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思い出せない記憶 VS 思い出の地

普段、何気なく昔の記憶を思い出そうとして、失敗することが多い。
記憶の断片すらも何ひとつ思い出せない。

会話の流れで、その場の話題に沿った思い出話の打席が自分にも回ってきそうになって、

「〇歳の頃って何があったっけな〜〜」などと思いながら当時の記憶を辿っていった先で、その疑問が解消された試しがない。
絶対にスッキリすることはない。

そうなったら最後、少なくともそこから数日は付きまとうことになる、不快なモヤモヤ感に向けて突き進んでいく羽目になる。


そんな人間でも、不意に記憶がよみがえって
「あ!!懐かしいな〜〜〜!!」というような言葉が口をついて出てくる瞬間がある。

それが、昔よく行っていた場所を数年ぶりに訪れた時だったりする。

その時だけは、同行者に対してなんの中身もないような思い出話をまくし立てたりして、

「へー」 「そうなんだー」などといったお気持ち程度の相槌を頂戴することができる。

いつもできなくて悩んでいた「何気ない思い出話」が無意識下で自然にできていて、
それに気付けた時に「できてるじゃん!!」と思ってちょっと嬉しくなる。


いつも会話の上で適切な瞬間に思い出話が降ってこなくて、
常に頭の片隅で「なんだっけな〜〜〜」と思いながら生活を続け、
寝る前に無心でシャワーを浴びている時などに突然思い出して「あっ!!!」などと小さく叫び、
少しテンションが上がったままドライヤーで髪を乾かす、というような人生を送っているため、

「思い出の地にいる間に思い出話ができる」という状態が、自分にとってどれだけ貴重な体験なのかということは身に染みて理解している。
これを体感した瞬間、日頃では考えられないくらいにボルテージが上昇する。発奮。


しかし、自分自身をその状態に持っていくためには、不意をつかれる必要がある。

つまり、「今日は思い出の地に行くぞ〜〜!」などと思いながら生活してはいけないということだった。


何も考えずに行動していて、たまたま訪れた場所が、自分の思い出想起ポイントだった、という状況下でしか、昂ることはできない。

「思い出の地」を目指して行動してしまうと、移動中にどうしても「そういえば、あの頃って何があったっけな〜〜」というような、
いつも通りの脳内検索が始まってしまって、結局思い出せなくてモヤモヤしたまま目的地周辺をウロウロする羽目になる。
これではなんの意味もない。

これだけの条件をクリアした上でないと体感できないだけあって、そうなった日にはもうとんでもない脳内麻薬が出ているので、毎回
「これを無料でやってるのって、合法なの?」という気持ちになる。

もちろんブリブリに合法だし、普通に交通費の分のお金は消費している。


結局のところこれは「ちょっとしたお出かけ」のエクストリーム版でしかないわけで、その日の充実感を増大させる以外にはなんの影響も及ぼさない。その程度の体験でしかない。

それでも、この手の出来事に幸せを見出す力を持っている方が、人生が楽しめる気がする。


「"それ用"のエンタメに頼らなくても、自力で脳内麻薬を分泌できる側の人間なんだ」と思えている間は、最低限の自己肯定感が保たれているような錯覚に浸っていられる。

「将来への投資」みたいな高尚な理念を欠片も持たずに過ごしてきた日々も、
こういう形で自分に返ってきてくれるなら、これまで蓄積してきた行動の数々を後悔せずに過ごしていけるかもしれない。

普通に生活しているだけでも幸福度がダダ下がりしていくような世界で、どうにか致命傷を負わずに暮らしていくためには、こういう小さな意識変革を積み重ねていくと難易度が下がってくるのかもしれないな、と思った。

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