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小説『天使ってなんでデパートが好きなの? 第3話』

 雅也は三島に傾倒していた。三島に会うために? 壮太にはそれしか考えられなかった。しかし、向こうの国がどんな所か、確証もないのに? そこまで三島は彼を魅了していたのか? まだ高一だぞ。
「博士、雅也を連れ戻さなきゃ」
「これから皆でそれを必死で考える。あっちに行けたんだから、こっちにも戻せる筈だ」
全員が博士を囲んで、ブレイン・ストーンミングを開始した。頭がくっ付きそうなくらい。祐樹は博士の膝の上にいる。ここには、日本の警察トップの鑑識メンバーが揃っている。
「もう一度セットアップして、機動隊を送ろう」
「誰が責任持つんですか? 帰れなくなる可能性が高いのに」
「興味を持つ人がいる筈でしょう? 雅也さんみたいに、冒険したい人が」
「レオンさんや、雅也さん達の命を救うのが優先だ」
「帰る道を作ろう。それしかない」
 
 壮太の目の端に、落下する物が映った。床に硬い物の落ちる音がした。携帯。見覚えのある。壮太はそれを拾った。レインボーのケースに、UFOと宇宙人と星々のストラップ。
「レオンの携帯」
博士が言った。
「穴が閉まる前にこちらへ投げて寄越したんでしょう」
青史が聞いた。
「何故、今落ちて来たんでしょう?」
祐樹がそれに答えた。可愛らしい声で。左腕にくまさんを抱えている。
「携帯がこっちの国に来た時、こっちの物質にコンバータして生成するまでに時間が掛かった」
 パスワードがないと起動しない。中学生が緑の目を閉じて、祈るように頭を下げる。声には出さないが、口では何かを呟いている。何を言うのだろうと、皆が期待して彼女を見守る。
「……レオンさんの一番愛する人の電話番号、下四桁がパスワードです」
壮太の頭が空白になった。それから、考えた。一番愛する人? それは誰?
 壮太の頭をはたく奴がいる。
「なにすんだよ、痛いじゃないか」
壮太は不平を漏らす。後ろから青史の声がした。
「壮太の電話番号。下四桁。壮太は恋愛ごとに関して、ほんとに鈍いんだから」
皆が壮太と、壮太の握る携帯に大注目する。
 
 パスワードを入れると。携帯が一メートルくらい跳ね上がった。壮太は上手く、空中で携帯を受け止めた。祐樹が凄い! と言って手を叩く。スクリーンから、レインボーの光が出る。光がぐるぐる回り出す。
 壮太は携帯に入っている、テキストを覗いてみた。なんだか色んな会話がある。色んな男がいる。単に同級生とかなのか、それとも? 壮太が嫉妬の火を灯していると、恵美香さんが、じれったいと言って、壮太から携帯を取り上げる。
 恵美香さんはバックアップを取りながら、同時に携帯にあった写真や動画を皆に見えるように、プロジェクターで大スクリーンに映した。彼女は超人的な色彩感覚を持つだけではなく、彼等、捜査班の中で一番コンピューターに精通している。
 最初の写真で、壮太は驚いて、思わず口を両手で覆った。天使が三匹、病院の前にある噴水の水溜まりで、天使の輪を浮き輪替わりにして、元気に水を蹴っている。これを撮ったのはレオンだ。壮太の足が一本入っている。天使があんなに可愛く撮れている。壮太は一気に泣くモードに入った。
 どうせ、他の人には天使は見えないだろうと思った……。と、思ったら、祐樹が天使を指差して、げらげら笑う。
「可愛いー!」
と叫ぶ。壮太は、え、と思って、周りを見渡す。わー、凄い、可愛い、可愛い、が皆の口から飛び出る。
 次の写真。さっきの水浴びは、非番のナース達だったけど、この写真には、非番じゃなくて、当番のメンソレータムの天使達が写っている。可愛い白いエプロンと帽子。青史は、ああ、あれがメンソレータムをぬりぬりしてくれる天使ですね、と感心している。
 次の写真。デパートの一階のフロア中に天使がいて、あちらこちらで悪戯をしている。口紅をはみ出して塗って、他の天使達は指差して、大笑いしている。デパートのスタッフも写っている。
 次の写真。レオンが香水瓶を奇麗に並べて写真に撮ったもの。青史が写っている。ぐずっている天使を抱っこして、くまさんで上手にあやしている。青史が感動する。
「まさか、まさか、これが見られる日が来るとは、正直思っていなかった……」
青史は目を輝かす。壮太は、なんだ、思ってなかったのかよ、俺のことを信じていると、あんなに言ってた癖に、と不平を漏らす。
 
 そこからは動画になる。レインボーの兵士が弓矢を持って、赤い人魂を狩っている。羽で空が覆われる程。総天然色大スペクタクル。一匹が空から降りて来て、カメラを覗く。髪も、瞳までレインボーなのがよく観える。
 恵美香さんが、信じられない、あんなにカラフルな生物がいるなんて、と目をうるうるさせる。壮太は、あいつらの内一匹が、俺の足を矢で刺したんだよな、あれは痛かったよな、と怒りを再びしつこく燃やす。あの後、兵士達は、あの赤玉を玉川上水に沈めたんだ。
 興味深いのは、その多磨霊園に御参りに来た人にも、見える人と見えない人がいることだ。墓参りの御父さんに抱かれた、祐樹くらいの子供が、兵士に笑いながら、手が千切れそうなくらい手を振っている。両親には、なにがなんだか分からない。
 壮太が皆を見回すと、天使が見えていない人はいなかった。祐樹も博士も海も恵美香も中学生も高校生も青史もちゃんと見ている。同じシーンで笑って、同じシーンで感動している。
 鑑識の皆は仲間なんだ。臭覚の鋭い高校生に聞いた。特殊能力を持つ子は、学校では皆、浮いてるし不登校になる子も多い。この警察庁の鑑識にいる時だけ、仲間と一緒に楽しく話ができる。
 鑑識のオフィスに、青い制服を着た救急隊員が二人、入って来る。ガラスの破片で受けた傷を治療してくれる。激しい出来事で気付かなかったが、壮太の顔と手に、かなり深くえぐられた部分がある。傷を意識した途端に痛みが始まった。隊員の一人が、スクリーンを観て感心する。
「へえ、天使だ。可愛いもんだな。元気だなー。あれって本物ですよね?」
もう一人の隊員がいる。スクリーンを観ているのに、何も見えないらしい。
 壮太はやっぱり見えない人がいるんだ、と改めて発見した気分だった。
 
 電話が鳴っている。恵美香さんのデスクの上で鳴っている。あの曲はパンクの神様と呼ばれたバンド、クラッシュの『ロンドン・コーリング』というものだ。レオンはいつも、あんなにサイケなレインボーな出で立ちでいるのに、信条はパンクなんだな、と壮太はレオンの電話が鳴る度に笑ったもんだ。壮太はとても懐かしく感じた。
 壮太が思い出から現実に戻ると、壮太を人々が突いている。電話に出ろ、と言っている。壮太は株屋で、クライアントの金を預かって株式投資をする。予想が当たると、皆は儲かった御金を使うのが忙しくて、誰も電話をしてこないが、損を出すと、じゃんじゃん電話が掛かってくる。
 だから壮太は、電話というものは、鳴っても出るものではないと思っていた。皆に言われて、やっと壮太は電話を持ち上げた。ボタンを押した。耳を当てた。恵美香さんがやって来て、スピーカーをオンにされる。これで皆にも聞こえる。……なんだか、ばたばた雑音ばかり聞こえるな。
 雑音の中から、壮太! と叫ぶ人がいる。壮太は、誰? と叫び返す。雑音ばかりが続く。
「壮太に電話するって言っちゃったら、皆が飛んで来て……」
そしてまた、雑音ばかりが続く。壮太は黙って雑音に耳を傾ける。海が言う。
「レオンだろ? 何か言ってあげれば?」
「え、レオン? レオンか?」
「今、回線の調子が悪くて……。もう直ぐ映像を送るから」
「元気なのか?」
「元気、元気!」
そこで一度、電波が途絶えた。壮太が聞いた。
「レオンの携帯がここにあるということは、レオンはどうやって電話してるんでしょう?」
恵美香さんが答えた。
「レオンさんの携帯が、アンテナの役をしてるんだと思う。何らかの形で、あちらからこのアンテナに発信してるんでしょう」
 高校生が聞いた。
「今のほんとにレオンさん? ここでレオンさんに会ったことあるのは、壮太さんだけだから」
「レオンの声だった。あの、元気、元気! と言った時の、非常に呑気な調子も確かにレオンだった」
海が言った。
「危険はないらしいな。よかったな」
「はい。ありがとうございます」
壮太は皆に何か言った方がいいだろうと思って、取って付けたように、そう御礼を言った。
 
 ビデオが送られてくる気配がする。携帯がぶるぶる震えている。携帯のスクリーンからレインボーの光が出て、それが回り始めた。恵美香さんが言った。
「その携帯に画像が届いたら、この大画面に映すから」
凄いテクノロジーだな、と壮太は感心する。
 ビデオはかなり乱れているが、三人立っているのがぼんやり見える。それにしても、三人の周りにばたばた飛んでいるのが多過ぎる。
「レオン! その飛んでる奴等に、ちょっと静かにするように言って」
「ここはね、天使の国だから、あんまりうるさく言えないでしょ」
海が呟く。
「そこは天使の国なんだ」
「そいつ等に、壮太が静かにしろと言ってると言え」
天使達は口々に「ちぇっ」と言いながら、御空から降りて来て、大人しく地面に並んで、体育座りをする。祐樹が、可愛いと言いながら、自分も皆みたいに体育座りをする。三人並んでいる真ん中がレオンだった。怪我もないし、痩せてもいない。どちらかというと少し太ったかも。
「レオン太った?」
「天使は直ぐ食べ物を残すから、もったいなくて」
レオンの左隣に馬の癖に色がピンクで、金ぴかの立派な角を生やしているのが立っている。右隣には、薄緑色の竜が立っている。三人とも同じくらいの背丈だ。壮太が聞く。
「その人達、なんなの? 御友達?」
二人共、シャイなのか、緩く笑って下を向く。
「そうそう、ファンタジーの基本だからね。ユニコーンとドラゴン。小説とか、アニメとか」
壮太は、なんだ馬と竜じゃなくて、ユニコーンとドラゴンか、随分、はいからだな、と思う。
「可愛いでしょ。こっちの名前は太郎で、そっちの名前は四郎なの」
「それが太郎と四郎なら、次郎と三郎は何処へ行ったんだ?」
「さっき、デパートに買い物に」
青史が来て、どのデパートか、と聞く。
「あのね、エントランスにライオンが二頭座ってるとこ」
「なんだ、強豪じゃないか」
青史はぷんぷんする。
「よく、デパートで買い物する金あるな」
そう壮太がいい質問をする。レオンは、ユニコーンとドラゴンの頭の後ろを見せる。
「ほらね、ここにコイン入れるとこあるでしょ。天使達がここに御金入れて、乗って遊ぶから」
へー、そうなんだ、と、いきなり何故か中学生がとても感心する。
 
 壮太とレオンの会話があまりにじれったいので、海が横から口を出す。
「こっちから消えた子がいたんだが、見なかった? 名前は雅也、高校一年生」
「さっき来た子ね。凄い化粧が上手いからびっくりしたら、レオンさんのも百均の割にいい線いってます、って言われた」
また、海がじれったそうに聞く。
「無事なのか? あの子は、三島由紀夫のファンらしいが」
「由紀夫さんだったら、さっき擦れ違ったよ。これからジムだって。大勢連れて」
壮太が不思議そうに言う。
「なんでレオンのが百均だってばれたんだろう? 俺、何にも言ってないのに。あいつの化粧はプロがやったんだぞ」
「なんだ、そっか、騙されちゃった。あの子、トレンディーな侍顔だから、由紀夫さんにも可愛がられると思うよ」
海が言った。
「まだ高校一年だぞ。早く帰って来るように言って」
「それがあれなんだけど、僕達、帰り道が分からないんだ」
それは大変だ。そこで壮太が珍しく、大切なことを思い出す。
「あのアニメ、『白檀と扇子』に黒いタキシードの男が黒いベンツに乗って来るじゃない。そうすると主人公が現在に戻って来るだろう? そっちにそういう人いないの?」
「ああ、あれねー。皆に聞いてみる。もう行くけど、心配しないで」
「もう行くのか? なんで?」
「もう、皆が壮太と話すって、うるさくて」
 
 黒い翼の大群が寄って来て、ちっちゃな手で楽譜を広げて、ヘンデルのハレルヤを歌う。前にフルオーケストラがいる。特にトランペットの演奏が素晴らしい。なんて贅沢なんだろう。オーケストラとこんな見事なライブ。指揮者は皆に見えるように、宙に浮かんで棒を振る。壮太は見事なハーモニーに感心して涙を流す。止まらなくて、拳にした両手で子供みたいに目を擦る。青史は、涙を流す壮太を見て感心する。
 そう言えば、あそこの所で、指揮者が指図すると皆が一斉に楽譜をめくるとこがあるんだよなっ、と壮太が思い出す。もう直ぐそこの所にくる。壮太は集中して、壮太の好きなその時を待つ。あ、今、めくった。素晴らしい! オーケストラと指揮者とコーラスが一体となって芸術作品を創っているのだ。
 壮太の目から、更なる涙が出て来る。音楽ってなんて素晴らしいんだろう。
「壮太って純真だから、天使に人気あるんだー」
鑑識の面々も、素晴らしい演奏だと、手を盛んに叩く。
 それから、一匹の天使が前の方へすすすっと出て来て、モーツァルトのハレルヤを歌い始める。パーフェクトなボーイソプラノ。御口を大きく開けて、ぱくぱく歌う。右を向いたり、左を向いたり。まるで機械仕掛けの小鳥の様だ。壮太は青史がくれたハンカチを目に当てる。なんだか高そうなブランド物っぽいハンカチだ。色はブルーで、女のハンカチみたいに花の浮彫がある。
 そこへ、ステンドグラスの色の粒が落ちて来る。色は動いている。あの時、教会で見て、だけど誰も信じてくれなかった。丁度、ステンドグラスの外側から強いライトを当てたような、具合だった。あの時の辛さを思い出すと、壮太の胸が痛む。
 ソロが終わって、皆がまた盛んに手を叩く。オーケストラとコーラスはぞろぞろと帰っていく。その代わりに、ナースの格好をした天使達が、二十匹ばかり出て来る。黒いワンピースの上に、真っ白の胸当てのあるエプロンを重ねて、白い帽子を被っている。
 皆は、壮太になにか言っているが、天使の言葉はヨーロッパのとても古い言葉で、壮太には何を言ってるのか分からない。海がやって来て、天使の言葉をふむふむと聞いてあげている。
「これはそんなに古い言葉じゃないぞ。旧約聖書のちょっと前くらいだ」
 青史が、メンソレータムをぬりぬりしてくれる天使だ、と、感動する。ほんとにいたんだ、ほんとにいたんだ、を繰り返す。壮太は、いつも青史は壮太のことを信じると言ってた癖に、そんなに感心するということは、ほんとは大して信じてなかったのかもと思った。
 博士が思い出したように質問する。
「先程、レオンさんが、そこは天使の国だから、って言っておられましたが、あれはどういう意味なんでしょうか?」
海が、前に出て、メンソレータムのナース達に話し掛けてみる。
「君達、壮太さんに何を言いたいの?」
ナース達は、海が自分達の言葉を喋っているのに、大きな御目目を更に大きくして大いに驚く。そして、御互いの肩を、ちっちゃな手で、ばんばん叩き合って笑う。代表に、ナース長の天使が一歩前へ出る。なんだ、かんだ、ぐだぐだ言っている。
「壮太さんは私達がちょっと目を離すと不摂生をするから困る、と言ってる」
へー、と皆が感心する。それから、それから、と皆が急かす。
「なんか、凄いことを言ってるぞ」
海が困っている。なに、なに? と、また皆が急かす。壮太はナース長が凄いことを言っているのだ、という事実に驚く。ナースは壮太がいつもやられていたみたいに、人差し指を立てて、それを左右に振り、駄目駄目をしている。
 海は壮太だけにこっそり通訳してあげる。未成年のいない所で。
「大人の男の子は健康的な性生活をしないと駄目駄目だって」
そう言われても壮太は、十七才の童貞と出会ってから、すっかりプレイボーイを棚に上げたし、レオンがやっと十八になったから、これからだな、と思ったところでデパートで消えちゃったから、健康的な性生活は難しい、と海に言ったら、なんと海はそのままナース長に言ってしまったらしい。
 博士がナースの真似をして、壮太に向かって指で駄目駄目をする。
「一番大事なことを聞かないと駄目ですよ。そこが天使の国だとして、壮太さんが以前、こっちで会われた天使さん達は、一体どうやってその国を出られたんでしょうか?」
壮太は、大変いい質問だな、としきりに感心する。しかし、どういう訳かナース達は全員で駄目駄目をして、空に飛び上がってしまう。海や博士や壮太やその他は、呆然とする。
 
 スクリーンには誰も映っていない。薄暗い草原が広がっているばかりだ。よく見ると、宇宙から空全体に、細かく光る物が飛んでいる。ある時はそれがほんの少しで、またある時は大群になって飛んで行く。大群になった時はその平原も真昼のように明るくなる。博士はあれは「隕石」だろう、と推測する。「隕石」という言葉に相当ロマンティックなものを感じる壮太だった。
「ほら、あれってオーロラですよね?」
高校生がスクリーンを指差す。 大きな彗星がスクリーンを横切る。なんて美しい国だ、と一同は感激する。
 そこへ、黄色のユニコーンと、シルバーのドラゴンがやって来る。皆の前で御丁寧な九十度のお辞儀をする。祐樹が可愛い可愛い、と騒ぐ。壮太は二人がデパートの袋を下げているから、あれはきっと次郎と三郎だろうと推理する。
「次郎さんと三郎さん、デパートで何買って来たの?」
二人は袋の中身を見せてくれた。青史は興味深々で身を乗り出す。買った物は意外と可愛いもので、一人はアイシャドーの五色セット、もう一人のは口紅だった。
 黄色いユニコーンが、黄金の角をふりふりしながら言った。
「デパートで可愛い御化粧をした若者に会って、どうやったのか聞いたんです」
シルバーのドラゴンも、そうそう、と、大袈裟に二度頷く。
「色の使い方がプロっぽくて、感動しました。最後に『隕石』というフェイスパウダーを使ったそうなんですけど、それは高くて買えなかったから、それはこの次」
 
「それは雅也に違いない!」
海がでかい声を上げる。
「次郎さん三郎さん、なんとかその若者をここへ連れて来てくれないか?」
次郎と三郎は顔を見合わせる。どっちかが言った。
「まだそんなに遠くへ行ってないと思うし、捜してみます」
 そこへ悪戯そうな天使が二匹、次郎と三郎の頭の後ろに飛び付いて、コインを入れる所へ、コインを入れようとする。鑑識のスタッフ全員は驚いて、全員で二匹の天使に、指で駄目駄目をする。
 二匹の天使はびっくりして、巻き毛をふりふり、翼をばたばた、空へ飛び立つ。その後で、ユニコーンとドラゴンも空を飛んで行ってしまう。
 
 三十分程、皆でじりじり待っていると、オフィスへ知らない男女が入って来る。壮太はあの一般人は誰だろう、と思う。
 画面に次郎と三郎が飛んで来る。ユニコーンの背に、見てくれのいい若者が跨っている。海が叫ぶ。
「確かに雅也ですよ!」
海は知らない一般人の夫婦に話し掛ける。
「御父さん、御母さん、雅也ですよ」
御父さんと御母さんは雅也を呼ぶ。
「雅也―!」
と、御父さん。
「雅也―!」
と、御母さん。
 雅也はかっこ良く馬を降りる。ユニコーンだけど。
「御父さん、御母さん、僕は三島に付いて行くことに決めました」
「御前はまだ高校へ入ったばかりじゃないか?」
と、御父さん。
「雅也、貴方は三島にたぶらかされただけなのよ」
壮太はそれを聞いて、御母さんはいいことを言うな、と思う。壮太も三島にたぶらかされたんだ。そして幸子さんの息子さんも。壮太は雅也に聞いた。
「三島に会えたのか?」
「まだ。皆でジムに行ったのは分かったんだけど、そこは会員じゃないと入れないんだ」
御母さんが言った。
「雅也、三島由紀夫なんて偉そうにしてたって、所詮、侍顔の若い男が好きなだけな助平なおやじなのよ」
壮太は驚いた。
「御母さん、凄いですね! 全国の、って言うか、全世界の三島ファンを愚弄してますよ」
「私に関係ないじゃない、そんなこと。雅也には自衛隊の塔に登って演説して自害、なんていう馬鹿な真似はさせません」
 壮太は、この御母さんは面白い、何者だろうか? と不思議に思う。半面、御父さんの方は影が薄く、当たり障りのないことしか言わない。御母さんは、息子に向かって、更に暴言を吐き続ける。
「三島由紀夫が守ろうとした、日本、という国は既に崩壊しているのよ。切腹から五十年も経っているのに、馬鹿ばっかり揃って、国際社会に出たって、何もできない。御母さんは君に、もっと前を向いて、視野を広くして、明日の日本を逞しく建設して欲しいの」
 壮太が御母さんに、もう少しで、貴女は一体誰なんですか? と聞く一瞬前に、緑色の目の中学生が鞄を開けて、本を出し、表紙をさっとめくって、雅也の御母さんにペンと一緒に差し出す。その時、本がきらっと光った。御母さんは、まあ、どうもありがとう、初めまして、と中学生に挨拶すると、達筆なサインをしてあげる。中学生は嬉しそうにサイン本を胸に抱く。壮太はますます混乱する。あれは一体誰だろう?
 
 遂に雅也が演説する番になった。
「御母さん、御免なさい。僕は懐古趣味と笑われようと、やはり古来の日本が好きなんだ。未来を建設するより、三島と日本の魂の為に燃え尽きたいんだ」
御母さんは冴えた回答をぶちかます。
「そんなデカダントな思想は三島が腹を切った、五十年前に終わっているのよ。なぜ他の人が既に実行して失敗した人生を真似して、後ろ向きに歩んで行きたいの?」
「御母さんには、美、というものがまるで分かってない。美学は哲学に勝るものなんだ。人生は理屈じゃないんだよ、御母さん」
壮太がうっかり口に出す。
「あ、それいいな。一理ある」
御母さんに、ぐーで殴られそうになって、壮太は逃げる。
 
 海が間に入って、御母さんと話をする。
「雅也君が帰って来たくても、帰り道が分からないんだからしょうがない」
「あの三島が、私の息子に茶々を入れる前に救出したいんです」
「ここからは何もできないからしょうがない」
「三島があの子に何かしたら、未成年誘拐で警察に行きます」
「もう、貴女は警察にいるし。亡くなった人は逮捕できないし」
海が困って、しょうがなくて、ただ意味不明に笑う。
「ああ、なんで三島なんかにあの子が洗脳されて……」
壮太は、洗脳、という強い言葉の出現に驚く。
 緑の目の中学生が、白い杖と共に立ち上がる。皆に向かって、預言者の様に手の平を翳す。
「黒いベンツの男が来る。黒いタキシードを着た」
 
 雅也の御母さんが呟く。
「あれっ、それってどっかで聞いたことある……」
中学生が鞄から一冊の本を取り出す。金色の表紙に、印象的な黒い字で『白檀と扇子』と記してある。御母さんがさっきサインしてあげていた。
 御母さんは混乱する。
「『白檀と扇子』。それは私が書いた本……。私はここへ、導かれるようにしてやって来た」
青史が驚きの声を上げる。
「それ、僕も読んだ。でも黒いベンツの男が何処に隠れているのか、どうしても分からない」
海が、御母さんに向かって言う。
「さっき雅也君の御両親をここへ呼んだのは僕ですよ」
御母さんが胸に手を当てる。
「それは違う。海さんが電話をくれた、もっと前から感じていた」
御母さんは、中学生に、優しく語り掛ける。
「貴女が私をここに呼んだのね……」
中学生は御母さんに微笑む。海は非常に混乱して、中学生に向かって言う。
「それじゃあ、雅也君がここへ来たというのも、君の魔法だったのか?」
壮太も海以上に混乱している。
「じゃあ、青史と俺が多磨霊園で雅也に会ったのも偶然じゃない、ってことか?」
 
海を中心に作戦会議が始まった。
「御母さん、貴女のストーリーにある通り、レオンは白檀の香りでいなくなってしまった。だから本の通りにすれば帰って来られる筈だ」
海は中学生から受け取った『白檀と扇子』を、手に持っている。金色の表紙に書かれた著者名は、佐野理津子。海が司会をする。皆は椅子を持って、集まって来る。
「理津子さん。貴女の原作によると、主人公の天使という名の高校生は、黒いタキシードを着て、黒いベンツに乗った謎の男に会うと、現在に戻って来る」
「そうだったかしらねえ?」
理津子の曖昧な答えに、海は驚く。書いた本人が忘れるなんて、いくらなんでもそんなことないよな、と思う。本を読んだ青史が、口を出す。
「原作でも黒いベンツの男は出て来るし、アニメにもほとんど同じ状況で現れるんだから、そだったかしらね、はないでしょう」
「だって、私、次の小説を書き始めたら、もう前に書いたのはすっかり忘れてしまうから」
壮太が呆れる。
「無責任でしょう、それって。連中が帰って来られなくなったらどう責任とるんですか? あんな話を書いて」
「私は知らない、って言うか、ほんとに知らないんですもん。どうやっていなくなって、どうやって帰ってくるとか」
中学生もやや呆れ気味だった。
「先生って意外といい加減なんだー。今はどんな小説を書いてらっしゃるんですか?」
「ああ、今ね『白檀と扇子』の後編を書いてる」
海がぐっと身を乗り出す。
「それ、いいですよ。その中にもベンツの男が出て来るんでしょう?」
「いやあ、そんな人物を書いたこと、すっかり忘れてたから」
壮太が珍しく必死に考える。
「分かった。じゃあ、黒いベンツの男を登場させて、どうやって彼等を現在に戻すか、やり方を具体的に書いてもらおう」
「でも、ストーリーは細かいところまで、編集部と打ち合わせ済みで、私の一存では変えられないんですよ」
海が更に身を乗り出す。
「じゃあ、今直ぐ編集者をここへ呼びましょう。人の命が掛かってるんだ。貴女自身の息子さんもあっちにいるんだ」
 
 皆がいつものように店屋物を食べていると、流行りっぽい大きな眼鏡を掛けた男がやって来る。話し方はややオタク系の感じ。服はカジュアルで、スーツではない。ここにいる男は、海も壮太も青史もスーツを着ていて、高校生でさえ高校の制服のブレザーとパンツだ。
 眼鏡の男は、頭は良さそうだけど、編集長と名乗られた時は、皆、ややびっくりした。出版のプロって意外と若くて普通っぽいんだな、と。
「ストーリーを変えろ、と言われても、既にアニメ化は進んでいるし、契約書もあるし、途中で変えると、とんでもない違約金を払わせられる」
高校生がカツカレーを食べている。
「最初の案より、もっと面白くすれば文句はないでしょう? そもそも前編で重要人物だったベンツの男が後編に出て来ないのはおかしい」
「だってすっかり忘れてたんだもの」
海が編集長に聞いた。
「貴方も忘れてたんですか? ベンツの男が出て来ないんだったら、主人公はどうやって前世から現世に帰って来られるんですか?」
「前世で主人公の天使は、エンジェルと呼ばれるボルゾイだったんですよ。普通に変身して戻ってくるんです」
「きっかけくらいはあるでしょう?」
「それが、その時々で色々で」
高校生がカツを頬張りながら、もごもご喋る。
「ほら、やっぱり僕達の考えたストーリーの方がずっと面白いですよ。タキシードの男がベンツに乗ってやって来て、エンジェルと接触すると、犬から人間に戻るんだ」
「あ、今、なんかちょっと思い出した。黒いタキシードって私のフェチなんですよ。私の小説には、昔からタキシードを着た男がよく出て来るんです。だからストーリーにはあんまり関係ないんですよ」
 
 海は作者の御託は無視して話を続ける。
「編集長、ここは警察庁の刑事局ですよ。ベストセラー小説やアニメがビッグなビジネスなのは分かるが、人命救出には協力してもらう」
海はきっぱり言い切る。編集長が溜息をつく。そして周りの人が色々食べているのを見て、腹が減ったと騒ぎ出す。祐樹が手を挙げて喋り出す。
「僕もう御腹一杯だから、この御握り上げる」
他の面々も残った物を編集長に差し出す。壮太は肉じゃがを少し御裾分けした。編集長はそれらの食べ物を、鑑識備え付けの電子レンジでチンをして食べ始めた。食べながらも他の面々から、なんだかんだと文句を言われる。
「文句を言われても、僕は知りませんよ。ストーリーを変えるには、アニメ会社の許可を取らないと」
 
 アニメ会社の社長が呼ばれた。その男は、もう職場から家に帰っていたのに、いきなりパトカーで迎えに来られたから、なんだかよれよれの部屋着を着ていた。ちゃんとスーツを着てれば、きっとインテリ社長っぽく見えただろう。
「ストーリーを変えても、それが理屈に合っていて、面白ければオーケーです」
作家はまたいい加減に、成程、と言う。
 壮太はやや切れ気味だった。皆、いい加減過ぎる。
「前編と同じように、黒いタキシードの男を登場させて、その男がベンツで来ると、エンジェルが高校生に戻る、とそういうしっかりした筋書きにしてください。僕の大事な人が別の世界に行っちゃったんだから、それにそれは貴方達がそんな、白檀の香りで前世に飛ぶなんていう話を創ったからなんですよ。責任を感じて、しっかり皆をこっちに連れ戻してください」
「そうそう、家の息子だってそっちに行っちゃたんだから。三島由紀夫のせいで」
 アニメ会社のインテリがそれを聞いて、意外にも三島由紀夫に飛び付く。
「三島由紀夫? いいな。三島由紀夫の幽霊が、タキシードを着てベンツに乗る、なんていうのはどうです?」
インテリは作者を無視して、編集長に相談する。壮太は、作者の立場なんて、大金が絡むと、大したことないんだな、と、ちょっと可哀そうに思った。けれども、壮太が思うに、この作者は直ぐ自分の書いたことを忘れてしまうような作家なんだから、あんまり同情するのも馬鹿馬鹿しいかも、と思った。インテリ社長はインテリらしく、さっさとストーリーを創り上げてしまった。
「三島由紀夫を崇拝する、雅也は三島の後を追って、不思議の国に行く。そこでレオンに出会う」
眼鏡の編集長は慌てる。
「主人公はどうなるんですか?」
インテリが言う。
「主人公はあっちの国では犬なんだから」
祐樹がまた手を挙げて発言する。
「犬だけじゃないよ。ユニコーンもいるし、ドラゴンもいるし、天使もいっぱいいる」
インテリ社長が感心する。
「それは面白そうだ。主人公の天使が、ある日、白檀の香りで前世に帰る。そこには本物の天使がいっぱいいて、色んなファンタジーな動物がいて、三島由紀夫の幽霊も出て来る」
 壮太は、もう、なんだか面倒臭いな、と思いながらもこう言う。
「なんでもいいから、レオンや雅也がこっちの国にしっかり帰って来られるようにしてください」
 編集長が気が弱そうに発言する。
「三島由紀夫の家族からクレームがついたらどうするんですか、幽霊なんて」
インテリが言う。
「それは我々に任せておけ。金に物を言わせる」
壮太は、アニメ屋って金持ってんだな、と感心する。意外なことに、中学生がここで発言する。
「あーあ、先生が小説書く前に、皆、他の人が決めちゃうんだ。なんかがっかり」
「そんなことないって。私が書くからいいのよ。他の人が書いたら絶対私のみたいにならない」
中学生は、ふーん、と納得してなさそうに、作家を横目で見る。
 
 食事も終わったし、再度、海を中心に集まって、討議をする。海が問題点をはっきりさせる。
「皆をここの世に戻す。目的はそれです。それだけです」
インテリが聞いた。
「そっちとかあっちとか、前世とか不思議の国とか、色々言ってますけど、ほんとにそんな国があるんですか? 天使がいっぱいいて、三島由紀夫まで」
海が偉そうにして言ってあげる。
「警察庁の威信に賭けて、あっちの国はほんとにあります。さっきの情報では、三島由紀夫は盾の会のメンバーと一緒に、会員制のジムにいるということでした」
インテリは嬉しそうだ。
「僕もアニメ畑は長いけど、こんな滅茶苦茶なストーリーは初めてだ。それなら、じゃあ、一番大事な黒いタキシードの男、こと、三島由紀夫の役柄から練ってみよう」
 この中で一番良く三島のことを知っている壮太が手を挙げる。
「三島は変な映画に出演するのが好きだったから、絶対出演許可が下りると思います。おまけに、黒いタキシードで黒いベンツに乗っているという、かっこいい役柄だったら、断りはしないと思います。でもあの人達、日本刀を振り回すのが好きだから、エンジェルの飼い主、ニコライ一世とチャンバラをさせるのもいいかと」
アニメ会社の社長は熱心に、携帯にメモっている。編集長も慌ててメモり出した。社長は、チャンバラとは、盛り上がりそうだな、と感心している。
 
 編集長が手を挙げる。
「黒いベンツなんて出てきたかなあ? 僕の書いたプロットにはそんな人いなかったけど」
中学生が、僕の書いたプロット、というくだりに反応する。全然、自分で書いてないじゃん。
壮太と青史の二人は、一緒にアニメを観たけど、黒いベンツの男が現れると、主人公が犬から高校生に戻るのは確かだ、と証言した。アニメだけじゃなくて、原作本だってそうだ。作家曰く。
「あれは私の好みの男を、こっそり書いただけで、ストーリーには関係ない筈だったけどな」
無責任だと、中学生が抗議する。そうしたら、メンバーの後ろから、か細い声が聞こえる。
「御前、ベンツの男は、実は重要人物だって言ってたじゃない?」
誰も、あの後ろに座っている男が誰だったか覚えていない。編集者とアニメの社長がその男に注目する。作家が編集長とアニメ会社に逆らってプロットを変えることは許されない。
 鑑識メンバーは、やっとそのか細い男が、作家の夫、つまり雅也の御父さんであることを思い出す。聞くところによると、御父さんは、ベストセラー作家である御母さんに、安サラリーマンを辞めさせられ、妻の秘書にさせられているらしい。
 中学生の緑の目がきらっと光る。やったー、この作家は多少は自分の書きたいことを書いているんだ。
 
 海は、プロジェクターに『白檀と扇子』のアニメを映す。頭の部分から先送りして、ベンツの男が出て来るシーンを皆で観る。前世に戻ってボルゾイという猟犬になった主人公、天使。天使は前世ではエンジェルと呼ばれている。エンジェルのご主人様は、ロシアの皇帝、ニコライ一世。
 エンジェルは、伝説と言われた純白のフォックスを捜し出し、その首に食らい付く。しかし、獲物に逃げられてしまう。フォックスは鉄でできた大きな機械の中へ飛び乗る。車輪が四つ付いた変な黒い物。真っ黒な変なシルエットの服を着た男が、見たことのない黒光りする銃で、エンジェルの額を狙っている。エンジェルはその場に立ち尽くす。
 車輪の四つ付いた変な大きな物は、車だった。黒い服の運転手は、フォックスが飛び乗った後部席のドアを閉め、自分も黒いベンツに乗って、轟音を立てながら、ドイツのアウトバーンを東へ進む。
 次のシーンに進むと、主人公の天使が、もう高校生に戻っている。海がアニメを止める。
「そこで一気にベンツの男とフォックスはロシアからドイツへ飛ぶんです。そして主人公は高校に飛ぶ」
 
作者、佐野理津子が、それまでの部分を朗読することになった。鑑識メンバーは一言も漏らすまいと、集中して聞いている。きっと手掛かりが見付かる。全員はそう願った。
 
 
『白檀と扇子』
 
(前略)
 
 僕は群れを離れた。真っ白なフォックスを見たい。できれば仕留めたい。白いフォックスは普通、もっともっと北に住んでいる。見た人によると、それは生物としてあり得ない程、白い光線を発し、空を飛ぶように駆ける。
 兄さん達に止められたけど、僕は全速力で群れを離れた。身体は僕が一番小さい。でも白いフォックスを手に入れたい、という情熱は三十頭余りいるボルゾイの誰にも劣らない。馬に跨った貴族達。惚れ込むような勇姿のご主人様、ニコライ一世。僕は絶対みんなを落胆させない、と誓う。
 
(中略)
 
 フォックスはなかなか見付からなかった。林は深い森に変わった。陽が半分地平線に落ちかかった時、風向きが変わって、匂いが強くなった。僕は湖の側に白いものを見た。ぴかぴかに光っているくらい白いもの。周りの木々や、空気まで反射して白く見える。僕の小さい身体がこういう時に役に立つ。上手く隠れることができる。得意の匍匐前進で白く輝くものに迫って行った。
 湖に浮かぶ、灰色のうるさい水鳥達の声で、白いものには僕の進む音は聞こえない。僕は至近距離まで近付く。フォックスは落ち葉のベッドの中で、優雅な姿で毛繕いをしている。水鳥が先に僕に気付いて、一斉に湖から飛び立つ。伝説の白いフォックス。僕達は目を合わせた。サファイアの瞳。湖よりも深い青色。
 僕は正確に、狙ったフォックスの首に食らい付いた。兄さん達が言っていた。傷付いた獲物は勝利者に凌辱され、毛皮に傷の付かないように、腹を裂かれて死に絶える。白い首から二筋の血が流れている。白いフォックスは駆け出した。僕は懸命に後を追う。真剣勝負だ。今日は確かに僕が勝つんだ!
 
 もう少しで身体に飛びかかれるその時、銃声が聞こえた。猟銃じゃない、もっと鋭い音。今まで聞いたことのない音だった。弾は僕に向かって発射された。見たことのない黒く光る銃が僕の額を狙っている。僕は後ずさりし、フォックスは男の影に隠れた。サファイアの瞳だけは、まだ僕を見詰めている。男は見たことのない四角いシルエットの奇妙な服を着ている。その服は真っ黒で、同じくらい黒い幅広のネクタイをしている。
 そこは森の外れで、そこからは広い平原になっている。黒く光る大きな金属。変な機械みたいなものが置いてある。それには車輪が四つ付いている。男は僕に銃口を向けたまま、ドアを開ける。フォックスが中に飛び込む。男も中に入って、その金属の車は急発進した。砂煙を上げて、動物や鳥達を蹴散らかして行く。辺りは騒然とする。車は直ぐに見えなくなった。最後に、フォックスは、車の窓から僕に好奇の目を向けた。……僕はあの青い目を絶対に忘れない。
 
 
「姫、傷は痛みますか?」
 白いフォックスは、ベンツの後部座席に横たわっていた。大型のセダンは走りが滑らかで、傷の痛みはほとんど感じなかった。ドイツのアウトバーンを時速三百キロで西に走る。道路の整備も十分だから、なおさら振動が少なかった。
 大量の凍った煙が、横たわったフォックスの身体を包み、一瞬その姿が消えた。空中に散った煙が下りてきて、肌の白い少女の姿に変化する。凝った柄織の真っ白な着物に、黒い帯をきつく絞めている。袖は着物の丈と同じくらい長い。
「……あのチビのボルゾイ、しぶとかった」
「姫に噛み付くなんて、とんでもないことです」
男は大柄で目付きが鋭く、ダークなスーツを着ている。助手席には黒光りするピストルが転がっている。
 少女は白いレースのハンカチで、首から流れる血をぬぐった。傷は浅く、血は直ぐに止まった。赤く染まったハンカチを広げた。こんな失態は初めてだった。悔し涙が溢れて、上気した美しい顔に流れ落ちた。
 
(中略)
 
 遠くの窓辺に、髪に白いリボンをした女が座っている。肩肘をついて、本を読んでいる。僕に背を向けているから、顔は見えない。あんな大きなリボン、着物でも着た方が似合うな。薄暗い部屋に、そこだけ白く凍っているみたいだ。
 
 まだ部屋に入る前に、廊下で僕よりもずっと背の高い男、二人に道を阻まれる。
「どっから来たの? 子羊ちゃん」
そいつは、かがんで僕の顔を覗き込む。髪が校則ぎりぎりまで長い。耳の下と肩の中間くらい。僕は上目遣いでそいつを睨む。夕べのボルゾイは勇敢だった。僕だってこんな奴等に負けはしない。
 もう一人は、体格のいい男。見たことがある。ラグビー部で、成績がいつも二位の男。こいつは絶対一位になれない。僕の兄ちゃんがいつもトップだから。
「坊や、可愛いね。何しに来たの?」
ラグビー部は、髪がくしゃくしゃになる程、僕の頭を搔き回す。今朝、遅刻寸前までかかって創り上げた僕の髪の毛を……。
 
 馬鹿にされている。僕は確かに未熟児で、長いこと病院の保育器にいて、ミルクも上手に飲めなかったけど、それに、誰もこんな立派に育つと思ってなかったけど、今は誰よりも強いんだ。僕は勇敢な猟犬なんだ。
 僕が先に手を出した。取り敢えず、長髪を壁に突き飛ばした。ラグビー部が両手を挙げて、降参の意を表した。僕が油断した不意を突いて、ラグビー部が僕のみぞおちに一発食らわす。痛くて床にかがみ込みたくなるのを抑えて、僕はラグビー部を蹴って、同時に長髪の顔にパンチを食らわす。それから僕はラグビー部の腕に噛み付いた。奴が払おうとしても、僕は必死で食い付いた。絶対に離さない!
 
「何してんの、お前、ここで?」
聞き慣れた呑気な声。兄ちゃんの声。僕はその声でまた油断して、噛み付くのを緩めた。ラグビー部は僕を引き剝がして、僕の顎にアッパーカットを食らわす。目の奥で、北斗七星がちらちら輝く。僕の身体はすっ飛んだ。同時に持っていた弁当箱が、遥か彼方に飛び上がった……。
「ナイスキャッチ!」
また、兄ちゃんの呑気な声。さっき、すっ飛んだ弁当箱を抱えている。
「兄ちゃん、もう弁当忘れんなよ! もうやだ、俺こんなとこに来んの」
いつの間にかギャラリーができている。女どもがきゃーきゃーうるさい。後ろから「可愛い!」って言う声が幾つか聞こえる。僕はそっちの方を、最強の目付きで睨む。僕は可愛くなんかない。もう立派に育った勇敢な猟犬なんだ。
 
 
 睨んだ先に、白いリボンの動くのが見える。その人は読んでいた本を持ったまま、優雅に立ち上がり、僕達の方角へ歩いて来る。
 ラグビー部が袖をまくって、僕の噛み痕を見せている。僕の牙の痕が赤く、くっきり残っている。二筋の血がゆっくり流れている。僕はざまあみろ、と、ほくそ笑む。兄ちゃんがラグビー部に拝んでいる。
「許してやってくれ。俺の弟、時々変になるんだ。なんでか知らないけど、前世は猟犬で、狐狩りしてたって信じてて……」
「こっちだって悪かったし、許さないわけでもないけど、でも、これ人間の牙じゃないぞ。服の上からこんなにぐっさり」
 白いリボンの女子は、肌もやっぱり白い。僕の直ぐ側まで来る。古風な白檀の香りがする。おばあちゃんの扇子の匂い。着物をしまって置く部屋の匂い。彼女の存在感に眩暈がしそうだ。
 彼女が白い手で長い髪を後ろへやると、首に治りかかった、赤い牙の痕が見えた。それはラグビー部の腕と同じ噛み痕。同じ大きさの穴、同じ間隔の。僕達は目を合わせた。彼女の目は、濃い茶色から、一瞬だけ、サファイアの目になった。青い湖よりもっと深い青。
 僕は彼女の本に目を落とした。……ツルゲーネフの『初恋』。僕も読んだことがある。辛い初恋を知った主人公は、衝撃的なラストシーンで一気に大人へと変身する。
 
(中略)
 
 説教の後、いつもより遅くなって校門を出た。学校を出ると、そこは直ぐ車の通る広い道になっている。道路を渡った向こうに、漆黒の大型ベンツがとまっている。僕は道を渡り切って、ベンツを見ようとして近付いた。
 黒いスーツで、それよりもっと黒いネクタイをした、見覚えのある男が、車に寄り掛かって足を組んでいる。僕は彼のピストルの音を思い出した。男は腕を組んで、自分の足元を見ている。僕のことには関心を持っていない。
 白いリボンの女子が道を渡ってベンツに向かう。彼女も僕のことには関心を持っていない。手提げ鞄と、それとは別に、『初恋』を持っている。運転手は後部座席のドアを開け、彼女は制服の短いスカートを気にしながらシートに座る。ドアが閉まって、彼女は、車の窓から僕に好奇の目を向けた。その目は青かった。サファイアの。
 
 黒いベンツで走り去る。どこかで見た、同じシーン。でもどこかが違う。僕は帰り道ずっと考えて、ハンドルの位置が逆なんだ、と気が付いた。あれはどこかの異国。
 
(続く)
 
 
 これで、小説の冒頭の部分は終わりだ。読み終えた理津子に拍手が贈られる。中学生が感想を述べる。
「やっぱり素敵です。他人がプロットを書いたとしても、理津子さんでなければ書けない作品だと思いました」
 他人がプロットを書いた、という所で、作者と編集長とアニメ会社の社長の心臓が罪悪感で、どきっと鳴る。
 皆はベンツに乗った黒いタキシードの男について討論を始める。しかし、男の正体に迫るような記述は作中にない。主人公の天使は二度、そのミステリアスな男と遭遇している。一度目は前世で、二度目は現世で。
 海が言う。
「白いフォックスは、ベンツの男に、姫、と呼ばれている。姫、とはどういう人物なのだろうか? 深い意味があるのではないか、と私は思う」
編集長がそれに答える。
「え? それだけですよ。姫、は前世で白いフォックスで、現世では高校生で。それだけ」
それを聞いてスタッフはやや白けムードに陥る。高校生が発言する。
「アニメ観たけど、絵が奇麗だから騙されちゃうんだよな。実はストーリーに深みがないんだ」
小説家、理津子が答える。
「私、よく覚えてないのよね。ほんとに」
壮太が呆れた顔で言う。
「そんな情けないこと言わないで、俺達を救ってくださいよ。どうしたらあっちの国の連中が、こっちの国へ帰って来られるのか。三島が雅也君に茶々を入れる前に」
「茶々ねえ。そうなのよねえ。前のことは忘れちゃうのよね。新作で頭がいっぱいで」
 海がちょっと休憩を皆にアナウンスする。壮太がふと見ると、祐樹は御客さん用のソファにごろりと横になって、御姉さんの膝枕で、すやすや寝ている。可哀そうだな。でも祐樹の協力も大事だから、休憩が終わったら起こさないと。
 休憩が終わると、海が提案する。
「あの後、ベンツの男が活躍する部分があるから、そこを読んでもらうから、よく聞いて、意見を言ってもらいたい。主人公の天使は、白いフォックスこと白いリボンの女子生徒に、大事なおばあちゃんの白檀の扇子を盗られて、凶暴になるシーン。それでは……」
 
 
『白檀と扇子』
 
(続き)
 
 天使は手と足を床につけて、扇子を握っているその人のその手首に、噛み付いた。払われても絶対離さなかった。野生の鋭い正確さで、血管を食い千切った。天使はその人が落とした彼の思い出の扇子を拾った。……血は付いていなかった。聖夜が教室から飛び出して来て、床にへたり込んで、怒りでぶるぶる震えている、野生の身体を抱いてくれた。温かい兄ちゃんの身体。
 救急車の音がして、それがだんだん大きくなった。三人の、青い服を着ている人達が廊下を走って来る。象牙色のリノリウムに流れる大量の血液。その人は毅然と立ち尽くし、天使を見下ろしている。黒い髪。白いリボン。手首から血を流している。短い制服のスカートからしなやかな足の伸びる。
 今度は逃がさない。天使が立ち上がった。血が沸き立つ。ニコライ一世に捧げるために。天使は唸り声を上げて、フォックスに飛び掛かっていく。女子達が悲鳴を上げる。いつか天使が腕に噛み付いた、ラグビー部が、大きな身体で、白いフォックスとボルゾイの間に分け入る。
 
 天使の興奮はなかなか収まらなかった。あの時のように、急所にかぶりついて息の根を止めたかった。それだけを考えていた。
「そっちの子は大丈夫か?」
救急隊員が兄に聞いた。
「口からこんなに血が出てる……」
隊員が天使の口を開ける。口から獲物の血が垂れている。血の絡まった、四本の真っ白な牙が光る。上と下の。
 天使は、隊員を見て低く唸った。
「この子、なに? これは人間じゃない!」
隊員は天使を抱いている聖夜を見た。
「……弟です。僕の」
天使の手には、おばあちゃんの扇子があった。手に爪の痕が付くくらい、きつく握られていた。
 
「あの音はなんだ?」
「風が強くて、木が窓を叩くんです」
「あの木を切って来い。癇に障る」
「姫、それは無理です」
「ここは何階だ?」
「三階です」 
白いリボンの女子は、人形のように足を投げ出して座っている。大木に掻き回された、途切れ途切れの月光が、影絵となって部屋に落ちる。上気した白い肌と、長い黒髪が余計彼女を人形に見せている。人形の手首に包帯がある。
「どうしてあのボルゾイが私の扇子を持ってる?」
「姫、今は何も考えずに……」
黒いベンツの運転手が辺りを伺う。ベッドを囲む白いカーテンを閉じる。彼の携帯が鳴る。
「……縫合は上手くいきました。直ちにここを離れます」
 カーテンを開ける。凍った煙の中から白いフォックスが現れ、彼を見上げる。サファイアの瞳。前足に包帯をしている。運転手は彼女を毛布に包み、病室を去る。
 運転手が胸に抱くものから、静かに光が放射されている。彼は誰にも見られないように、それを腕の中に隠して進む。
 
(続く)
 
 
 今度は、作者に対する拍手はなかった。そんなことより、直ぐに討論に入った。壮太が興奮気味に言う。
「ベンツの男には仲間がいるんだな!」
そして、理津子と編集長とアニメ会社の社長を鋭く見据える。編集長がおずおず答える。
「でも、ベンツの男なんて、僕のプロットには最初からないから」
アニメ会社の社長もおずおず答える。
「我々は原作にあるから、一応、そのまま入れたんですけど」
「なんだか情けないな」
という声がして、皆が振り向いたら、それは祐樹だった。祐樹は続けた。五才とは、とても思えない発言だった。
「自分達の作品に対する思い入れがない。プラス、作品創りがオートメーション化して、どんどん詰まらなくなっている」
作品を創った、大人三人は、三人共、五才児に、すみませんと謝る。
 
 
 警察庁刑事局鑑識課に、十五人くらいの人間がどやどや入って来る。一人の年かさの男が叫ぶ。
「海、君達の助けがいる!」
全身が血で染まっている男がいる。その男は青い制服を着ている。先程の救急隊員と同じ制服。年かさの男が話を続けた。
「品川の高校で生徒同士の喧嘩があって、男子が女子の手に嚙みついて大怪我を負わせた。その際に、救急隊員が見たそうなんです……」
救急隊員が説明を始める。
「僕達が学校へ駆け付けると、男子生徒が床に四つん這いになって、口から沢山血を流して。それは女生徒の血なんです。女子は手首の動脈を噛み切られていた。男子は凄く興奮していて、唸って僕に威嚇して。そして口の中を開けたら、狼にそっくりな、大きな牙が上下四本あったんです。あれは人間じゃない!」
海が年かさに聞く。
「その牙のある子、今、どうしてる?」
「俺達もどうしていいか分からないから、精神科の鍵のかかる病室に入れてある。家族が一緒で、かなり落ち着いてきた」
「牙はどうなった?」
「不思議なんだ。牙はもうなくて、普通の人間の歯に戻っている」
救急隊員が言う。
「僕の仲間が牙の写真を撮っていて、ほら……」
海と壮太が彼の携帯を覗く。牙だ。血に濡れて。人間の歯じゃない。こんなに長くて尖って、鉤状にカーブしている。海が年かさに聞く。
「女子の方は?」
「病院に搬送して、手首の血管を縫い合わせて。手術は成功したんだが、病院の者が知らないうちにいなくなってしまった」
壮太が叫んだ。
「いなくなった!」
年かさが言う。
「そうです。どこにもいない。あんな大怪我をして……。でも見た人がいるんです。黒いタキシードを着た男が病室にいるのを」
 
 海がオフィス中に響き渡る声で怒鳴る。
「その男が我々がずっと追っている、重要参考人だ!」
濃いハーフ顔の海が、ドラマティックに事件の進展を知らせた。祐樹がソファの上でばんばんジャンプして、凄い、凄い、を繰り返す。
海が年かさに聞く。
「そのタキシードの男は何処にいるんですか?」
「いなくなったのだから、俺達には分からない」
さっき、どやどや入って来た十五人くらいの人間の中に、女性が数人いる。その女性の一人が説明をする。
「病院の隠しカメラを分析中です。直ぐにでも結果が来る筈です」
そう言った矢先に彼女の携帯が鳴る。送られて来た写真を、恵美香がプロジェクターに映す。
 壮太が泣き叫ぶ。
「早くこの男を捜さないと!」
青史が言う。
「でも、どうやって?」
海が言う。
「この写真を全国にばら撒こう。指名手配だ!」
年かさが口をはさむ。
「だけど一体全体、何の容疑で?」
「それは、君達の仕事だ。何でもいいからでっち上げろ。こっちは大勢の人命がかかってるんだ。人じゃないのも一杯いるけど」
 恵美香は牙の写真もプロジェクターに映す。
その牙を見た高校生が、わー、結構きてるな、と言いながら、血まみれの救急隊員の側に行き、彼の手に付いた匂いを嗅ぐ。
「あ、これは犬の匂いだ。大型犬。洋犬。日本には余りいない、珍しい犬種です。それからこの血の匂いはフォックス……。白い狐です。ホッキョクギツネと言います。これも日本にはいない、とても寒い地方に住んでる。絶滅危惧種。北極地帯。グリーンランド、ロシア、アラスカ……」
年かさが呟く。
「なんで日本にはいない筈の犬とフォックスが……」
 祐樹が、また凄い、凄い、と言いながら、ソファの上でジャンプを繰り返す。実験室から博士が出て来て、救急隊員の制服から、血のサンプルを採取する。
 
 恵美香が海に言う。
「あの男を呼ばないと」
「ああ、あの男か」
恵美香があの男に電話する。スピーカーにして皆で聞く。
「駄目だって、今、バケーション中で、御取込み中なんだから」
海が騒ぐ。
「人命と人じゃないのの命が一杯かかっているんだ!」
「行ったら何くれる?」
「大勢の命が助かって、皆が君に感謝する」
「ちょっとそれ、弱いなー」
「馬鹿野郎! 何が欲しいんだ?」
「バケーションの延長と、お小遣い」
恵美香が電話を変わる。
「伊織、何処にいるの?」
「高輪プリンス」
「何してんの、そんなとこで?」
「僕のいい人と、御食事」
「そのいい人と、話させて」
すると、そのいい人は男性だった。彼が電話に出る。
「伊織、かなり酔ってますよ。使い物になるんでしょうか?」
いい人は、割と真面目っぽい。
「申し訳ないんだけど、伊織とこっちに来てもらえませんか? 本物の警察庁の本物の刑事局なんて、映画みたいでしょ。いい話の種にしてください」
いい人は、話の分かる人と見えて、直ぐこちらへ来ると言う。
 
 伊織という男は、派手な着物の柄みたいに凝った色合いの赤いロングドレスを着ている。彼のいい人は、品のいいベージュのスーツに、紫とラズベリーレッドのストライプのネクタイを締めている。伊織はすっかり出来上がっている。伊織の化粧はいい線いっているけど、出来上がっているから、やや崩れている。
 伊織がオフィスに入ると、祐樹が走って来て、彼にジャンプする。伊織は祐樹を持ち上げて、ぐるぐる回ってあげる。祐樹はきゃー、きゃー、叫んで嬉しそう。
 海が伊織に病院の隠しカメラに映る、ベンツの男の映像を見せる。伊織は派手な爪に貼ったラインストーンをいじりながら、ちょっと不貞腐れて映像を横目で見る。
 恵美香が壮太に説明してくれる。
「伊織はスーパーレコグナイザー。人の顔を一度見たら絶対忘れないの。伊織は、世界のスーパーレコグナイザーの中でも高い能力を持っている。数万人の顔を記憶できる。コンピューターの顔認識システムにはできないことが色々できる。伊織は正面の顔から、横顔の予想ができる。コンピューターには絶対できない」
 伊織は、ベンツの男の映像に震え上がった。
「いやだ、なに、この動画?」
伊織のいい人が、後ろから伊織の肩を抱いてあげる。
「これ誰? この人、人間じゃない!」
伊織は椅子に崩れ落ちて、机に突っ伏した。いい人が、彼の背中を抱いている。
 壮太も怖くなって、背中に冷たい物が走るような気がした。海が難しい顔をしながら、もう一度ベンツの男の映像を目で追う。そして、伊織に尋ねる。
「人間じゃなかったら、一体、何なんだ?」
「知らない……、怖い」
「動物か、怪物か、幽霊か、ロボットか?」
伊織は震えが止まらなくて、返事ができる状態ではない。海は伊織に怒鳴る。
「俺の質問に答えろ!」
 一同は、海の怒鳴り声が、常軌を逸していると思う。伊織が可哀そうだ。海の怒鳴り声が続く。
「お前はスーパーレコグナイザーとして生まれたんだ! それで世界を救えるんだ! 他には何の役にも立たない御前が!」
恵美香が反論する。
「海、それは酷いわ。確かに伊織は余り役には立たないかもだけど、スーパーレコグナイザーであることだけが彼の能力じゃないわ」
なんだかあんまり助けになってないな、と壮太は思う。伊織のいい人が立ち上がる。
「伊織は僕の人生にとって、大事な人ですから。僕にとっては最高の人ですから」
海が少し声のトーンを下げるが、まだ怒りを抑えられない様子だ。同じ質問を繰り返す。
「動物か、怪物か、幽霊か、ロボットか?」
伊織に反応はない。
 
海がキッチンに消えた。皆の目が、海の姿を追う。海はバケツを持って来て、水を伊織に浴びせる。
「俺の質問に答えろ!」
祐樹を抱いた博士が海に近付く。祐樹が伊織、可愛そう、と言って泣き顔になる。やり過ぎだぞ、と壮太が言う。海がこう答える。
「俺達には使命があるんだぞ。エスパーに生まれたからには、世界平和に役立つように」
 伊織の化粧は、すっかり台無しで、肩まである髪の先から雫が落ちる。世界平和という言葉に反応したのだろう、と壮太は感じた。伊織は果敢に顔を上げて、もう一度ベンツの男を観る。
「ロボットじゃない。とても昔の国から来た者。ルネッサンスより、バロックより、ずっと昔の」
いい人がタオルを捜して来る。海は伊織に優しくしようと努力している。しかし、拳にした両手が、まだ怒りに震えている。
「そんな昔の人間が、そこ等を歩いているということは、幽霊か?」
「死んだ人じゃない」
「じゃあ、なんだ、神か?」
「近いかも知れない」
今度は伊織が自発的に立ち上がり、スクリーンに映る男の顔に触れる。
「……不老不死の一族」
海が尋ねる。
「不老不死とはなんだ。そんな者がこの世にいるのか?」
「だから、この世の者じゃない」
「どうしてそんなことを言えるんだ?」
「その顔、色んな遺伝子が混ざっているけど、バロックよりずっと、ずっと、前に滅びた民族の血がいくつか入ってる」
 佐野恵津子が青褪めた顔で提案する。
「黒いベンツの男は、姫に仕える者だから、白いリボンの女生徒を捜すといい」
壮太は混乱する。
「捜すって、どう探すんですか?」
 チームのメンバー皆で暫く、ブレインストーミングをした。
壮太が質問する。
「病院の防犯カメラに女生徒は映っていないんですか?」
年かさの警部がそれに答える。
「手術室や病室には防犯カメラはない。あるとしたら廊下か玄関付近だ」
海が続きを言う。
「廊下では、黒いベンツの男が白いフォックスを抱えて、フォックスは男の腕の中で、カメラには映ってない」
高校生が発言する。
「アニメを観れば分かるんじゃないです? ベンツの男が出て来るシーンは二つ。フォックスが主人公のボルゾイに首を噛みつかれて、ベンツの男に助けられシーン。それからまた、フォックスが主人公に手首を噛まれて、病室にいるシーン」
年かさは不思議に思う。
「でも、君が言っているのはアニメでしょう? 現実じゃない」
海が高校生の肩を持つ。
「今回の一連の事件は、そのアニメ『白檀と扇子』をベースに起こっているんだ」
 
 鑑識グループは、高校に問い合わせたが、怪我をした女生徒は転校して来たばかりで、写真などの資料も無く、保護者とも連絡が取れない。しかし運よく、女子高校生の手術をした医者が捕まった。パトカーをタクシー代わりにして搬送されて来た。夜勤続きでもう限界、と文句を言いながらも、捜査に非常に貢献してくれた。
「印象的な子でしたよ。初めてぱっと見た時、その子の顔から暫く目が離せないような……。だから、顔ははっきり覚えてます」
 伊織がコンピューターを使って、医者の言う通りに少女の顔を実現していく。医者は、斜めの顔や、横顔まで覚えていてくれた。医者が伊織の作品を見て驚いた。
「これは私の覚えてる顔とかなり近いです! ほとんど同じくらい」
 最初に目に付くのは、人を見据えるような強い目付き。日本人離れした大きな目と彫りの深い、鼻、頬骨、顎の形。横顔で見た時の、女らしい額のカーブ。確かに印象的だ。この顔を見たら、誰でも忘れないだろう。
 伊織が呟いた。
「……この顔も、人間じゃない。古代に滅びた人種の顔」
海が聞いた。
「古代ってどのくらい前だ?」
「旧約聖書の書かれた頃、だと思う」
壮太が興奮気味に言う。
「俺の天使達と同じだ。海と話ができたんだ。旧約聖書の書かれた頃の言語」
 年かさが皆に聞く。
「どうなってるんだ、この事件は?」
海が答える。
「『白檀と扇子』というアニメにそっくりな事件が、現実に起きているんです。白檀の香りで異次元へ飛ぶ主人公。それと同じことが現実に起きた。我々は異次元への通路を発見した。しかし、異次元へ人を送ることはできたけど、向こうへ行った人を、現世に戻す手立てが見付からない」
伊織が発言する。
「その、アニメの女生徒を描いた人を呼んでください」
アニメ会社の社長が笑う。
「何を言ってるんだ。あれは単なる想像だぞ。僕とアニメ作家が相談して決めた顔なんだ」
それでも伊織は主張する。
「誰かが、あの顔をああいう風に描かせたんだ。描いた人に会って聞いてみたい。きっとその人の心の中に、現実の人間のモデルがいる筈なんです。全く知らない顔をクリエイトするのは難しいと思う」
 
 運よく、アニメ『白檀と扇子』のキャラクターデザイナーが捕まった。また、パトカーをタクシー代わりにして搬送した。
「僕の好きな顔があって、ナスターシャ・キンスキーという女優さんなんですけど」
伊織が考えた通り、デザイナーには実際のモデルがいた。
「ナスターシャ・キンスキーは一九八〇年代に人気のあった女優で、有名なクラウス・キンスキーという俳優の娘です」
デザイナーは一番好きだ、という写真を見せてくれた。恵美香が画像をプロジェクターに映す。デザイナーが嬉しそうに話す。
「父親に抱かれてる彼女。まるで御人形を抱いてるみたいでしょう?」
女優が幼い頃の写真。娘だけじゃなくて、俳優の父親も印象的な顔をしている。この世に一つしかない個性的な顔。
「まだ新人だった彼女は『テス』というタイトルの映画で日本でも知られるようになったんです」
 伊織は、何でもいいからもっと情報をくれ、と皆に頼む。海は『テス』を観たと言う。女優は透き通るような美少女だったと語る。青史は彼女の『パリ、テキサス』という映画を観た。深いテーマのあるストーリーだったと語る。
「この写真は、一九九三年のドイツ映画です。ラファエラという名の天使の役です」
壮太が叫ぶ。
「え、天使?」
「そうです。天使です。有名なヴィム・ヴェンダースという監督が撮った映画です」
伊織がナスターシャの顔をコンピューターで分析している。
「ラファエラは大天使ラファエルの女性名ね。イメージが浮かぶわ」
伊織と、医者と、キャラクター・デザイナーの三人で、遂に女生徒の顔を作り上げた。
 海が皆に言う。
「これで彼女を指名手配できるな。それから伊織、明日、近くの高校を回るぞ」
伊織が驚く。
「え、なんで?」
「アニメにあるだろ? 女生徒は流血事件のあと、他校へ転校してるんだ。だけど、そんなに遠くへは行かない筈だ」 
 海は、年かさの刑事が率いる刑事局の面々に、女生徒を見付けた時には気を付けろ、彼女はフォックスに変身して逃げる可能性がある、と忠告する。
 
 壮太は、青史にタクシーに放り込まれた。銀座の街で降ろされた。青史のマンションは勤め先のデパートの裏だ。ワンフロア全体を使った、高級ホテルのスイートみたいなインテリアだった。
 疲れ切った壮太に青史はマッサージをしてあげて、首と肩にメンソレータムをぬりぬりしてあげた。レオンの携帯を離さない壮太。青史は、壮太がすっかり寝てしまってから、そっと手の中の携帯を外して上げた。レオンと天使達の映像が記憶された携帯。
 目が覚めた時、壮太は、自分が贅沢な部屋にいるので驚いた。青史が隣で寝ている。レオンに出会うまで、プレイボーイとして名を馳せていた壮太は、隣に若い男が寝てることに対して、よこしまな感情を抱いたけど止めて、側にあった携帯に記録されたレオンと天使達におはよう、を言った。
 壮太と青史に、恵美香から連絡が入った。白いフォックスが捕らえられた! 海と伊織は捜査員を従えて、付近の高校を捜していた。三つ目の高校で伊織が彼女を発見した。女生徒は髪を短く切って、別人のようだった。しかし、伊織の目は誤魔化せなかった。朝礼で校庭に集まった生徒の中の一人だった。
 海と伊織は演壇の陰から目を光らせていた。女生徒は動物的な勘で危険を察知した。何気なくその場を去ろうとした彼女を、伊織は見逃さなかった。
 海の予測通り、女生徒は真っ白なフォックスに姿を変えた。一時間以上も逃げ惑った末、学校のプールに飛び込んだ。捜査員達は、行き場のない水の中のフォックスをじりじり追い詰めていった。捕まった後も、悪あがきの大暴れをし、捜査員達に散々噛みついた後、ようやく用意してあった檻の中に押し込まれた。
 
 海の鑑識チームが集まって、作戦会議を開いた。緑の目の中学生が提案する。
「フォックスをおとりに使えば、ベンツの男は絶対やって来る」
高校生が言った。
「僕は人間ではない、異質な生物の匂いなら、相当遠くから特定できる」
恵美香も言った。
「人間には有り得ない肌の色は、遠くからでも分かる」
伊織も言った。
「あの男の顔は遠くからでも認識できる」
壮太が聞いた。
「おとりにするって、じゃあ、どうやって?」
中学生が言った。
「フォックスの檻を、人々から見える所に置いて、作戦に気付かれる前に捕まえる」
博士が久し振りに、実験室から出て来る。
「捕まえて、それからどうする? 相手は人間じゃないんだぞ。どんな手段にでるか」 
年かさの警部も来ていた。
「捕まえて吐かせるより、泳がせてあっちの国へ行かせて、帰り道を突き止める」
海が言う。
「それは相当難しいぞ。一体、誰をあっちの国に行かせるんだ?」
 
 海と恵美香は壮太を連れて、フォックスに大怪我をさせた男子高校生に会いに行った。壮太は驚いた。そこは壮太が首の痛みのため入院する、噴水のある病院だった。大きな総合病院だ。非番の天使達が天使の輪を浮き輪にして、ばちゃばちゃ遊んでいた、思い出の噴水だった。壮太が銀座のデパートから飛び降りようとした時、捕まえられてぶち込まれたのもこの精神科だ。
 壮太達はまず、母親と兄に話を聞いた。アニメ『白檀と扇子』に出演していた母親と優等生の兄だ。三人は現実の彼等を見て不思議な気持ちになった。兄が言うには、本人は消えた人達を助けたい、知ってることは何でも話す、と言っているらしい。
「弟に、フォックスが捕まったことは内緒にしてください。きっと興奮して不味いことになる」
 海と恵美香、壮太の三人は、兄の後に付いて病室に行った。屈強な警備員が、病室の鍵を開けた。天使という名の高校生は、ベッドに横になっていた。寝ているかに見えたが、兄の呼ぶ声に直ぐ反応した。海が自分と恵美香と壮太のことを紹介した。壮太が優しく声を掛けた。
「僕は、レオンと天使達がいなくなった時、すぐ側にいました。ペリー・エリスの360という白檀の香りのフレグランスを嗅いで」
「あれねー。僕はあれを嗅ぐと牙が生えちゃって」
海が、ゆっくり、優しく聞く。
「君が、白檀の香りで、前世に飛ぶってほんと?」
「ちょっと嗅ぐと牙が生えるだけだけど、もっと嗅ぐと飛べる確率は高いです」
恵美香が聞く。
「君は前世で何を見たの? そこには君みたいな現代人はいるの?」
「僕はね。猟犬のボルゾイだった。現代人の格好してるのは、ベンツに乗った黒い服の男だけでした」
恵美香には、もっと大事な質問があった。
「君は、また前世に行ってみたい?」
「微妙かな。でも僕は白いフォックスを捕まえて、ニコライ一世に捧げたい」
「前世に戻ったとして、どうやってこっちの世界に帰って来られるの?」
「ニコライ一世にエンジェルという名前を貰った時、御前はこの世とあの世を結ぶ者だ、って言われた。だからあっちに行ったり、こっちに来たりは、普通にできると思う」
「君の言う、前世に、私達の捜している消えた人がいると思う?」
「僕ね、兄からちょっとずつその話聞いて思ったけど、白檀で飛んだんなら、同じ所へ行ったんだと思う」
天使は、少しの間考えてから、こう言った。
「僕ね、あっちの国に行ったら、飼われている猟犬だから、皇帝の御主人様に御願いしたら、多分捜しに行けると思う。猟犬だから鼻もいいし。本物の天使達とかユニコーンとかドラゴンとかがいて、デパートもあるんですよね? 面白そう」
恵美香がストレートに聞いた。
「レオンと雅也の二人を、現世に連れ帰って欲しいの。できるかな?」
海が聞いた。
「黒いタキシードを着て、黒いベンツに乗った男だけど、彼が前世から現世に帰るために何かの役目をしてると思う?」
「兄に、警察の人達がベンツの男を捜してるって聞いて、今朝からずっと考えてたんだけど、あれはね、あの男じゃないと思う。あれはね、ベンツですよ。フォックスと男は、車に乗って全速力で走って、現世に戻って行ったから」
 
 海、恵美香、壮太の三人は病室を出て、外の噴水の縁に腰を下ろした。細かい水飛沫が飛んで、小さい虹になっている。海が言う。
「ベンツの男が関係ないとしても、奴が見付かったら、念の為にレオンと雅也が無事帰って来るまで、フォックスと一緒に拘留しよう」
壮太が聞いた。
「フォックスをおとりにするって、どうやるんですか?」
「大々的にメディアに流すんだ。東京のど真ん中で、絶滅危惧種の真っ白で美しいホッキョクギツネが見付かったって」
壮太がまた聞いた。
「その男、テレビ持ってるんですかね?」
「あっちも必死で探している筈だ。ネットのニュースにも流そう」
 
 
「自然動物を保護するのは、環境省の管轄だ。留置場にぶち込んだフォックスを、環境省の施設に送ろう。俺達はただ待つだけだ。絶対に引っ掛かるぞ」
海が自信有り気に言った。自然動物を保護する施設は、神奈川県の小高い山にある。嗅覚の鋭い高校生と、色彩感覚の鋭い恵美香と、顔認識エスパーの伊織がスタンバイしている。そして、背後には、犯人を追い詰める経験豊かな警察官が配置されている。
 高校生と、恵美香と、伊織は山登りに来たような格好をして、施設の周りを歩いていた。帽子を被ってリュックをしょっている。足は登山靴だ。最初に気付いたのは高校生だった。
「匂う……。嗅いだことのない匂いがする」
恵美香が聞く。
「どんな匂い?」
「異世界の匂い。説明はできないよ」
恵美香が言う。
「さっきから、人間の肌の色に有り得ない肌の色の人を何人か見たけど、あの指名手配の顔と違う」
伊織が言う。
「指名手配の顔をあたしが見逃す筈はない」
高校生が恵美香に聞く。
「人間じゃない肌の人がそんなにいるの?」
「私も気が付かなかったけど、この世には私達が思うより、人間以外の生物が沢山いる」
 
 本物の山登りの連中は、御弁当と水筒を持っている。恵美香達は、なんだか御腹が空いてきた、と思う。私服警官が、弁当の差し入れをしてくれる。三人はピクニック・テーブルを見付けて、ランチを食べる。食べている途中に、それはやって来た。伊織がひそひそ喋る。
「来たわよ、あれ。あの図体のでかいの」
高校生が言う。
「え、あれ? 顔が全然違う。あ、でもほんとだ。異世界の匂いがする」
恵美香が囁く。
「確かに。人間の肌じゃない」
 ベンツの男はやはり恵美香達みたいに、登山客を装っている。なんだか高そうなカモフラージュのジャケットを着ている。猟銃を持ったら似合いそうな、高級そうなファーが付いた帽子を被って御揃いの靴を履いている。ベンツの男はベンツに乗って、タキシードを着ているくらいだから、御洒落で高級な男なのだろう、と三人は考えた。
 よく観察すると、ベンツの男は歩き方が人間と違う。そこだけ引力が弱いように見える。男だけ少し宙に浮いて見える。図体がでかくて、もっと重い筈なのに、動きが軽い。普通の人には気付かない程度。顔はヨーロッパ人にも見えるし、東洋人にも見える。色んな大陸の遺伝子が混じった、謎の深い顔をしている。伊織が言うように、とっくに滅亡した人種が混ざっている、というのも理解できる。
 恵美香は、スタンバイしている警官に合図を送る。フォックスのいる部屋は二面がガラス戸になっていて、ドアは開いている。男がフォックスに近付いた時に捕まえる。
 
 男が中に入った。警官達は部屋にいた男を取り囲んだ。男は寡黙で落ち着いていた。一方、フォックスは興奮して狭い檻の中で、暴れ、泣き叫んだ。一番上役である、警部が言った。
「一緒に来てもらう」
静かな深い声で男は答えた。
「なんの容疑で?」
「貴方が、未成年二人の失踪の鍵を握っている」
フォックスは上方を向いて、犬の遠吠えのような鳴き方をしている。男はフォックスの檻に近付く。
「姫は我々が育てた者だから、私が連れて行く」
 男が檻の隙間から手を差し入れると、フォックスは大人しくなって、男の手を頬で擦る。警官が言う。
「この動物は今、貴方には渡せないが、私達が一緒に連れて行くから心配しないように」
環境省の職員が檻を持ち上げようとすると、フォックスの興奮がピークになり、檻に体当たりをして、乗せてあったテーブルから落ちる寸前になる。野生動物を扱う専門家がフォックスに向けて麻酔銃を構える。ベンツの男は撃つのを止めようとするが、囲んでいた警察官に抑えられる。警部が言った。
「麻酔銃だ。危害はない」
 麻酔銃を撃つ音。窓の外から覗いていた恵美香と伊織と高校生に緊張が走る。檻の中にいる筈のフォックスの身体が消え、ミステリアスな氷った煙が檻の中に充満していく。煙の中から、死人のように白い、人間の手が伸びて来る。若い警官の中には、悲鳴を上げる者がいる。
 血の気のない凍った手が、レバー式の簡単な鍵を檻の内側から手を伸ばして開ける。その手首には、大きな傷痕がある。檻の外に出て行った煙は、白い肌の女生徒に変わる。残った煙は、徐々に床に沈んで行った。
 恵美香が部屋に入って来る。姫に向かって宣言する。
「貴女も一緒に来てもらいますから」
 姫は恵美香に背中を押されて歩く。彼女は、海と伊織が高校で見た時の、そのままの制服を着ている。白いブラウスに黒のプリーツが入ったスカート。細い水色のネクタイを締めている。髪は短い。『ローマの休日』のプリンセスより少し短い感じ。失神した警官が二人いて、姫は。ふっと笑いながら、制服の黒い革靴で、その二人を跨いで歩く。
 恵美香と共にパトカーに乗る直前、麻酔が効いて、姫は地面に崩れ落ちる。ベンツの男が駆け寄るが、警官達はそれを制する。ベンツの男の乗ったパトカーは、姫の乗ったパトカーの直ぐ後を走る。
 二人は警察庁刑事局にある留置場に入れられた。別々の部屋に。ここからは絶対脱出できない。フォックスが煙になって外へ出て行かないように、除き窓まで厳重に塞がれた。
 
 病院にいた天使は、母親と兄の付き添いで、警察庁刑事局鑑識課にやって来た。壮太が席を立つ。
「アニメで観た本物の人間に会うのは変な感じのものだな」
アニメ『白檀と扇子』には天使と、その母親と兄も出演している。鑑識の他のメンバー達も、何度もアニメを観ていたので、何とも不思議な気がする、ということで意見が一致した。
壮太が天使の目を見て言った。
「僕の大事な若者が消えたんだ。君と同じく、白檀の香りを嗅いで」
原作小説を書いた佐野理津子もそこにいた。自分の書いたキャラクターが実際の人間になって現れるなんて。一番ショックを受けたのは理津子に違いない。
「私の息子、雅也も消えてしまった。なんとしても連れ戻したい。まだ、天使君と同じ高校一年生なの」
天使が言った。
「はい、僕、みんな聞いて知ってます。御役に立つなら、僕、何でもします」
理津子と天使の母親が話している。
「天使君のこと、さぞご心配でしょう。御免なさい。無理なことをさせて」
「息子が決意したなら、やらせるまでです。後のことは、なんかあった時にまた考えればいいし」
都合のいいことに、天使の母親は楽天的な性格だった。
 
 その時、レオンの携帯が鳴った。壮太は驚いて走った。携帯はオフィスの真ん中にあって、壮太のいる場所からは遠かった。椅子や机に体当たりしながら、壮太は走った。レオンの好きなブリティッシュ・バンドの曲。クラッシュの『ロンドン・コーリング』。
 遂に携帯は壮太の手に。
「壮太。御免、なかなか電話が通じなくて。サービスが良くないんだよこっちは」
レオンのバックが騒がしい。
「なに、そのうるさいの?」
「あ、あれ? 由紀夫さん達が軍服で行進の練習してるから」
「熱心だな」
「まあね」
「レオンはそっちで毎日、何してんの?」
「雅也と一緒にデパートに行って、メイクのモデルやってる。雑誌にも出たんだよ。壮太に見せたいんだけど、電話がなかなか繋がらなくて……。ねえ、見える? ほらね」
「あ、見えた、見えた!」
鼻の上に小さな白い蝶が止まってて、レオンが両目で蝶を見ている。超可愛い顔。色使いはパステルで、フルーツ・カクテルみたいな色合い。美味しそう。
「って、いうことは、雅也君は、盾の会じゃないの?」
「なんかね、顔はパスしたんだけど、まだ身体が子供子供してるから、もっと体重増やしてからまた来て、って言われたんだけど、見学とかはできるらしいよ」
 
 壮太が遠くを見ると、ピンクと薄緑の者が空高く飛んでいる。
「あれ、なんなの? あっちを飛んでるの?」
「ピンクのユニコーンと、緑のドラゴンね。最近、ビジネスが好調で、御金入れて乗りたいっていうのが増えてきたらしくて」
「ああ、前にレオンと一緒にいた子達か。凄い、アクロバット飛行だね」
ユニコーンとドラゴンは逆さになって飛行したり、ぐるぐる回って飛んだり、色々している。
「そうそう、人気あって、疲れて大変だって言ってたけど、御金貯めて例の『隕石』って言う名のフェイスパウダーをゲットしたらしいよ」
「レオン、それ、着てるの可愛いね。どうしたの?」
「これね。デパートでモデルやってるから、色々サンプルとか貰えて」
レオンは八十年代のブリティッシュ・ロックな、フリルの付いたシャツに、カラフルな宝石みたいなのが一杯付いたネックレスをじゃらじゃらさせている。
 レオンの頭の上を何かが、ばたばたぐるぐる飛んでいる影が見える。あれ? レオンの鼻になにかが落ちて来た。
「羽?」
「そうそう。僕が壮太と話していると、寄って来るんだよ、みんな」
ちっちゃい、むちむちした御足がちらって見えた。
「あれ、雅也君だよね。ちょっと見ない間に変わったね」
雅也はレオンより派手ななりをしている。雅也はデパートに行くと、皆が可愛いと言って、メイクしたり服着せたり、着せ替えごっこになってるから、と彼は言う。雅也がアップになって、今日のメイクがよく見える。リップが蛍光色の濃いピンクになっている。カラコンの片方が壮太の天使どもみたいな青で、もう片方が、そこで空を飛んでるユニコーンみたいなピンクだ。服はクリスマスのくるみ割り人形みたいな派手な軍服チックなのを着ている。色は赤だ。そして何より、髪の毛がリップと同じ蛍光ピンクだ。
 
「雅也!」
「あ、お母さんだ! 元気?」
「……まあ、どんな変なカッコでいても、日本刀振り回すのよりはずっといいわ」
壮太とレオン達の会話がどこまでもあさっての調子で埒が明かないので、とうとう、海が出て来て、作戦会議になる。
「レオン、君の好きなアニメの主人公、天使君がこれから君達を探しに行くから」
レオンが、じゃんぷじゃんぷで飛び跳ねている。
「え、まじで? 天使君に会えるの? どこにいるの? いつ来るの?」
「今、ここにいるよ。彼は前世では猟犬だから、まずニコライ一世にお伺いを立てて、君達の所へ行くらしい」
「レオン、僕、天使です」
「わあ、本物だー。僕ビッグなファンです」
 二人はなんやかんやと、御喋りに忙しくて、またどこまでもあさっての調子なので、また、海が出て来た。
「天使君が言うには、そこから出る為には、ベンツで全速力で走る必要があるとか。君達皆、免許もってないよな? て言うか、ベンツも無いしな。どうしよう?」
レオンが、じゃんぷしながら答える。
「ベンツだったら、あっちの方にディーラー・ショップがあるよ」
海がショックを受ける。
「ディーラーがあるのか! でも免許もないし。買う金をどう送るか、それも問題だな」
それには雅也が答える。
「ディーラーに友達いるから大丈夫だよ。レオンと僕はデパートでファション・モデルやってるから、こっちではセレブなんで、ベンツだったらちょこっと貸してくれるでしょう。僕達みたいに可愛い子が乗ってたら宣伝になるし」 
雅也の母親は、息子の変わりように驚くが、それでも三島の隊に入らないでよかったと思う。海が先を続ける。
「後は、誰に運転させるかだよな」
今度も雅也が答える。
「運転だったら、『盾の会』の誰かに頼めばいいよ」
そこに、壮太が口を出す。
「三島の『盾の会』って、皆、生きてるの? それとも、死んでるの?」
「色々。僕みたいに生きてる人もいるし」
壮太が真面目に言う。
「俺も三島に会ってみたい」
そこに突然、青史が出て来る。
「壮太、三島に会ったら、ショックで首が痛くなるよ。あっちに行くより、こっちに来てもらったほうがいいんじゃないかな?」
壮太が言う。
「まあ、あっちにはメンソレータムをぬりぬりするのが一杯いるから大丈夫だと思うよ」
 
 海がそれはいい、と喜ぶ。
「壮太さんが行ってくれるなら、我々も安心だ。運転もしてもらえるし」
天使君は、まだまだレオンと話したかったみたいだけど、我慢して、海に質問をした。
「じゃあ、僕は白檀の匂いをたくさん嗅いで、前世に行きますから、壮太さんはこないだ雅也君が行ったみたいにして行ってください。きっと、皆さんの所へ行けると思います。僕は犬ですから、忘れないように」
天使の兄と母親は心配そうだった。レオンが大丈夫だから、と言ってあげた。こっちは危険なこともないし、ばたばた飛んでるのは一杯いるけど。すると、壮太が聞いた。
「ちょっと、そこ飛んでるの写して」
レオンが携帯を上に向ける。能天気な日の燦燦と差す大気の中を、レインボー・カラーの天使が、竜巻状に百匹位飛んでいて、皆、壮太と喋りたい、喋りたい、と言っている。髪も、目も、翼もレインボーだ。海が通訳してくれるそうだ。
 壮太が、危険を察知して海に注意する。
「ちょっと、待って、待って。レインボーの奴等は弓矢を持ってるから、ほんとは天使じゃなくて、キューピッドだって。気を付けないと刺されますよ」
レインボーの兵士達のばたばた飛ぶ様は、まるで鶴岡八幡宮の鳩のようだ。鶴岡八幡宮は、日本で一番鳩の多い神社と呼ばれている。誰が数えたのかは知らない。海の通訳が始まる。
 皆、早く壮太に会いたいと叫んでいる。壮太がもう直ぐ行くぞ、と答えると、連中は嬉しくて手を叩く。手を叩かれると持っている弓矢が落ちそうになって、壮太は、はらはらする。
 あれっ、レインボー・カラーの雨が降って来た。
「レオン、そっちではレインボーの雨が降るのか?」
レオンが、そうそうと言う。オフィスにいて、大スクリーンを見ている全員が歓声を上げる。ピンクのユニコーンと薄緑のドラゴンが大空を飛んで、色を添える。それを見て壮太がうっとりする。
「奇麗だなー、あれっ、虹が出て来た! 虹もレインボー・カラーだ。あ、でもそれは当たり前だ」
天使達が大喜びで手を叩いて大笑いする。今にも矢を落としそうで、危なっかしくてしょうがない。
 天使のソルジャーの代表が下りて来て、海の通訳が始まる。
「僕達ね、また壮太と一緒に遊びたい。僕達、壮太のこと大好き」
「俺も皆に会いたくて、会いたくて、懐かしくて。今もほら、泣けてくる……」
壮太はほんとに泣いている。見ると、雨の中を、金髪碧眼で翼が白い軍団が、ばたばた飛んで来る。
「僕達、教会で外からライト当ててたの、分かって凄い。壮太、流石!」
髪と目が黒くて翼も黒い軍団がやって来る。でも壮太は、その連中がほんとは黒くないのを知っている。雨に濡れて、黒がぼたぼた落ちて、とうとう皆、金髪になってしまった。
「壮太、また皆で三島の墓参りに行こう! 人魂を追いかけよう!」
 
 急にレオンの声がする。
「由紀夫さん達が、雨の中で乾布摩擦をしてる」
三島は、一九五五年に書かれた『小説家の休暇』という日記形式の評論の中で、太宰治について語っている。「太宰のもつてゐた性格的欠陥は、少なくともその半分が、冷水摩擦や器械体操や規則的な生活で治される筈だつた。生活で解決すべきことに芸術を煩はしてはならないのだ」とある。三島がいかに太宰治を嫌っていたかが分かる。
 太宰は赤い人魂となって、レインボーの翼のキューピッドに狩られ、銃殺刑になろうとするところを、壮太に助けられた。
 壮太が目を凝らすと、成程、遠くの方で大勢の若者が、雨の中、上半身裸で乾布摩擦をしている。乾いてないけど。壮太は呆れる。
「冷水摩擦や乾布摩擦は、三島のお気に入りの健康法なのは有名だよな。だけど、乾布摩擦というのは、乾いてるから乾布摩擦なんだぞ。」
 壮太が目を凝らすと、レインボーのキューピッドが何匹か飛びながら、こっそり三島の隊に近付いて行く。『盾の会』の面々は乾布摩擦に忙しくて、それどころではない。雅也が三島の方へ駆けて行く。配線の関係か何かで、なぜか三島の言うことがよく聞こえてくる。
「やあ、雅也君。可愛い服だね。イングランドのソルジャーみたいだ。君も一緒に乾布摩擦をしよう」
「でも、あっちで誰かが乾布摩擦は乾いてるから乾布摩擦なんだって」
その時雅也は、頭上を飛ぶレインボー色の物体を見た。レインボーの風が吹く度に、カラフルな羽がぼそぼそ落ちて来る。雅也は鼻の上に着地した羽を払った。
 レインボーの物体が矢を放った。矢は宙を飛んで、三島の首の左側に命中した。キューピッド等は、上手く命中したぞ、と、きゃっきゃっきゃっと大喜び。
 三島が雅也を凝視する。気合の入った乾布摩擦で険しかった三島の両目が急に緩んだ。
「雅也君、君ってなんて可愛いんだ!」
三島はそう言って、雅也のピンクの髪を撫で、若い身体を抱きしめ、情熱的にほっぺにキスをする。
 壮太が溜息をつく。
「あらら、これは不味いわ」
そう言いながらも壮太は、突然、雅也の髪のピンクは洗っても落ちないのだろうか、と疑問に思う。海は非常に驚く。
「こういう展開だったんだ」
青史も驚く。
「どうすんの、これ?」
博士も呆れる。
「あら、あら、まあ、まあ、まあ」
恵美香も呆れる。
「駄目だ、こりゃ」
高校生が叫ぶ。
「やったー! 命中!」
中学生は喜ぶ。
「恋愛はいいことです」
祐樹は、ばたばた走り回る。
「なんだかわかんないけど面白い! 面白い!」
雅也の母親が狼狽える。
「どうなるの、どうなるの? 私はどうすればいいの?」
天使が言う。
「御母さん、雅也君、暫く帰って来られないですよ。これじゃあ」
天使の兄が言う。
「運命の矢だな」
天使の母が、こっそり言う。
「家の息子じゃなくてよかった」
伊織のことを忘れていた。
「恋愛はいくつになっても、死んだ後でも美しいものです」
 
 アニメ『白檀と扇子』の主人公だけど、アニメじゃない人間の方の天使は、海と壮太と兄に付き添われて、警察庁の留置場まで、純白のフォックスと黒いベンツの男に会いに行った。緑色の目の中学生が自発的に加わった。留置場は今まで壮太達のいた建物と同じだが、鑑識課よりエレベータでいくつか下がった所だった。
 天使君が学校で流血騒ぎを起こした事件を捜査した警部達の、リーダーであった年かさの警部に会うことができた。
「ベンツの男が吐いたぞ。信じていいのかは分からないが」
警部は留置場にあるオフィスで、ベンツの男が話しているビデオをスクリーンに映した。
 
「御察しの通り、我々は人間ではありません。必要があれば遺伝子クローンを作ることで、何度も自分を再生できるんです。ルーツは旧約聖書以前にさかのぼります。我々は非常に孤独でした。DNAクローンニングであることを隠すために、人間との交流を避けている。また、クローンである為に、病気に対する遺伝的耐性を得られないことも、人に近付けない理由です。ところが、我々は我々のようにクローンとして自分を再生できる種族と出会ったんです。それが姫です。姫の種族は個体が死ぬと、同じ遺伝子を持った、新しい個体がコピーされます。ただ、我々と違うのは、姫の種族は一度死にます。生まれ変わった時は心身共に初期化され、前世の記憶は失われます。その代わり、どんな過去にでも戻ることができるのです。そして記憶を少しずつ取り戻し、再び自分自身になれるんです。姫達は生命力が弱く、ホッキョクギツネと呼ばれる純白のフォックスに憑依して生きています。白い狐は、白い蛇と同じように神格化され、神社に祭らわれています。我々にとっても、ホッキョクギツネは精霊であり、神なのです。我々は姫を懸命に世話しました。個体数は僅かながら増えています」
 話が一段落し、警部が聞いた。
「それを信じろと言うのか?」
警部は憤った。その時、ベンツの男の目の色が変わった。濃い茶色だった目が緑色に変わった。エメラルドより薄い、透明感のある色だった。そして、髪の色も緑色になった。天使や壮太達にも、ビデオではっきり確認できた。次に身体全体が緑色に変わった。ビデオの撮影をしながら、一緒に調書を取っていた警察官が悲鳴を上げる。男は悲鳴を上げた警官が、震えながら持つビデオカメラに向かって、緑色の顔で大胆に微笑んだ。
 すっかり緑色になったベンツの男が語った。
「我々は植物に近いんです。太陽からの光合成で生きている。地球上にも、DNAクローンニングによって数を増やせる植物は数多くある」
警部が聞いた。
「何故、君達は青年達を別世界に送るんだ。何の為に?」
 ベンツの男は、壮太達、ビデオを観ている者を真っ直ぐ見据えて話し始めた。
「天使君、私が今、御世話をしている姫は、前世、貴方のおばあ様だった。おばあ様の御気に入りだった白檀の扇子。天使君はあの香りに誘われて、遥か昔の前世に戻ってしまった」
警部は更に突っ込んだ。
「じゃあ、レオンや雅也は? 関係ない青年をおかしな時空へ飛ばすなんて。その理由はなんだ? ……それより、そもそもあのアニメはなんだ?」
ベンツの男は、ふっ、と不遜に笑う。
「アニメのことは知りません。天使君とレオン君はあのアニメに強く魅せられていた。その為に、ストーリーそっくりに、白檀の香りによって、時空を飛んだのでしょう」
「アニメのことは知らないなんて、無責任じゃないか!」
「……誰かが、何らかの理由で我々の生態を嗅ぎ付けたのでしょう。だから我々のことをアニメにした」
「じゃあ、三島由紀夫は? 奴等は何の為にあっちで活動してるんだ?」
「既に亡くなった方については……」
「知らないと言うのか? 無責任だぞ!」
「単純に、惹かれ合うんでしょう。あっちの国に行ってしまったレオンさんの周りには、三島由紀夫好きの壮太さんがいらした。雅也君も彼に強く惹かれていた。多磨霊園の御花屋さんの息子さんもそうです」
 
 ビデオはそこで終わっている。壮太は最後の言葉を聞いて考えた。と、いうことは、花屋の幸子さんを鑑識課に連れてくれば、レオンの携帯を通じてきっと息子さんに会える。でもあの携帯は、いつ繋がるか全く分からない。青史が言っていた。幸子さんは、花屋を銀座のデパートに移すのに忙しい。息子が三島と一緒に、元気に乾布摩擦だか冷水摩擦だかしているのを見たら、彼女も安心するだろう。
 緑の目の中学生が、もう終わってしまったビデオのスクリーンから視線を逸らさずに言った。
「あの男は、嘘は言ってない」
壮太はそれに驚いた。
「じゃあ、あの男はほんとにアニメのことは知らないんだ。そもそも、あのアニメが事件の根源なんだぞ。それに三島のことも」
中学生が答えた。
「あの人は、ほんとに知らない」
 天使が警部に聞いた。
「白いフォックスの女子高生はどうしているんですか?」
「ああ、あれか。環境省の自然動物を保護する係の奴等があんまりいい餌を上げ過ぎるから、監視カメラで観ても、食べてる時以外は寝てる」
天使の兄が真面目に聞いた。
「狐って、ほんとに油揚げを食べるんですかね?」
警部も真面目に答えた。
「環境省の奴等も、いいチャンスだからと言って、油揚げを上げてみたそうなんだが、食べることは食べるらしいが、半分くらい残したらしいから、そんなに好きでもないらしい」
 
 壮太達の一行は、黒いベンツの男と面談した。留置場内にある快適な部屋で、窓の鉄格子を見なければ、普通のリビングと変わらなかった。壁に絵まで掛かっていた。監視の警察官は三人いた。その一人はまるで柔道の選手みたいに、大きくて強そうだった。ベンツの男は手錠はしていなかった。顔の色も人間に戻っていた。天使がベンツの男とちゃんと話したのは、それが初めてだった。
 ベンツの男は、流石ベンツの男と呼ばれるように、見たことのない張りのある素晴らしい素材のスーツを着ている。よく見ると黒いネクタイも、完璧な幅で、完璧に結んである。御洒落な青史も、この着こなしを見たら悔しがるだろう、と壮太は思った。天使が男に聞いた。
「僕、これから壮太さんと一緒に、レオンさんと雅也さんを迎えに行くんですけど、僕の考えだと、ベンツに乗って最高速度で走れば、こっちの国に戻れるんですよね?」
「我々の経験だとそうです」
天使は推理が当たって嬉しそうだった。壮太はベンツの男に同情を感じた。彼は何も犯罪は犯してない。ただ孤独が耐えられなくて、変な狐につままれて、いかれた行動をしているだけだ。ベンツの男は鬱っぽく下を向いたままだ。壮太は可哀そうに思った。
「貴方そんなに孤独なんだったら、僕達が友達になりますよ。一緒に御飯食べに行ったり、飲みに行ったりすればいいでしょ。時々会って。友達が銀座のデパートで働いてるから、一緒に買い物にも行けるし。貴方が植物なんだったら、一緒に鶴岡八幡宮で日向ぼっこしたり、冷水摩擦したりしましょうよ。あんな怠け者の狐こんこん、なんて、ぺっ、ぺっ、ですよ」
壮太が、ぺっ、ぺっ、と言った途端に、そこにいた皆が爆笑を始めた。監視の警察官まで笑いが止まらなかった。柔道の選手みたいに強そうな警官が壮太に、なぜ鶴岡八幡宮なのか、なぜ冷水摩擦なのか、一生懸命聞いていた。壮太がふと見たら、ベンツの男も肩を震わせながら、一生懸命笑いを堪えていた。
「もう僕も孤独に耐えるのは疲れました。有難う御座います」
 
 壮太は、どんどん落ちて行って、眩暈がして、それは空から落ちたからで、雲を突き破って、風が上からも下からも沢山吹いて、落ちた先は、怪しいネオンのようないかがわしいピンクがふさふさの、なにやら生温かいものだった。先端に、りっぱな輝く金色の角が生えている。
 壮太が正気になって、見ると、ピンクなものに、コインを入れる場所がある。壮太は、あ、ごめん、俺、小銭持ってないや、と言ったら、そのいかがわしいピンクのものは、いいですよ、別に、気にしないでください、と礼儀正しく答えた。
 地上をちらって見たら、なんだか下手糞な、子供が作ったような、安っぽい、箱庭風の風景が広がっていた。湖はアルミホイルみたいだし、森はプラモデルの木を組み合わせたみたいな、ちゃっちい感じだった。玩具箱を引っ繰り返したような国だ。
 自分の住む世界が、全て「書割」だって気付いた時のトゥルーマンを思い出した。一九九八年のSF映画『トゥルーマン・ショー』。生まれてからずっと、現実だって信じていた世界が、実は張りぼての作り物だったんだ。自分の人生が、ただのテレビ番組で、何万人もの人に観られていた。壮太が観なければよかった、と後悔する怖い映画の一つだ。
 上の方から小さい羽ばたきが聞こえたが、壮太は知らぬ振りをしていた。羽ばたきはどんどん勢力を増して、とうとう鶴岡八幡宮の鳩状態になってきた。ばたばたうるさくてしょうがない。その内、連中も大胆になってきて、壮太の頭や背中を蹴る者がでてきた。ちっちゃな足で。
 ピンクのものが、着陸態勢に入った。ばたばた飛ぶ大量の鳩状態の者達は、とうとう飛んでいる壮太とピンクのものを追い越して、壮太達の先へ飛ぶ。ちっちゃな足に、ピンクの御尻に、真っ白な翼に、金色の巻き毛が、風にはためいている。
 下りた所は、空き地みたいなふわふわ草が生えているばかりの場所だった。周りをぐるっと見渡すと、一軒の日本家屋があって、やっぱりプラモデルっぽい安普請で、土台からして並行でなかった。
 壮太はピンクのふさふさなものに御礼を言った。全体を見るとふさふさなものは、ピンクの馬じゃなくて、レオンに言わせると、ユニコーンだった。白い翼のうるさい連中は、壮太の周りをぐるっと囲んで着地を果たし、きゃー、きゃー、わー、わー、皆、それぞれ勝手に喋りだす。壮太は耳を塞いだけれども、塞いだ壮太の手に捕まって、手を下ろそうとする者がいる。
 しょうがないので、壮太は草の生えた空き地に座り込み、順番に並ばせて、一人、一人、頭を撫でてやった。壮太が撫でると、皆、気持ち良さそうにして、ビッグな笑顔になった。
 なでなでが終わると、すっかり疲れ切った壮太は、皆と寝転がって、日向ぼっこをした。空き地が埋まる程だから、二百匹はいたと思う。なでなでの手が痛くなる筈だ。太陽は、壮太が子供の頃、缶をがちゃがちゃ振ると出て来る飴みたいな、その中でも、透き通った黄色の物みたいだった。そもそも太陽の癖に、丸くない。
 
 天使の叫び声が聞こえる。あんまり見たくないな、と思いつつ、壮太が思い切って振り向くと、右手と左手を別々の天使に捕まって、引っ張って来られた若者が二人いる。レオンと雅也だ。なりが派手だけど、派手ななりから、派手な部分を取って、元々の姿を想像すると、それはやっぱりレオンと雅也だった。
 レオンは壮太に抱きついて、壮太もレオンに抱きつく。なんだか、がたがたいう音がするから、見ると、それはいかにも、という感じの、プラモデルの機関車だった。実物大で煙も出ている。
「レオン、あの汽車はちゃんと人が乗れるの?」
「うん、乗れるけど、今ストライキ中だから乗車拒否されるよ」
「じゃあ、なんで走ってんの?」
「知らない。天気が良いからじゃないの?」
「君達はあの家に住んでるの?」
レオンはうんうん、と二度頷いた。
「あんな真っ直ぐじゃない家に住めんの?」
「ぎったんばったんみたいだから、丁度いい場所を探すの、寝る時は」
雅也が、息せき切って、レモン色のカラコン越しに壮太を見て言った。
「三島さんからやっと逃げて来た!」
壮太は思い出した。
「そうそうそう、あれどうなったの?」
「大変」
「キューピッド矢の効き目って、どのくらい続くもんなの?」
レオンが答える。
「聞いてみれば? そこに何匹か混じってるよ」
見ると、ほんとにレインボーの輩が混じっている。壮太よりレオンの方がずっと天使だかキューピッドだかの話が分かるので、壮太はレオンにお願いして通訳してもらった。レオンに言わせると、連中は、刺した本人ではないので、どのくらい毒が仕込んであったか知らない、と言う。壮太は驚いた。
「あれって、毒なんだ」
 
 一行は、雅也を先頭に歩き出す。
「三島さんはデパートには行かないから、観光がてらにデパートに行きましょう」
振り向くと、ぞろぞろいる、ぺちゃくちゃ喋ってる、天使の後ろに、ピンクの馬と薄緑の竜、じゃないや、ユニコーンとドラゴンも付いて来る。
 そこは壮太が想像していたみたいなデパートではなかった。なんとなく銀座の青史のデパートらしき物を想像していた。昔、隣の家の少女と遊んだ、リカちゃんハウスみたいな安普請だった。こんなにぞろぞろ入っても壊れないんだろうか? と壮太が心配する。
「大丈夫だよ」
レオンが言う。相変わらず壮太の心が読める。デパートに入って、一階はやっぱりコスメ売り場だった。天使連中は大騒ぎ! レオンが消えたデパートみたいに、翼のある者達がばさばさ悪戯をしている。口紅をわざと唇からはみ出して描いて、皆で指差して合って笑ったり、花屋に入って、勝手に花輪を作って、頭に乗せて遊んでいる。
 花屋と言えば、幸子さんはどうしているだろう? 開店祝いに行けなくて、花屋の開店祝いに花を贈るのも変だから、どうしよう、と考えているうちに日が経ってしまった。壮太は申し訳なく思った。三島の隊にいる幸子さんの死んだ息子さんと会って、彼がどうしているか彼女に伝えようと思った。
 あの、懐かしの「隕石」という名のフェイスパウダー。あの高級なパウダーを連中は、ぱたぱた使っている。煙のように細かい色取り取りの粒は、空中に溶けて、ライトに溶けて、一つ一つの色が意志を持って飛んでいるようだ。
 いきなり、デパート中ががたがた揺れ始めた。壮太は必死に柱にしがみ付く。窓の外を見ると、機関車が、がたがた通り過ぎる。いくら汽車が通ったからと言って、この揺れ方は酷過ぎるんじゃないだろうか。安普請のリカちゃんハウスだからしょうがないのか。
 揺れが収まって、改めて一階を見回すと、隅の所にしっとりとした大人のバーがある。赤い灯りが郷愁を誘う。御酒の瓶ってこんなに色んな形でこんなに奇麗な色をしてたんだな。
 何気なく覗くと、天使共がバーの中にもいる。棚から勝手に酒瓶を持ち出して、ごくごく飲んでいる。そしてバーを飛び出て、飛行のコントロールができなくなって床に落ちる。落ちた奴等が、真っ赤に酔った顔を御互いに指差しながら、笑っている。髪も目も翼まで真っ赤になっている。
 
 こんなに滅茶苦茶にされて、デパートの人はどうして何も文句を言わないんだろうか? レオンが言う。
「大丈夫、大丈夫。ほらね」
二階に続く階段は広くて、ゆるりとカーブした螺旋状になっている。階段の床はぺらぺらの紙だけど、青と金色の美しいペーズリー模様である。
 大勢の天使共は、それぞれ階段に座っている。オーケストラの音合わせが始まる。指揮者の天使が棒を持って、宙に浮いている。あれ、なんだか調子のとち狂ったトランペットとチェロがいる。見たら、さっきの酔っぱらってた、赤い顔の奴等だった。
 指揮者が棒を振るとオーケストラの演奏が始まった。楽器を持ってない者は、元気一杯歌う。壮太はなんて素晴らしいんだろう、と涙を流す。ボーイソプラノの合唱。一人一人、手にちっちゃな楽譜を持っている。
 壮太は見逃すまいと身構える。もうじき壮太の好きな部分になる。指揮者が棒を振り下ろす。すると、百人以上いるシンガーが一斉に楽譜をめくる。やったー、と壮太は思う。壮太はその瞬間がいつも好きだった。変な所で手を叩く壮太のことを人が見ている。
 あれ、あのボーイソプラノの独唱は、三島の墓で歌った子と同じ。壮太は絶対そうだと確信した。この天使共は、壮太達の住む国に自由に行けるんだろうか? そしてまたこの国にも帰って来られるんだろうか? あの懐かしい多磨霊園。レオンと一緒に行った。
 
 演奏が終わると、大勢の手を叩く音がする。壮太が振り向くと、そこには村中くらいの人々が集まっている。レオンが言う。
「天使はね、悪戯だけど、歌を聴きに来た人が何か買うから、宣伝になるんだよ」
 歌が終わっても、泥酔中なのが三匹階段の上で寝ている。壮太はそいつ等を回収する。壮太が天使を三匹担いでデパートを出ようとすると、レオンの叫び声がする。
「壮太! 由紀夫さんが雅也を!」
三島に惚れてこの国までやって来た雅也だけど、こんなに酔っぱらったみたいな三島は、雅也が惚れた三島ではない筈だった。三島と雅也はデパートを出た所にいて、三島が雅也を無理やり引っ張って行こうとしている。雅也は、嫌だ、嫌だ、と泣きそう。壮太は、泥酔中の三匹を放り出して、デパートの外のライオンが二匹座っている所まで走った。
「御前、高校一年生に何してんだよ!」
壮太は思いっ切り柄の悪そうなチンピラちっくな声で叫ぶと、三島の頬に一発本気でぶちかました。三島は往来に倒れた。三島は意外にも反撃に出ない。その代わり、こう言った。
「あれっ、俺、今まで何してたんだろう?」
壮太と、レオンと、雅也が、くるくる首を回して御互いに顔を見合わせる。三島が自分の頬に手を当てる。
「あれっ、痛い、痛い……、一体どうしたんだろう?」
壮太が道に倒れている三島に手を差し出す。そして自己紹介をする。
「僕、初鹿壮太と申します」
壮太は握手の手を差し出す。三島の手をしっかり握る。三島はぴちぴちの白いTシャツを着ていて、壮太はあれは胸に付いた筋肉を見せびらかす為の物だな、と邪推した。
「三島さんの作品は全部読みました。と言っても、そういう人、一杯いるでしょうけど」
いやあ、いやあ、と三島は謙遜する。
「今回、こちらに来たのは、雅也君の御母さんに頼まれて、彼を連れて帰るのと、花屋の息子さん、あ、名前を聞いてこなかった、その方に御挨拶するためです。ちなみにその花屋さんは多磨霊園にあります」
「賢一君だろう。もう直、汽車が通るから、それに乗ろう」
レオンが余計なことを言う。
「汽車、ストライキじゃないんですか?」
三島が言う。
「僕のことは乗せてくれるよ」
三島ファンは何処にでもいるんだな、と壮太は驚く。誰かが後ろから、壮太の足首をつんつん突っつく。振り向くと、天使が三匹、気持ち悪そうな顔をして倒れている。二匹は仰向けに、一匹は俯せに倒れている。赤い顔がいつの間にか青く変わっている。壮太は三匹を大急ぎでトイレに連れ込んで、げーげー吐かせると、またそいつ等を抱えて、汽車に飛び乗る。
 
 何だか知らないけど、やっぱりプラモデルか、玩具の積み木の汽車みたいだ。色だって、赤とか、青とか、黄色とか、の原色で塗ってある。かっこいい筈の汽笛もなんだか大分、頼りない。ぷすぷすという情けない音がする。壮太は三島と向かい合わせに座っている。三匹の天使は壮太の御膝に顔を埋めて寝ている。
「三島さん、僕は毎年貴方の御墓参りに行って、雅也君、賢一君を始め、色んな方に出会いました」
三島は腕組みをして、口をへの字に曲げて、うんうん、とかっこ良く無言で頷く。
「ここで寝ている三匹とその仲間もそうです。貴方の御墓で出会いました」
壮太は、一匹の御尻を、ぺんぺん叩く。そいつは白い翼を弱弱しく、ぱたぱたさせる。
 向こうの席にいた雅也が歩いて来た。さっきは泣きそうだったけど、今度はほんとに泣いている。
「三島さん、どうして死んじゃったんですか? 僕達、悲しいです。もっともっと三島さんの小説が読みたかった……」
雅也は鼻をすする。レオンがティッシュを差し出す。雅也は盛大に鼻をかむ。
 三島はかっこつける為にしていた腕組みを解いて、話し始めた。
「僕は、日本の……」
そう言い掛けた所で、さっきのぷすぷすとは比べ物にならないような、盛大な汽笛が鳴る。
 壮太と雅也とレオンが、え、何ですか? と、三島に聞き返す。しかし、三島は黙っている。壮太の御膝の三匹が汽笛にびっくりして目を覚ます。眠たい目を両の拳でごしごし擦る。壮太が聞く。
「三島さんは、今の日本をどう思われますか?」
三島は、手を伸ばして一匹の金髪の巻き毛をよしよし、とやや乱暴に撫でてやりながら、余裕な調子で答える。
「そもそも、問題意識の無い奴等に問題を投げ掛けても無駄だ」
雅也がまた鼻をかみながら聞く。
「じゃあ、今の訓練は、何の為にしてるんですか?」
三島が答える前に、壮太が答える。
「三島さんは……、僕は、何度生まれ変わっても、ああいう死に方をなさる方だと思います」
金髪は、三人御行儀良く壮太の隣に並んで座る。窓際に一匹、通路側に二匹。三島と壮太の顔を代わる代わる見て、二人に白い歯を出して大きく微笑む。
 
 汽車が駅に停車した。誰かがホームを歩いて、壮太達の方へやって来る。見事なひげを生やした、明治天皇そっくりな顔をした、立派な車掌が、ボタンが一杯付いた制服でやって来て、三島に御辞儀をする。壮太はあれが三島ファンの車掌だな、と思う。ストライキ中なのに。
 その駅で若い男性が乗って来る。彼は大きな荷物を抱えている。三島は、彼のことを見て、賢一君、と声を掛ける。
「そこの八百屋で、かぼちゃが安いって聞いたから、ちょっと行って来ました」
「それは御苦労さん」
三島は嬉しそうだ。かぼちゃが好きだったんだな。壮太は、荷物を下に置いて通路に立っている賢一君に声を掛ける。
「賢一君。僕は君の御母さんに頼まれて、様子を見に来たんだよ。とても心配されてた」
「え、御母さん? 僕、あんなにしょっちゅう化けて出て、御店の手伝いしてるのに。心配しないで、って言って下さい」
「今度ね、御店が銀座に変わったんだよ」
「あれっ、じゃあ場所聞いとかないと」
壮太は、銀座のデパートの名前を教えて上げた。賢一君は、また随分はいからな所ですね、と感心していた。壮太は、賢一君はすっかり逞しい、男らしい男になって、かぼちゃをあんなに沢山持っても平気なくらいでした、と御母さんの幸子さんに伝えようと思った。賢一君は雅也に声を掛けた。
「僕も、君とかぐらいはいからにならないと、御母さんの新しい店では働けないね」
すると、雅也はこう答えた。
「あのデパートは皆、お洒落だから、貴方もきっと自然に学ぶよ」
賢一君は、雅也とかレオンとかみたいに、ちゃらちゃらしたところの全くない、立派な男だった。背も高く、胸板も厚い。壮太は、これならきっと日本刀を振り回してもよく似合うだろう、と感心した。幸子さんにもしっかり伝えないと、と思って、壮太は、何度も、何度も、彼を見た。
 
 汽車が止まった。三島が勢い良く席を立つ。かぼちゃを抱えた賢一君が三島の後に続く。扉の近くで、三島と賢一が、雅也の方を振り返る。雅也は、突然、動きを止めて固まっている。明治天皇そっくりな車掌がホームにいて、汽車を降りて行く三島と賢一に深々と御辞儀をする。
 ドアが固く閉じる音がした。雅也は三島の方へ駆け寄り、閉まったばかりのドアを叩いて号泣する。三島が雅也を見て微笑む。賢一君は雅也に大きく手を振る。汽車はゆっくり動き出す。
「僕は、どうして三島さん達と一緒に行かなかったんだろう! 僕は、なんて馬鹿なんだろう!」
ティッシュを渡す役のレオンが、雅也にティッシュを渡す。雅也は周りも気にせず、わー、わー、泣き続ける。壮太が雅也の肩に手を置く。
「いいんだ。君は自分で選んだんだ。ちゃんと自分で選択しだんだから!」
 天使三匹が宙にいて、雅也の頭をよしよししてあげる。
 壮太達が降りる駅だ。まだ、涙の流れる雅也の手を、一匹が前に引っ張って、二匹が後ろから押している。平原を横切って、ぎったんばったんの日本家屋へ戻って来た。皆で並んで、傾く家の坂の下になる部分に寝た。雅也はまだぐすぐすしていたが、天使の温かい手に手を握られて、やっと眠ったらしかった。
 
 夜半過ぎ、傾いた日本家屋の木の戸を叩く者がいる。壮太はこんな時間に誰だろう、と思いながら戸を少しだけ開けてみた。すると、月夜に、動物の手が戸の隙間から、するする差し込まれたのを見た。壮太は、これはまるで日本昔ばなしのようだ、狸か狐が化かしに来たのだろうか、と怖くて震えた。
 壮太は灯りを点けた。動物の手は、自分で戸を開けた。雅也は疲れてぐっすりだったが、レオンが目を覚ました。レオンが叫んだ。
「天使君!」
立派な猟犬だった。『白檀と扇子』というアニメに出て来る、ロシア帝国の貴族に愛された、ボルゾイという名の気品のある大型の猟犬だ。頭が小さくて、流線型の身体に、長い毛がつやつや輝く。犬は御辞儀をして家に入って来た。本物を見て、こんなに大きいんだな、と壮太は驚いた。背の高さがほとんど一メートル以上ある。
「すいません、遅くに御邪魔しない方がいいかな、って思ったんだけど……」
壮太は、なんだ、この犬は喋るのか、と安心したけど、壮太はもう何度もあのアニメを見てるんだから、当然知ってないといけないのであった。
「早く、僕が来たのを御知らせしたいと思って。ニコライ一世に直ぐ御許しを頂いて、匂いを頼りにここを探し当てました」
壮太は凄いな、と犬の頭を撫でて上げる。犬は長旅で疲れたのだろう。囲炉裏端に丸くなってすやすや寝てしまう。
 
壮太は、雅也の大きな声で起こされた。
「あっ、犬だ、犬だ! でっかい犬だ。わー、かっこいい!」
犬を盛んに褒め称える。寝ていた犬は雅也の側に正座した。
「御手、できる?」
犬は右手で御手をしてみせる。
「凄い! じゃあ、おかわりは?」
犬は左手で御手をしてみせる。
「わー、御利口さんだなー」
雅也はそこ等にあった野球のボールを投げてみる。
「ほら、取って来い」
犬は必死に追い掛けて、戻って雅也にボールを渡す。雅也はそれを何度か繰り返す。犬は一生懸命ボールを追い掛ける。壮太とレオンは、雅也の元気な姿を見て安心する。
 壮太が雅也に声を掛ける。
「はら、わんちゃん、外に出しておしっこさせて来て」
 雅也は犬と、気持ちよく晴れた草原に向かう。早朝で眠そうな天使達が、ちっちゃな御弁当箱に入った朝御飯でピクニックをしている。もう食べ終わった天使達は、乾いたタオルで乾布摩擦をしている。翼が邪魔でやりにくそうだ。
 雅也は犬と駆けっこをした。二人は元気に走った。大型の猟犬、ボルゾイの走る姿は圧巻だった。犬は草の上にごろりと横になり、気持ち良さそうに草に身体を擦り付けた。それから片方の足を上げて草むらにおしっこをした。
 乾布摩擦を終えた天使が三匹、大きな犬の背に乗って、手綱まで付けて、犬の御尻をぺんぺん叩いて、乗馬ごっこを始める。犬は三組くらいの天使を乗せて上げたけど、馬鹿馬鹿しくなったから、雅也と一緒に日本家屋に帰ることにした。急に立ち上がった犬から、滑り落ちた者達がいた。
 二人は家に帰った。犬が壮太とレオンに言う。
「全く、何をさせられることやら」
犬が喋ったのを聞いて、雅也は腰を抜かした。天使三匹も腰を抜かした。昨日、泥酔していた連中が、まだ家の中でうだうだしていた。
「雅也君、僕、天使ですよ」
天使、と言ったところで、天使達は、はっと天使に振り向いた。
「僕は君の御母さんが書いた、あのアニメに出ていた高校一年生」
雅也が言った。
「僕も高校一年生」
犬が言った。
「さあ、ベンツの手配をして、皆で元の世界に戻りましょう!」
 
 皆は、ストライキが解除された、御玩具っぽい汽車に乗って、ベンツのディーラーがある駅で降りた。レオン達の友達という気さくなスタッフに会った。
「レオンさん、今日は大イベントになりますよ。皆さんが走っているところを撮影して、それを今期のコマーシャルに使います」
 気さくな若者と、撮影の細かい打ち合わせをした。最新モデルのベンツを見せてもらった。
「こちらはスポーツタイプのコンバーティブル、つまりオープンカーです。ガソリンを一切使わない電気自動車で、四人乗りです」
壮太は気さくな若者と、ベンツの試乗に行った。成程、安定感のある走り、加速の滑らかさ、全てが他のメーカーの車と違う。気さくな若者が提供してくれた車は、奇しくも黒い色をしていた。
「壮太さん、全速力で走ってみてください」
壮太は、この辺りには制限速度がないのだろうか、と心配しつつも、アクセルを一杯まで踏んだ。百キロ……、二百キロ……。数秒で三百キロになった。走りは安定している。振動がない。もっともっとスピードが出せそうだ。自分達の住んでいた国に帰るには何キロくらい出す必要があるのだろう?
 犬が撮影場所を指定する。
「森があって、その森が終わって、そこからずっと平原の続いているような、そんな所がいいんです」
気さくな若者は、犬が喋ったので腰を抜かした。
 撮影は大掛かりなものだった。天気がいいのに、大きなライトが仕掛けられた。まず、壮太、レオン、雅也、犬、の四人で、ベンツをバックにポーズを取った。メイクアップアーティストもいて、壮太にも「隕石」という名のフェイスパウダーを盛大にはたく。レオンの髪はブルーで、雅也の髪はピンクだった。犬はパープルに染められた。
 四人の顔は一人ずつアップで撮影された。大きなライトは、各々の顔を照らすためだった。壮太はカトリック教会の表で、大きなライトでステンドグラスに照射していた天使達のことを思い出した。酔っ払った天使や、レインボーの兵士や、歌ってくれた天使達はこれからどうなるんだろう、また会えるのだろうか、と壮太は考えていた。
 森に住む動物や鳥達が撮影隊に驚いて腰を抜かす。次は四人が車に乗り込むところだった。運転席の壮太、レオンと雅也は後部座席、犬は助手席に飛び乗った。かっこ良く車に乗り込むのは意外と難しいもんで、皆は何回もやり直させられた。
 出演者とスタッフ全員が休憩に入った。森の動物達が木の陰から好奇心一杯で覗いている。鹿や、大型の鳥や、くまさんがいる。そしたらなにやらピンクと薄緑色の者がやって来た。ユニコーンとドラゴンだ。
「レオンさん、壮太さん、御別れに参りました。皆さん、御機嫌よう」
ユニコーンとドラゴンは、涙を零しながら、御丁寧に御挨拶した。レオンが意外なことを言う。
「二人も来ていいんだよ。帰りたくなったら直ぐ帰れるし」
レオンが言うには、ユニコーンとドラゴンがベンツの上でベンツと同じ速度で飛べば、きっと一緒に行ける筈だと。
 
 青空に、一枚の紙がひらひら飛んでいる。皆は、何だろう、と空を渡る紙を見上げる。レインボーの兵士が飛んで来て、矢を放つ。矢は近くの木に刺さる。紙に何か書いてあるようだ。矢が深く刺さっているので、皆は刺さったままでそれを読む。手紙は雅也に当てたものだった。
「雅也君、君に会えて楽しかった。僕はこれから詩を一杯書くよ。空に天使の飛ぶこの土地には、沢山の浪漫がある。そして君に詩を贈る。ぜひ読んでくれたまえ。三島由紀夫」
 雅也が泣きそうになった。二時間掛けて出来上がったメイクだ。メイクさんが飛んで来て、「ほらほら、ほらほら、泣かない、泣かない」とあやしながら大きな団扇で、雅也の顔をばたばた扇ぐ。
 走るところの撮影は一度切りだ、やり直しは効かない。それはベンツがもう帰らないから。出演者、撮影隊に緊張が走る。一度切り。ディレクターが「アクション!」と叫ぶ。その大きな声に、森中が騒然とする。壮太は、アクセルを思いっ切り踏み込む。
 ベンツの加速は見事だ。百キロ……、二百キロ……。数秒で三百キロになった。ジェットコースターみたいだ! 若者三人が歓声を上げる。アニメ『白檀と扇子』と同じだ。ベンツはワープして、深いドイツの森に挟まれたアウトバーンを西に走る。このまま走れば東京に帰って来られる。アニメではそうだった。
 アウトバーンに乗った途端、それまでの書割の国から、現実に近くなり、空気も質量を変え、緊張感が半端じゃない。壮太は助手席の犬を見た。長い明るいグレーの毛が流れて面白い。耳も風に当たって、後ろを向いている。変な顔。後ろの二人は強風で良く聞こえないから、大声で話している。東京に帰ったら、こんなことをして遊ぼう、あんなことをして遊ぼう。
 壮太が上を見ると、ピンクの馬と薄緑の竜が飛んでいる。二人共、壮太を見て、大きく嘶く。壮太はバックミラーを見る。驚愕したことに、そこにはベンツに掴まった天使共が、御互いの身体に掴まったり、手や足に掴まったり、何百匹も何百匹も続いている。Bouguereauの絵にある、何処までも並んで飛んでいる天使達にそっくりだ。連なった者達が祝日の国旗みたいに勢いよくはためいている。
 
 雲の切れ間から、非現実的な空中都市が見えた。浮かんだシティーは、どんどんベンツに近付いて来る。東京タワーが見える! 空中都市が壮太達を受け入れてくれる。道路を下げて、ベンツの高さに合わせてくれる。ベンツはシティーに入って行く。壮太は速度を落とす。
 突然、速度が落ちたので、馬や竜や、天使連中が弾みで、どっか、あさっての方向に飛ばされる。まあ、どうせあいつ等はすぐ壮太を探してやって来る。
 犬が天使君に戻ってる。壮太は、運転に夢中になって、犬が人間に変身する瞬間を見損なって悔しく思う。壮太は最寄りのパーキングに車をとめる。ベンツの起こす風の轟音で疲れた耳に、今度は都会の喧騒が入って来る。壮太が嫌に駐車料金が高いな、と、訝しがっていると、そこは銀座だった。歩くと直ぐ和光に出た。
 派手な一行に人々が振り返る。天使君の髪がパープルになっている。レオンのはブルーで、雅也のはピンクだ。銀座の空をユニコーンとドラゴンが、ゆっくり旋回している。やっぱり見える人と見えない人がいる。
 ベビーカーに乗っている赤ちゃんが、空を指差して笑い転げている。観光客が写真を撮る。一緒にいる人が、なんで空の写真をそんなに撮るのか、と言ってる。観光客の言葉は分からないけど、多分そう言ってる。青史のデパートに入って、真っ直ぐ花屋を探す。花屋に行列ができている。行列のできる花屋か、タウン誌のコピーに使えそうだな、と壮太は思う。
 派手な頭の若者達は、てんでにそこ等に散ってしまう。壮太は花屋の客の列に並ぶ。どうせあれだけ頭が派手だから、直ぐ見付かるからいいや、と壮太は思う。やっと壮太の番になる。幸子さん。前もそうだったけど、今はもっと活き活きして見える。
「素敵な御店ですね。御祝もしないで御免なさい。賢一君に会いましたよ。しっかりした立派な若者です。感心しました」
「さっき、壮太さんに聞いたって、化けて出てくれて、こんな御洒落なとこで働くんなら、もっと御洒落にしないと、って笑ってた」
 
 天使ってなんでデパートが好きなの? 青史がいる。部長の癖に、またフレグランスの売り場にいる。きっとまた誰かが病気になったんだな。ガラスケースの上を、はいはいしている天使がいる。青史はそいつを捕まえて抱っこする。そいつは身を捩って、いやいやをする。青史が壮太を見付けて微笑む。
「これが君の天使なんだね。可愛いけど大勢いるから大変」
青史はラルフ・ローレンのフレグランス買うとおまけに付いて来る、くまさんで、ぐずる天使を上手にあやしている。すると、あっちから天使一匹が、ガラスケースの上を走って来る。ガラスケースが激しく揺れる。
 ブルーの髪の人が、角を曲がってやって来る。
「僕が消えたレオンです。壮太が色々御世話になって」
「君に会える日が来るなんて。天使達にも」
壮太は非常に焦る。
「駄目だ、レオン、こんなとこにいちゃあ。360の香りでまたいなくなっちゃう」
壮太はレオンの手を取って、デパートの外に出る。そして二人で歩いて目的地に向かう。
「誕生日に何が欲しい? フレグランスは駄目だぞ」
小銭を入れるとアクロバット飛行を楽しませてくれるユニコーンとドラゴンが、東京の空を飛んでいる。それぞれ天使が乗っている。それも、やっぱり見える人と見えない人がいる。
「あの二人、天使に人気あるから、その内、一財産作るね」
レオンが空を見上げて感心する。
 
 東京の空気は生温かくて、空がなんだか、のほほんとしたピンクに染まってきた。皇居の森が見える。目的地はもう目の前だ。壮太の首筋を足で蹴る奴がいる。
「こらっ! 冷たい足だな、もう」
くっ、くっ、と陰湿に笑う翼の生えたのがいる。壮太が振り返ると、まあ、大体三十匹くらいはいる。
「天使達、壮太に遊んで欲しいんだよ」
 目的のビルに着いた。
壮太が天使共に合図をする。
「野郎共、行くぞ!」
壮太、レオン、その後に、大勢の天使が嬉しそうに、ぞろぞろぞろぞろ入って行く。大きな看板には「警察庁」と書いてある。
 鑑識のオフィスに入る。珍しい所に入って、大喜びで天使共は飛びまくり走りまくる。五才の天才科学者、祐樹が天使と追い掛けっこして遊ぶ。あれれ、祐樹の背中にも翼が生えてきた! 祐樹が上手に飛べるようになるまで、親切な天使が二人、祐樹と手を繋いで飛んであげている。
 海が外から帰って来て、オフィスにいる大勢の御客に呆れている。
「おやおや、おやおや」
天才的な色彩感覚を持つ、恵美香さんと、この世とあの世を繋ぐ超能力を持つ、緑の目の中学生は、可愛い、可愛い、と言いながら、一匹ずつ天使を捕まえては抱っこして頭を撫でてあげる。頭をなでなぜなぜなでしてもらいたい天使は列に並ぶ。
 ピンク頭の雅也と、パープル頭の天使もいる。ブルー頭のレオンと、賢一の幽霊を含めた四人は仲良しになった。犬並みの嗅覚を持つ、高校生は、可笑しいな、犬の匂いがする、と言って、辺りをくんくんする。
 語学の天才、海は天使と話ができる。海は、少し年上らしいのを捕まえる。
「君達、ここに何しに来たの?」
「知らないっ。壮太がいるから来た」
「皆、壮太のこと好きなの?」
「うん、大好き!」
「どこが好きなの?」
「ちょっと抜けてるところ」
他の約二十九匹の天使達もそれに同意して、うんうんうんうんと頷く。海は、これは壮太には言えないな、と思う。
博士が研究室から顔を出す。肩に一匹づつ天使を担いでいる。
「こんな変なのが一杯来て邪魔をする」
犬並みの嗅覚を持つ高校生が、実験室にいる奴等の手を引っ張って外に出す。高校生が言う。
「天使って、鳥類かと思ったら、そうじゃないんだな。鳥の匂いは全然しない」
恵美香さんが聞く。
「鳥類じゃなかったらなんなの?」
「赤ちゃんの匂い。イノセントな。ベビーパウダーの匂い。それから、なんでか知らないけど、メンソレータムの匂いもする」
 メンソレータムと聞いて、レオンがぬりぬりする真似をする。壮太がそれを見て笑う。壮太は考える。三島と決別したから、きっともう首の激痛はやって来ないと。
 何万人もの顔を覚えて忘れないという、スーパーレコグナイザーである伊織が、彼のいい人とべた付きながら、感想を述べる。
「この子達、やっぱり旧約聖書より古い国から来てる。顔もそうだし、身体もそうだし」
海がまた、一番年上っぽい天使に話し掛けてみる。
「君達はいつ、何処で生まれたの?」
「むかしむかし、御空の上で」
まあ、そりゃそうだな、と海は思う。
 
 警察庁の窓から、夕焼けを背に、ピンクのユニコーンと薄緑のドラゴンが飛んでいるのが見える。大分上手に飛べるようになった祐樹が、外を飛んでいる者達を見て、大喜びをする。鑑識の面々も、凄い凄いと窓に集まって来る。ユニコーンとドラゴンは下を指差して、どうやら皆を誘導しているようだ。
 ユニコーンとドラゴンが大通りを歩いて行く。ユニコーンの金ぴかの角が光る。ドラゴンが自慢のひげを引っ張る。途中、ユニコーンとドラゴンを目撃して、漕いでいた自転車から落ちそうになった人や、腰を抜かして、折角買ってきたコンビニ弁当を引っ繰り返す人とか、迷惑をこうむる人が続出する。
 ユニコーンとドラゴンが急に止まったので、後ろに付いていた天使共も雪崩のようにすっ転ぶ。そこには日比谷公園の大音楽堂がある。もうオーケストラの音合わせが始まっている。オーケストラの後ろにはコーラス隊がいる。壮太の好きなフォーレのレクイエム『Pie Jesu』。ボーイソプラノの聖なる独唱。なんて素敵なんだろう! 壮太はいつものように涙を流す。ティッシュ係のレオンが壮太にティッシュを渡す。
 ヘンデルのハレルヤの大合唱になる。本物の音楽堂は音の響きが断然いい。空高く響く。よく見ると、合唱団の中に、黒い頭の黒い翼の輩や、レインボーの頭のレインボーの翼の輩や、白い帽子を被ったメンソレータムのナースの輩が混じっている。更に目を凝らすと、合唱隊の中に、非番のメンソレータムの輩がいて、天使の輪をタンバリン替わりに鳴らしている。天使の輪は勘弁してよ、と言っている。壮太が笑っている。
 その後、モーツアルトのハレルヤの独唱になった。壮太がふと、レオンをよく見ると、彼はレモン色と薄茶の混じったヴィンテージのアロハを着ている。奇天烈だけど、レオンは何を着ていても可愛い。レオンは壮太の手を握る。壮太はプレイボーイを返上して、他の男と手を切って暫らく経つので、なんだか童貞に戻った気分で、レオンに手を握られた時、やばい感じ方があった。今夜かな? 今夜だろうな。
 演奏が全部終わった。壮太とレオンは走った。追って来る、翼の生えた連中をなんとか巻こうとした。連中は壮太とレオンの上にいて、羽がばさばさ落ちて来る。二人はその下を走った。やっと壮太のマンションだ。灯りを点けた。窓から何組もの目が覗いている。壮太はブラインドを下ろし、さっさと電気を消して、レオンとベッドに倒れ込んだ。窓の外から「ちぇっ」という、複数の声が聞こえて来た。
 

 
(了)
 

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