだ。
 
 ようやく青史は、メイクアップアーティストの一人を紹介してくれて、「隕石meteorite」という名のフェイスパウダーを見せてもらうことになった。若い男性だ。巻き毛で目が真ん丸で、唇が赤い。赤いのは何かを塗っているからだ、と壮太は気が付いた。レオンみたいに顔全体に化粧をしている。
 壮太の天使共の人間の大人版だ。眉は完璧に整えられて、普通の男の眉より、やや女性らしいカーブになっている。色は白い。まだ若いこともあるだろうが、染みが全然ない。パラソルでも差して歩いているのだろうか? この男だったら、パラソルが似合うかも知れない。
 レオンは目の周りに海水色のアイシャドーを付けていた。前世が乙姫様だって言ってたから。でもこの男のアイシャドーは、レオンのみたいに百均じゃないから、非常に凝ったことになっている。きっとアイシャドーだけで、十色くらい使っている。鑑識の女性に鑑識してもらいたい。レオンの唇は珊瑚色だった。この男の唇は天使と同じ、ストロベリー。
 ほんとに警察庁の女性に来てもらいたい。彼女はこの男の顔見たらどう感じるだろうか? 顔全体で、少なくとも百色ぐらい使っている。あの時、彼女はレインボーの羽を見て、歓声を上げていた。この顔を見たら、また歓声を上げるだろう。きっとMeteoriteというあのパウダーを使っている。だからここまで輝いている。微粒子の一つ一つが色を主張している。
 今日はここが終わったら警察庁だ。少しでも手掛かりが掴めただろうか。事件が長引くほど、発見の機会が減っていくような気がして、壮太は焦った。
 壮太の頭に、シナリオができる。この天使顔の男が家に帰って、バスルームで顔を洗ったら、手にこのmeteoriteが残り、水と一緒に手の平からゆっくり流れ落ちていく。流れ落ちた先は底の知れぬ暗闇で、隕石の落ちた先は誰にも分からない。
 たかが女のフェイスパウダーにそんな名前を付けるなんて……。もう十年以上前だが、ロシアに大規模な隕石落下の事件が起こり、人に直接当たって怪我をさせたり、沢山のガラス窓をばりばり割ったりした。
 壮太は、隕石が落ちる衝撃で窓ガラスが割れるシーンを想像してみた。美しい、と言ったら、怪我をした人に申し訳ないだろうか? 興味があって色々調べたら、面白いことが分かった。ロシアでは、余りにも阿保らしい、単純な車のアクシデントが尽きないから、車の保険に入るためには、ドライブレコーダーを取り付けないといけない。だから隕石が落ちた時、大量のドライブレコーダーから大量のmeteoriteが空を横切るシーンが見付かった。
 
「meteoriteをご覧になりたいんですね。あれは私達ゲランの定番で、発表三十年以上になるヒット商品で御座います。御色は三色ありまして……」
「色が三色あるの?」
一つの入れ物の中に、大きな粒が入っている。数珠玉くらいの大きさの。その粒はそれぞれ色が違っていて、それをブラシに取ると、色が混じって、壮太の思い出の天使達みたいに、顔が、わっと輝いたように見える。
 だから、そんなに沢山の色の粒があるのに、それが更に三色もあるなんて、そんなに大変なことになっているんだ、と壮太は驚いた。
「僕は今日は、こちらの赤味の強い色を使っておりまして、顔色が悪い時など補色に便利です」
 三色を比べてみた。あの時、天使が悪戯していたのは、オリジナルの金平糖色をしたものだ。透き通るような、濁りのない色。二つ目はオリジナルの青みを取ってある。三つめは今日、彼が使っているという、赤と茶の色を増やしてあるものだ。顔に乗せるとどうなるのかな? 面白いけど、壮太が興味のあるのはオリジナルの金平糖だ。光る色。微粒子の一つ一つが光を放つ。
 男が壮太の浅黒い手に、meteoriteをはたいてくれた。壮太の手が浅黒いから、逆にパウダーの光が良く見える。
「こちらはプレゼントに、大変お勧めです。女性ならどなたにも喜ばれます」
「君は、この間、このフロア一杯に、天使が飛んでたこと、覚えてる? 化粧品を悪戯して、大騒ぎして」
男は暫く無言で微笑む。たっぷり五秒。きっと壮太の頭がいかれていると思っている。
「大変申し訳ございません、御客様。実は僕はまだ新米で、こちらには派遣されたばかりなんです」
そうか、この天使みたいな巻き毛の男なら、何か覚えてるかな、って期待してしまった。
 
 さっき、フロアの探検に出掛け、何周目かで、壮太のいる所をたまたま発見した。
「なんだ、壮太さん、こんな所に……」
そこまで言い掛けたところで、メイクの男が突如立ち上がった。そんなに背は高くない。カウンターから出て来て、雅也の肩をがしっと掴んで、雅也の顔をあらゆる角度から、まじまじ見る。
「えっ、えっ、こういう顔ってあり?」
男の方が背が低いから、雅也を見上げるようにする。
「ちょっと!」
その、ちょっと、は命令調の、ちょっと、であった。
「ちょっと、ちょっと、こっちに座って」
ちょっと、の二連発。
「やだよ。なんで?」
雅也はレオンと違って化粧には興味が無さそうだった。って普通ないか。
「君の顔……。僕にやらせて!」
巻き毛の男は、突然男らしい力を出して、雅也の肩を、ずんと押して、椅子に沈めた。
「なんだよ!」
雅也は抵抗を続ける。巻き毛の足をキックする。化粧品売り場で暴力沙汰? 
 
 壮太は二人の間に立った。
「この子の顔! メイクの学校の宿題に丁度いいから、御願いだからメイクさせて!」
壮太は間を取り持とうとする。
「御客さん、御父さんですか?」
「御父さんは酷いな。俺はそんな年じゃないぞ。雅也君、いいじゃないか、やらせてやれば。あんなに言ってるし」
「なんで、俺?」
巻き毛は雅也に必死ですがる。
「君の顔はね、僕の理想。目が細くて、きりっと上がって、こういう顔、白人にはありえなから、今、パリコレでも大人気」
「嫌だよ」
「宿題のテーマが、未来人、だから。君を見てると、なんだか未来の人に会ってるみたいで、ぞくぞくっとくる」
「でも、やだよ」
巻き毛はまだすがる。
「君の顔はね、御侍さん顔。ベリー・クール」
「え、御侍さん顔?」
 雅也は、「侍」という言葉を聞いて、譲歩する。雅也もあの世に行って、三島の隊で日本刀を振り回す類なのだろう。壮太は熱心に雅也の顔に何やらしている巻き毛に言った。
「君、こんなとこで宿題してていいの?」
「芸術はインスピレーションだから。こんな仕事より、学校の方がずっと大事なんだから。僕は卒業したらパリに行くんだから」
「志が高いのはいいことだな」
後ろから聞き覚えのある声。青史の声。青史は偉そうに腕組みをして、すっかり、デパートの偉い人になっている。巻き毛はあんまりメイクに真剣だから、青史のことは聞いていない。
 そんなことより、雅也のメイクに、いつの間にかギャラリーが出来上がっている。メイクの過程で人々が、可愛い、だの、モデルさんかしら、だの、あの色奇麗、私も欲しい、だのという声が聞こえて、シャッターを切る音も聞こえて、きっと売り上げにも貢献している。
 「未来人」というテーマ。侍顔が強調されている。若い肌は透き通っている。不老不死の未来人。雅也の顔に強いライトが当てられている。仕上げに「隕石」という名のパウダーを顔中にはたく。ライトの中で微細な粉が、ふわりふわりと、ゆっくり舞い落ちる。色の見せる魔法が、壮太を夢の中にいる気持ちにさせる。
 もう、何百回も繰り返したことだけど、壮太は、レオンや天使達が、冗談でした、と笑いながら出て来るんじゃないか、という気がして、少し涙ぐむ。未来人は、飛び、動く、色のシャワーの中にいる。巻き毛に沢山写真を撮られる。注文がうるさい。雅也はわざと変な顔をしてあげる。
 
 やっと巻き毛から解放されて、壮太達は警察庁に向かうこととなった。壮太は、すっかり御洒落な侍になった雅也を、警察に連れて行きたい、と言った。
「三島のことに詳しい人間がもっといた方がいいだろ?」
一行はまたタクシーに乗った。壮太は、青史は生まれてから一度でも電車に乗ったことがあるのだろうか、と疑問に思った。
 海に会った。青史は、また海に怪しいキスをする。フランス映画みたいな。両頬にするキス。そして海の濃い胸に顔を寄せる。
 やはり、色彩感覚の鋭い女性が、雅也の顔を見て飛んで来た。今日の彼女の髪は、緩くウェーブがかかって、ダ・ビンチのテンペラ画『受胎告知』の頭に金色の輪を付けたマリアみたいだ。絵の中の天使の側に、百合の花がある。壮太は幸子さんのことを思い出した。そしたら彼女の息子さんのことを思い出した。そしたら目の前にいる侍のことを思い出した。
「君は、三島の何処が好きなの?」
「きっかけがあったんだけど……」
小さい時から父親の方針で、雅也の家には必ず留学生が住んでいた。雅也はネットで三島由紀夫が英語を話している動画を観た。その時、家にはイギリス人の大学生が住んでいて、雅也は三島の英語についてどう思うか聞いてみた。
「……留学生は三島由紀夫の英語のことは何にも言わないで、この人はなんて頭がいいんだろう、と絶句してた。それから、三島の本を読むようになって、それで」
ネットには、三島の海外メディアからのインタビュー映像が、多く遺されている。
 雅也はこう語った。
「中二の時、好きな先生に僕のこと自意識過剰になるぞ、って言われて。頑固だし。いつも自分が正しいと思っているし。だから自分の顔とかあんまり見なかったから、今日これやられてびっくりした」
 
 雅也の顔を見て、真っ先に走って来た色彩感覚の鋭い女性。彼女の名前は、恵美香だということを壮太は知った。似合うような似合わないような。恵美香という名には新しさ、と共に、古風な響きもある。
 その次に飛んで来たのは、犬並みの嗅覚のある高校生だった。雅也の顔を犬のようにくんくんと嗅いでいる。
「タルクの匂いがする」
フランケンシュタイン博士が反論する。
「それは変だぞ。タルクは無臭の筈だ」
高校生は反抗する。
「それは間違いだ」
 さっきから床でごろごろ転がって遊んでいた、五才の天才科学者、祐樹が青いクレヨンでノートになにやら書き始めた。書き終わると、それを放り投げて、またごろごろしだす。フランケンシュタイン博士がそれを拾い上げる。
「これはタルクの化学式ですね。……Mg3Si4O10(OH)2」
タルクってなんだろう? 壮太はあちこちのポケットに手を入れて、自分の携帯を捜した。タルクは柔らかい鉱石で、主に粉にして使われる。ベイビーパウダー、フェイスパウダー、ファンデーション、口紅、その他工業製品等の原料となる。
 壮太は検索結果を読み上げた。恵美香がバッグから、ごそごそとメイク用品を取り出した。
「あ、ほんとだ。このパウダー、原材料の一番上にタルクって書いてある」
 祐樹が博士の持っているノートに手を伸ばし、それを受け取ると、熱心に書き込みをする。緑の目をした中学生が大きな声を出した。
「駄目です!」
皆が一斉に彼女の方を見る。海が、どうしたの、と優しい口調で話しかける。彼女は強い口調で繰り返す。
「駄目です! それをしては!」
 博士が祐樹のノートを覗く。博士は頭を抱える。
「そんなことが、あっていいのか?」
中学生が繰り返す。
「駄目です! それをしたら、誰かが消えてしまう!」
 
  壮太は言った。
「人が消えるなんて、そんなことがある訳ないでしょう?」
博士の説明に皆が聞き入る。
「祐樹の言う通り、人工白檀のトランス-3-イソカンフィルシクロヘキサノールの分子にタルクをぶつけると、キメラとキミアという二つの物質が合成される筈なんです。理屈ではそうなるんです。でも実際に作ってみせた人はいない」
壮太は笑った。
「誰にもできないなら、俺達がここで作ってみましょうよ」
博士の身体が震えている。
「キメラはどんな生物にも起こり得る、染色体の異常で、危険ではありません。しかし、キミアは、錬金術のことです。古代エジプトからその歴史は始まり、十七世紀のヨーロッパでも錬金術は研究されていた。物理学者のアイザック・ニュートンでさえ、取りつかれた様になった。キミアは危険です。かつては黒魔術にも使われていた。何が起こるか分からない」
恵美香が聞いた。
「香水とパウダーなんて、同時に使う人、沢山いる筈ですよね。なんでその人達は消えなかったんでしょう?」
海が唸った。
「失踪人の中にそういう事例があるかも知れない。調べてみたらどうだろう?」
高校生が言った。
「きっと、消える人と、そうじゃない人がいるんですよ。あ、じゃあデパートにいたレオンさんと天使さん達にそれが起こったんだ」
青史が後を続ける。
「天使の顔に付いていたタルクが、レオンさんの持っていた360の香水の分子にぶつかったんだ」
壮太が博士に聞いた。
「キメラとキミアなんて、実際どうやったら作れるんですか?」
「やり方は簡単です。実験室にセットアップしたら、あの赤いレバーを上げるだけです」
 
 実験室の中には、フランケンシュタイン博士と祐樹がいた。実験のセットアップはできた。しかし、誰も赤いレバーを上げようとはしない。
中学生が叫んでいる。いつもより声がずっと低い。まるで誰か別の人が喋っているようだ。
「赤いレバーに触ってはいけない! 私達の知らない国と繋がってしまう!」
そこにいた人達、全員で顔を見合わせた。壮太、青史、海、恵美香、高校生、中学生、祐樹、祐樹の姉、そして雅也。
 
 壮太が明るく言った。
「海さん、こないだみたいにオーダーして、皆で何か食べましょうよ」
祐樹の姉が嬉しそうだった。やっぱり彼女は今日も御腹を空かせていたのだ。壮太達は、中華料理と弁当屋に分かれた。
 壮太は中華丼を食べている。青史はお洒落な卵焼き弁当を食べている。雅也はチャーシューのいっぱい乗ったラーメンを食べている。海がテレビを点けた。賑やかなバラエティー番組だ。
 
 壮太は一番研究室から近い場所に座っている。皆が食べるのに夢中になっている時、壮太は誰にも見られないように研究室に入り、ドアを閉め、鍵を掛けた。研究室はオフィスより寒い。幸子さんの花屋にあるような、大きな冷蔵庫が壁面を覆っている。
 透き通ったガラスの中に、壮太には何なのか想像もできないような、色とりどりの薬物が並べられている。動物の剝製がある。あれは皆、本物の動物なのだろうか?
 壁に古風な大時計。人間の骨格標本。吊るされた骨が、何故か微妙に揺れている。人間の死ぬ時に起こると言われる痙攣みたいだ。壮太は眼球の無い骸骨と目が合ったような気がした。赤いレバー。これを上げると、別の国と繋がる。
 
 天使共の、甲高くて、うるさい御喋りが聞こえる。大声で笑っている。空中をぐるぐる飛びながら。何匹いるのだろう? あの翼の音なら、百匹以上はいそうだ。バロックの時代に天使達はよく絵に描かれた。幼児の健康的な身体。ピンクのほっぺに赤い唇。
 三島達の号令が聞こえる。三島の跡を追った、信奉者達。幸子さんの息子さんもあの中にいて、皆と一緒に、日本刀を振り回している。
 金色の人魂が、一人でいじいじしながら飛んでいる。なんで人魂はいつも意気地がないんだろう? 人魂は三島の墓の中に生きている癖に、ひょろひょろ出て来ては、天使達に連れ戻される。
 壮太はあの幼稚園のあるカトリック教会で、あと少しで天使達と出会えた筈なのに、そうはならなかった。大きな映画用機材のライトを抱えて、飛んで行ってしまった。壮太も見てないし、青史も見ていない。神父さんのことは知らない。壮太は夜の教会の中で、確かにステンドグラスの色が這っていくのを見た。それは天使達の悪戯に違いないんだ。
 レオンの誕生日の日。デパートの照明は明るくて、メイク売り場には幸せが満ちていた。天使達は吹き抜けの天井にぶら下がった。ルネッサンスの絵画に飛んでいる天使の真似をして。顔に「隕石」という名のパウダーをはたいていた。天国にいるみたいな色がした。匂いもした。
 レオンは、ペリー・エリスの360を手に取るのをなんだか躊躇ったみたいに、他の色んな形や色の香水瓶を並べて遊んでいた。そして写真を撮っていた。青史に抱かれていた、機嫌の悪い天使。青史はくまの縫い包みで、上手にあやあしてくれた。レオンはあのくまさんは、ラルフ・ローレンの香水のおまけに付いて来るんだよ、と言ってた。レオンはいつもそういう変なことに詳しかった。レオンが写真を撮っていた、あの携帯は彼と一緒に消えてしまった。
 
 壮太は赤いレバーに触ろうとした。実験室の外から人がドアを蹴る音がする。壮太の求める世界がここから繋がっている。赤いレバーを持ち上げる。重たくて、全身の力を込める。何処からか、メトロノームの音がする。とても速い速度で鳴っている。音がだんだん大きくなる。
 壮太が赤いレバーを最後まで上げた。爆発音がした。レインボーカラーの猛風が起こる。それが竜巻の渦になって回っている。実験室の物が皆、吹き飛んで、冷蔵庫のガラス戸が粉々に飛び散った。ロシアに隕石が落ちた、あの時みたいだった。壮太の顔や手に痛みが走る。
 風の来る方向を捜すと、目の前に暗い穴が開いている。竜巻が吹き上がっているのは、この世と、向こうの世の接点だけだ。壮太が穴まで這って行って覗くと、穴の中は無風で暖かく、遥か遠くに、小さな灯りが見えた。
 
 穴に落ちようとする壮太の腰を、力強く引く者がいる。壮太はその腕を外して、もう一度穴の中へダイブしようとする。もっと多くの腕が、壮太を掴む。あの時みたいだ。レオンが消えた直後、壮太は皆の所へ行こうとした。デパートの懺悔室で、窓を開けて暗い裏通りに身を投げようとした。しかし、頑丈な手に腰を掴まれた。
 頑丈な手は、海と青史のものだった。壮太は実験室から連れ出され、オフィスに投げ込まれた。猛風がドアの開いた実験室から唸りを上げて、竜巻になっている。風は更に強くなる。皆は机にしがみついたり、机の下に隠れたりする。
 計画は失敗だった。壮太は慟哭した。涙で目が潰れる様に痛い。涙を止めようとして絞るように目を強くつぶる。それでも涙は流れる。
 
 海の叫び声が聞こえる。
「博士、風はどうすれば止まるんだ!」
「赤いレバーを下げれば戻ります!」
割れたガラスの粒がオフィスの外まで飛び回る。赤いレバーを、一体誰が下げるんだ? 壮太は諦めずに実験室に向かって歩こうとしている。壮太の頬や手の甲に、ガラスが削った痕がある。
 青史と、海と、高校生が壮太を床に組み伏して、壮太が動けないように押さえつける。ガラスの破片はオフィスにある家具や、窓ガラスに当たって、音を立てる。まるで破片が意志を持って飛んでいるようだ。
「誰かが止めないと、穴はもっと大きくなる!」
 その言葉を聞いて、誰かが迷わず立ち上がる。彼は、側にあった、ノートパソコンを盾に取り、まだ飛んでいるガラスの破片から顔を防御し、実験室に進む。あれは誰なんだ? 壮太は驚く。その者は、実験室に入ってしまった。勇気はあるが、余りに捨て身の行為だ。
「雅也! 戻って来い!」
青史の声。そうだ、雅也だ。もう遅い。完全に姿が見えなくなった。
 
 風がおさまった。ガラス片は竜巻から離れて、ぱらぱら床に落ちた。壮太は実験室にダッシュする。
「誰もいない。どういうことだ?」
壮太は雅也を捜す。冷蔵庫に入る。ビーカーや試験管等のガラス器は割れて下に落ちている。壮太はガラスの破片の上を歩く。じゃらじゃらという音がする。砂状の物が、まだ止まらず、棚の上から砂時計の様に、さらさら下へ落ちていく。得体の知れぬ、物体や液体が混じった、鋭い匂い。壁時計が垂れ下がって、落下しそうになっている。もう時は告げてくれない。
 壮太は赤いレバーを上に持ち上げる。何も起こらない。さっきあんなに重かったレバーは簡単に上がった。博士が言った。
「もう駄目ですよ。一つのセッティングであちらの空間へ行けるのは一度だけです」
「あの子は一体何処へ?」
恵美香が震える声で聞いた。海が答える。
「我々はずっと、その答えを捜している」
博士が狼狽えた。実験室の中をぐるぐる回る。踏まれたガラスが砂利のような音を立てる。
「あの子は、きっと穴に自分から入ったんです」
博士は額に汗をかいている。
「穴に落ちる瞬間、赤いレバーを下げた。だから道が閉ざされたんです」
高校生が興奮気味に聞いた。
「どうして、どうして、あっちに行きたかったの?」
中学生が泣きそうに言った。
「駄目だって、あんなに言ったのに、どうして?」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?