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小説『天使ってなんでデパートが好きなの? 第1話』

あらすじ
白檀の香りで壮太の恋人レオンが消えた。警察庁鑑識課は七名の超人的エスパーを召喚し謎に挑む。失踪事件は人気アニメ『白檀と扇子』に酷似していた。更にアニメの登場人物が実在することが判明する。警察はアニメの登場人物達を追い異世界へ続く穴を開ける。しかし穴は一方通行だ。異世界に着いた壮太はレオンと再会。そこは天使達が遊ぶ暖かい楽園だった。壮太が激しく敬愛する三島由紀夫がそこにいて盾の会メンバーと訓練に励んでいる。壮太は三島由紀夫と決別する辛い決意をし楽園脱出を図る。アニメで見た方法を試す。車で全速力で駆けると現実世界に戻るらしい。振り向くと壮太の車に天使が山の様に掴まっている。皆で一緒に帰ればいいか。

第1話~第3話 137,000字

 ほんとの命日は十一月二十五日なんだけど、壮太は混雑を避けて、毎年その前日にここに来る。前日に来る人は、勿論いない訳じゃない。だから壮太もそこに長くはいられない。前日に来るような人には、どこか共通して思い詰めたようで、寂しそうで、突っついたら泣いてしまいそうな、そういう危うさがある。きっと壮太もそんな風に見えるんだろうな。
 そんな訳ないのに、いつも三日前から、壮太に線香の匂いが付き纏う。どこから匂いがするのだろうと、犬みたいにあちこち嗅ぎ回って、やっとそれが幻覚だって気が付いた。線香の香りが余り強いから、考えて、病院に行った。
 医者は匂いの幻覚は、幻臭と言って、珍しいけど無い訳ではない、と説明してくれた。幻覚の種類が分かったからと言って、それが治る訳ではない。壮太が弔いに行く人の信条は神道で、線香は仏教のしきたりだから、なぜ線香の匂いがするのか余計に分からない。
 本当の命日、二十五日にはどんな人が来て、どんな物を手向けるのだろうか。壮太は知らない。普通の読者はこんな所まで来ない。ここまで来る人はきっと、文学・演劇青年か、カルト映画好きか、右翼の戦闘員か(そんな人が存在するのかは知らない)、国に忠誠を誓った自衛隊員か、バイセクシュアルのボディ・ビルダーか。それ以外で来るとしたら、お祭りの一種として、墓参りが一種のイベントとして、インテリぶりたくて来る、ということはあるだろう。
 壮太はきっと、自分は「文学青年」のカテゴリーに入ると思う。しかし、壮太は三島由紀夫の作品だけじゃなく、彼の生き様にも、彼の死に様にも、魅入られている。というより、憑依されている。年に一度、多磨霊園で三島由紀夫の御霊(みたま)に祈るようになったのは、大学を出て直ぐだ。
 そうしないと彼の御霊が「痛い」と言って、壮太の周りを徘徊する。

 切腹の基本は本人が自分の腹を切って、その痛みが長引かないように、後ろから日本刀で首をばっさり落とすというもの。後ろにいて首を落とす行為を介錯(かいしゃく)と呼ぶ。あの時、後ろから介錯した若者は三島の組織した「盾の会」のメンバーで、三島の彼氏だったという根強い噂がある。彼氏も、あの時亡くなっている。あれは心中だったと信ずる人達がいて、壮太もその中の一人だ。
 当たり前だけど、介錯した若者はそれまで一度も人の首を切り落としたことがないもんだから、何度も刀を振り下ろさなくてはならず、その時の痛みが痛むと仰る。身体中が痛いと仰る。
 痛いと言われると、壮太の身体も痛くなる。年に数回激痛が走り、医者にも原因が分からず、モルヒネを打たれて、病院のベッドに一週間くらいぐったり横たわる。特に左側の首。何度も切り損なって、まだ生きてて、まだ繋がっていた首の、そこがまだ痛いのだと仰る。あの方はいつも、痛いのを我慢されるから、壮太もどうしていいのか分からずに、涙が出て来る。
 
「どうして貴女は俺のこと覚えてるんですか?」
彼女が笑うから、壮太も声に出して笑った。彼女はいつもの壮太の予算ぴったりに、花束を二つ創ってくれた。彼女ちゃんと覚えていてくれる。なぜだろう? 
 本来、神式に供える榊(さかき)より壮太は花を好む。あの人は先祖代々のお墓に入られたから、御墓自体は仏式である。華やかだった彼の人生と同じような、綺麗な色の御花を届けたい。
「この紫の、染めてるんですか? 俺は染めてる花は嫌ですよ」
 例年になく、壮太は我儘を言った。壮太は紫の薔薇を抜き取ろうとした。不自然に蒼褪めた色をしている。
「調べたんだけど、それね、天然の色なんですって。昨日、オランダから空輸で来たの」
壮太は抜くのを止めた。彼女は壮太が毎年どの墓に行くのか知っているのだろうか? 記憶を辿っても、壮太がそれを言ったことはない。
「俺、花を紙で包むの嫌なんです」
また我儘を言った。でも、三島由紀夫だって、きっと同じことを言った。濃い色の薄紙で包んで、花自身の配色を誤魔化している。こんなにぴんと張った紙に包めば、誰が組み立てた花でも綺麗に見えてしまう。彼女だってそういうのが分かっている筈だ。
 彼女は紫と、それに重ねたクリムゾン・レッドの薄紙を外す。店の面積の三分の一くらいありそうな、巨大な冷蔵庫のドアを開ける。紫色の菊を選んで、花束の周りに足した。菊はいい。菊はお葬式の花だから。壮太は彼女が水槽みたいな冷蔵庫の中で、熱帯魚みたいに揺らめいているのを、面白いな、と思ってただ見ていた。彼女はいつも、熱帯魚みたいな、人が振り返るような、新鮮な色を着ている。
 足す花を選ぶために彼女に迷いはないし、壮太も何も言わないけど、やっぱり紙の色で誤魔化していたんだ、そういう偽善が嫌だ。紫の薄紙の替わりに紫の花を入れている。
 映画で観たけど、外国では白と黒、そして紫が弔いの色。彼女はきっとそれを知ってる。三つの紫のチューリップを中心に入れた。十一月にチューリップ?
「これはね、今朝、富山の生産者さんから来たのよ」
「温室?」
「一度見に来てくれって誘われて。温室と言うより工場みたい。びっくりした。水耕栽培で。光や温度を全てコントロールして。テクノロジーの勝利っていう感じ。神様がやる筈のことをやってる」
 彼女が笑って、また壮太も釣られて笑った。壮太はまだ彼女と話し足りなくて、壮太の後に来た客が三人、勘定を済ませるまで待っていた。三人共、出来合いのブーケを買ったから、そんなに長い時間ではなかった。その人達が買ったのは、壮太みたいな、大袈裟な花束じゃなくて、墓参り用の地味なものだった。
 霊園の見える場所にある花屋にしては、彼女の得意は、結婚式に飾るみたいな豪華なものだ。そんなの、どんな人が買うんだろう、って考えたら、壮太もその一人に違いない。
 
「どうして貴女は俺のこと覚えてるんですか? 年に一回なのに」
壮太はもう一度聞いた。
「……貴方はね、誰かと似てる」
「誰? どんな人?」
 そこで、また客が入って来た。若いカップルだった。十一月に死んだ人って多いのかな? 今日が命日かどうかは分からないよな。カップルの女の方は何も言わないのに、男の方がうるさい。花の選び方に注文を付けて、出来上がってから値切ろうとする。
 この店は造りも派手で、壁一面に花を模した抽象画がプリントされてある。花屋と言うより、最先端のブティックみたいだ。彼女のメイクや服装だって、アートみたいだ。本当の年より随分若く見えるんじゃないか、と壮太は予測したけど、彼には彼女の年は分からない。
 花に囲まれていると、きっと若くいられる。壮太の住む商店街の果物屋の猫が、幾つかは忘れたけど長生きして、区役所から表彰されたことを思い出した。花や、果物に囲まれていると若く見えて、長生きをする。年に一度しか会わない人の、変わらないことに驚く。
 この花屋はどうして結婚式場の近くじゃなく、墓石ばかりが、どこまでも、どこまでも、並ぶような、こんな所にあるんだろう? 彼女のカンバスのエプロンは壁の絵と同じ花のプリントだ。彼女も御花の中の一つみたいだ。
 
「誰? 誰に似てるの?」
客が途切れた時、壮太が聞いた。
「……私の死んだ息子」
なんだ。聞かない方がよかった。
「ここにうちの先祖のお墓があって、息子もここにいるから」
だからこんなとこには似合わない、派手な花屋をやってるんだ。
 三島の御霊みたいに息子さんも徘徊するのかな? 
「店にも来る?」
「大体ここにいる」
「店を手伝ってくれる?」
「花束を創るセンスがないみたいから、力仕事ね」
 大きな音がして、二人は驚いて振り返った。棚に置いてあった線香が箱ごとコンクリートの床に落ちた。床の線香の量からして、箱にはほぼ一杯入っていたようで、おまけに、強風が来たって絶対落ちない場所に置いてあった。センスがないと言われたから怒ってるんだな。
 またお客さんだ。壮太は床に散らばった線香を拾ってあげた。折れた物もあったけど、大部分は大丈夫だった。折れた線香から白檀の匂いがして、吸い込んだ時に胸が痛む程で、壮太は、外の空気を吸おうとして立ち上がった。
 外の明るさと、店の暗さの中位の所に、半透明の黒い棒が集まってできた輪郭が見える。日常、壮太が見るような、子供の霊じゃないんだよな。大人。でも壮太よりはずっと若い。壮太は来年三十だ。花屋の幽霊。壮太に似てるという。似てるかな?
 線香って神式では使わない。でもこの匂いは壮太の周りを、今年も三日間漂っていた。三島は死ぬ直前、「天皇陛下万歳!」を三唱したから、やっぱり神式の人なんだろうけど。壮太に幻臭のコントロールはできない。線香の香り、線香の香り……。気になって調べたら、線香には白檀の香りが付けてある……。
 
 偶然だろうけど、先日レオンと一緒に観たアニメに、白檀が出て来る。タイトルは『白檀と扇子』。レオンは夢中になって、もう何度も観ているらしい。主人公は高校一年生の男子。白檀の匂いを嗅ぐと、前世に飛ぶ。レオンが好きな「転生もの」。「転生もの」というのは、若者に人気の小説、漫画、アニメのパターンで、登場人物が、突然誰かに生まれ変わったり、突然次元を超えて旅をしたりする。
 筒井康隆原作の『タイム・トラベラー』というテレビドラマがある。主人公の女性は、ラベンダーの香りで、時間を行ったり来たり旅をする。一九七二年に放送されたドラマは、カルト的に人気があって、もう失われたフィルムを、皆で必死に探している。最終回だけは見付かったそうだ。壮太も観たが、やっぱり昔のドラマだな、という気がして、大きな感動はなかった。
 『白檀と扇子』の主人公は前世、ロシア皇帝ニコラス一世に飼われていた猟犬のボルゾイだった。伝説に過ぎない、と言われた純白のフォックス(狐の一種)の後を追い、見事に獲物に食らい付くが、逃げられてしまう。次の日彼は学校で、見たことのない色の白い女子高生に出会う。彼女の首には牙の痕がある。主人公の歯と同じ幅の二つの穴……。
 その先は忘れた、と言うより、壮太はすっかり眠ってしまった。レオンの好きなアニメ、一緒に観て上げたいと思ったけど、世代の差には勝てない。「転生もの」は若者が対象だ。レオンは壮太の足を何度か蹴ったけど、壮太はカウチの上で寝てしまった。
 猟犬になったり、高校生に戻ったり、それの何処が面白いのか分からない。更に分からないことに、アニメの中に同じアニメを見ている主人公がいる。ボルゾイになったり、また高校生に戻ったりするのを自分で観ている。それも何処が面白いのか分からない。
 三島の御霊にやられて、激痛でモルヒネ漬けになる怪奇現象に比べたら、あんなアニメなんて可愛いものだ。原因が分からないんだ。医者に、今時モルヒネなんて使うのは、末期がんの患者と君だけだ、と言われた。
 レオンに三島由紀夫の小説を読ませてみた。同性愛の世界を描いた『禁色』だけ面白かったけど、後のは読む気がしないと、全部返してくれた。「転生もの」じゃないと面白くないのかな。
 
 三島が海外でここまで特別視されるのはなぜだろう? 壮太は海外のネットにある限りの、三島についての動画を観た。彼の人生を考察するような動画が沢山ある。それは書評だったり、そうじゃなかったりした。三島は自己のイデオロギーのために死んだ、近代では世界で唯一の人物だ、と語る人がいた。
 面白い書評があった。アメリカ人の動画で、私は三島のこの作品の、ここまでは分かるけれども、ここから先は私には理解できない、それは私は日本人じゃないから、と説明していた。日本人じゃないと分からないこと。三島の本にはそういうことが書いてある。
 
 ……線香の匂いで胸が痛い。床に落ちた線香。あんな所まで飛んでいる。しゃがんでいる壮太の肩を、つんつん叩く奴がいる。壮太のいつものフォロワー達だった。
 今日はやけに人数が多い。三十匹位いる。いつもの金髪の巻毛を黒くして、天使の輪っかも黒光りして宙に浮き、青い目も黒くなり、白い翼も黒になっている。壮太と同じような黒いスーツを着て、ぴかぴかの黒い革靴を履いて、黒いネクタイを締めて、すましている。
 花屋の女性は列に並んだそいつ等、一人一人にパンジーの花を持たせる。
「いいんですか?」
「息子がそうしろ、って」
 ひらひら可愛いパンジーを貰って、嬉しくて、花をぐるぐる回わして、ばたばた宙に浮くのがいる。「御弔いだから」と、皆でそいつのちっちゃい足を引っ張り下ろす。そして、その浮いてた奴の頭をぺんぺんして、ネクタイを真っ直ぐにして上げる。それを見ていた他の奴等も御互いにネクタイをチェックし合っている。
 しかし、壮太には連中が話す言葉が分からない。ヨーロッパの、ルネッサンスより、バロックより、もっともっと、むかしむかしの言葉。
 花屋にお礼を言って、壮太は三島の墓に向かう。夕べの雨風で地面が濡れている。紅葉の見頃だ。気の早い樹はもう葉を落とし始めている。夕べの風のせいかも知れない。壮太の靴の裏に落ち葉がくっ付いて、壮太は足を止めてそれを剥がそうとする。急に止まった彼の後ろに、次々と将棋倒しになる輩がいる。直ぐ後ろにいる奴が、壮太の足に蹴りを入れる。わざとじゃないから。
 広い霊園に少し迷う。うろうろするとまた蹴りを入れられそうだから、立ち止まるのはいいアイディアではない。ふと、後ろを見ると、黒い翼の連中が、ニスを塗った、ちっちゃな木の棺桶を担いでいる。よくドラキュラが入ってたみたいな、ああいう西洋風な曲線を描いた棺桶。頭の方が広めで、足に行くと細くなる。
 
 歌う。レクイエムを。三十匹で。有名なフォーレのレクイエム『Pie Jesu』。見事なハーモニー。皆、御口をしっかりぱくぱく開けて、一生懸命歌う。まるで、天使のようだ、って天使か。ボーイ・ソプラノの聖なる独唱。澄んだ空を震わせて、天上に響く。神様の為に。なんて素敵なんだろう! 神様ってほんとにいたんだ! 壮太の目から、宝石のような一粒の涙。
 三島の御霊に花を捧げる。彼女が創ってくれたブーケ。紫のチューリップ。それは御弔いの色。壮太は墓前にしゃがんで静かに手を叩く。後ろにいる全員も、壮太と同時に手を叩く。……意外と三島の墓って小さくて地味なんだよな。生涯はこれ以上ないほど派手だった癖に。
 後ろを通り掛かった墓参りの家族連れがいる。両親と高校生くらいの女子、中学生くらいの男子が一緒だ。中学生がでかい声を上げる。
「ああっ、可愛い!」
両親と姉はなんのことかと、辺りを見回す。
「天使がいっぱい、お祈りしてる!」
姉が弟を馬鹿にする。
「馬鹿じゃないのあんた」
見える人と見えない人がいるんだ。お花屋さんとお花屋さんの亡くなった息子には見えてたよな。翼の生えた連中は、男の子に笑顔で盛大に手を振る。男の子も振り返す。
 
 あろうことか、連中はちっちゃなスコップで、三島の墓の隣を掘り始める。壮太は驚いてスコップを取り上げる。地面に置かれた棺桶の蓋が細く開いて、中から一匹の天使が、青い目だけで覗いてる。なんだ、中に誰かいたんだ。
 そいつが棺桶の蓋を勢いよく開けて、中から飛び出す。死人の役は、いつも通りに、金髪のくるくるの巻毛に、金色のきらきらの輪っかに、白い翼をぱたぱたさせている。Bouguereauの描いた悪戯者の天使そっくりな。頬っぺたと、裸の御尻の天辺がピンクで。むちむち太った手足と、ちょっと突き出たお腹が可愛い。人間なら二才から五才くらい。でも大きさは人間の幼児の半分くらい。それって有り得ない大きさだから、やっぱり奴等は人類でない何か。
 金髪はどうやら死人の役が気に入らないらしい。怒りを露わにし、棺桶の上に乗ってばんばんジャンプする。そのくらいのことで、棺桶はばらばらに破壊されてしまう。意外と安普請だ。
 連中は三島の墓を取り囲んで、ヘンデルのハレルヤを歌う。各々の手にちっちゃな楽譜が広げられている。花屋で貰ったパンジーは、可愛く巻毛に挿してある。宙に浮いて指揮棒を振っているのがいる。「ハレルヤ! ハレルヤ! ハレルヤ!」と賑やかに合唱する。なんだか、ますます宗教が滅茶滅茶だな。
 いきなり指揮者が棒を空高く振り上げる。その瞬間、皆が一斉に素早く楽譜をめくる。その真剣な眼差しに、壮太も思わず釣られてハレルヤを歌う。なかなかボーイ・ソプラノに付いて行くのは大変だ。調子は外れているけど、壮太は構わず声を張り上げる。
 水の入ったバケツと柄杓を下げた老夫婦が、壮太を憐れむようにこっそり見ながら通り過ぎた。
 
 そう言えばレオンに言われたな。Bouguereauの天使はほんとは天使じゃなくて、よおく見るとちっちゃな矢を持ってるから、あれはキューピッドなんだって。レオンの言うことなんて、あんまり当てにならないけどさ。
 天使達全員が、次々と地を蹴って、空に向かって舞い上がる。あんなに急いで、どうしたんだろう? 全員の羽ばたきが集まって、嵐みたいな風が巻き上がる。一瞬にして空を覆う黒い翼。黒い羽がばらばら落ちて来て、壮太の頭や鼻に着地する。皆は何か空の向こうに行く物を追っている。
 なんだろう? あ、今、雲間から透けて見えた! 派手に金色に光る何か。金色は人魂みたいにひゅるひゅる飛行する。一匹の、天使だかキューピッドだかが、もう少しで金色の人魂に触れるところまで行ったけれど、捕まえることはできなかった。連中はいつまでも雲の下と雲の上を探している。
 
 携帯で検索する。人魂は死人の身体から離れた魂、なのだそうだ。空が羽ばたきだらけで、うるさい、うるさい。スペースシャトルくらいの迫力がある。黒い羽がもっと落ちて来る。壮太は携帯から顔を上げる。なんで天使達はあんなに必死になって金色を探すんだろう? 
 一匹が降りて来て、壮太の手を引っ張り、方向を指し示す。あ、あっちだ、人魂がいた! 壮太の背後にいた。プロペラ機くらいの猛スピードで、雲の下と上をジグザグ飛行している。その後を黒い翼達が追い駆ける。
 雲はさっきよりもっと厚くなり、色ももっと黒味を増す。人魂に空の神様が反応しているんだ。ジグザグ飛行を止めさせようとしてる。雷? いきなり雷が落ちて来る。人魂を目掛けて落ちて来る。黒い雲と黒い天使達が、包むように金の人魂を追い詰める。
 空中で、雲と地上の真ん中ら辺で、人魂が飛行を諦めて、ただ浮いている。三十匹の羽の生えた者達が、人魂を囲んで、何やら話し込んでいる。人魂は金色にぶるぶる震えていて、天使達は一生懸命、人魂をなだめている。天使が人魂の頭を撫でている。人魂は、なんだか悪戯をして叱られている、小さな子供みたいに見える。下を向いて、いじいじしている。
 とうとう人魂は天使に手を引かれて、三島の墓の前に着地する。壮太が駆け寄ると、人魂は、天使達に後ろを押されて、墓石の中に消えてしまう。消える一瞬前に、こちらを振り返って、皆に御丁寧なお辞儀をする。そして消えてしまう。
 壮太が今見た人魂は、金色の、ぷるぷるしたプリンかゼリーみたいな物だった。それが墓石の中に消えた瞬間、壮太の首に違和感が。何度も経験のある壮太は、自分に危機が迫っているのを知った。首に激痛が走る。よろめいて、地に倒れ、気を失う……。
 
 目の前を忙しく動き回る者が沢山いる。少しずつ壮太の目の焦点が合ってくる。何度も経験している。痛みは感じないが、モルヒネの強烈さで、身体が全く動かせない。ここはどこ? 私はだれ? 周りを見回そうとすると、メンソレータムの缶に描いてあるナースみたいな恰好をした天使が、動いちゃ駄目ですよ、と、前に出した人差し指を横に振る。大きな目がきょろきょろ動いて、壮太が大人しく寝ているように、見張っている。
 白い襟の付いた黒いワンピースに、ギャザーのたっぷり寄った胸当てのある白いエプロン、そして大変、古風な、可愛い、白い、ナースの帽子を被っている。そんな恰好をした天使が十匹くらいいて、ばたばた介抱してくれる。
「原因が分からないから、予防のしようがない」
いつものドクターだった。壮太と年が変わらないような若造。
「君の症例を学会に発表したいから、もう少し治らないでいておくれ」
彼はそういう無責任な発言をした。
「この子達はほんとに良く働いてくれるね」
天使達が天使のように微笑む。今日は皆、翼も真っ白で、普通の金髪の巻毛で、天使の輪も金ぴかで、目は青かった。ぱたぱた走り回ると、翼の先っちょの羽がひらひら揺れる。このドクターにはこの子達が見えるんだな。
 
 つやつやした健康的な御肌の裸の天使達が病室を覗いている。誰かを連れている。その誰かの手を引っ張っているのが何匹かいて、その誰かの背中を押すのが何匹かいる。
「レオン」
「僕、別に来たかった訳じゃないからね」
天使に無理矢理、連れて来られたんだ。天使も御疲れ様だ。レオン、不貞腐れてる? 壮太とレオンは、飽きもせず喧嘩のネタを見付けるから。何を怒ってるんだっけ? 今度はどのネタだったかな? 
 レオンは高校の制服を着て、とても可愛い。紺色の水兵さんみたいなセーラー・カラー。学校ではそれを嫌って、家から持って出て、学校で着替える生徒も多いらしい。しかしレオンは、それが似合って可愛いと自分で思っているらしいから、外でもちゃんと着ている。レオンがふざけてセーラーカラーで水兵さんの敬礼をすると、可愛くて、可愛くて、たまらない。
 レオンは、ベッドの側にある丸椅子に、壮太に背中を向けて腰掛ける。白い三本線の入った襟が見える。男のセーラー・カラーがそそる。十九世紀のヨーロッパでは、男の子は皆、セーラー服を着ていた。
 あれってなんでだったんだろう? 女の子もセーラー服を着てたけど、特に男の子がセーラー服を着ていた。流行にしては期間が長過ぎる。きっと理由があった。
 天使が一匹、レオンの手を引っ張って、壮太の手を握らせようとする。レオンの手は、やっと壮太の手に触れたけれども、レオンはやっぱり背を向けたままだ。
「なんだ?」
壮太は顔を上げようとする。ナースの帽子を被った天使が飛んで来て、また人差し指を振って、だめだめをする。仕方がないので、寝たまま話す。
「なんだ?」
壮太はもう一度聞く。天使達は忙しく振舞っているが、好奇心一杯に、耳ではしっかり会話を聞いている。
「由紀夫さんのことばっかりで……」
レオンは三島由紀夫のことを、由紀夫さん、と呼んでいる。最初は遊びのつもりだったけど、レオン本人も、由紀夫さんが気に入って、ずっとそう呼んでいる。
「なに?」
「なにか御忘れなんじゃないですか?」
そう言われても、忘れたことは思い出せない。
「知らない!」
レオンは部屋を出ようとする。お節介な天使達が、まあまあ、まあまあ、と押し返す。
「……欲しい物あるか、って聞くから言ったのに」
壮太は今のセリフを反芻する。欲しい物?
「あーあ」
「あーあ、じゃないでしょ、もう知らない」
 
 レオンの誕生日。由紀夫さんの命日なんだよな。壮太にとって由紀夫さんの命日は十一月の二十四日だから。他の人より一日早いから。だから、なんでか知らないけど、その二日間の特別な儀式に紛れて、去年もレオンの誕生日を忘れて、その時はマジで別れると騒いだ。今年はそこまで怒ってないみたいだから、彼も少しは成長したのかな、と壮太は期待してみた。
「じゃあ、僕の欲しい物、言ってみて」
レオンと天使達が大注目する中、壮太は口を開く。
「あれだろ? あの、アニメのだろ? 香水、180」
「360でしょ、ペリー・エリスの!」
あの、猟犬になったり高校生に戻ったりする、レオンお気に入りのアニメ。白檀の香りを嗅ぐと異世界に飛ぶ。行ったり来たりする。白檀の香りのフレグランス。ペリー・エリスの360。そう、そう、レオンはあれが欲しかったんだよな。
 レオンは、アニメの中だけの話と思ってて、偶然、コンビニで立ち読みしてたファッション誌の広告で、そのフレグランスが実在することを知った。それで、凄い、凄い、欲しい、欲しい、って騒いで。
 調べてみると、ペリー・エリスは、ニューヨークで活躍したファッション・デザイナー。気品あるスタイルと、夢見るようなパステルカラーが特徴。一九八六年に四十六才の若さで、エイズで亡くなっている。彼がゲイだったことも、きっとレオンの興味を惹いてる。 
 八十年代、才能のあるアーティスト達が、エイズで倒れた。人気絶頂だった二人のバレエダンサー。ヌレエフが一九九三年、ジョルジュ・ドンはその前の年に亡くなっている。カラバッジョの伝記映画を撮った、映画監督のデレク・ジャーマンは一九八四年、ディスコなヒット『YMCA』を作曲した、ジャック・モラーリは一九九一年にそれぞれ亡くなっている。
 
「痛い! 首が痛い!」
壮太の叫び声が病院中に響き渡る。ちっちゃなナース達がばたばたドクターを呼びに行く。ドクターが注射器を持って飛んで来る。
「この痛みは、一体どういうメカニズムで起こるのか?」
「考えなくっていいから、助けてくださいよ、ドクター!」
注射器に入ったモルヒネが、針を通して少しずつ、確実に壮太の身体の中に流れて行く。モルヒネが全部、身体に入り切ったところで、壮太は気を失う。気を失う瞬間、誰かが壮太の手を握った。絶対間違いない。レオン。
 モルヒネで見る夢は、なぜかいつも悪夢だ。金色の人魂が三島の墓からするする這い出して、宙で乱暴なアクロバット飛行を繰り返す。三十匹のレインボー・カラーをした天使達も、アクロバット飛行で追跡する。
 天使は皆、空軍の制服を着ている。紺色で、帽子と胸にカッコいい飛行機のワッペンを着けている。どっかで見たことあると思ったら、それはあれに似ている。一九六五年に放送された、国際救助隊『サンダーバード』だ。イギリスの人形劇。素晴らしいデザインの飛行機が幾つも出て来る。
 天使達は空中で、見事な隊列を作る。飛行はするけど、飛行機には乗ってない。どっちかというと空飛ぶスーパーマンみたいなノリだ。引っくり返っての難しそうな飛行。大きく弧を描きながら交差する、もう少しでお互いがぶつかりそうな、どきどきの飛行。
 連中の髪の毛も、天使の輪っかも、翼も、目の色さえ七色レインボーだ。剛速球で飛ぶ三十匹の吐く、飛行機雲もレインボーだ。空いっぱいに虹が広がる。熱気でむせ返る様だ。天使の翼の音がばたばたと空中に響いている。一枚一枚に七色がある羽がひらひら舞い落ちる。この世の生物とは思えない、鮮やかさだ。この世の生物じゃないけど。
 総天然色の大活劇! 壮太はいつまでも追い掛けっこの夢に引き摺られて、なかなか目を覚ますことができない。人魂は再び天使達に捕まって、墓の中に戻る。あの人魂はなぜ、なにを求めて墓を抜け出し飛ぶのだろう? なぜ天使達は人魂を呼び戻そうと、あんなに頑張るのだろう? なぜだろう、なぜだろう?
 
 そこまで夢見た時、壮太の意識が戻った。十匹の天使が壮太の頭上を、まあるく囲んでぱたぱた飛んで、彼の顔を心配気に覗き込んでいる。輪っかも翼も髪もレインボーだ。夢に出て来た。レインボー色の瞳、という物を壮太は初めて見た。
 レオンは学校がない日に、よくカラコンをしている。右目ががオレンジで、左目がグリーンで。ネオ・ピッピーの渦巻きレインボーのTシャツを着て。全身カラフルなレオンと歩いていると、なにか、どこからか来た謎の生物と歩いているような気がする。どこからか来た謎の生物なら、いつも周りに沢山飛んでいるけど。
 レオンは壮太にファッションを合わせる気は、さらさらないようだ。壮太はフリーの株屋で、主に海外の資産家に日本の新しい企業の株を買わせて、上手く金儲けをさせて、手数料を取る。数字の世界だ。グラフやら、チャートやら。外に出る時はスーツを着る。仕立てのいいスーツ。信用を得るため。
 
 天使の瞳は、レオンの透明度の低いカラコンと違って、どこまでも清い湖のように透明だ。数えたら、ちゃんと七色ある。赤・橙・黄・緑・青・藍・紫。
 レインボーの瞳をしげしげと見ていると、その瞳の中に、金色の人魂がひょろひょろ動いている。天使達は落ち着きなく、ばらばらに散って、部屋の中を、ばさばさ、きょろきょろ飛んでいる。どこに行っていたのか、メンソレータムのナース十匹が戻って来て、壮太のまだ痛む首に、メンソレータムを塗ってくれる。
 壮太はメンソレータムの清涼感にエクスタシーを感じた。それで、ふと窓の外を見ると、そこに金色の丸い物がいて、こっちを、こっそり、じっと、覗いている。壮太が、まじまじ見てるもんだから、レインボーの天使達に直ぐ見付かって、人魂は凄い勢いで逃げて行く。
 レインボーの天使達は、窓を開け放つと、人魂の後を追う。一匹ずつ窓枠を大きく蹴って、宙に飛び立つ。ここは病院の三階だ。あれっ、皆、手に弓矢を持っている。戦闘態勢だ。弓矢を持っているのは、天使じゃなくてキューピッドだって、レオンが言ってたな。
「どうして、あいつ等は人魂を追い掛けるんだろう?」
「出て来ちゃいけないものだから、って」
声の方向を見ると、レオンがパソコンに向かって宿題をしている模様。
「あれっ、レオン、まだいたの?」
と、言ってしまってから、それってせっかく見舞いに来てる奴に失礼だったかも、と、壮太は思ったけれども、もう遅い。話を逸らせる作戦。
「誰に聞いたの、出て来ちゃいけないものだから、って?」
「今、出てった天使の一匹が言ってた」
天使の言ってることが分かるんだ。じゃあ、ここにいるナースの言ってることも分かるのかな? レオンに通訳を頼んでみよう。
「レオン、このナース達、なに言ってんの?」
「折角、見舞いに来てる人に、まだいたの? は失礼だ、と言ってる」
いけない、話題が元に戻ってしまった。レオンは更に通訳してくれる。
「でも、こういう病気の時はしょうがないから許してあげる、と言ってる。古い言葉、良く聞いてると分かる。ジェスチャーとかもあるし」
おやおや、レオンは壮太が思ってるよりずっと賢い。
 ナースの天使の一人がちっちゃな手で、壮太の首を優しくマッサージする。戦闘に出たレインボーの兵士達はどうしているだろう? 壮太は窓の方を見る。レオンが宿題をやりながら言った。
「人魂は危険じゃないから大丈夫」
「おや、君は俺の考えが分かる」
「単純だから、壮太は」
 
 病状が落ち着いて、やっと壮太の退院の日が決まる。レオンが、また壮太のお気に入りのセーラーカラーで見舞いに来てくれた。二人で病院の外に出る。ここは大きな総合病院だ。正面入り口の、一番人が通る所に、大きな噴水がある。二人で噴水の縁に座る。水が跳ねて細かい霧になっている。霧に当たっていると、病んだ身体に涼しくて気持ちがいい。
 噴水には大きな石造の天使が二匹いる。壮太のフォロワーみたいに子供サイズじゃなくて、大人の天使。一匹は跪いてお祈りをし、もう一匹は両手を広げて天を仰いでいる。壮太は何も言わなかった。何も言わないで、二人で噴水にいるのも、意味不明なフランス映画みたいでかっこいいかな、と壮太は考えた。
 非番のメンソレータムのナース達が、自分の天使の輪っかを浮き輪替わりにして、噴水の水の中でじゃぶじゃぶ泳いでいる。お互いに水を掛け合ったり、バタ足をしたり、犬搔きをしたり、甲高くキャーキャーうるさい。そして奴等は、病院から出入りする人々に盛大に手を振る。天使のことが見える人にだけ。いつものように壮太は疑問を持つ。この見える人と見えない人の違いはなんだろう?
 見ていると、年も、性別も、関係ない。比較的、子供には見えるような気がする。しかし、そうとばかりは言えない。さっきここに年寄りの患者がいて、その人は男性で、無表情で噴水を見てるから、噴水を見てるだけかと思ったら、立ち去る時、可愛いな、って呟いたのが聞こえた。
「天使が見える人と、見えない人の違いはなんだろう?」
壮太はカッコいい意味不明なフランス映画から脱却して、声を出した。
「こないだ聞いたけど、あれは連中が見えて欲しい、と思った人に見えるんだって」
「え、じゃあ連中が決めてるんだ!」
 天使が周りを飛ぶようになったのは、三島の墓参りに通い始めた頃だ。最初は珍しいから、よく動画に撮った。人に見せると、何も写ってない動画ばかり撮ってどうするんだ、と聞かれた。
 壮太は試しに、今そこで行われている水浴び大会を撮影してみた。再生するとやっぱり、わーわーしてるのが、ちゃんと撮れている。レオンの可愛い横顔も、ばっちり撮れている。
 
「壮太ね、病気良くなったから言うけど……」
なんだろう、また自分がなんかしたんだな、と壮太は身構える。壮太はなんでも忘れるから、あまり恋人向きではない。
「僕、幾つになったか知ってる?」
フランス映画の真似をしてたから、二人は並んで座ってなくて、でも背中合わせでもなくて、その中間の九十度くらいの感じで座っていた。壮太が病院の方向を向いて座っていて、レオンは噴水の縁の上に体育座りをしている。だから、お互いの顔を見るためには、どちらかが姿勢を変えないといけなかったけど、その会話には、まだお互いの顔を見なくてはならないような場面はなかった。
「あの人魂ってなんなんだろう?」
壮太は不味い話題になったから、それを逸らそう、としているのではなく、ほんとに人魂のことが頭に浮かんだから、そう言ったのだけれども、レオンもそれは理解していた。
 多磨霊園に行って調べた方がいいかな。あの連中があんなに懸命に追い駆けるから。ついでに花屋で花を買って。息子さんの幽霊にも挨拶をして。
「由紀夫さんの御墓? 僕も行ってもいいよ」
こいつは俺が何も言わなくても分かるのに、俺はいつまで経っても、何も思い出せない、と壮太は反省する。
「壮太、考えて、僕が幾つになったか。話したでしょ、あのアニメ観ながら」
あの、俺が熟睡に沈んだアニメか、と壮太は思い出す。白檀の香り。そうだ、あのフレグランスを買ってやらないと。ネットで買って、レオンの家に送るか?
「僕、できたら、壮太と一緒にデパートとかに行って買って貰うのがいい」
浮き輪で浮いてる非番のナース達が、調子に乗って壮太とレオンに水を掛ける。なにするんだよ。壮太とレオンも皆に仕返しをする。こいつ等は、きゃー、きゃー、ほんとにうるさい。弾ける水と太陽。幸せの絶頂って、こんなことなんだよな、と、壮太の心は感動に震える。
 
「退院した次の日に由紀夫さんの御墓を見に行こう」
レオンがそう言って、壮太はさっき聞かれた、レオンの年について考え始めた。アニメ観ながら話したってことですけど、割と早い段階で寝ちゃったからなあ。壮太は思い付いて、自分が何処の場面で寝たかを思い出してみた。
 高校一年生の男子が主人公で、天使、という変な名前。ある日、亡くなった御祖母ちゃんの部屋で、白檀でできた扇子を発見する。主人公が小さい頃、その扇子を玩具にするので、御祖母ちゃんが箪笥にしまったものだ。しかし、その匂いを嗅いだ途端、彼は自分の前世に飛ぶ。
 彼はボルゾイという種類の猟犬で、ロシア皇帝ニコライ一世に飼われていた。犬は虚弱体質で身体は小さかったが、嗅覚が兄弟に比べてもとても鋭い。ニコライ一世の在位期間は、一八二五年から一八五五年。
 何度か目撃されていた純白のフォックス。単なる伝説ではないか、とも噂されていた。鹿狩りの途中、主人公のボルゾイは、フォックスの匂いを嗅ぎ付け、御主人様に無断で隊を離れ、横道に入る。そこでフォックスと一騎打ちになり、彼はフォックスの首に噛み付く。
 そしたらそこで、転生ものにありがちな、大した意味もなく、高校の場面になり、主人公はお兄ちゃんが忘れて行った弁当を届けに、三年生の教室に行く。そこで、色の白い美少女に出会う。彼女が長い髪を白い手でよけると、首に二つ並んだ穴がある。それは丁度、主人公の牙と同じ間隔に並んだ傷跡だった。
 それから、そうそう、主人公が持っていた、御祖母ちゃんの、白檀の扇子を見た美少女が、それは私の物だと言って、扇子を取り上げ、怒った猟犬は、獰猛にその手に噛み付き、血が床を染める。
 それから先は覚えてないから、きっとそこ等辺で寝ちゃったんだな。あ、そうじゃないや、その勇敢な猟犬に惚れた優等生の女に、デートしてくれ、と頼まれ、最初は嫌がっていた主人公は、実は優等生はロシアとのクオーターであることを知り、ロシアに興味を惹かれた主人公は、彼女とカフェでデートする。
 そしたら、隣に白檀の香りの男が座り、主人公は歯に違和感を覚える。急いで男に何のフレグランスを着けているのか聞く。それはペリー・エリスの360というのだと知り、デートを放り出して家に逃げ帰った主人公が鏡で見ると、自分に鋭い猟犬の牙が生えているのを見る。
 そこまでだ。そこまでしか覚えてない。非番の天使達は水から上って、そこ等で輪投げを始める。それまで浮き輪だった天使の輪っかが、今度は輪投げの輪っかになって、可哀そうに疲れ切っているように見える。
 
「……そしたらそこで、壮太がマジで寝そうになっちゃったから、僕がカウチから床に移動して、壮太のいるカウチに背中を持たせ掛けて座ってたでしょ。そしたら壮太が僕の髪を後ろから撫でたでしょ? そしたら僕がそこは駄目って」
そこは駄目、ねえ。
「僕の髪は僕の性感帯だから、僕どうなるか知らない、って」
そうだったか?
「そしたら壮太が、俺は未成年とは付き合わない、っていつもカッコよく言ってる癖に、髪に触るの止めないから、僕が緊急事態に陥って、壮太の上に乗ったら……」
「あーあ、今度の誕生日で十八になるんだろう? そしたら思いっ切りやれるじゃん、って俺が言ったんだろ?」
「これだけヒント上げないと分かんないの?」
「じゃあ、レオン、……十八になったの?」
 壮太は突然ナーバスになった。可愛がってきた若い男の初めてを頂くなんて、自分にそんな資格があるのだろうか?
「僕にアイディアがあるんだけど、由紀夫さんの御墓に行った後、一緒に壮太の所に行くから」
「なんで御墓の後なの?」
「なんだか盛り上がりそうじゃん。由紀夫さんのことを精一杯思った後で」
「普通、そういうのって嫌じゃないの、他の男のこと考えた後なんて?」
「由紀夫さんなら全然嫌じゃない」
 ふと見ると、天使達は今度は、輪っかをフラフープにして遊んでいる。可哀そうな輪っか達は、疲れ切っていた上に、更にフラフープでぐるぐる回されて、目が回っている。そしてまた、ふと見ると、非番じゃない、当番のナース達が、ぞろぞろ病院の入り口にいる。
「ほら、壮太、もう行かないと。御薬の時間だって」
「え、なんでそんなこと分かるの?」
「よく見て。皆で一斉に手招きして、薬をぬりぬりする真似をして、腕時計を指差して、頭がつんがつんしてるでしょ。あれは、病室に帰りなさい、お薬をぬりぬりする時間でしょ、早く帰って来ないと、頭がつんがつんですよ、って言ってんの。なんでそのくらい分かんないの? もう、こういう鈍い人のこと好きになんの止めようかな?」
 
 無事に退院した壮太は、レオンと多磨霊園へ向かった。何年も通っている場所だけれども、いつものことだけれども、御墓のある駅に近付くと、首の激痛を思い出し、落ち着きが無くなり、集中力も無くなって、降りる駅を通り過ぎたこともある。
 墓参りの時、壮太の頭に流れているのは、あの線香の匂いだった。幻覚にしては余りに鮮やかな香りだから、壮太は一度、医者に行ったこともある。MRIを撮られたが、脳に異常はないと言う。耳鼻科にも回されたが、大丈夫だと言う。
 レオンに、多磨霊園に行くには、京王線の「多磨霊園駅」より西部多摩川線の「多摩」という駅の方が近いと言われた。その乗ったことのない西部多摩川線で、降りたことのない「多摩」駅に向かった。壮太は「多磨霊園駅」と言う割には、多磨霊園まで随分遠いな、と、薄々感じてはいた。三島の御霊を全身で感じていたから、それどころではなかった。
「多摩」駅からは歩いて五分だった。レオンの言う通りだ。レオンだって、世間の一般からすると、そんなに世渡りに長けた人間だとは思わないけれども、壮太は自分がそのレオンよりも世渡りが下手なのだ、と今日は改めて思い知った。
「多摩」駅の周りには、どこにでもよくあるような商店街があり、多磨霊園までは細い道が続いていた。鉢植えの見事な蔓薔薇があった。壮太は足を止めて眺めた。ビロード状のクリムゾン・レッド。花全体がパールのように輝いている。顔を近付けてみたら、なんだ、やっぱり線香の匂いがする。
 花屋で花を買おうとしたら、忙しくて暫く待ちそうだから、予定外のカフェに入るということになった。東京にもまだこんなに素朴なカフェがあるんだな。戦後直ぐからありそうな、木のテーブルにも椅子にも、沢山の手や指で触れられて、削られたような跡がある。
 考えたら、今日は土曜日だった。だから花屋があんなに忙しいんだ。待てよ、だったら自分達がこんなカフェで待ってたって、花屋が暇になるとは思えない。
 
「壮太ってさ、ここまで鈍くてよく仕事できるね」
株屋っていうのは才能の問題だから。頭を使ってできるものではない。感性の問題だから。
 レオンを改めて見ると、なんだか魚を捕る網みたいなセーターを着て、その下から透けて見える長袖のTシャツは大分カラフルだ。レインボーの色が渦巻きになっている。
「何処に行くとそういうTシャツ買えるの?」
「自分で染めた」
「え、そんなことできるの?」
「簡単、今度教えてあげる」
 三島の御霊に会いに行くのだから、壮太は黒のスーツを着た。ネクタイは黒ではないが、地味な物だ。壮太はファッションを知っている。スーツだって、毎年傾向が変わる。それは知っている。しかし、レオンのファッションとは、ファッションがそもそも違う。
 レオンは今日もグリーンのジーンズを穿いている。なぜグリーンのジーンズが多いのか、聞いてみたことがある。そうすると、彼曰く、服は花で、ジーンズは花の茎なんだそうだ。今日のはいつもより淡いグリーンで、形はいつもよりスキニーだった。色は、ペパーミントと言えば分かりやすい。服は花で、ジーンズは茎なんだ。花屋の女性と話が合いそうだ。
「え、今日、化粧してんの?」
「よく今まで気が付かなかったね」
二人は日向に座っていて、レオンのアイシャドーが海水の色に光っている。海水色が上瞼で、下瞼がペパーミントになっている。ジーンズのペパーミントとお揃いにしたんだな。それから、目尻に空色の涙型の宝石が貼ってある。もっとよく見ると、唇にも色が塗ってある。珊瑚色の。カラコンは、右目がオレンジで左目がミントだ。オレンジとミント。美しい配色。
「全部、百均だけどね。綺麗でしょ」
 壮太はそのオレンジとミントについて考えていた。三島は丸山明宏の美を讃嘆していたけれども、丸山明宏は壮太の好みじゃなくて、単なる好みの問題なんだけど、三島の美青年に対する傾向は理解できない。
 壮太はレオンの珊瑚色の唇に、何度かキスしたのを思い出した。それを思い出したら、今度は、彼が十八になったのも思い出した。それを思い出したら、今度は今夜が自分達の初夜になりそうなことも思い出した。なんだか緊張してきて、関係ないことを考えようとして、それに気付いた。
「髪、染めた?」
「ちょっぴりね。よく今まで気が付かなかったね」
日に透かすと、蒼褪めたような青が見える。
「学校は大丈夫なのか?」
「一回洗ったら落ちるから」
このレインボーな若者が、なぜ自分にこんなに懐いているのだろう、と壮太は不思議だった。ある日、そんな疑問は忘れてしまおうと決心して、その内、ほんとに忘れてしまった。
 
 壮太もレオンもアイスコーヒーだったけど、壮太はクリームは入れてたけどシロップは入れてなくて、レオンはクリームは入れてないけど、シロップは入れていた。二人は考え事をしなから、ストローでやけにぐるぐる搔き回していた。
 カフェには古風な木枠の窓があって、吊り下がっている白いレースのカーテンが開いていて、そこへ背伸びをして、外から壮太とレオンを覗いている者がいる。レインボーの巻毛。レインボーの目の。壮太と目が合った。極小の虹が丸く出たようなそんな瞳。レインボーの翼を広げてぱたぱた動かしている。そうすると、それにつられて一枚一枚の羽根が動く。
 こいつらは一体、妖精なのか、妖怪なのか? 壮太が近付くと、レインボーの翼で飛んで行った。その時、そいつのレインボーの天使の輪っかと、持っていた弓矢がきらきら光った。
「また人魂がうろついているんだよ」
え、じゃあ、天使は人魂を追っているのか。でも人魂って、こんなにいい天気の昼間にどうして見えるんだろう? 十一月二十四日の、あの時は昼間だったけど、黒い雲が厚く出ていた。壮太が入院してた時も人魂が出たけど、あの時は夜だった。
「あ、分かった。あの目だから見えるんだ!」
「そうそう、レインボーの目は人魂を探すためにあるんだ、って、壮太、よく気付いたね。普段はあれだけ鈍いのに」
「じゃあ、君にも見えるの?」
レオンのオレンジとミントの目。
「うん、さっきいた。その電信柱の上に止まってた」
レオンは、外の電信柱を指差す。その時、レオンのレインボー色のプラスティックのブレスレットがちゃらちゃら鳴った。
「人魂、なんだかぷるぷる震えてた。なにが怖いんだろう?」
 
 意外にも、花屋には客がいなくて、壮太は三島の墓に供える花を買おうとした。レオンが嬉しそうに、自分にやらせろ、と勝手に花屋の女性と共に、花をアレンジした。当然のようにレインボー・カラーになった。世の中にこれ程の色数の花があるんだ。と言うより、世の中にこれほどの数の色があるんだ。
 色が世の中の鍵を握ってる。人の幸せを握ってる。別世界に通じる鍵。レオンはできたブーケを写真に撮っている。ついでに花屋の女性と壮太とブーケを一緒に撮っている。
「そちらの方も真ん中に」
レオンがそう言うと、幻のような息子さんも写真に収まった。息子さんもきっと、毎日花の色や香りに包まれているから、死んでても生き生きした気持ちで生きてるに違いない。
 霊園の中心まで歩く。木や草が土から水分や栄養を貰って、そこに太陽が当たっている。壮太は自然の恵みから、生きていることを味わう。そんな墓石の並ぶ所にいても。どうしても。あそこに三島の墓がある。やっと墓が見えて来た、くらいの場所で、レオンが何か襲って来た鳥でも払うような仕草をした。
「びっくりした! 結構大きかった」
聞くと、赤い人魂だと言う。壮太には何も見えなかった。
「あ、惜しい!」
聞くと、天使が赤い人魂に矢を放ったけど、もう少しのところで人魂から逸れたようだ。
「由紀夫さんにゆかりのある人魂。きっと、他の作家の霊だと思う」
「この霊園に眠っている人は大勢いるから……」
「他の霊園からも来てると思う」
そんなこと言ったら、人魂だらけになるな。レインボーの兵士達も忙しくて大変だ。
 今、壮太のフォロワーである天使には、約三種類あって、レインボーの兵士と、ナースの帽子を被って、薬をぬりぬりしてくれる一隊と、非番の悪戯ばっかりしている天使だ。黒い葬式ごっこをしていた天使達も、どこかで待機しているに違いない。次の悪戯に向けて。ナース達は、壮太はもう退院したのに、彼が不摂生をしてないか、見張っている。連中の中でも、兵士は、身体も逞しく一回り大きい。顔も他のより大人びて、きりっとしている。
 
 あっちから変な一隊が現れた。こないだ棺桶を担いで、ハレルヤを歌っていた連中だと思う。やっぱりだ。もう現れた。あの時みたいに三十匹くらいいる。あそこの背の高い木を、見事な乱れぬ行進で曲がったところだ。
 今度は皆で、海軍の恰好をしている。頭には、かもめの水兵さんの帽子を被っている。こないだみたいに黒い羽はしてなくて、今日は金色の天使の輪と金髪の巻毛と白い翼を背負ってる。腕に長い銃を構えて行進している。紺色の制服には、襟と袖口に三本の白い筋が入っている。
「君の学校の制服にそっくりだ」
レオンは皆の写真を撮っている。かもめの水兵さん達は、レオンの為に、隊長の掛け声で、一斉に銃を上げてポーズを取る。そしたら、その内の一つの銃が暴発して、壮太の肩をかすった。実弾入りか。危ないな。
 海軍の一隊は、三島の墓の前で儀式めいたことを色々やらかす。三島の「盾の会」の真似をしているのだろう。制服は違うけど。隊長がレオンから花束を引っさらって、墓前に供える。係の十人位の奴等が、隊長から命令を受けて銃を放つ。一弾! 二弾! 三弾! 壮太は怖くて地に伏せる。
 レオンは呑気に動画を撮っている。儀式が済むと、皆、レオンの為にポーズを取ってあげる。その中の一匹がふざけて、マリリン・モンローの下から風が吹いて来てスカートがまくれるやつをやっている。不謹慎だな。レオンが動画を止めて、マリリン・モンローの写真を撮る。
「チーズ!」
天使達は一斉に、ビッグなスマイルでピースサインをする。
 マリリン・モンローと言えば、一九五四年にアメリカ軍を慰問し、寒空に露出したドレスで歌を披露したことで知られている。それは戦争が続く、朝鮮半島でのこと。彼女のビッグなスマイルの写真が残されている。
 それからマリリン・モンローと言えば、晩年の不幸が悲しい。精神的に病んで、しかし、彼女の病は、有名な女優になる、ずっと、ずっと前から始まっていた筈なんだ。薬の過剰摂取で彼女は亡くなった。
 
 三島は、弱々しい死に方は絶対したくなかったと思う。イデオロギーの為に死んだ、近代人では世界でたった一人の人物だと、海外で言われている。だから三島の御霊はまだ痛いと言っている。なぜ我慢するのか? 壮太は三島の墓石の前に蹲り、頭を垂れて、両手で顔を覆った。
 マリリン・モンローが死んだ時、彼女はまだ三十六才だった。死ななくていい人が死んでいく。なんで、なんで。どうして、どうして。……涙が頬を伝う。壮太の背中を小さな手でぺたぺた触る奴等がいる。壮太は思い切って立ち上がった。後ろで手をぺたぺたしてた奴等が、立ち上がった拍子に、尻餅をついた。
 壮太は、尻餅をついた奴の中から銃を取り上げて、自分の頭に当てた。三十匹の天使達から悲鳴が上がる。盛大な悲鳴の中から、一匹だけ冷静な、銃の達人でもある、隊長の撃った弾が、壮太の手にした銃に命中し、銃は、ふっ飛んで地面に落ちた。
 
「壮太の頭の上に、赤い人魂が乗ってる!」
レオンが悲鳴を上げた。泣き叫んでいるような。
 三十匹の兵士達は一斉に人魂を攻撃する。銃撃戦だ。凄い迫力だ。本物の戦場だ。連中は飛べるから、宙にばさばさ飛び上がって、赤い人魂を追う。まだ昼間だから、壮太には赤い人魂が見えない。皆の撃つ方向を見るが、やっぱり見えない。
 ふっと、天使達を見ると、目だけ、レインボーに変わっている。そんな技があったんだな。丸く出た虹のように、瞳の真ん中が赤。そして橙が続き、黄、緑、青、藍。一番外側が紫で終わっている。レオンにも見えるんだ。彼には明らかに人魂が見えている。
 盛大な眩暈がして、壮太はその場に崩れ落ちそうになり、レオンがしっかり彼を受け止めた。チャラい男の割には、意外と力はあるんだな。
「……俺みたいな奴が生き残って、三島やマリリン・モンローが死んでしまう」
「なに、マリリン・モンローって、どっから出て来たの? ああ、さっきのあれか」
あれというのは天使がレオンの撮る動画のポーズをした時、マリリン・モンローの真似をしたこと。
「壮太、あの赤い人魂、人に自殺願望を植え付けるんだよ」
壮太はまだ死にたいと思っている。でもそんなことはレオンには言えない。気付かれないよう、静かに周りになにか死ねる物はないか、と探す。
 
 壮太は三島に魅せられてから、何度も何度も刀で腹を切ることを考えた。自分には決してできない、どうやったらそんなことできるんだろう? とずっと思ってきた。しかし、今、この瞬間なら、壮太はなんでもできると思う。腹を切るのだけは、やっぱり痛いから嫌だけど、他の方法ならいけそうな気がする。
 芥川龍之介の頃、マリリン・モンローの頃、過剰摂取すると死ねる薬が多かった。最近の薬は駄目だ。いくら沢山飲んでも、死なないように作られている。精神科の患者には、時々、何を飲んでも効かない、という人がいて、そういう時には今でも、マリリン・モンローが過剰摂取したのと同じ薬が処方されるらしい。
 ネットで検索すると、芥川龍之介がどんな薬で死んだか、マリリン・モンローがどんな薬で死んだか、それからマーゴ・ヘミングウェイがどんな薬で死んだか、詳しく分かる。作家アーネスト・ヘミングウェイの孫だったマーゴ・ヘミングウェイは、身長が百八十三センチもあるファッション・モデルで女優だった。
 詩人、作家、画家、作曲家の、精神病の家系を研究した人がいる。ケイ・ジャミソンというのが彼女の名前で、調べた中で一番悲惨な家系は、アーネスト・ヘミングウェイだった。祖父が自殺している。親の代で二人自殺している。ヘミングウェイ自身が自殺している。そして孫の、マーゴ・ヘミングウェイが自殺している。
 なぜ、このような才能ある人達が死んで、自分のような男が生きているのだろう? まあ、株式投資の才能だけはあるし、でもそれだけかな。考えてみたら自分の人生なんて地味なもんだったな。ま、そこまで地味ではないけど、派手でもないな。そろそろお終いにしよう。なんか死ねる方法はないかな? 壮太はまた辺りを見回す。
 壮太は何かに引き摺られるようにして、三島の墓を出て、霊園を彷徨い歩く。天使達と赤い人魂との銃撃の音がだんだん遠くなる。絵に描いたような枝振りの良い、なんという種類かは知らないけど、壮太の背の三倍くらいはありそうな、そういう見事な木が立っている。辺りを見回すと、絵に描いたみたいに、しめ縄が落ちている。なんでこんな所に落ちてるんだろう。きっとそれは壮太の死のための偶然である必然なのであろう。
 
 壮太の頭に、空から突然、「いいんだ、いいんだ」という言葉が降りて来る。「いいんだ、いいんだ」マリリン・モンローだって、マーゴ・ヘミングウェイだって、毎日がパーティーのような楽しい人生を歩んだんだ。死ぬ前は苦しかったと思うけど、それ以上に素晴らしい、バラ色の人生を送ったんだ。
 三島だって、ノーベル文学賞に三回ノミネートされ、今でも世界中で作品が読まれている。書いた戯曲は映画になり、映画史に深く刻まれている。「いいんだ、いいんだ」、壮太は自分のことを思った。自分の人生は不幸ではなかった。今、ここで死んでも、思い残すことはない。壮太は、地面に落ちているしめ縄を拾った。なんでこんなところに落ちてるんだろう? 壮太はもう一度それを考えたけど、やっぱり理由は分からなかった。
 その見事な枝振りの木の枝は、壮太の身長では、やや届かない。周りを見回すと、派手な若者が目に入る。彼にはきっといい人生が待っている。恰好は変だし、勉強も怪しいし、十八にもなるのに、進路は決まってないし、どうするつもりなんだろう? でもまあ、それを集結しても、彼はきっといい人生を送るだろう。
「ちょっと、その木にこの縄掛けてくれない?」
「うん、分かった。……って、そんなことする訳ないだろ!」
レオンが後ろから壮太の頭を叩く。
「赤い人魂は、もう捕まって檻に入れられたから」
その言葉も、壮太の頭には何の影響も及ぼさない。
 レオンが携帯で検索を始めた。彼の携帯は、レインボーのケースに入っていて、じゃらじゃら色々下げてある。UFOや、宇宙人や、スペースシャトルや、土星や、金星が、賑やかにわやわや揺れている。
「赤い人魂の自殺願望ってどのくらいもつんだろう? ……ああ、結構もつな、三日程度、と書いてある」
一体どんなサイトを見ると赤い人魂のことなんて書いてあるもんなんだろうか、と壮太は不思議に思う。それにしても、この若者が自分のことにこれだけ懐いているんだから、自分にもきっといいところがあるに違いない。自分がいなくなっても、他にもっといい男を見付けて幸せになって、と願う壮太だった。
 壮太ができるだけ背伸びをして、しめ縄を木に引っ掛けようとしてもやっぱり届かず、とすると、丁度いいことに、木の側に、漬物石が落ちている。長い間そこに落ちていたと見えて、石には苔が生えて、つるつるしている。壮太は滑りそうになりながら、漬物石の上に乗り、上手いことしめ縄を木に掛けることができた。
 
 ふと見ると、三十人の銃を持ったかもめの水兵さん達が、檻を担架のような二本の棒に乗せて凱旋パレードをやっている。そしてふと見ると、弓矢を持ったレインボーの兵士達もパレードに混じっている。銃を持っていた水兵さん達は、銃を楽器に持ち替えて、スターウォーズのマーチを演奏し始めた。ジョン・ウィリアムス作曲のDarth Vader's Theme。
 そこへ、非番のナース達がマーチに加わる。彼等に浮き輪にされて、フラフープにされて、すっかり御疲れだった、天使の輪を、タンバリンにしてオーケストラに参加する。可愛そうな天使の輪は、ほとんど気を失っている。
 赤い人魂は、身体をぐるぐる巻きにされて、白い布の目隠しをされている。
 まるで『The Wounded Angel』というタイトルの絵画のようだ。フィンランドの画家Hugo Simbergによって、「シンボリズム」と言われる画法で描かれた。一九〇三年のことだった。
 傷付いて白い翼から血を流している天使がいる。ふわふわ揺れる翼は、天使の背の高さくらい長い。二人の暗い顔をした少年達が二本の棒を持っていて、天使はその棒の上に乗せられている。
 暗い少年達と比べて、真っ白のドレスを着た、金髪の天使の見た目は非常に明るい。可愛らしい赤い唇をしている。一番奇妙なことは、天使は目隠しをされている。そして、そんな状況にいながら、天使は手に白い花を持っている。
 壮太が子供の頃この絵を観て、父親にこの天使、どうしたの? この絵の意味はなに? と聞いたら彼に、これは「シンボリズム」だから、自分で想像して答えを見付けるんだよ、と言われ、その時壮太はがっかりして、今でもがっかりしている。誰かが説明しないといけない。壮太は今、この時がそのチャンスだと感じた。
 壮太は漬物石から降りると、裸足で、そこへ通り掛かった、檻の中の赤い人魂に聞いた。
「なになに、どうして目隠しされてんの?」
赤い人魂こと、赤人魂は壮太に答えた。
「悪いことをしようとしたから」
赤人魂こと、赤玉はぐるぐる巻きにされて、俯いている。
「君は何者?」
「僕は文豪で、三島由紀夫に嫌われていた」
あー、だから三島に復讐しようと考えたのか。
「君は誰なの?」
「それは言えないけど、僕は愛人と川に入って溺れ死にたい願望があった」
 赤玉も自殺願望に悩んでたんだな、壮太がまた裸足で、つるつるする漬物石に乗ったのを見てレオンが聞いた。
「なんで靴脱ぐの? それってビルから飛び降りる時じゃないの?」
首吊る人だって靴脱ぐじゃない、と壮太は憤る。
 
 そこへ、一匹の弓矢を持ったレインボーの戦士が、通り様に、きらきらの金色の矢で、壮太の漬物石に置いた足を刺す。
「なにすんだよ、痛いじゃないか!」
見ると、足の甲の一番高い所から一条の血が流れている。
 壮太はなにやら気分が高揚するのを感じた。胸の中が熱い。ざわざわの胸騒ぎがする。
「あれっ、俺、一体何しようとしてたんだっけ?」
壮太は木に掛けたしめ縄を見詰めた。答えは見付からない。
 壮太の目の後ろが眩しく光りだした。そしてその光がぐるぐる回りだした。レオンを見た。壮太の目がピンクのハートになる。ピンクハートを通してレオンを見詰めた。壮太はレオンがクリスマスツリーのライトのようにカラフルに点滅しているのを見る。なんて、素晴らしい若者なんだ、と壮太は思う。二人は手を取り合う。キューピッドの悪戯。
 オーケストラの演奏はたけなわで、赤玉の入った檻は三島の墓の前に降ろされた。目隠しをされた赤玉は、ぶるぶる震えている。五匹の水兵さん海軍兵士が赤玉に向かって銃を向ける。隊長が叫ぶ。「銃を構え!」壮太は走る。
「おいおい、死刑は止めろ、今時の先進国で死刑制度があるのは日本と中国だけだぞ」
銃殺隊は銃を下ろす。赤玉はぶるぶるしながら壮太の声の方向にお辞儀をする。兵士達は何処に持っていくのかは知らないけど、赤玉の檻をまた二本の棒に乗せると、行進して霊園を出て行った。壮太とレオンも後に続いた。
 川があった。行進は玉川上水で止まった。レオンが通訳をしてくれる。
「この人魂は、前世、玉川上水で溺れ死んでるから、また川へ流すんだって」
兵士達は赤玉を檻から出すと、無礼にも、川へ、えい、と放り投げる。赤玉は暫く水に浮いていたが、直ぐに水の中へ見えなくなった。
 
 壮太の目はハートになったまま元に戻らない。レオンの両手を激しく握り、大変ロマンティックなキスをする。彼の珊瑚色に塗られた唇が、少ししょっぱい。彼は海から来た生物なのに違いない。壮太は夢見心地の中にも、レオンも十八になったんだから、法的にも何的にも、自分には何でもできるあれなんだよな、と喜ぶ。
 あっちの方で、恋し合う二人を見た、弓を持った戦士達が、やいのやいのの喝采をする。
「ほら、やっぱり弓矢を持ってるのはキューピッドなんだよ」
レオンはキスとキスの間を縫って喋る。
「弓を刺された人は、最初に見た人に恋をするんだけど、それが僕でよかった。ぞろぞろいる同じ様な顔の天使とかだと、大変だった」
 天使達は御用が済んだと見えて、各々家路に付いた。どこが家なのかは知らない。レオンが解説する。
「ナルキッソスは矢で刺されて、最初に見たのが、泉に映る自分だった」
あ、だからあんなに自分に恋をして、泉に落ちて死んだのか。恋って人を殺してしまう程の威力があるんだ。壮太は涙を流しながら、レオンを抱き締めた。二人はさっきのそのまま玉川上水のほとりにいたので、男同士で激しく抱き合っても、そう沢山の人に目撃された訳ではない。
 まさか、こんな風に抱き合うのが最後になろうとは、二人共想像しなかった。
 
 壮太とレオンは川を見詰めた。すると、赤玉が川からぽっかり顔を出した。川を逆流して来たんだ。二人は思った。何の御用だろう? 
「あの赤玉は由紀夫さんの敵だったから、天使達は銃殺刑にしようとしたんだよ。由紀夫さんは強い者が好きだったから、弱い人間には我慢できなかったんだ」
 赤玉は川から宙へジャンプして、ひょろひょろと弱々しく飛んで、壮太達の方へやって来た。
「三島さんは昔から私のことが嫌いだって言ってた」
赤玉はぷりぷりと怒っていた。震えで川の雫がぽたぽたする。文豪同士もいろいろあるんだな、と壮太は思った。まあ、もう二人共とっくに亡くなったんだから。太宰さんの悩みなんて冷水摩擦や器械体操、その他で治るって三島は言ってたんだよな。
「俺、だけど、あれですよ。中二病の時は太宰さんに大変お世話になりました」
レオンは頭を深々と下げる。赤玉は嬉しそうに身を捩じらせる。
「太宰さんだけでした。俺に生きる希望を与えてくれたのは。どうして生きていけばいいのか、ヒントをくれた。まあ、だけど、ほんとの答えまでは、太宰さんも言ってはくれなかったけれども、かなりいい線はいってました」
赤玉は物を書いたかいがあった、と喜んで玉川上水に向かった。もう赤玉にも会うことはないだろう。なんだか寂しい。あっちの背中も寂しそう。もっとちゃんと話を聞けばよかった。
 レオンが赤玉の行き先を指差すと、側に桃色の人魂がいて、二人で手を取り合いながら玉川上水に沈んでいった。壮太は考えてみた。
「あれだよな。奥さんも子供もいる人が、愛人と入水自殺はよくないよな。でもさ、よくこんな浅そうな川で死ねたよな」
「きっとあの頃はもっと、勢いがあったんだよ。きっと水ももっと綺麗で」
レオンは知らないながらも、そう感じた。
 
 人生の解決策は意外とシンプルな場所にあるんだ。壮太はレオンと一緒にいて、ただ幸せだった。涙まで出てきた。
「壮太、大丈夫?」
 涙は止まらない。壮太とレオンは手を繋いで、どこまでも川面を見ながら歩いた。川面には最初は陽が映り、それが夕陽に変わり、それがだんだん暗くなった。
「俺の家に来るだろう?」
壮太はまだなんとなく涙を流す。レオンは突然立ち止まる。
「そんなことよりさ、僕の欲しいの、覚えてるでしょ?」
物忘れの激しい壮太も、それは覚えていた。
「180」
「360!」
壮太はワザと180って言ったのだけど、レオンは本気で膨れていた。
 そんなに可愛いレオンが、直ぐに消えてしまうなんて、壮太には想像もできなかった。
 
 壮太とレオンはやっとのこと川を離れ、電車に乗った。行き先に当てがある訳でもなく、都心へ向かった。
「僕ね、銀座がいい」
どうして、銀座?
「僕、片親だし、母親もああだから、おばあちゃん、おじいちゃんに育てられたでしょ? 二人が亡くなるまで」
レオンの祖父母が亡くなったのは、まだレオンが小学生の時だ。身内に縁が薄くて可哀そうなんだ。
「おばあちゃん、おじいちゃんと買い物っていうと、必ず銀座で」
昔は、渋谷とか新宿とか、勿論原宿とかは、そんな御洒落な場所じゃなくて、おめかしして行くのは絶対、銀座だった。
 二人は銀座へ行く路線に乗り換えた。壮太はあんまり泣いたので、目が腫れぼったい。レオンは若いせいで、どんなに歩いたって平気だ。自分も前はこのくらい歩いたって、泣いたってなんでもなかったのに……。急に不安になった。この若者はほんとに自分みたいな人間と一緒にいたいと思っているのだろうか?
 レオンは壮太を見て、うん、と頷いた。この若者はいつも壮太の考えていることが分かる。二人は立って、車窓に映る自分達を見ていた。多磨霊園から玉川上水に行き、それから電車に乗ったはいいけど、銀座に行く筈なのに、いきなり新宿に出た。なんだか随分遠回りしているような気がする。
 遠回りついでに、二人は山手線に乗った。電車が擦れ違う度に、あっちの電車の上に天使達が乗って、電車の行くのと反対方向に全速力で走って遊んでいる。ランニングマシンみたいに。あんなとこから落ちたら大変だ。飛べるからいいのか。近くに座っている、まだ喋らないくらいの小さい女の子が、天使達を指差して大笑いをしている。両親は、なんだか分からず困っている。
 連中は今度は何処へ行くんだろう? どんな悪戯を考えているんだろう? 弓矢を持った兵士は闇雲に人を撃っている。あんなのに当たったら大変だ。なんだか、矢で突き刺された足が痛くなった。渋谷で大分人が降りたので、二人は席に座った。そしたら目黒で御年寄りが沢山乗ってきたので、また二人は立って、車窓に映るお互いをいつまでも見詰めていた。
 きっとレオンはこれから買って貰うことになっている360のことを考えてただろう。しかし、壮太はその先の、レオンが自分の所へ来た時のことを考えていた。自分の初めてって、どうだったかな、と思い出そうとしたけど、あの頃は、なぜだか酒ばっかり飲んでいたから、詳しい事情は忘れてしまった。だけど、今夜はレオンにとって特別だから。どうしてあげればいいんだろう?
「いいよ、別に特別なことしなくたって」
若者はまた壮太の心を読む。
「なんだかほんとに足が痛いや。キューピッドって凶暴なんだな」
電車が揺れた。足が痛かったために、壮太はちゃんと上手く立ってなくて、レオンに思いっ切り寄り掛る。
 後で考えても、二人できらきらしい銀座を歩いたことよりも、二人でやたらに遠回りして電車に揺られたことが懐かしい。レオンがいなくなった今では。
 
 ここじゃないと駄目だ、とレオンが言うデパートに行った。おばあちゃんとおじいちゃんは、買い物はいつもこのデパートだった。そう言えば、原節子なんかが出て来る映画では、やっぱり銀座がたくさん出てくる。田舎から都会に遊びに来た両親が、銀座からはとバスに乗るシーンがあったような、なかったような。
「この辺、映画で観たぞ。小津安二郎の」
「ほんとの銀座って、あの頃だよ。白黒映画の」
レオンも同意する。
 銀座の街並みは変わってないように見えるけれども、外国の高級ブランドを扱う大型店は増えた。天使達が、和光の大きなショーウインドーの中で、走り回って遊んでいる。どっから中に入ったんだろう? さっき山手線の上にいたから、白い翼が、なんだか薄汚れている。早く水浴びをしなくっちゃ。
 ショーウインドーには、どういう仕掛けなのか、線路に積み木みたいな、原色の汽車が走っている。オレンジ色の灯の点いた車内をよく見ると、宝石や、宝石より豪華な腕時計を運んでいる。天使達は、玩具の汽車の上に乗って、上手にサーフィンをしている。腰を下げて、翼を線路と平行に保って。レオンは笑いながら動画を撮る。撮りながら壮太に聞く。
「ほんとにどうやって中に入ったんだろうね?」
レオンは一生懸命探すけど、巨大なガラスの、何処を見ても、どう見ても、入る隙間はない。
 
 レオンのデパートに着いた。壮太は歩道からデパートの屋上まで見上げた。歴史が鐘をついて回っている。壮太が子供の頃を思うと、買い物はやっぱり渋谷とか、原宿だったな。安くて面白い物が色々あって。銀座は用事がないと来ない。だけど、銀座には銀座の郷愁がある。壮太が言う。
「俺は渋谷か原宿だったな。小学生の時から一人で行ってたぞ。見てくれが老けてたから、とやかく言われなかったし」
「この上のレストランで食べた」
「高い物しかないだろ? 御坊ちゃんだな」
「おばあちゃん、おじいちゃんがいなくなる前だからね」
レオンも壮太と一緒に一階から屋上まで見上げる。
「お母さんが相続したの? どうでもいいこと聞いたけど」
「あのね、おじいちゃんとおばあちゃんって、お母さんのじゃなくて、お父さんのなの」
「そういうことってあるの? レオンはお父さん知らないんだろ?」
「知らないけど、遺産があっちに行ったんなら、生きてはいるんだろうけど」
 壮太はレオンに初めて会った時のことを思い出した。見てくれは派手だけど、不憫な若者だ。若いのに御金の苦労をして。壮太の中二病の反抗期は、高校まで続いて、壮太は高校を止めて働くと言った。勉強が馬鹿馬鹿しくなった。学校は壮太の知りたいことを何も教えてくれない。
 太宰を読んでた方がよっぱどましだ、と言った。父親は、あんまり若い時に金の苦労をするのはよくない、高校には行け、と言った。それがどういう意味なのか、今なら少しは分かる。壮太が中卒で働いて、御金の苦労をしたら、人生それだけで、その価値観だけで暮らして、人を信頼できないような、寂しい人間になっていただろう。
 
 デパートのショーウインドーの中で、天使達はマヌカンになってポーズを取る。レオンが写真を撮っている。色んな角度で。いつもなら、こういう時、壮太が家に帰ってから、レオンが一番よく撮れた写真を送ってくれる。でも今夜は一緒に壮太の所へ来るのだ。長く待ったから。長く、と言っても一年か。一年前に出会ったから。もっと長く感じる。
 デパートの前に、高級そうな服を着た紳士淑女が、高級そうな犬を連れている。犬の様子は、壮太のフォロワーの天使達みたいな巻毛で、あんまり巻毛過ぎて、目も口も毛に埋まってるから、ちょっと見では、毛が走ってる風にしか見えない。犬はその長いモップ状の毛で、歩道を掃除しながら歩いている。
 モップ犬は、ショーウインドーの中の天使を眺めている。可笑しなポーズを取る天使を目で追っている。天使が犬に舌を出しているのを見て、大喜びで大興奮して尻尾を振っている。紳士淑女は、なにがなんやら分からない。犬はショーウインドーを離れない。天使が見える犬って、初めてだよな。
 レオン指定のデパートに入る時、彼は緊張して見えた。誕生日の買い物がそんなに大切なんだ。レオンが大好きなアニメで観たから? それともそのフレグランスで壮太とベッドインすることを考えているから?
 壮太はレオンの背中に手を当てて、デパートの中に入った。幾つもの違う言語が聞こえる。あれは中国語。あれは韓国語。白人の喋ってるのを聞いても、英語は少なくて、それ以外の言葉が聞こえる。なんだか壮太まで緊張してきた。
 二人はカトリックの大聖堂みたいな、ステンドグラスのある、吹き抜けの部分を歩いた。我々の天使達が天井近くに飛んでいる。大聖堂の天井に描かれた天使を気取って、ポーズを取る。レオンが写真に撮っている。壮太は疑問に思う。
「ブグローの天使って、ほんとにキューピッドなのかな?」
「天使もいるけど、キューピッドもいて、妖精もいるよ」
「蝶の羽付いてるのがいるじゃない。あれはなんなの? 妖精なの?」
「あれはプシューケーで、ギリシャ神話に出て来る女の人の名前。妖精とは違う」
 なにがなんだか分からなくなって、レオンに聞いてみた。
「そのプシューケーっていう人は、たった一人なの? それともピカチュウみたいに沢山いるの?」
レオンはそれを聞いて、長い間笑っていた。どうやらプシューケーは一人らしい。その笑いが確か、壮太が最後に聞いたレオンの笑いだった。
 歩くとまだ足が痛い。キューピッドにやれれてから、レオンのことが神聖にまでも感じる。壮太は彼の肌の温もりを感じたくて、手を握りたかったけど、公衆の面前だし、と遠慮して、その代わりレオンの肩に手を置いた。男二人がそれやっても、そんなに不自然じゃないだろう。だけど、壮太にもほんとのところは分からない。
 壮太は天使の羽が、ゆっくり、ゆくっり、舞い落ちるのを、宙で正確に受け止めた。デパートの空調の関係で、羽を宙で受けとめるのは簡単でなかった。もう少しで手が届くところまで来て、また天井に向かって舞い上がってしまう。手の中に捕まった羽を見て、壮太は自分に幸運が向いて来たような気がした。だけど、壮太にもほんとのところは分からない。
 レオンは大聖堂の吹き抜けに立って、天上を見ながらぐるぐる回る。そして目が回って壮太に掴まる。
「おばあちゃんとおじいちゃんと一緒に来て、ここでぐるぐる回った」
壮太はこの保護者たる者のいない若者に同情した。
「僕、もう疲れちゃった。人生が険しくて」
弱音を吐くようなタイプではない。レオンは奇妙なことには詳しい。蝶の羽の生えたのは妖精じゃないとか。だけど、自分自身について、こんな風にコメントはしない。それは人間の強さだと壮太は思う。心が、おばあちゃんとおじいちゃんがいた頃に戻ってる。壮太は涙が出そうになって困った。壮太は前後左右を素早く見て、誰もこっちを見てないのを確認してから、レオンの手をちょっとだけ握って上げた。
「俺がいるからさ。大丈夫だよ」
 それが二人の最後の深い会話になるとは。
 
 二人は売り場に進んだ。一階はほとんどメイクの売り場になっている。化粧品ってこんなに儲かるんだ、と壮太は驚く。新しく上場している企業がないか調べて、壮太の顧客に情報を送ろう。
 照明が明るい。まるで、地球に降り注ぐ太陽光線のようだ、と壮太は思う。太陽の下に置いてあるアイシャドーやらリップスティックやらは、どれもハッピーな色をしている。メイクをしているレオンを見て、鴨が葱を背負って来た、と思われたのだろう。
 新色を試してみないか、とスタッフの女性に呼び止められた。レオンの肩を押さえ付けて、椅子に座らせるくらいの勢いだった。女性は、器用にレオンの目の周りに色を置く。その色はなんというか、バラ色のくすんだような色だ。彼の目に深みが出て、あれっ、こんなに可愛い子だったかな、と壮太は驚く。
 彼女はついでに、と言って、レオンにアイラインを引く。アイラインってあんなにして塗るんだな。興味深い。ミニチュアの毛筆みたいだ。白い紙に書く書道だから、きりっと男にもよく似合う。
「その顔、アニメに出て来るみたいだな。君の好きな」
壮太は何気なく思い出して言ったけど、後でそれが大きな意味を持つのだ。レオンはアイラインは百均でいいけど、この色は百均には出せない、と、そういう感想を言って、さり気なく壮太にアイシャドーを買わせる。
 壮太は自分の株屋の仕事が一つ、上手く当たって、いつもより羽振りがいい。株屋なんて芸能界なもんで、当たると大きいけど、当たることはあんまりない。だから銀行もローンを組んでくれない。芸能人みたいに。いつどん底に落ちるか先が知れない。そんな奴に金は貸せない。
 
 壮太達がいるのはデパートのまだ入り口付近で、フロアの真ん中辺に、背の高い男が立っている。遠目でも、その男が仕立てのいい、素材もいい完璧なスーツに身を包んでいるのが分かる。一階にはその人以外、男性のスタッフは見当たらない。女性っぽくメイクをした、男性メイクアップアーティストなら視界に二人程いる。レオンみたいに男前はいない。レオンの肌は我々の天使のようだ。生まれたばかりの赤ん坊のようだ。
 それを考えていたら、天使が数匹、大聖堂の天井から降りて来て、鏡に向かって口紅を塗り始める。唇からはみ出して、皆で指さし合ってげらげらしている。レオンにアイシャドーを買わせた女性が来て、天使のはみ出した口紅を拭ってやって、新しく綺麗に塗り直してくれる。天使は手鏡をあっちこっちに向けて見て、可愛い、可愛い、と言って、自分で感心している。
 男性メイクアップアーティストが、天使の顔中にきらきらの粉をはたいてあげる。壮太が近付いて見ると、その粉は微細な一つ一つが全部違う色をしている。蛍光色が混じっている。三原色の。赤と青と黄色。天使の顔が一気に輝く。夢のようだ。空中に飛んで行く軽い粉。太陽のような光線の中で、はっきり見える。
 スタッフが教えてくれた。このパウダーの名前は「隕石」だと。なんてロマンティックな名前なんだろう。隕石が落ちて、色が地球中に散らばって、地球と言うこの星が、もっともっとカラフルになった。色が充満したこの星は、まるで夢のようだ。
 天使が一匹来て、壮太の顔に粉をはたこうとする。壮太は逃げ惑う。天使達は色んなメーカーのカウンターで捕まって、顔や髪をいじられて、喜んでいる。喜んで宙に飛んでいる天使を、フロアの皆が目で追っている。
 メイクが完成して、大理石のような床を、モンロー・ウォークでよちよち歩いているのがいる。滑りやすいぴかぴかの床だから、赤い服の女性店員が天使と手を繋いで歩いてあげる。このフロアで働いている人には天使が見えるんだ。クリエイティブな仕事だから? 可愛い天使達を見て、皆が目を細める。上手に空中回転をしている子に手を叩いている。
 レオンの顔は、アイラインを引くと、ぐっと存在感が増す。三島が愛した男性達は、きっとこんな風情をしていた。目がゆらゆらして、掴みどころのない、この世に存在してないみたいな、プシューケーみたいな蝶の羽を付けて、風に揺られて飛んでいる。
 
 壮太とレオンは勘定を済ませて歩き始めたけれど、また立ち止まって、壮太はレオンの顔を引き寄せると、しっかり見ようとした。どんなことがあっても、彼の顔を絶対に忘れないように。それも後で思い出すと、不思議なことだった。彼の顔を絶対忘れないように……。
 二人共、何百という違う香りが混じり合った、不思議な空間に引き寄せられた。背の高い男。その男の前に、科学の実験で使うような怪奇な色や形の瓶が並べられている。男は二人に、御丁寧な挨拶をして微笑んだ。その男には微笑みが似合わなかった。なぜ香水売りなんていう商売を選んだんだろう、と壮太は不思議だった。名札を付けている。佐山。年は壮太より幾分若い。二十六、七だろうか。
 カウンターに隠れていて見えなかったけれど、彼のスーツのジャケットが長い。背伸びして見たけど、膝までは届かないけど、やっぱり長い。デザイナー・スーツ。壮太には真似できない。株屋はコンサバティブなのが原則。
 男性用のフレグランスだからと言って、この頃はちっとも遠慮していない。女性用顔負けの思いっ切り派手なデザインがしてある。壮太とレオンは置いてあるフラスコや、ビーカーを眺める。なんだか昔のSF映画に出て来る、クレイジーな科学者の実験室みたいだ。科学者に捕まったら、実験台にされて、なんだか知らないけど、大変な目に合う。
 佐山、という男はさっきレオンにアイシャドーを売った女性みたいには、お喋りではない。黙られると、こっちが緊張してくる。壮太は憂鬱になってきた。これから大事な買い物があるのに。彼の長いジャケットが、怪しい科学者っぽく思えてくる。さっき天使の手を引いて歩いていた赤い制服の女性が通り掛かり、佐山に深々とお辞儀をする。彼女だけじゃない。皆が丁寧にお辞儀をする。
 レオンはなぜか目的ではない女性用の香水瓶に興味を示す。
「聞いたんだけど、女性用のフレグランスは男性のあそこの形をしてて、それで潜在的に女が買うんだって」
レオンは壮太に言ったのに、佐山が噴き出す。笑っていると、壮太の緊張も解けてきた。佐山が話を始める。
「種明かしをいたしますと、今日はここの担当者が来られなくて、私がここにいるんですけれども、お客様になにか質問されたらどうしようと、どきどきしておりました。すみません。普段から勉強しておけばよかったです」
壮太は安心した。なんだ、この人はたくさん喋る人だったんだ。
 レオンは女性用の香水瓶を、綺麗に並べ始めた。配色良く、形も見て並べる。作品が出来上がって、彼はそれを写真に撮る。佐山は写真を撮ることを止めない。佐山に聞こえないようにレオンが言った。
「こういう有名デパートの部長クラスって、なりたい人が沢山いるから給料が安いんだって。だから、給料安くても困らい御坊ちゃんが多いんだって」
レオンと壮太は笑って、佐山はきっと、なにが可笑しいのだろうか、と不満に思っている。レオンはほんとに奇妙なことに詳しい。
 天使が一匹、背伸びをしてカウンターの瓶を掴んで走り出す。佐山が後を追い掛ける。直ぐ追い付いて天使ごと抱き上げて、香水瓶を返してもらう。天使は不満げに足をばたばたさせる。
「年に何度か必ず瓶を割る人がいて、暫く匂いが抜けなくて大変なことになるんですよ」
 女性店員が通り掛かって、御丁寧な御辞儀をする。
「佐山部長、御疲れ様です。お先に失礼いたします」
壮太は、部長ねえ、と心の中で反芻する。レオンの当たりだな。
 天使が悪戯を止めないので、佐山部長が抱いて、あやして、くまの縫い包みを持たせてあげる。
「そんな縫い包み何処にあったんですか?」
壮太が聞く。
「分かりませんけど、そこにありました」
するとレオンが知識をひけらかす。
「あ、それはラルフ・ローレンのフレグランスに付いてくるんですよ。おまけに」
見ると、確かにポロのマークがくまの着てるセーターに刺繍してある。
 
 レオンは何度もアングルを変えて写真を撮って、瓶を並べ変えたりしてみて、ようやく満足したと見えて、携帯をポケットにしまった。それが終わると、彼はゆっくりメンズのフレグランスに近付いた。当然、欲しいのがどんな見てくれのフレグランスなのか知ってるだろう。幾つか香水瓶を手にして、またカウンターに置いて、を繰り返している。
 壮太は佐山と話を続けた。
「今日はこいつの誕生日で」
「どんなフレグランスがお好みですか? といいましても、私に答えられるかどうか」
 レオンがなにやら困惑している。
「ないよ」
「ないの、欲しい奴?」
「え、何がですか?」
「ええと、180」
「じゃないでしょ。360」
 隣のフランス製人気コスメブランドの女性がそれを聞いていた。
「ペリー・エリスの360だったら、さっきお客様がお試しになって、まだここにあります」
そう言って、箱に入った製品とテスターをカウンターに置いてくれた。レオンはテスターに手を伸ばすのを、なぜか躊躇う。楽しみを先に伸ばしているという感じではない。なにか、異質なずれを感じている。空間か、彼の心の中か。
 佐山に懐いている、くまの縫い包みを持った天使が、テスターに触ろうとする。ペリー・エリスの360は細長いデザインで、触ると直ぐ倒れてしまいそうだ。ようやくレオンはテスターに手を伸ばした。彼が大好きなアニメに登場するフレグランス。架空のものでなく、実在することを知った時、彼は大興奮していた。
 レオンは遂に瓶に触った。左手首の裏側に、スプレイする。隣にいる壮太にもはっきり感じる。白檀の香りだ。とても強い香り。線香の匂い。
 
 レオンは自分の手首に鼻を近付ける。無表情に壮太の顔を見る。テレビの画面が消えるように、レオンの姿がすっと消えて行く。そんな訳ない。壮太は半透明のレオンを抱き留めようとした。しかし、その抱き留めようとした彼はもうそこにいない。
 天使の悪戯か? 壮太が初めにしたのは、直前まで天井を飛んでいた天使達を、目で追って探すことだった。誰もいない。向こうのカウンターにも、あっちのカウンターにも、悪戯している天使がいっぱいいた筈だ。誰もいない。レオンは消えてしまった。あのアニメのように。異空間へ行ってしまった。
 最後に見たレオンの顔に、苦しみの表情はなかった。無表情で、もしかしたら驚きの気持ちは見えた。ほんの少しだけ。超常現象は三島の墓に行くようになってから始まった。天使に付き纏われるようになった。でも、これは違う。壮太の頭から冷たい水が流れるような、それが背中に落ちていくような気がした。
 でも、これは違う。でも、これは違う……。壮太は頭に冷たいものを感じながら、佐山の方を見た。
「今の見てたでしょう? 何処へ行ってしまったんだろう?」
壮太はその場へ崩れ落ちた。佐山がカウンターから出て駆け寄った。
「今の見てたでしょう?」
「なんのことです?」
「俺のレオンが消えてしまった」
「誰のことです?」
「今、俺と一緒にいた……」
「貴方はずっと一人でしたよ」
壮太は、彼の言葉が理解できない。佐山の顔を見た。冗談を言っている顔では全くない。
「消えたって、どんな人ですか?」
「若者、男なのにカラフルで、化粧もしてて」
「貴方は最初から一人です」
佐山は壮太の顔をしっかり見て、力強く言った。しかし、壮太はそれを信じる訳にはいかない。
「あの天使は? 貴方が抱いて、くまの縫い包みで遊んでいた」
「お客様は、なにか誤解してらっしゃる。天使ってなんのことですか?」
「いたでしょ? あっちにもこっちにも、このフロア中で、飛んで、遊んで、歩いて。スタッフの皆が、可愛いって、一緒に遊んで」
佐山の表情は変わらない。壮太の気が狂っていると思っている。
 壮太は立ち上がって、コスメティック売り場の店員を捕まえては、天使の行方を聞いた。しかし、誰も天使なんて知らない。なんのこと? お客様、大丈夫ですか? 誰か助けを呼びますか? 冷や汗をかいていますよ。きっと、どこか具合が悪いんですよ。
 彼等は冷静で、親切で、だけど、誰も天使を見た者はいない。壮太はメイクアップアーティストの男を掴まえた。
「貴方はさっき、天使の顔に、色んな色の混じったパウダーをはたいてたでしょう?」
彼は少し考えた。
「これのことですよね?」
「そうそうこれ。天使の顔に」
「そんなことないですよ。天使なんて、想像上の生き物でしょう?」
壮太は彼の肩を持って揺さぶって怒鳴った。
「想像じゃない! ここにいっぱいいたんだ! 皆、いつも俺に付いて来て、可愛くて!」
壮太は彼の身体から手を離して、フロアを走り回りながら怒鳴った。
「君達は皆、嘘をついてる! 私と一緒にいた男がいなくなった! 君、君はさっきレオンにアイシャドーと、アイラインを塗ってあげただろ!」
彼女は壮太に腕を掴まれて、恐怖の表情をしている。
「知りません、お客様。今夜は男性のメイクはしてません」
 
 壮太は興奮して、彼女に怒鳴った。
「そこの、椅子に座らせて、この色、この色のアイシャドーと、黒い色のアイラインを引いてあげただろう?」
警備員の制服の二人が走っている。壮太を探している。壮太は、ここで捕まったら、もう絶対レオンに会えないような気がした。警備員から隠れながら、それでもまだ天使を探した。皆、どこへ行ってしまったのだろう? 
 壮太は正面から来た白人の観光客にぶつかった。相手は激しく倒れた。何語か知らない、怒りの言葉を口にした。壮太はまだレオンを、天使を探していた。警備員に捕まる訳にはいかない。壮太の後ろから、肩を、腕を、力強く握る人がいる。佐山だった。
「お客様。駄目ですよ。話しましょう。何があったか。ちゃんと」
 佐山の言葉には壮太の気持ちを静める調子があった。直ぐに警備員が二人駆け付けた。
「私の連れが突然消えてしまった」
「そのことを、ちゃんと話しましょう」
「俺はここから離れるわけにはいかない」
「ほんとにその人がいなくなってしまったなら、もうここにいても仕方ありませんよ。もう一人警備員を呼んで、しっかり見張らせますから。その人の消えた場所を」
 
 壮太達はエレベータに乗って、何階か上がると、そこは簡単なテーブルと椅子のある、オフィスだった。老舗のデパートの匂いがした。部屋からも、少し開いた窓の外からも。警備員二人は入り口付近に立っている。壮太に逃げられないように立っているんだろう。
 一人は若くて、もう一人は白髪の混じる男で、でもその人の方が、若者よりずっと身体が大きくて力がありそうだった。窓から、いつの間にか暗くなった銀座の、ネオンが見える。それが壮太を少し落ち着かせた。壮太は夜の銀座が好きだった。壮太は窓の側に立って、街の何処かに天使がいないか探した。和光のビルが遠くに見える。あのショーウインドーにいたんだ。
 佐山の声がした。
「その方がほんとにいたとして……」
「ほんとにいたんだ」
「その方の御家族、御友達は?」
「家族はいない。母親はいるけど、どこにいるか知らないと言ってた。友達は沢山いるようだけど、私は連絡先を知らない」
「警察に捜索願を出されては?」
壮太はもう何も考えられなくなった。黙り込んだ。
「貴方は? 誰か御家族にここに来てもらうことは?」
壮太は何も言えない。両親は厳格で不要な面倒は掛けられない。友達は皆、壮太と同じ株のブローカーで、ライバル同士だから信頼できる者はいない。
 警備員の年かさの方が、壮太の手首にある、メディカル・ブレスレットを見付けた。
「佐山さん、そこになにか刻んである筈ですよ」
佐山が壮太のブレスレットを外そうとした。そうされても壮太は身動きもしなかった。
「本人の名前と病院の名前が書いてある」
壮太は酷い首の痛みのために、何度も公共の場で失神して、その為にブレスレットに情報が書いてある。警備員の若い方が言った。
「かなり大きい病院ですよ。行ったことあります。宿直の医師もきっといる筈です」
佐山が携帯を取り出し、電話を掛ける。
「……はい。名前は、初鹿(はつしか)。珍しい名前です。初めて、の初に、動物の鹿。下の名前は壮太……」
 
 いつも壮太の病状に興味を示し、学会で発表したいと目論んでいる、あの医者がいた。佐山が言った。
「救急車を呼ぼう」
年かさの警備員が聞いた。
「警察は?」
「彼はなにも悪くないだろ?」
「従業員に暴力を振るったと聞いています」
佐山は息を大きく吸って、吐いて答えた。
「警察は止めろ。私が責任を取る」
この壮太より若い部長に、そんな権限があるのだろうか? しかし、壮太はなにも考えられなかったから、なにも考えないことにした。
 レオンや天使達がいなくなったという潜在意識が、彼を窓へダッシュさせた。一人になるのが怖い。皆、壮太を置いて、行ってしまった。立ち上がって窓に手を掛けた。窓は簡単に開いた。大人の男が飛べるくらい開いた。天使達に会いたい。空を飛べばあの連中に会えるだろうか。会って、レオンのいる場所を教えて欲しい。
 壮太は身体の半分を窓の外へ出した。一瞬の出来事に警備員二人は出遅れた。一番近くにいた佐山が、落ちようとする壮太の腰を全身の力を込めて掴み、部屋の中へ戻した。
 救急車に乗った。街の喧騒も、サイレンの音も、壮太には聞こえない。救急車の中で、壮太の血圧を測る者がいた。指をはさむ新式のではなく、腕に巻く旧式の血圧計で、ひやりとした感覚で壮太の正気が少し戻る。心の痛みは増している。救急車の中に誰かがいる。誰だろう? 一緒に佐山が乗っている。この人はどうしてここにいるのだろう? 
「貴方を一人で行かせられないでしょう?」
一人で行かせられない? どうしてだろう。壮太は考えても分からなかった。
 
 ベッドに入れられた。壮太は身体はどこも悪くないし、首の激痛もないのに、なぜここでベッドにいるのだろうか、と不思議に思う。
「ドクター、あのメンソレータムの天使達、覚えてるでしょう?」
「……相当、いってるな」
ドクターはいつもの通り、冗談っぽく言った。
「先生、覚えてないんですか? よく働くって褒めてたじゃないですか?」
「きっと、モルヒネのせいだろう。よくあることだよ。現実としか思えない程はっきりした夢を見ることがある」
「レオンのことは覚えてるでしょう? 見舞いに来て、ここで宿題をやっていた、高校生の」
ドクターは首を横に振った。……レオンの存在自体がこの世から消えている。この世に生まれて来てもいないなんて。壮太は驚愕した。
 壮太は絶望した。レオンや天使は現実だ。モルヒネを打ってない時だって、連中は壮太と一緒だった。壮太は胸の底から慟哭した。それはなかなか止まらなかった。頭の中に、レオンや天使がいて、あいつ等がいなくなって、壮太は自分には何も残っていないと、絶望した。こんな風に人前で泣いたのは小さな子供だった、その時以来だ。
 今にもレオン達が冗談だよ、と笑いながら出て来るんじゃないかと、何度も周りを見回した。しかし、そこには誰もいない。あるのは病院の饐えたような匂いだけだ。壮太は一人残された。どうして一緒に行けなかったんだろう?
 あまり号泣したから、身体中が痛い。首も少し痛い。そうだ、三島の墓に行ったらなにか手掛かりがあるかもしれない。壮太はベッドから出て、靴を探した。いつも入院している壮太は、病棟の規則を知っている。ここは土足では入れない。幸い服はちゃんと着ている。首の激痛でベッドに横になる時は、いつも病院服を着せられている。気持ち悪い茶色の、変な紐で結ぶ。
 壮太は靴下のままで、病室を出ようとした。すると誰かが壮太の後を追い、腕を掴む。壮太は怒鳴った。
「なにしてるつもりなんですか? 俺には行く所がある!」
「どこですか?」
聞き覚えのある声。思い出した。デパートの男だった。ドクターの声がした。
「悪いけど、今は何処へも出せないよ」
壮太は窓へ走った。いつもと違う。窓に鉄格子がある。いつもの上階ではなく、そこは一階だった。花壇に植えられた花々に、弱い街灯が射す。壮太は鉄格子を握ってみた。到底外へは出られない。壮太は、また絶望した。壮太は、捕らえられた動物のように、病室をうろうろ歩き回った。
 天使達に初めて会ったのは、三島の墓だった。大学を出た頃から、首に激痛が走るようになった。壮太の憧れだった三島の命日に、墓へ行くようになった。三島が切られたあの首の痛み。特に左側の首。何度も切り損なって、まだ生きてて、まだ繋がっていた首の、そこがまだ痛いのだと仰る。あの方はいつも、痛いのを我慢されるから、壮太もどうしていいのか分からずに、涙が出て来る。
 
 あの花屋。壮太は思い出した。あの花屋に明日、電話してみよう。彼女なら覚えている。彼女は天使が葬式ごっこをしてる時、一人一人にパンジーを持たせてくれた。息子さんがそうしろって。花屋の名前を思い出せば、掛けられる。壮太は携帯を探した。
「携帯なら、ドクターが管理してますよ」
病室を歩き回っていた壮太は、佐山の顔を見た。
「駄目だ。あそこにはレオンとのやり取りが全部入っている。もう消されたのだろうか?」
壮太は病室の冷たい床にへたり込んだ。
「どうしてドクターが消すんですか。なんの為に?」
「皆がぐるになって俺を殺そうとしている!」
「どうして殺すんですか?」
「そうじゃないか。俺の一番大事なものを消してしまった。俺の生きる意味が無くなった」
「レオンという若者と天使達ですよね」
壮太はきっと自分は狂人のように見えるに違いないと、佐山の顔を見て思った。
「花屋に電話をしないと」
「今ですか?」
「遅くまでは開いていない。墓地の側だから」
「明日、電話してあげますよ。電話番号は?」
だから、携帯がないと分からない。
名前は? 名前は憶えているでしょう?
思い出せない。
墓地の側って、どこの墓地ですか?
多磨霊園。
多磨霊園にだって花屋はそんなにないでしょう?
思い出した……。花屋の女性が、世界で一番有名なバラの作出者の名前って言ってた。
バラの作出者ね。それだって世の中にそんなにいないでしょ。探してあげますよ。
 
 佐山は携帯を操作して、有名なバラの作出者名を一通り壮太に聞かせた。壮太はどれも違うと言った。佐山は諦めなかった。
「店の名前にするくらい有名な人だったら、絶対引っ掛かる筈なんだけどな」
「見せてください。ローマ字で見ると分かるかも。店の名前は壁にローマ字で書いてあった」
佐山は一瞬躊躇ったが、壮太に携帯を渡した。
「字面はこれに近い」
「メイランドですか」
「でもそんな名前じゃなかった」
佐山は時間を掛けて探してくれた。
「分かりました。やっぱりメイランドですよ。理由は分からないけど、日本ではなぜか、メイアンって発音するんですよ。どうです、聞き覚えありますか?」
「……そうだ。そうだと思う」
「多磨霊園ね……。あ、あります、あります。この花屋。メイアン……。明日は朝八時からって書いてあるから、起きたら掛けてみましょう」
あの人なら、覚えてるに違いないんだ。
あんまり考え過ぎない方がいいですよ。
どうして?
がっかりさせたくなくて。
どうしてがっかりするんです?
 
 壮太は、既に泣き尽くして腫れた目から新しい涙を零した。
「あの人なら絶対レオンのことも覚えてる。天使のことも覚えてる」
「でも、僕は覚えてない。貴方のドクターも覚えてない。もっと、なんて言うか、原因を考えないと。どうして貴方だけ、消えてしまった彼等のことを覚えているのか。そのレオンという人には家族はないんですか?」
壮太は思い出そうとしたけど、理屈の通った言い方はできそうになかった。
「レオンは父親に会ったことがなくて、母親は何度も男を変えて、マンションにはレオンが一人で住んで。中学生の時から」
「へー、酷いですね。でも、レオンなんてあんまりない名前だから、名字が分かれば警察に捜索願が出せますよ。というより、名前が分からなくとも捜索願は出せる筈ですよ」
じゃあ、今、直ぐ警察に行こう。
名字は知ってるんですか?
早く行かないと。レオンがトラブルに巻き込まれているかも知れないじゃないか。
貴方のドクターに聞かないと。
俺の言うことを信じてないから、そんなこと言えるんだ。
名字を思い出してください。僕が警察に電話します。
……彼のも変わった名前だった。確か北陸に多い名前だって言ってた。
じゃあ、住所は? 友達の名前は? なんでも思い出すことを教えてください。名前も分からない、住所も分からない、じゃあ捜索願は出せませんよ。
さっきは出せるって言ったじゃない。
名字が分かれば、の話ですよ。
俺の携帯があれば……。
ドクターに聞いてみます。今夜はまた宿直だ、ってこぼしてたから。
 
 壮太は佐山と一緒に病室を出た。途中、看護師と擦れ違ったけれど、壮太が病室を出ていることについてはなにも言われなかった。きっと大きなデパートの部長に見える人と一緒だからだろう、と壮太は考えた。
 ドクターは難しい症状の患者を診ていると言われて、会うのを断られた。断ったのは看護師長で、この人の気を変えるのは難しいと、壮太も知っていたけれども、レオンのことが心配だった。自分の携帯があれば、彼に関するなにかの情報が得られるかも知れない。きっと得られる筈だ。
 佐山がその気難しい看護師長と話をしてくれた。緊急を要することだと。人の命が掛かっていること。携帯が壮太の手に戻った。レオンのことが見付からない。天使を撮影したものには何も写っていない。レオンから来たメッセージがみんな無くなっている。壮太の頭の中が冷たくなって、それが背中に下がっていった。
「待ってください。それ。貴方のメッセージは残ってますよ」
そう言われて壮太はもう一度見直した。そうだ。自分の書いたメッセージは残っている。天使の話をしている。人魂の話をしている。墓参りの話をしている。アニメの話をしている。香水の話もしている。
 全て、壮太からの一方的なメッセージだ。
「僕、信じますよ。一人で喋っててこんなにリアリティーは出ない。有り得ない」
 世の中のたった一人だけど信じてくれる人を見付けた。壮太と佐山は薄暗い廊下を、音を立てずに歩いた。
「足が痛くない。前は歩いたら傷が痛んだ」
壮太は病室に帰るとベッドに座り足を見た。
「傷がない。キューピッドの矢が刺さった」
あれは幻だったのだろうか。佐山が折角レオンの存在を認めてくれたのに、今度は壮太自身が混乱した。
「寝た方がいいですよ」
「眠れない」
「眠らなくても、ベッドの中にいるだけで、身体も頭も休まるものだから」
彼の言う通り、ベッドの中で壮太の気持ちが少し安らかになり、浅い眠りがやってきた。
 
 赤玉が目隠しをされて、檻に入れられて、ぶるぶる震えている。天使達に囲まれ、赤玉に銃口が向けられる。赤玉が三島の敵だったから。舞台が反転した。御芝居を見るように。目隠しをされて檻に入れられているのは壮太だった。
 水兵の恰好した天使達は、非道にも壮太の身体をマシンガンで撃つ。壮太の信じがたいような大量の血が辺りに飛び、流れる。壮太は自分の死骸を自分自身で見ている。最期の三島の血を含んだ絨毯のように。上を歩くと靴が濃い液体に沈んだ。記録に残っている。
 動かなくなった自分を見て、壮太は悲鳴を上げた。壮太のベッドに駆け寄る者がいる。
「誰だ! お前は誰だ!」
 壮太の悲鳴が廊下に響く。暗闇の中に人がいる。
「佐山ですよ! デパートの」
 佐山が病室の灯を点ける。看護師が来る。それは男性で、興奮している壮太に落ち着いた声で、ドクターに会いますか? と聞いてくれる。壮太は震える声で佐山に聞いた。
「なんで貴方がここに?」
「誰かいた方がいいでしょう?」
「他人の貴方がどうして?」
「一度出会ったら、もう他人じゃないですよ」
 壮太はレオンが消えた瞬間を思い出していた。白檀の香りで、レオンの好きだったアニメの主人公とそっくりに、次元から消えてしまった。苦痛はないようだった。驚いた表情も無かったと思う。一瞬の出来事だから、ほんとのところは分からない。
 レオンは今、どこにいるのだろう? 彼はいつも自分のことを、誰かの生まれ変わりだって信じてた。とりとめのない色んな人。竜宮城の乙姫様、シンデレラ、ロシア皇帝の娘……。必ず、御姫様、プリンセスだった。その物語は壮太を楽しませた。
 純真な不幸な若者。彼自身も天使のようだった。頭の上に輪っかのある。無事で、幸せで、いて欲しい。レオンも天使もあんなに鮮やかに存在していた。
「もう一度聞かせてください。貴方は本当にレオンを見てないのですか? くまの縫い包みを持った天使も?」
佐山は否定の首を振った。
 
「先生に抗不安剤出してもらえるか聞いてみます」
看護師が言った。
「駄目だ。眠りたくない。今寝たら必ず悪夢を見る。モルヒネを打った時もそうだった」 
看護師が病室を出ようとする。
「今寝たら、悪夢の中に引き摺られて、帰って来られなくなって、闇の中でそのまま死んでしまう」
「僕が見てますから大丈夫です。なにかあったら呼びますから」
佐山がそう言うと、看護師は病室を出て行った。壮太は看護師の屈強そうな背中を目で追った。
 
 佐山は部屋の灯を一番暗いところまで下げた。白い壁に、佐山の大きな影が浮き上がった。二人はそれぞれのベッドに潜った。
「なにか楽しい話をしましょう」
楽しいことなんてあるだろうか? 壮太は必死に頭の中を探った。最後にレオンを見た時のことを思い出した。
「レオンが言ってた。有名デパートの部長クラスは聞こえが良くて、なりたい人が多いけど、なりたい人が多いとその分給料が安いから、安くても困らない御坊ちゃんが多い」
「それって凄いパースペクティブですね」
「当たってるんですか?」
「僕達ってそんな風に見られてるんだ。僕の場合は、代々百貨店だから」
彼は笑って、笑ってる声を聞いて、壮太は胸の痛みが楽になるような気がした。
 
 壮太は目を覚ました。佐山の側で寝ると、不思議と悪夢は見なかった。佐山は既に起きていて、壮太の携帯をいじっている。
「すいません、勝手に。でもね、凄いことを発見しましたよ」
壮太はベッドから飛び降りて彼に駆け寄った。
「この写真、誰も写ってないけど、ほら、ここに薄っすらと黒いものがあるでしょう?」
壮太は起き抜けの目を凝らした。
「それからほら、この動画。見にくいけど薄っすらと黒い物が動いている」
確かに、なにかが動いている。
「これ、影ですよ。誰か知らないけど彼等の存在を消した者は、影を消せないのか、消すのを忘れたのか」
 壮太はある動画を観て興奮した。あの非番のメンソレータムの天使が噴水に入って、天使の輪を浮き輪にして。天気が良かったから、天使の影がはっきり写っている。石像の天使のその土台に写っている。壮太はそんな動画を撮ったのも忘れていた。おまけにみんなが水を掛け合ったりする様子も分かる。壮太とレオンも水を掛けられた。
「ほら、これ貴方が立って動画を撮っているんですよね。貴方の影が少し斜めにこの天使の像に写っている。もう一つ影がありますよね。誰かが貴方の隣に座っている。でも影だけなんです」
「レオンだ!」
「誰もいないのに、影だけある。これを持って、警察に捜索願を出しに行きましょう」
壮太の外出願いをしたが、デパートの窓から飛び降りようとした人間を、外に出せないと言われた。当然だけど。
「警察にそんなこと言って、狂人だと思われる」
「大丈夫。僕、狂人じゃないですから。これから行って、なにか聞かれたら、貴方とビデオ通話をしましょう」
壮太は大事なことを思い出した。
「花屋に電話しないと」
「いい証言が得られるといいですね」
 
 佐山が出掛ける支度を始めた。夕べのファッション性のある長い丈のジャケットではなく、普通のスーツを着ている。誰がここまで運んで来たのだろうか? 壮太は余り色んなことを考えると、また窓から飛び降りたりする可能性があるから、それについては考えるのを止めた。
 病室を見渡した。精神科にしては、首の吊れそうなカーテンや、カーテンを捩じって、天井に引っ掛けられるような突起もある。それにしても、壮太はいつも相部屋なのに、なぜ今回だけ個室なのだろう? 考え過ぎると、考えが止められなくなる。
 花屋に掛けてみた。あの女性ではない、明らかにとても若い女性が出た。彼女以外に働いている人物は見たことがないから、ひょっとして間違い電話なのではないか、と疑った。考えてみたら壮太は彼女の名前を知らないし、向こうも壮太の名前は知らない。
「オーナーでしたら、今日は競り市の日で、まだ帰って来ないですよ」
今時の若い人の喋り方。何処が違うかは分からないけど、多分、抑揚が違う。最近、何処かで聞いた。思い出そうとしたら、あのアニメだった。レオンと一緒に観た、転生もの。
「レオンが好きな、あの変なアニメに手掛かりがあるかも知れない。主人公が白檀の香りで異世界に飛ぶんだから。あんな偶然は在りえない」
壮太は佐山にアニメの内容を説明した。
 きっと、あのデパートにいた時、レオンは初めて白檀の香りに触れた。アニメに出て来るペリー・エリスの360というフレグランス。でも、あのアニメを観たって、どの次元を探せば、レオンや天使達に会えるのか分からない。
「僕が帰ったら一緒に観ましょう」
「観ましょうって、何処で?」
「パソコン届けて貰いますよ」
誰に? とは聞かなかった。ややこしいことは考えないようにしているから。それでもこの質問が沸き上がった。
「貴方はどうして、そこまでしてくださるんですか?」
「だって、面白いでしょう、もしそんな天使がいたら」
彼は即答して、微笑んだ。
「警察に行く前に、もう一度レオンという方の名字を思い出してみてください」
「北陸に多いって、それしか」
「北陸のどの県ですか?」
思い出せない。その名字がそのまま土地の名前で、親戚もそこにいるって聞いた。
どんな字を書くんです?
不思議だな。なんで思い出せないんだろう?
きっと、彼等を消した者が、思い出せないように妨害してるんですよ。
そんな怖ろしいことが……。
だから、ちゃんと考えてください。
俺には読めない漢字だった。
そんなに珍しい名字があるんですね。
彼自体が珍しい生き物だった。いつもカラコンに化粧で、変なカラフルな服を着てた。
 
 佐山はスーツのポケットから、携帯を取り出した。
「北陸にある県は……」
壮太はクイズみたいだな、と思う。子供がよく騙される、クイズみたいだ。
「僕が思うに、石川県と言われたら、覚えてると思うんですよ」
なんで?
石川県には金沢あるし、和倉温泉とか、誰でも知ってるような観光地の多い土地でしょ?
そう? そうかも知れない。
後は二県しかないですから楽ですよ。
面白いって……。
なんですか?
さっき面白い、って言ったでしょ? 天使がいた方が面白いって。だから俺と一緒にいてくれるって。面白いって言ってた。レオンが。おばあちゃんが、もう東京に越したのだから、手続きが面倒だから、戸籍を東京に移そうか? って、そう言ったら、おじいちゃんが、その方が面白いから、そのままにしよう、って。
じゃあ、その名字って、きっと市の名前ですよ。市の名前が名字と同じだから面白いんじゃないかな? 確証はないけど。見付けるの簡単ですよ。いい大人が読めないような市の名前ってそんなにある訳ないですよ。壮太さんって、文系ですか? 理系ですか? それより貴方は、なんの御仕事されてるんですか?
俺は株の予想をして暮らしている。
じゃあ、理系ですね。数字の世界だもの。
そうだろうか? 文系だと思ってた。感性の問題だから。会社を調べる時には、俺はその会社の従業員達のブログまで全部読むよ。これから成長する会社かどうか。
探偵みたいですね。
だと思う。こないだ大穴を当てたんで、俺のクライアント連中も暫くなにも言ってこない。
 
 これが富山県と福井県にある市の名前だ、と佐山は魔法のように素早く探り出して、一覧を壮太に差し出した。
「初鹿さんも珍しいですね」
「家は山梨で、親戚しかいない。物心が付いた途端、父親に悪いことをするな、直ぐ周りに知れる、と言われた」
壮太は、市の名前を一つ一つ読んでみる。
「ああ、これは読めない」
「これだったら僕にも読めない。なにか記憶にありますか? 他に読めないのが無いなら、きっとこれですね。……砺波(となみ)と読むらしいです」
「砺波、砺波レオン。波が付いてるのを面白がったことがある。だってレオンは自分が竜宮城の乙姫様の生まれ変わりだって信じてた」
壮太はレオンの海水色のアイシャドーや、サンゴ色の唇を思い出した。
 佐山が病室を出る時、壮太に、多分警察署から電話をするから、変なことを考えたり、変なことをしたりしないで、大人しく休め、と子供に諭すようにして、そして出て行った。
 
 花屋から電話がこない。名前と電話番号を残したのに。しかし、彼女は壮太の名前を知らない。壮太も彼女の名前を知らない。彼女ならレオンや天使達のことを覚えていると思う。期待するのはよくない。失望はもうしたくない。
 息子の幽霊なら覚えているかも知れない。幽霊には電話できないから、やはり花屋へ行った方がいいだろう。そして三島の墓に花を手向けよう。三島なら、なにがどうなっているのか知っている。レオンは三島のことを、由紀夫さんと呼んでいた。由紀夫さんの墓参りの後、デパートに行って、プレゼントを買って、それから壮太の所へ来ることになっていたんだ。
 三島の墓から出て来た人魂。赤玉じゃなくて金色の方。それを思い出していたら、壮太が金色に手を引かれて空を飛んでいる幻想が沸いた。それからレオンが墓の中に囚われている幻想も沸いた。墓の中に吸い込まれている。そんなことがあるのだろうか? 天使達はきっと、彼等の国に帰ってしまった。奴等は昔々の言葉を喋る。バロックより、ルネッサンスより、もっともっと昔の。そんな昔へ帰ってしまった。
 佐山は変なことを考えたり、変なことをしたりするな、と言っていた。それは難しい。妄想は自然にやってくる。皆と一緒の時間がなんて素晴らしかったことか。
 自分でできることはやらなきゃ駄目だ。レオンの学校。男のセーラー服なんてすぐ調べられるだろう。
 
 佐山から電話が掛かってきた。桜田門にいるという。おまけに、刑事部にいるという。どんなことになったらそんなことになるんだろう? なにやら周りが賑やかで、笑い声まで聞こえる。
「鑑識に見せたら、噴水に映った動く影は、角度から言って、人為的に作るのは難しいとのことです」
「狂言ではないと?」
「あの影は、そこにほんとに人がいないとできない筈だと。直ぐに捜索を開始してくれるそうです」
「学校のことを思い出した。男子の制服がセーラーカラーなんです。海軍みたいな」
「それで分かったようなものですね。できるだけのことを思い出してください。警察が動くから、壮太さんは安心して任せてください。花屋にも学校にも行かせます。家族のことも調べさせます」
「でも花屋は俺の名も知らない。三島由紀夫の命日の一日前、それは十一月二十四日で、その日しか行かないんです。でも彼女は一年に一回しか会わない俺のことを覚えていた」
「任せてください。最新鋭のグループです。科学捜査、サイバー犯罪捜査が得意で、警視総監賞を貰った人もごろごろいます」
 その人達は、三島の御霊が首が痛いと言ってそれでも痛いのを我慢されることとか、その痛みが壮太にも乗り移ってくることとか、金色の人魂が飛んで天使達に捕まって三島の墓に帰って行ったこととか、赤い人魂がもう少しで銃殺刑になったこととか、それを全部信じて壮太を救ってくれるのだろうか。
 
 警察に行った佐山が、デパートの用事を済ませて帰って来たのは、午後の遅い時間だった。アニメのタイトルを覚えていない壮太のために、彼はデパートの若いスタッフ達に聞いて回ったということだ。
 二人は並んでアニメを観た。タイトルは『白檀の扇子』。主人公の高校一年生の名前は「天使(てんし)」今回は壮太も眠くならなくて、最後まで手掛かりを探しながら、しっかりと観た。二人は手掛かりになりそうな所で何度も止めて、話し合った。
 廊下を通り掛かる看護師達が、必ず部屋に入って来る。そして画面を覗いていく。二人の大人の男が熱心にアニメを観ている。二人共もう少しで肩が触れる程、熱心に。看護師達がどう思ったのかは知らない。
 天使がおばあちゃんの遺した、白檀で作られた扇子を見付ける。それは天使が小さい時に悪戯するので、おばあちゃんが隠したものだった。白檀の香りで消えて、異世界に飛ぶ。それまで普通の高校一年生だった主人公が、前世に飛ぶ。その消え方がまるでレオンが消えたのと同じだ。
 レオンはテレビの画面が消えるように、すっと消えて行った。壮太は半透明のレオンを抱き留めようとした。しかし、その抱き留めようとした彼はもうそこにいない。
 主人公の天使が飛んだ先は、ニコライ一世が統治する、ロシア帝国の千八00年代だ。天使はニコライ一世の飼う猟犬だった。ニコライ一世は名前のなかった猟犬に名前を付けた。エンジェル。主人公は現世では天使で、前世ではエンジェルと呼ばれていた。エンジェルはロシアの貴族達に愛された猟犬だった。瀟洒な姿を持つ大型犬。顔が小さく、流線型の身体。ボルゾイ。
 ロシア帝国は、ニコライ二世の時、革命によって滅亡した。ボルゾイは帝国を象徴するものとされ、その多くが撃ち殺された。しかしアニメは、それが起こるずっと前の話。
 
「前世と言っても……」
壮太が話し始めたので、佐山は『白檀の扇子』を止めた。
「レオンには色んな前世があるって言ってたから、どの時代の、どこを捜せばレオンに会えるのか分からない」
「前世ってどんな?」
竜宮城の乙姫様。
でもそれって、ただの御伽噺でしょう?
それから、シンデレラの生まれ変わりだって。
それだってお伽噺でしょう。
伊達政宗の妻だったり、ロシア皇帝の娘だったり。
それ、手掛かりになりそうですよ。ロシア皇帝って、どの?
最後のだって。ニコライ二世。
レオンがこのアニメを観たのは、彼が、貴方にニコライ二世の生まれ変わりだって言った後ですか? 前ですか?
分からない。でもこれを何度も観ていると言っていたから、きっとアニメが先だと思う。
だったら、アニメから影響されて、ニコライ二世の娘だったと空想したのかも知れない。
だから?
ただの空想なんですよ。彼の。生まれ変わりだとか。
 
 壮太は混乱した。空想だとしたら、前世の話が全て空想だとしたら。でも、実際、レオンは消えてしまった。このアニメのように。白檀の香りで。二人はまたアニメに戻った。
 通り掛かった看護師長が、不思議そうに、なにを観ているのか聞いた。そしてドクターはそのことを知っているのか、そう聞いた。
「貴方は安静にしてないと駄目な筈ですよ」
壮太は、これを観ないと安静になれない、と答えた。佐山は看護師が来る前まで戻して、また二人で観入った。
「ほら、今の観たでしょう? また現在に戻って来たけど、戻る時はいつも突然なんだ。白檀もいらない。これを書いた人に聞いてみたらどうでしょう?」
そう言われても壮太には、疲れた頭には理解できない。
「なんにでも普通、原作ってある筈ですよ。最後のテロップを観たら、名前が載ってる筈です。前世に戻る時だけ、白檀の匂いがする。前世から帰る時はなにもない。それがなぜだか聞いてみましょう」
途中を飛ばしてテロップを読んだ。佐山の言う通り、原作者の名前があった。
「原作もタイトルは同じだな。これを読みましょう。ネットで読める筈」
「俺、今集中力がないから、なにも読めないと思う」
「大丈夫ですよ。僕、読むの速いから」
 
 二人は戻って、続きを観た。現在と過去に戻る、忙しいストーリーだな、と壮太は思う。佐山が突然アニメを止める。
「ほらまた、前世から突然戻ったでしょう。……あ、分かりました。その黒いタキシードの男です。その人が出て来ると、突然現在に戻るんです」
「戻る時は白檀はいらないんだ。じゃあ、レオンはどうやって帰って来るんだろう?」
黒いタキシードの男は、ニコライ一世の時代に現れる。しかし、彼は現在の服装で、最新スタイルのベンツに乗っている。天使という名の主人公、その前世であるボルゾイに傷付けられた白いフォックス。
 黒いタキシードの男が、黒塗りのベンツのドアを開けると、フォックスは車に飛び乗る。後部席で、フォックスはとても若い女性に変身する。肌の白い。髪の長い。真っ白な着物に、真っ黒な帯を締めている。
「今の所、もう一度観てみましょう」
佐山はアニメをスタートさせる。天使こと、猟犬のボルゾイはご主人様のニコライ一世の鹿狩りの隊を勝手に離れ、白いフォックスの後を追う。ボルゾイは、湖の畔で優雅に毛繕いをしているフォックスを発見する。水鳥の鳴き声や羽ばたきで、彼女に猟犬の近付く音は聞こえない。
 猟犬は、彼女の首に食らい付く。天使がもう少しで彼女を仕留められる、と思った瞬間、黒いタキシードの男が、天使に銃口を向ける。見たことのない黒光りした銃。
 
「ほら、ここで天使は十九世紀からいきなり現在に戻るんですよ」
黒いタキシードの男は全速力でアウトバーンを西に走る。傷付いた純白のフォックスを乗せて。その次の場面で、天使は自分の通う高校にジャンプする。
「絶対、僕、アニメの制作者と原作者に話を聞いてみますよ。それでレオンさんが戻って来られるかも知れない」
「でも、これはフィクションでしょう?」
「そうだとしても、原作者に、書かせた理由があるはずです」
「貴方はどうしてそこまで……」
「言ったでしょ、貴方の天使みたいに面白いものが見たいって。僕ね、子供の頃、将来は絶対、江戸川乱歩の小説に出て来るような探偵になりたかったんです。謎解き。ある筈のない事実。面白い。とても面白いです」
壮太は弱った脳で考えた。この人はそこまで思っていて、なぜ探偵にならなかったのか。
「僕の立場上、親の跡継ぎになるしか道がなかったんです」
佐山は壮太の気持ちを見透かしたように言った。
 
 佐山と壮太はそのアニメを最後まで観た。途中、全く覚えてなかったシーンが出て来て、壮太はきっとそこから寝てしまったんだな、と思い、レオンに足を蹴られて起こされたことを思い出した。主人公の天使が、そのアニメを自分で観ているという場面は、メタフィクション的で興味深かったけれども、その後の筋は、大袈裟で悲劇的で面白くはなかった。
 
 壮太はどうしても三島の墓に行きたい。そこにはなにか、レオンや天使達を呼び戻す為の情報があるに違いない、そして花屋の女性に話を聞いてみたい。
 その大病院は、患者のジムがある程、設備の整った場所で、壮太は毎日ジムへ通って、精神科医を安心させた。佐山から連絡があったが、例のアニメを研究する為に力を尽くしているようだった。原作者と話すとか、桜田門にコネクションがあるとか、あの男はどういう人物なのだろう、と壮太は疑問に感じた。
 次の週、壮太は精神科を出された。同じ病院にいる壮太の首の方のドクターは、彼の首が痛くならなくて残念そうだった。
 壮太は病院から、家に帰らずに、多磨霊園に向かった。レオンに教わった新しい駅で降りた。花屋への道程で、壮太は天使の羽が落ちてこないか、何処からか連中の御喋りが聞こえてこないか、時々立ち止まって周りを見渡した。遠くに花屋が見えた。人の出入りがある。あの人は、自分のことを覚えているのだろうか? もし忘れてしまっていたら、相当、打撃になる。
 壮太の顔を見た。微笑んだ顔が、壮太のことを覚えている、と語っている。丁度、客足が無い時だった。壮太はどう切り出そうか、考えた。病院でだって、電車の中でだって、考える時間はあった筈なのに、なぜか壮太はそうしなかった。
「息子さんはお元気ですか?」
それが頭に最初に浮かんだことだった。
「息子はそこの墓に入ってますよ。言ったでしょう?」
「でも、毎日ここにいて、力仕事をなさってるんでしょう?」
息子は死にました。
貴方は俺が息子さんに似てると言ってた。僕と一緒にいた大勢の天使達、覚えてるでしょう? 貴方が息子さんに言われて、天使、一匹一匹にパンジーを持たせてくれた。奴等は列に並んでそれを受け取って、とても嬉しくてはしゃいでいた。
息子がいるんですか? 何処にいるんですか?
今日は見えないけど、前に来た時は、影のようなものが見えた。貴女だって、毎日ここへ手伝いに来るって言ってましたよね。
息子がいるんなら会ってみたい。息子が死んで、私は六本木にあった花屋を畳んで、息子の墓のあるここで、また花屋を始めた。
俺の悪戯な天使どもを覚えてますか?
貴方のことは覚えてる。
一度、レオンという名の若者とここへ来た。それは覚えてますか?
十一月二十四日の真夜中に、息子は頸動脈をとても鋭いナイフで切って、自殺しました。三島由紀夫さんの御墓の前で……。貴方は息子に似ている。三島由紀夫の命日に墓に来るのも似ている。私は貴方のことを見るのが怖い。息子みたいで。三島由紀夫にどんな力があるって言うんですか? 彼のなにが特別だって言うんですか?
 
 客が入って来た。彼女は早口で言った。
「死んではいけませんよ」
「死にません。俺には捜しているものがある」
 
 それ以上壮太には彼女に話すことはなかった。花を見ていたかった。世界中からこの花屋の為に送られて来たこの色達。レオンがここにいたら、どんな花を選ぶだろう? 壮太の知らない花も沢山ある。見たことのない花もあるけど、見たことはあるけど、名前の知らない花もある。
 花を買って、三島の墓に供えよう。壮太は色を捜した。彼女の息子さんの為に。息子さんはどんな花が好きだったのだろう? 壮太はスカーレットの薔薇を選んだ。不思議なことに、花びらの裏側が白くなっている。これは自然の色なんだろうか? 
 名札が付いている。「ラブ」。そういう名の薔薇なんだ。検索してみる。ラブ。一九八〇年にアメリカで創られた。本当にこれが自然の色なんだ。表が真っ赤で裏が白い。壮太はラブを一本入れて、シンプルなブーケを創って貰った。
 三島の墓に着く。花屋の息子さんのことを思う。彼の気持ちが理解できる。三島の前で、血を沢山、沢山、流して死にたかったんだ。人間の血の勢いは凄いらしい。漱石の『こころ』に書いてあった。自殺した、主人公の友人の部屋に、壁にも障子にも血潮が飛んでいた。血の勢いに驚いた、と書いてあった。
 息子さんを最初に発見した人はどう思っただろう? 母親はそれを見てどう思っただろう? 三島由紀夫にどんな力があるのだろう? 彼女には理解できなかったけど、壮太には三島の力が分かる。彼は世界の誰とも違っていた。死んでなお、人々に影響を及ぼす。人々は彼を理解しようとする。しかし、理解しようとすればするほど、三島は遠くへ行ってしまう。
 首が痛いと言っている。壮太は、夕べの雨に少し濡れた墓石に触った。この中に人魂がいたんだ。金色で臆病な人魂。墓から飛び出して、ぶるぶる震えて、天使達に守られて、そしてまたこの墓の中に消えた。
 あれは三島自身なのかも知れない。彼がまだずっと若くて、自分が誰だか分からなくて。若い時の三島が、まだ魂の形で遺っているんだ。壮太は三島の墓石から、そういうメッセージを受け取った。
 
 ラブという薔薇は力強くて好きだ。血の色。血の匂い。ここにいるとどうしても血のことを考える。血を沢山流して死んだ三島。絨毯に染み込んだ血の、その上を歩いた人が、ずぶずぶ音がした、というくらい、三島は血を流した。壮太も死ぬなら、そんな血を流して死にたいと思う。
 でも今は死ねない。濡れた墓の前で立ち尽くしていると、壮太の携帯が鳴った。佐山だった。
「鑑識が一度、見分に来て欲しいと言っていて」
「桜田門だって言ってましたよね。家出人の捜索に、警察庁が関わってくれるんですか?」
「人が消えたというなら大事件です。また同じような事件が起こるかもしれない……というより、僕は警察庁に顔が利くんです」
病院を出て、壮太は改めて考えた。佐山が壮太にこれだけ協力する理由はなんだろう? 天使を見てみたいという理由の他に。
「僕のデパートは皇室にも出入りしていて、警察庁幹部にも僕の父親の同級生や知り合いが何人もいて」
「じゃあ、貴方は……」
「僕はデパートの跡取りで。今時、世襲制って可笑しいですけど、デパートという所は保守的で。でも僕の代になったら、もっと色んなことをしてみたい。西武デパートの堤清二みたいに。誰にも思い付かないことを」
「桜田門は、偉い人ばっかりで、捜査なんてしないのかと思ってました」
「重大事件の捜査をしていて、ちゃんと鑑識もあります。じゃあ、明日、鑑識で会いましょう。霞が関二丁目ですからね。時間は十一時だそうです」
 
 遅刻しないように、何度も携帯アラームのセットを確かめた。鑑識が見せたいものって何だろう? あの影から何が分かったというのだろう? 病院の噴水で壮太の横に座っていたレオン。確かに彼は携帯の動画に写っていた。でも、今は影でしかない。
 天使の輪を浮き輪にして、ばしゃばしゃ遊んでいた非番のメンソレータムの天使達。まだあいつ等の笑い声が身近に聞こえる様だ。それから連中の、飲んだくれみたいに赤いほっぺや、少女が内緒で使ったリップクリームみたいなイチゴ色の唇や、健康的に太った身体や、甲高い意味不明の言葉や、変な歌や、そんなものがとても懐かしい。
 レオンも天使達も伝説になってしまったのか。生きてこの世に帰って来さえすればいい。レオンみたいな変なアニメオタクがいて、うるさい天使達がいて、壮太の生活は賑やかだった。
 
 警察庁一階のエレベーターホールに、佐山がいた。時間が三十分以上あったので、明るい色の植木が置いてあるような、日の当たるベンチに二人は座った。
「警察にこんなコネクションがあるなんて、凄いですよ」
「だけど、壮太さんにだって、そういうことあるでしょう? 力を持った人が、家族とか近い親戚にきっといる、そんな感じがします」
壮太の祖母は生け花の名取で、ニューヨークに長く住んで、アメリカの官公庁のイベントや、有名ホテルや、空港などで大掛かりなアレンジメントをしていた。その道で祖母の名前を知らない人はいない。
「僕にはね、分かるんです。そういうこと。僕と同族だなって」
 壮太の父親は東大の法科で、参議院の参事官だ。大きな金と大きな力の世界。父は政治家共の後ろにいて、あいつ等が馬鹿なことをしでかさないか見張っている。母親は日本のAI研究の最先端にいる。研究が始まる時から関わっている。もう何十年にもなる、その道の一人者だ。最近は子供の観るテレビ番組に出て、AIのロボットと一緒に遊んだりしている。壮太が父や母にどんな仕事をしているのか聞いても、どうせ分からないから聞いてもしょうがないよ、といつも言われてきたけど、いつ聞いても、ほんとに全く理解できない。
「僕はね、御金持ちとかそういうのは関係ないけど、育ちの良さ、みたいなのがよく分かる」
 壮太の姉は二十歳で自殺した。妻子のいる男がいて、その男の子供を身ごもって、ビルの上から飛び降りた。俺達に、赤より赤い振袖だけが残った。二十歳を目の前に。男が葬式に来て、俺は殺してやろうと、殴ったけど、当然周りに止められて。
 一周忌にまた来て、壮太はその時は相手の正体も知っていた。大手放送局のプロデューサーだった。社会派の切れのいい、その時丁度人気だった、ドキュメンタリー・シリーズのトップで仕事をしていた。壮太も彼の番組を観ていた。悪い人間ではないと知っていた。壮太はたった一言、そいつに言いたいことがあった。「どうして……、なんで、姉だったんですか? 他の人じゃなくて……」
 
 佐山は、日差しの中で、まるで生まれて来た時からそんな明るい所にばかりいて育ったみたいな、そんな様子をしていた。壮太はキューピッドに金色の矢を刺された、自分の足に触ってみた。これで何度目だろうか? こんな風に触って。もう痛くないのも知ってるのに。探しても、もう傷は何処にもない。
 佐山は壮太の沈む心を見通して、手を握ってくれた。少しびっくりして壮太は彼の顔を見た。壮太のよく知ってる、天使共にそっくりな微笑み。生まれた時から天使で、今でもそうで。
「貴方は俺のことを、なぜいつも信じてくれるんですか?」
「言ったでしょ。僕だって御空の天使が見てみたい」
壮太の手を握ったままで、壮太を立たせた。
「時間でしょ。そろそろ」
 この男は会った時より十は若く見える。レオンと一緒に香水を買いに行った。気取ったデザイナー・スーツを着ていた。駄々を捏ねる天使をくまの縫い包みで、上手にあやしていた。
 レオンがいなくなって、その時、佐山は現場にいて、それから病院にも一緒に行って、そのまま病院に泊まって。不思議な男だ。なぜそこまで壮太を信じて。エレベーターが来て、エレベーターの止まる音がして、二人は他の男達と一緒に乗り込んだ。佐山は今日も奇妙な、デザイナー・スーツを着ている。素材が薄くてつるつるで、女のドレスに使われる布みたいだった。
 エレベーターの中で、他の男にも見えるのに、佐山は壮太の手を握った。佐山の手から、なにやら懐かしいような温かさが流れて来る。空に浮いた天使が、人魂の手を引いて、なんだか知らないけど、人魂は三島の墓に帰っていった。
 
 警察庁の鑑識は刑事局にある。ドアは開いていた。テレビで観たりするような、刑事が沢山がやがやいるような雰囲気はなかった。贅沢な広い部屋に、コンピューターを前に座っている職員が、十数人いるだろうか。女もいる。
 その女はコンピューターのスクリーンをじっと見ながら身動きをしない。無造作に結んだ髪が、時々瞬きする目が、ようやく女が人形じゃない、と告げている。壮太の首が痛くなって、モルヒネを打たれて見る夢に、よくこんな人形のような人間が出て来る。こういう場所で働くには、どのくらい頭が良くなくてはならないか、壮太は考えた。
 奥に部屋がある。ドアは閉まっている。佐山は躊躇いなくドアへ向かって歩き、ノックする。返事もないのに、ドアを開ける。
 男が一人で机にいる。佐山を見て立ち上がった。背の高い男だ。さっき警察庁に入ってから、一番ドラマに出て来そうな刑事らしい恰好。三日くらい寝ていないようななりをしている。スーツの上は着てなくて、安サラリーマンが着ているような、ぺらぺらの高級感の全くないシャツを着ている。上のボタンの開いたそのシャツの下のランニングも透けて見える。男らしい胸毛まで見える。
 佐山は背伸びをして、男の両頬にキスをした。フランス映画で観るような。しかし、フランス映画でも、それをするのは女同士だ。壮太より背の高い佐山が背伸びをするということは、その男の背がかなり高いということだ。
 
「青(せい)ちゃん」
背の高い男は、佐山のことを、ちゃん付けで呼んだ。それが可笑しくて、壮太は緩く微笑んだ。
「初鹿さん、名前が変わってるからすぐ分かっていいな。いい御名前だ。貴方の御父上にお会いしたことありますよ」
壮太が、何処で? と聞く前に、男は答えた。
「つまらない政界のパーティーでしたけど。名前が変わってると覚えやすくていいな」
男はそう繰り返した。暗い所に目が慣れてくる。その男は日本人の顔をしていない。中東っぽい濃い顔をしている。多分、日本人とのハーフだと思う。彫が深くて、男らしいひげを生やしている。男臭い匂いもする。大して近くにいないのに。壮太は面白く思った。
 青ちゃん、と呼ばれた佐山は、男に抱き付いて、裸の胸に顔を寄せた。男に嫌がる様子はない。
「僕ね、貴方に下の名前言ってなかったね。青史。色の青に、歴史の史。それからこの人は、空と海の海って書いて、かいっていう名前」
「海なんてな。少女漫画好きな母親が付けたんだけど、父がその名前に反対してくれたかは分からない。俺は父親を知らないから」
「海ちゃんは、僕の大事な人。天才言語学者で、十カ国以上話せるんだよ」
青ちゃんだけじゃなくて、海のことも海ちゃんなんだな。天才言語学者なんて想像ができない。頭の中がどうなっているのだろう? 壮太は日本語と、英語くらいならできる。その他は、世界のどんな男でもベッドの中で囁くような、そんな言語だ。
 海の部屋はわざと暗くしてある。海底を模してあるのか? レオンは前世、竜宮城の乙姫様だった、って言ってた。
「面白い、観察と研究結果が出ている」
 海が紹介されたのは、先程の人形みたいに動かない女だ。彼女は立ち上がって、人形じゃないことを証明すると、壮太の握手の手をしっかり握った。繊細な女性的な手だけど、力強く握ってくれた。壮太に安心感を与えるような。この人なら、きっと皆を見付けてくれる。
「貴方がいいカメラをお使いなので、残された影から、いなくなった人物像を作ってみました」
 青史と海、そして壮太の三人が、彼女のコンピューター・スクリーンを覗く。翼のある者達。人間の子供の半分くらいの大きさで。天使の輪を浮き輪代わりにして。3Dアニメーションだ。リアリティーが半端じゃない。
 現実にだって、見える人は少ないのに、よくここまで……。壮太の目から涙が零れた。それを恥ずかしがっている余裕はない。皆の姿が見える! 一生懸命遊んでいる。非番のメンソレータムの天使達。壮太の首にメンソレータムをぬりぬりしてくれた。古風なナースの帽子を被った、あの連中。
「それから、こちらの男性ですが、動きがあるので、大分立体的に形が見えてきたのですが。ほらここの所に、はっきり横顔が見えます。なにかもっと資料があるといいのですけど……」
 レオンの写真は皆、消えてしまった。彼女は壮太の携帯に手を伸ばした。壮太の撮った写真や動画をスクロールしていく。レオンの写真は皆、消えてしまったのに……、この女性は何をしようとしているのか?
 彼女は壮太の携帯に入っている写真や動画を、大量に自分のパソコンにコピーしていく。壮太の了解も求めずに。彼女はスクリーンに一枚の写真を表示させる。
「ここに影が映っている」
彼女が指差した場所には何もない。三人の男達は不思議に思う。
「私は色彩感覚が鋭いので、少しの色の違いが分かるんです。ここにレオンさんの影があります。なんだ、こんなにあるんだったら、もっと早く貰っておけばよかった!」
彼女はビジネスっぽい話し方を崩した。画面を見ながら後ろに手を回すと、結んであった髪を解いた。流れ落ちる長髪を、壮太は、奇麗だな、と思った。
「必要ないと思って。観ても誰も写ってないし、観てるのも辛かったから」
壮太は残念そうに答えた。


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