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わたしは、しつこい。

私はよく歩く。歩いてると突如、今いる世界から自分だけが切り離され、違う空間へ融合される感覚になることがある。その時気に留めたものって、街中を普通に歩いている人たち。まさに今自分がいるその場所の周りの景色を眺めていると、次の瞬間に心と頭が繋がって、こんなことを考える。

≪ここにいる人たちみんないつか死ぬのに、なんでこんなに一生懸命仕事してるの?なんで生きてるの?みんな凄すぎるだろ。≫
こうやって、頭の中からもう一人の私が顔を出してくる。

サラリーマンの側を通り過ぎる。彼の顔を覗き込みながら、どうせ死ぬのに、なんでそんな一生懸命仕事してるの?あなた、凄いね。
老若男女問わず、全ての人に対しこの思考は働く。みんな凄い。生きてるってみんなが思うよりとても凄いことなのに、みんな目の前で生きてる。ここにいるわたし以外の周りの人全てを心から尊敬する。

そういう自分も生きてるじゃん。そう、私も生きてる。生きるためにご飯を食べる、ご飯を食べるために仕事をする。どうして働くの?こんな問いにはほとんどの人が≪生きるため≫そう回答する。じゃ、なぜ生きるの?ここで、多くの人が無言になる。≪・・・・≫

≪生きるとはどういうことか≫
私は、自分へのこの問いかけを手放すことが、どうしてもできない。ここ最近、明確な回答を導きださなくてOK!と思えてきたのは多分、この関連の思考の耐性がついたからかもしれない。

こんなことを、ふわっとした瞬間に思い出してばかりいる私は、もしかしたら生きることに向いていないのか?

職業に向き不向きがあるように、きっと≪生きること≫にも向き不向きがあるんじゃない?向いていない人からしたら、生きている人たちが、普通に生きてるだけで相手を尊敬してしまい、時に自分を肯定できなくなるときがあるでしょ。そう苦しんでいる人もまだまだ世の中にはいっぱいいるんじゃないかな。

その人たちのことを考えると、心がズキズキする。
産まれちゃってごめんなさいって思ってる人もいると思う。人は自らの選択で産まれてなくて、たまたま産まれてしまった。産まれてしまった以上、命がスタートした。結果は死だけど、生きていく。でも、生きることに絶望した時、途中、死を選択する人もいる。私はそんな勇気は持ち合わせてないけど、想像は広げることができる。

白黒、どちらかじゃなくて、自分にとって安心、素敵なグレーゾーンを見極める。私ね、ただ生きるじゃなくて、自ら能動的に≪生きること≫を選択したいんだと思う。そして生きるなら、より善く生きたい。だからこそ、こんな問いかけを後生大事に抱え込んでいる。でも、こうも思ったりする。
「人が本当に考えるべきことって、これじゃないの?」
そして、その問いには回答がない。でも、しつこく問い続ける。問いの中で右往左往しながらも生きる事で、人間の奥行きが育っていくだろ。と、自分を納得させる。

≪生きる≫この言葉の定義も千差万別。その差異を相対化すると、気は楽になっていく。

長年自分の性格を、アッサリした男みたいと考えていたが、これは勘違いも甚だしい。同じ問いを手放せずウダウダと問い続けるとは、自分自身のしつこさに驚愕する。

でもって、そんな自分が案外好きだと今思ってる自分も案外好き笑

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